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征なる途  作者: 甲殻類
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エム アイ ジー

 エム アイ ジー


 1989年に始まって、2019年に終わる30年間は平成時代と呼ばれた。

 年号に込められた


「地平天成(地ち平たひらかに天てん成なる)」


 という国内外の平和を希求する願いは、残念ながら達成されたとは言い難い。

 そもそも平成元年の1月早々から、核テロ未遂を含むクーデターが発生し、東京湾は戦艦の砲撃戦で火の海といった具合に、平成の船出は荒々しいものだった。

 世界情勢も激しく動いていた。

 同年11月にはベルリンの壁が崩れ去り東西ドイツが統一。東欧の社会主義体制は軒並み崩壊し、1991年にはソ連も崩壊した。

 1991年8月にモスクワでおきた保守派によるクーデターでは、日本で先行発生した核テロが懸念された。

 しかし、クーデタは僅か3日で失敗に終わった。

 文字通りの意味でも三日天下だった。

 軍隊が駐留先の国でクーデターに加担した上に、核テロ未遂を起こしたソ連ではもはや軍部も政府もある種の犯罪者集団と見なされ、完全に民意を失っていた。

 ロシアでもクーデターを起こして失敗した共産党は権威が失墜し、ミサイル・ゴルバチョフ大統領(書記長)は辞任に追い込まれた。

 ゴルバチョフは改革を進めることでソ連の立て直しを図ったが、彼は味方しようとした者たちに足を引っ張られ自滅に追い込まれた。

 ソ連崩壊によって、アメリカ合衆国は唯一の超大国となった。

 そして、合衆国が西側世界の盟主から、東西世界の支配者・警察官を自任するようになったきっかけが湾岸戦争と言える。

 80年代のイラン・イラク戦争を通じて、中東最大の軍事大国に拡張したイラクが1990年8月2日、クウェートを侵攻・制圧し、イラクの19番目の州とした。

 オサム・フセイン大統領が始めたあからさまな侵略戦争を見た合衆国は国連安全保障理事会に図り、イラクにクェートからの撤退を要求した。

 イラクが撤退を拒否すると米軍を中心とする多国籍軍が戦端を開いた。

 この戦いを日本は殆ど傍観者として過ごした。

 一応、開戦時点ではソ連はまだ存在しており、東側陣営の日本としてはできることはなかった。

 ただし、台北政権は掃海部隊を送って多国籍軍を支援している。

 湾岸戦争では、欧州の米軍のほぼ全てが参加する圧倒的な戦力を展開した。

 航空作戦はベトナム戦争での失敗や中東戦争の戦訓を反映したもので、多国籍軍は大量の巡航ミサイルとデコイを使った飽和攻撃でイラク軍の対空防衛システムを麻痺させた。その上でステルス攻撃機F-117を突入させ防空司令部を精密誘導兵器で粉砕した。

 イラク軍は組織的な防空が不可能となり、以後は各部隊が個別に対空ミサイルや対空砲を撃っては対レーダーミサイルやスタンドオフ兵器で各個撃破された。

 イラク空軍の戦闘機部隊は出撃しても撃墜されるだけなので、戦わずにシェルターに引きこもるか、イランへ逃亡した。

 米軍の損害は、僅か38機に止まった。

 空対空戦闘での損失はたったの4機だった。

 損失率は脅威の0.055%である。

 これは米軍が自身で立てた作戦開始前の損失見込みの10分の1以下の数字だった。

 多国籍軍は、ほぼ完璧な航空作戦を展開したと言えるだろう。

 戦前のイラク空軍といえば、フランスやソ連からの支援を受け、イ・イ戦争を通じて中東最大の航空戦力(約1,000機)に拡大していた。

 それが殆どなすすべもなく壊滅したことは、国防空軍を狼狽させた。

 何しろ、国防空軍が使っている防空システム・装備は、イラク空軍と本質的に大差がないものだったからだ。

 新冷戦を反映して1990年にピークに達した国防空軍の航空戦力は、固定翼機2,000機、回転翼機100機に及んでいた。

 固定翼機の内訳は、戦闘機が約1,600機で、攻撃機・爆撃機が200機、その他練習機、輸送機や特殊作戦機が200機という構成だった。

 戦闘機1,600機の内訳で半数を占めるのがMig-21の改修機で約800機である。数的主力が60年代のMig-21なのは東側空軍としては一般的だった。

 本家本元のソ連空軍でさえMig-21はまだまだ現役だった。

 湾岸戦争においても60年代に製造されたF-4が活躍しており、米軍にとっては重要な航空戦力の一角を占めていた。

 Mig-21と共に数的主力を担ったのがMig-21の後継機として開発されたMig-23で、約700機だった。

 可変後退翼をもつMig-23は70年代から輸入・ライセンス生産が始まった。

 Mig-23の配備で初めて国防空軍は視程外射程ミサイルを手に入れたエポックメーキングな機体である。

 配備前は可変翼によって卓越した運動性をもつ機体だと考えられていたが、可変翼は短距離離着陸や巡航時の燃費改善、最高速度の向上を目的としたデバイスであり、むしろ運動性はMig-21に劣っていた。

