バトル オブ トウキョウガルフ
バトル オブ トウキョウガルフ
1980年代は新冷戦と呼ばれる緊張の時代だった。
新冷戦の始まりは3ステップを踏み、
1979年のソ連のアフガニスタン侵攻
1980年の日本の核武装
1981年のタカ派のロナルド・レーズン大統領の就任
と説明されることが多い。
日本国内ではあまり意識されることはないが、日本の核武装が西側、特にアメリカ合衆国に与えた衝撃は大きなものだった。
80年代の日本といえば、闇将軍タナカ・カクウェイの指導の元で日本の列島の隅々までにオートモービル・ハイウェイとハイスピード・レールウェイを張り巡らせ、凄まじい勢いでリアクターを増設して、アメリカ合衆国に迫る経済力を獲得していった悪の帝国の片割れだった。
日本のサラリマンは24時間休むことなく働けるらしいと聞いたCNNのレポーターが東京に飛ぶと、そこにはニューヨークのようなスゴイタカイビルがアフタレインバンブーのごとき速さで生えてきて、トヨタとホンダとニッサンのスーパーカーが駆け回り、ヤマノウチセンが定刻どおりにやってくる大都会があり、その中央にはコミュニスト・エンペラーが住むキャッスルがあった。
ちなみにソ連と異なり、外国人が訪問してもKGBに尾行されることはない。
もしかしたら忍者が尾行しているのかもしれないが、彼らはKGBと違って奥ゆかしいので素人に気取られることは決してない。
それはさておき、合衆国の感じた恐怖は、そのような神秘の国の古都を半世紀ほど前