 そのため、近代化改修を受けたMig-21と平行配備が続き、Mig-23は完全に21を置き換えるには至らなかった。

 Mig-21を超える運動性能とBVR戦闘能力を兼備した機体として待望されたのがMig-29となる。

 Mig-29(NATOコード:ファルクラム)は、ソ連初の第4世代型戦闘機で、日本では80年代半ばから輸入・ライセンス生産が始まった。

 部隊配備は80年代後半であったが、それでも約120機がソ連崩壊までに生産された。

 生産されたMig-29は、首都防衛部隊の百里基地と厚木基地に優先配備された。

 Mig-23とMig-29の間には、Mig-25という高速迎撃専用機もあったが、国防空軍には採用されていない。

 Mig-25の仮想敵であるマッハ3級の超音速戦略爆撃機(XB-70)の開発中止が判明したためである。

 ただし、偵察機型は採用されており、24機が百里基地と新田原基地に配備された。

 冷戦中、沖縄や硫黄島の米軍基地をMig-25R型が高高度偵察し、マッハ2.8で米軍のパトリオットミサイルを振り切った逸話がある。

 戦闘機に比べて少ない攻撃機・爆撃機の主力は、Mig-27だった。

 ミグ27はミグ23をベースに開発された戦闘爆撃機である。

 地上攻撃時にコクピットからの視界をよくするためにカモノハシのような扁平に切り落とした機首が特徴である。

 ソ連空軍やワルシャワ条約機構に参加していた各国空軍では、Mig-27は戦闘爆撃機として運用されていた機体だが、日本では専ら対艦攻撃機としての運用が想定されていた。

 そのため、ライセンス生産されたMig-27にはオリジナルにはない空対艦誘導弾(Kh-31)の運用能力が付与されていた。

 国防空軍が運用する戦闘機から偵察機、攻撃機まで全部がミグミグしていたのは、日ソ協商体制を構築したアナンバス・ミコヤンの影響が大きい。

 国防空軍の主力を務めたミグ戦闘機を設計・開発したミコヤン・グレビッジ設計局長のファルコム・ミコヤンは、アナンバスの弟だった。

 赤い商人としてソ連の商工業を支えたミコヤンは、各種資源の輸入をソ連に頼る日本経済界にとっても重要人物であり、その影響力は国防軍にも及んだ。

 なお、これらの機体は全てソ連が開発した輸出規格品、所謂モンキーモデルだった。

 ソ連はコメコン体制下で兵器の開発・輸出を独占し、同盟国や衛星国に対する軍事的優位を確保するため、ダウングレードモデルの販売を行っていた。

 80年代に日本がライセンス生産したMig-29も9.12A規格というソ連本国仕様に比べてレーダーや武装に制限があるものだった。

 これは日本にとって不満のあるものだったが、対ソ政策上、やむを得ないものだった。

 国際価格よりも3割安い同盟国おともだち価格で買える原油、核燃料は、あまりにも魅力的すぎた。

 ソ連ありしころの通商産業省ソ連課の仕事とは、1mlでも多く同盟国価格の原油を確保することだった。

 しかし、ソ連からロシアに変わると事情が変わった。

 ロシアは原油を同盟国おともだち価格から、国際価格に変更したので、一気に日本は物価高騰インフレに見舞われた。

 さらに湾岸戦争の勃発で国際原油価格が高騰し、安いソ連の原油に支えられていた日本経済は大打撃を受けた。

 1991年の上半期のインフレ率は年率20%に達する狂乱物価になったため、政府は物価抑制のため公定歩合の引き上げを実施。一気に需要不足になり、景気が冷え込んだ。

 安い油価にあぐらをかいていたツケが回ってきた格好だった。

 90年代まで日本の各自動車メーカーが販売していたハイカロリーなロータリーエンジン搭載車がマツダ以外絶滅することになったのも当然の成り行きだった。

 また、日本の輸出産業が独占してきたソ連向けの消費財市場も東西自由化によって、欧米製品が出回るようになり、苦境が深まった。

 これまでソ連政府高官と癒着することで殿様商売をしてきたツケだった。

 特に日産自動車は会社の風土が政商的で、ソ連や東欧の社会主義体制との相性がよく、癒着の度合いがひどかった。

 そのため、東側では日産車が大量に出回った。

 ソ連崩壊でご破算になると営業やマーケティング戦略などを疎かにしていたため会社が傾き、ルノーと合併して漸く生き延びた。

 生き延びたのならまだマシで、カール・ツァイス・イエナと協業していたヤシカ・カメラは東独ごと爆散した。

 1991年にココム規制が解除されて、貿易の自由化が進み、高性能な海外製品が入ってきたことは国内企業を苦しめた。

 わかりやすい例を挙げると1995年に発売されたセガサターンがある。

 LSI技術の限界から家庭用ゲーム機は8Bit機が限界だった日本に台湾企業のSEGAが送り込んだ32Bit家庭用ゲーム機はまさに黒船来航といったところだった。

 2Dドットでピコピコやっていたところに、3Dでアニメが動く、しかもCDというセガサターンの高性能ぶりは神としか思えなかった。

 販売戦略やテレビCMにややずれたところがあったものの、セガサターンは僅か1年で100万台も売れた。

 合衆国から技術導入を行った任天堂が巻き返すのは2000年代後半からで、それまでは家庭用ゲーム機といえば、セガサターン・ドリームキャストの1強だった。

 2025年でも後継機のドリームキャスト5が好評販売中で、17年ぶりに異世界から帰還したとしても安心である。

 グランバハマルはさておき、ソ連崩壊によって生じた不景気だったので、90年代前半の経済後退は崩壊不況と呼ばれることになった。

 深刻な経済後退は、政界の再編成を加速させた。

 再編成というよりは、再建と言った方が適切だったかもしれない。

 セクトの乱によって、永田町は核爆撃を受けたような状態になっていたからである。

 物理的な損害も国会議事堂が倒壊し、永田町が火の海になるといった甚大なものだったが、政治的なそれは核爆撃に等しいものだった。

 爆心地になった日本共産党は消滅した。

 非主流派派閥セクトがクーデタを起こしたということだけでも致命的だったが、さらに核テロ未遂に在日ソビエト軍を引き入れた外患誘致の役満である。

 しかも、セクトは主流派だった田中派の幹部、代議士を逮捕拘束し、殆どをその場で射殺・粛清していた。

 次期書記長は確実と見られていた小沢二郎書記長代理は、代々木の党本部から引きずりだされ、新宿労農組合公園で他の党幹部と共に銃殺された。

 主流派を殺して回ったセクトもクーデター失敗で、幹部は抵抗して自爆するか、逃亡し、逮捕されたものは死刑か無期刑となった。

 セクトの乱とは、日本共産党の政治的な突然死だったと言える。

 衛星政党の日本社会党もセクトとの関係を追及されて国政から追放された。

 セクトの乱に巻き込まれて死亡した代議士や大物議員も多く、運よく生き残った自由党と民主党の代議士によって大正時代以来の久しぶりの2大政党制が復活した。

 戦前・戦中・戦後に渡って形を変えて続いた翼賛体制はここに崩壊したのである。

 台湾でも軍事専制体制が停止され、1991年に明治憲法に基づく衆議院選挙が開催された。

 帝国議会が復活し、内閣総理大臣にはセクトの乱で活躍した岩里政男が選出された。

 岩里は本省人として初めて台湾政界の頂点に立ち、政治犯の釈放や抑圧的な法律を次々に廃止して軍事独裁だった台湾を民主化していった。

 世界的な民主化の潮流に日本は上手く乗ることができたと言えるだろう。

 1995年11月3日、日本は統一のため連邦制へ移行し、岩里は第1回連邦議会にて初代連邦首相に選出されて、位人臣を極めることになった。

 日台の議会で採択された連邦憲章の元に連邦政府が発足し、連邦議会と憲法裁判所が設置され、日台は平成帝を立憲君主とする同君連合国家となった。

 日本が東西ドイツのような併合ではなく、対等な国と国の連邦・同君連合での統合を選択したのは、既に国として自立していた台湾の独自性を尊重したためである。

 台湾政界を主導した岩里は、既に国としてアイデンティティを確立している台湾が、日本の一地方に転落するような方法では将来に禍根を残すとして、限りなく独立国家に近い形で台湾を残す方法での統合を主張した。

 こうした主張は、和して同ぜずという日本古来の考え方にも合致するものであり、幅広い支持を受けることができた。

 ただし、統一を軍国主義者の帰還と考えるセクト残党はテロリズムに走った。

 その中でも、最大のテロは1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件だろう。

 地下鉄サリン事件とは、セクトの乱発生時に軍内部のセクトシンパによって持ち出されたサリンが東京営団地下鉄に散布された化学兵器テロである。

 セクト残党の「朝原派」は日本の政治中枢を壊滅させることで統一阻止を図った。

 平時の大都市で化学兵器による無差別テロが起きたのはこれが世界初だった。

 なお、散布されたサリンは保管状態に問題があり、劣化して殺傷力が減じていたものの数千人が死傷するという未曾有の大惨事となった。

 再び東京は戦場となり、国防軍の化学戦部隊が出動した他、全国からも治療薬が緊急空輸されて、負傷者の救助・治療に全力が尽くされた。

 事件を起こした「朝原派」は憲兵隊の追及を受け、下久一色村のアジトに立てこもって徹底抗戦した。

 アジトはコンクリートでかためられた要塞となっており、国防軍の戦車隊も出動した他、国軍の航空支援による爆撃によって漸く陥落した。

 ちなみにリーダーの朝原は陥落後にアジトの床下に隠れていたところをスペツナズ隊員によって逮捕された。

 朝原は精神異常を装って死刑回避を試みたが、却下され絞首刑となった。

 同年1月には阪神淡路大震災が発生しており、1995年は明暗の交錯する年だったと言える。

 阪神淡路大震災においては台湾から届いた救援物資、海をこえて駆け付けた各国の救助隊、ボランティアの存在は、日本の社会によい意味で大きな影響を与えた。

 国内からも最終的に130万人のボランティアが被災地に駆けつけ、95年は日本のボランティア元年とされている。

 商用インターネットも95年に元年を迎えた。

 インターネットの展開とWindows95の発売は、ココム規制があった東西冷戦時代には考えられない変化だった。

 ちなみに当時の高性能PCの多くは台湾製で、正規ルートで買えるWindows95はほとんどは英語版だった。

 日本語版はまだ販売されていなかったが、台湾版(公用語は日本語)を買うことで日本語化することができた。

 ちなみに日本の中等教育で習う外国語は1995年まではロシア語で、96年から英語とロシア語の選択制となった

 筆者も中学生の途中から英語の教育が始まり、その女性名詞と男性名詞を二種類も覚えなければならないロシア語に比べて英語の簡便さに驚いた覚えがある。

 教育体制の変更は、これから日本がどちらの側で生きていくのか、端的に国民へ伝える役割を果たしたと言える。

 初代連邦首相に就任した岩里は大規模な減税と海外からの技術導入を進めることで不況の克服を図った。

 岩里減税の効果で97年には経済が上向き、2000年にはそれまでの遅れを取り戻すかのように5%近い経済成長を実現した。

 こうした財政・経済政策が可能になったのは、日米関係の劇的な改善があった。

 冷戦終結や日本共産党の壊滅、ソ連崩壊によって、日米間の思想的な対立は消滅した。

 さらに日本は首都で大規模な市街戦が発生し、ソ連崩壊の余波で経済が大打撃を受けたことから、貿易摩擦問題も休戦状態となった。

 経済再建のための減税が必要で、多額の軍事費を圧縮して財源とする発想は、日米両国の共通した発想であり、軍事的対立の完全な終了が求められた。

 つまり、日米同盟の締結である。

 1995年は、停戦から50年の節目の年だった。

 戦争世代の多くが鬼籍に入るか、引退して力を失っており、半世紀に及ぶ対立を解消して、関係を前に進めるにはちょうどいいタイミングと言えた。

 合衆国政府にとっても親米の岩里政権の誕生は渡りに船だった。

 アメリカに留学経験があり、尚且つキリスト教徒の岩里は、ワシントンやホワイトハウスにとって漸くまともに話ができる日本人が現れたといったところだった。

 また、国家安全保障上、合衆国にとって日本との同盟、あるいは非敵化は必須だった。

 80年代以降、合衆国経済の重心を担うことになった西海岸シリコンバレーと日本列島の間には事実上、地形的な障害物は一切ないからだ。

 間にあるのはハワイ諸島ぐらいである。

 ハワイは日ソ海軍の原子力潜水艦にとってはただの点に過ぎなかった。

 冷戦中、合衆国が海軍力の3分の2を西太平洋に貼り付けて、対日攻勢戦略を維持してきたのは、先制攻撃で日本海軍を殲滅できなければ、西海岸を守り切れないという危機感があったためである。

 逆に日本と同盟関係を結ぶことができれば、太平洋を内海化することが可能となり、合衆国にとっての防衛線は太平洋の彼方まで押し上げることができる。

 これによって大幅な海軍力の削減=軍縮が可能となる。

 事情は日本も同じだった。

 利害が一致した日米は、米台基本法を発展させる形で日米同盟を結び、歴史的な和解をとげた。

 同盟締結を祝して、和解と同盟のセレモニーが日米両国で数多く開催された。

 その中でも最大のイベントが、戦艦大和の真珠湾訪問だった。

 95年度末で引退が決まっていた大和にとってはこれが最後の遠洋航海となり、日米の退役兵や退役軍人が真珠湾に揃って慰霊式典が開催された。

 アメリカからは真珠湾で記念艦として保存されることが決まった戦艦アイオワが式典に参加している。 

 その後、戦艦大和は米本土にも友好親善のため訪問し、サンフランシスコに寄港した。

 ゴールデンゲートブリッジを通過する大和の写真は、日米同盟締結記念切手に採用されている。

 戦艦アイオワも日本へ親善訪問し、相模湾に停泊して富士山を背景におさめた写真が記念切手に採用された。

 最後の任務を終えた戦艦大和は1996年3月末を以て退役し、呉で2000年から博物館大和ミュージアムとして一般公開されている。

 博物館に改装される際に、どの時点の姿で公開するかが論争になった。

 戦艦大和が1941年に就役してから、引退するまで半世紀が経過しており、就役時と最終時の姿はあまりにもかけ離れたものとなっていた。

 ちなみに横須賀で1959年に記念艦となった戦艦長門は、帝国海軍の絶頂期と言える1941年時点の姿に復元されて公開されている。

 そのため、同じ年式で公開するべきという意見が多かった。

 しかし、現実には不可能だった。

 なぜならば外観もそうだが、内部の構造も改装を重ねて大きく変更されており、元の姿に戻すことが困難だったためである。

 また、帝国時代の装備品が手に入った50年代末ならともかく、90年代にはそのようなストックは残っていなかった。

 また、東京湾海戦で世界最後の戦艦撃沈を成し遂げた名誉を考えると過去の姿に戻すということは忍びないとする意見も多かった。

 最終的に大和は、艦長室や食堂など艦内の一部のみ就役時の姿に戻して、1996年の退役時の姿で保存されることになった。

 そのため、比較的新しい装備(重巡航ミサイルの発射管等)を見ることができるほか、格納庫はKa-25などのヘリコプターが展示され、冷戦末期の戦闘艦艇がどのようなものだったか理解する助けとなっている。

 日米和解によって、名ばかりの返還だった沖縄からの米軍撤収と硫黄島の返還が実現することになった。

 ちなみに最初に撤収したのは米海兵隊だった。

 米海兵隊は1995年3月に女子小学生を誘拐・性的暴行という忌まわしい事件を起こしていた。

 沖縄県民の怒りが爆発し、撤収は不可避の状況だった。

 また、セクトの乱を経験した日本人は、国内に外国軍基地を置くことは絶対不可と考えるようになっていた。

 セクトに手を貸した在日ソ連軍の犯した罪は極めて重く、ソ連崩壊前に全軍が撤収させられた。

 同じ論理で在沖縄米軍は1999年までに全て撤退する運びになった。

 合衆国は戦略ハブになっている嘉手納基地だけでも残せないか交渉した。

 そこで嘉手納基地の代わりに米軍に供与されたのが、択捉島の天寧基地だった。

 天寧基地はもともと日ソ共用の空軍基地で、冷戦時代には戦略爆撃機が展開した大規模な航空基地だった。

 ソ連軍撤退後は広大なスペースが空いていたから、米空軍を受け入れる余地は有り余るほどだった。

 ちなみに択捉島は北海道よりもさらに北にある気候の厳しい島で、面積は沖縄よりも広いが、それ以外は地の果てに近い場所だった。

 沖縄と異なり、基地周辺には民家もなく、人間よりも野生動物の方が多い環境であるため、不祥事が起きる可能性も絶無である。

 なお、米軍にあてがわれた兵舎は、ソ連軍が使用していたもので、ソ連時代の設備そのままだった。

 ソ連軍の兵営は、アメリカ人の一般的な基準からすれば、刑務所のようなものだった。

 基地を見下ろす丘にたたずむ高さ30mの択捉スターリン観音像は精神異常としか思えなかった。

 もちろん、基地の利用料もきちんと徴収した。

 アメリカと同盟を結んだとしても、国防をアメリカに頼る意思は政府にも、軍部にも微塵もなかったと言える。

 軍縮によって、国防海軍は空母6隻から4隻体制(加賀・信濃・出雲・伊勢)に縮小が決まったとはいえ、それでもソ連海軍亡き後は世界第2位の海軍だった。

 また、ロシアでは経済難から殆ど止まってしまった装備の世代交代も抜かりなく進められた。

 前述の空母の艦載機も70年代のMig-23/27Kから第4世代機のMig-29Kに更新されていった。

 Mig-29Kは、Mig-29系列の第2世代型にあたるMig-29M(9.15規格)をベースに開発された空母艦載機である。

 国防空軍もM型を採用し、1995年から量産配備が始まり、旧式化したMigー21やMig-23、27を置き換えていった。

 NATOコードは、ファルクラムEである。

 Mig-29Mは、大きな再設計を施してMig-29を本格的なマルチロール化した機体で、LERX部分に装備されたルーバー型の補助空気取り入れ口は廃止され、燃料タンクとなったほか、テイルコーンも拡大されてエアブレーキの位置も変更された。

 日本仕様では空中給油機能が追加されて、航続距離問題の解消が図られている。

 アナログ計器主体のコクピットも改善され2面のCRTが導入され、操縦桿もHOTAS化されていた。パイロットの着座位置も変更され、キャノピーも水滴型に変更されて、視界も向上していた。

 レーダーや電子戦装備もロシア本国仕様と同等品になっており、新世代の空対空誘導弾や空対地誘導弾/爆弾が使用可能なマルチロール戦闘機へと進化した。

 Mig-29Mの採用、生産に伴って旧世代のMig-29Bは213機で生産終了となった。

 なお、Mig-29K/Mも開発元のロシアでは採用されず、運用国は日本だけだった。

 これはソ連崩壊後のロシアの経済事情によるもので、乏しい予算はSuー27系の機体取得・改良に集中された。

 国防海軍・空軍がSu-27系を採用しなかったのは、日本では運用実績がないスホーイ設計局の機体であったことや、対地攻撃能力に不満があったからである。

 Su-27は長距離・大型防空戦闘機として開発されたため、地上攻撃は前線戦闘機として対地攻撃にも使用する前提で設計されたMig-29に比べて不適だった。

 特に無誘導爆弾を使用した爆撃の精度はMig-29の方が明らかに優れていた。

 これは役割分担というものでSu-27の弱点ではないが、限られた搭載機でやり繰りする空母航空団においては欠点となった。

 国防空軍も軍縮による作戦機の減少を戦闘機のマルチロール化で対処する方針で、地上攻撃能力は無視できないファクターだった。

 また、格納庫の限られたスペースに収めなければならない空母艦載機として、フランカーは大きすぎたということもある。

 Su-27は米海軍主力のF-14よりも全長が3mも長いのである。

 ちなみにMig-29はF-16よりも一回り大きく、F/A-18とほぼ同サイズだった。

 フランカーが大きすぎるというのは国防空軍も同意見だった。

 アメリカ空軍との戦争、航空撃滅戦に耐えるために空軍の戦闘機は掩体運用が基本とされていた。

 戦闘機を露天や防護機能のない格納庫においていては、奇襲攻撃でたちまち全滅などということになりかねない。

 国防空軍が主力としてきたMig系の機体が入る掩体にフランカーは収まらなかった。

 1t爆弾にも耐える掩体壕を作り直すには多額の予算が必要であり、軍縮で予算額が減る中で、掩体壕の作り直しは非現実的だった。

 空襲で飛行場が壊滅した場合には、全国に建設された高速道路と地方空港に退避して戦うことになっていたが、こうした野戦飛行場も離着陸重量の重いフランカーは不適だった。

 ソ連空軍の機材を継承したロシア空軍は、少数機で広大な領空をカバーするために長距離飛行できるSuー27系の機体の方が都合がよかったが、日本の領空を守るなら空中給油機とMig-29の組み合わせで十分だった。

 なお、同盟国になったアメリカは、日本にF-16の採用を勧めてきた。

 これはNATOに加盟した東欧諸国にも行われた売り込みだった。

 軍縮で整理予定の機材としては、台日のF-4EJとF-5Eの他、1800機近いMig-21/23/27があった。

 合計で2,000機近い買い替え需要であり、合衆国のみならず欧州のメーカーからも熱いラブコールがいくつも届いていた。

 しかし、交渉がまとまらなかった。

 交渉の争点となったのは、国産化率だった。

 自国の軍事産業を保護するため、国防軍はエアフレームのライセンス生産は当然のことながら、レーダーやジャミング装置、フライトコントロールシステム、エンジンなどの国産化に高い優先順位をつけていた。

 米国機はこの点において全く問題外で、エンジンや国産レーダーやレーダー警戒受信装置への換装を認めなかった。

 ロシア政府は、250機まで国内雇用維持のためにロシア製のレーダーやエンジン、ミサイルの採用を求めてきたがそれ以降は国産換装を認めた。

 こうした優遇は、日本がロシアとって重要な資源ビジネスの顧客だったことが大きい。

 そして、契約どおり2002年に生産されたMig-29Mの251号機からは、レーダーがジューク(N010)から国産の99式火器管制装置に換装されている。

 99式火器管制装置は、専用開発された国産の99式空対空誘導弾を使用するために開発された日本初のアクティブ・フェイズドアレイレーダーである。

 99式空対空誘導弾もまた国産初のアクティブ・レーダーホーミングミサイルだった。

 開発の基礎となったのはR-27で、比較的大型の空対空誘導弾である。

 国防空軍は冷戦中から巡航ミサイルを極度に警戒しており、巡航ミサイルを確実に破壊できる大型弾頭を採用した。

 99式採用以前の日米合同演習では、米空軍のF-15とAIM-120を前に殆ど一方的に撃墜されていたが、99式空対空誘導弾の配備でようやく互角に戦えるようになった。

 なお、近接格闘戦になった場合は、パイロットの腕がよい方が勝った。

 ソ連時代のR-73も国産改良型の5式空対空誘導弾によって置き換えられた。

 エンジンの国産換装は難航し、2007年製造の第551号機でようやく実現した。

 ロシア製のRD-33エンジンは、国産の低バイパス・ターボファンエンジンNE-5(A/B使用時推力8.5t級)によって置き換えられた。

 551号機からは、推力変更装置付きのNE-5エンジンへの換装に伴って機体制御もアナログ・フライ・バイ・ワイヤから国産のデジタル・フライ・バイ・ワイヤに変更された。

 同時にMIL-STD-1553BとLINK16に対応した。

 この時点で、国産化率は95%に達しており、ロシアからの輸入品は機関砲や射出座席ぐらいになっていた。

 外見だけはMig-29だが、中身は日本のミグ29になっていたと言える。

 551号機が製造された2007年に、ロシア航空機製作会社(RSK)『MiG』は、日本からのロイヤリティ収入で開発した第3世代型ファルクラム、Mig-35を発表した。

 RSK-MiGは日本での大量採用を見込んでいたが、全く見向きもされなかった。

 既にほぼ100%国産化できているものを外国から買う必要などないからである。

 2010年に制式採用された10式戦闘機は、ソ連崩壊によって始まった国防軍の兵器国産化計画の集大成と言えた。

 国防空軍は10式戦闘機を第4世代戦闘機++として、ついに米軍のF-15に並んだとしている。

 10式戦闘機の外見は、およそMig-29である。

 しかし、原型となったMig-29Mからさらなる燃料搭載量増強のためにドーサルスパインをさらに大型化し、それに合わせて機首・コクピットのラインを再設計しているため、受ける印象はかなり違ったものとなっている。

 これによってコクピットからの視界がさらに向上したほか、機首径が拡張されて大型レーダーが搭載できるようになった。

 制式時のレーダーは米国製のAN/APG-70Sである。

 これはF-15Eに採用されたもののダウングレード仕様だった。

 米国製レーダーが採用されたのは、国産開発を諦めたわけではなく、搭載するレーダーを自由に選べる立場にたったことを意味する。

 国防空軍が満足できる性能に達したことで国産レーダーも後日装備された。

 主翼面積は10%拡張しつつも非金属複合材の使用割合をMig-29Mの5%から35%に増やすことで機体は20%も軽量化した。

 同時にエンジンをNE-5から発展した推力10t級のNE-9に換装することで、超音速巡航能力を獲得した。

 翼面積拡張によって兵装ステーションも8か所から10か所に増強され、攻撃力・継戦能力がSu-27並に向上した。

 空対空誘導弾も全て国産化された他、AN/AQQ-14ランターンシステムが採用されて、米国製のレーザー誘導爆弾(ぺイブウェイⅣ)GPS誘導爆弾(JDAM)も使用可能になった。

 ロシア製だった機関砲も米国のM61A2型20mmバルカン砲となり、射出座席もマーチンベイカー・エアークラフト社のMk.16に変わっている。

 輸出向けのフランカーには射出座席をMk.16に換装したモデルはあったが、機関砲を米国式の20mmバルカン砲に換装した例は10式戦闘機の他にはない。

 国防空軍によると統一時に編入されたF-4ファントムⅡの20mmバルカン砲の信頼性はソ連式の30mm機関砲に勝るという判断だった。

 ちなみに日米同盟成立によって、10式戦闘機にはNATOコードは割り振られていないが、米軍は非公式にファルクラム・スーパー・改と呼ぶ場合がある。

 ほかに市井でよく使われる呼び方に、ラスタチュカ(ロシア語で燕)があり、10式戦闘機のイメージソングのタイトルにも使用されている。

 ただし、現場では概ね10式戦闘機ひとまるしきで通用する。

 国防空軍は、軍縮を経て約1,600機に減った戦闘/攻撃機部隊を全てをMig-29とその改良型、国産化した10式戦闘機で置き換えることとし、2020年に最後のMig-21Jが退役して計画完遂を宣言した。

 ちなみに1,600機という数字は、海軍航空隊の母艦航空隊や基地航空隊は除いた数字であり、そちらを含めると空海軍で2,000機のミグ29が配備されている計算となる。

 日本が地上に残された最後のミグ王国、ミグの楽園と呼ばれる所以である。

 しかし、ミグの生みの親であるRSK-MiGは10式戦闘機の制式化を受けて、知的財産権侵害で訴訟を起こした。

 しかし、2012年に書類審議の結果を受けて訴えを取り下げている。

 これは政治的な判断もあったが、裁判に訴えても勝てそうにないからである。

 弁護団と共に来日したRSK-MiG代表エンジニアのヴィクター・レズノフは、


「書類や実機を見分して分かったことは、もはやネジの一つに至るまで全てが日本のプロダクトに置き換えられ、私の先輩方が造った祖国の偉大な戦闘機は欠片もそこには存在しないという現実だった。率直にいって、日本人にレイプされ遺伝子レベルまで蹂躙された美しいロシアの娘を見ているようで気分が悪くなった」


 とまでこき下ろした。

 しかし、


「認めがたいことだが、日本が行った改良発明には一切の無駄がなかった。中国人や韓国人がしばしば法的措置を回避するためだけに行う無意味な改造の痕跡が一切なく、全ての修正には機械としての性能向上と安全性を高めるという正当性があった」

 さらに、


「私は彼らが作成したプロパガンダ映像を見た。映像の中で、先輩方が造った古い世代のジェット戦闘機が飛び立ち、最後に彼らの造ったタイプ10が飛行するというストーリーになっていた。このことから分かるように、日本人は連続性を否定しない。自分たちが造ったものが、ソビエトのプロダクトの延長線上に存在することを率直に認めている。彼らが日常会話で使用する中途半端な英語を敢えて使うのならば、リスペクトしていると表現できる。こうした態度は、フランカーをコピーした中国人にはないものである」


 という肯定的なコメントも残している。

 ただし、


「タイプ10の展示飛行に際して、私が聞くことになった日本の電子音楽は理解しがたいものだった。全てはミグになる、全てはミグになるという哲学的な歌詞を人間ではない少女の声で歌い上げる演出は受け入れられない。その少女をイメージした痛覚を伴う塗装(注:高度な日本語の表現で、実際に見ても痛みを感じるわけではない)を施したタイプ10の実機がアクロバット飛行を行った。私は日本人を真面目で勤勉な民族だと思っていたが、そうではないらしかった。少なくとも、模擬弾でも誘導ラケータ(ミサイル)に、香味野菜を模した塗装を施すのはどうなのか。パイロットや観客に香味野菜を配布してどうするのか。なぜ香味野菜がそんなに重要なのか、私には少しも分からなかった」


 という困惑したコメントもあった。

 彼らが30年前に造ったMig-29は完全に緑茶色に染まったミグ29になり果て、同じ部分を探すことが外見以外には困難だった。

 同じ時期に中国でもライセンス生産していたSu-27SKで徐々に国産化率をあげて、国産化したJ-11Bや発展型のJ-15、J-16を製造し、スホーイから知的財産権侵害で訴えられている。

 台湾や朝鮮半島をめぐって対立関係にあった日中であるが、ソ連技術の国産化においては似た者同士と言えるだろう。

 中国に帰化したJ-11B(フランカー)と日本に帰化した10式戦闘機(ファルクラム)は、台湾海峡や朝鮮半島で向き合うことになった。

 冷戦が終わっても、日中の相克がなくなるわけではなかった。

 統一後の国防軍の基本戦略は、台湾・朝鮮半島危機への同時対処である。

 台守朝攻戦略-台湾を守り、朝鮮半島で攻めるというのが分かり易いだろう。

 朝鮮半島が、日本から北京へ陸路でいくための最短ルートであることは、飛鳥・天平時代から東アジアの常識である。

 むろん、逆もまた然りであり、モンゴル軍は朝鮮半島を伝って博多に来た。

 日中の狭間に位置する朝鮮半島は東アジアの火薬庫である。

 19世紀には帝国時代の日本と清朝がぶつかる日清戦争の舞台になった。この時は日本が勝利して、半島は日本の勢力圏に組み込まれた。

 さらに日露戦争を経て日韓併合に至る。

 日本は北上して満州を席巻することになるのだが、第二次世界大戦でアメリカを相手に敗戦寸前まで追い込まれた。

 1945年に日本は満州・朝鮮半島を手放してソ連の庇護下に入ることで生き残りを図った。

 スターリンの提示した条件は、ポーツマス条約の無効化、日露関係を日露戦争以前に戻すことだった。

 注意点は、日露戦争以前であり、日清戦争以前ではないことである。

 そのため、日清戦争で日本が獲得した台湾は紆余曲折を経ても日本の手に残った。

 台湾を最後の未回収の中国と規定する北京との対立は不可避であり、その舞台が朝鮮半島になるのは、東アジアの地理からすれば必然だった。

 90年代に入って日中から熱い視線を向けられることになった大韓民国は、東欧革命の教訓から高度な国民監視・統制社会を維持するスターリン時代の延長戦を続けていた。

 経済もスターリン時代の延長戦にあり、ソ連からの援助が途絶えた90年代には天候不順から餓死者がでるほどになった。

 韓国が崩壊しなかったのは、日中からの経済援助があったからである。

 緩衝国家の崩壊・内戦から周辺大国同士の戦争勃発というのは日中双方が100年前に履修済のシナリオだった。

 ただし、経済援助は慈善事業ではなく、日中双方が韓国の内政に干渉することになった。

 90年代後半にひらかれた中国主導の新義州特別行政区や、日本主導の釜山特別行政区は日中が朝鮮半島にひらいた新しいタイプの租界と言えた。

 なお、日中は厳しく対立していたが、ある一点においては完璧な協調体制をとっていた。

 それは韓国の核武装は絶対に認めないということである。

 緩衝国家の核武装など、悪い冗談だった。

 1994年に発生した朝鮮半島核危機では、日中は協調して対応し、中国人民解放軍が鴨緑江に戦車師団を展開し、国防海軍が空母4隻を日本海に並べて韓国を恫喝した。

 金日生国家主席は94年7月8日に心筋梗塞で急死したが、日中双方から暗殺説がでるなど、極めて不可解で不穏な死だった。

 単純に、晩年を迎えていた金日生の心臓が日中から届いた極めて純度の高い殺意ストレスに耐えられなかったという説もある。

 金日生の死に際して、韓国民は冷戦時代の平和を思い出して泣いた。

 米ソ冷戦体制下では、朝鮮半島は周辺全てが思想的な同盟国か友好国であり、平和な時代が長く続いたからである。

 中ソ対立で日中ソが仲たがいしても、基本的に朝鮮半島は無関係だった。

 中国の陸軍力はソ連と長大な国境線で向き合うために忙しく、日本の海軍力はアメリカとの対決に忙しかったからである。

 朝鮮半島は放置されていたので平和だった。

 この間に韓国はソ連を背景に等距離外交を維持していれば、日中は何も言わなかった。

 しかし、冷戦が終わると中露、日米は和解して、日中はお互いの軍事力を朝鮮半島に向ける余裕が出てきた。

 米ソ冷戦という蓋が外れ、その下に押さえつけられていた古い対立が噴出したと言える。

 90年代にはユーゴスラビア内戦や各地の宗教、民族紛争が多発しており、朝鮮半島もまたその例から漏れなかったのである。

 朝鮮半島核危機は、日本が電力危機克服のため軽水炉を提供し、原子力発電所が完成するまでは中国が発電用石油50万tを提供することで折り合いがついた。

 しかし、日中の狭間に位置する韓国が、独立を維持し、これからの1世紀を韓国らしくあるために、後継者の金正一は主体思想を強め、その裏付けとして密かに核開発を推進した。




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ミッグミグにしてやんよ!
S○GA大勝利世界線が来るとは
日本の航空産業がきっちり国産で動いてるのを見ると羨ましい…… >緩衝国家の核武装など、悪い冗談だった。 多分それ、数十年前の米ソが同じことを思ったと思うの
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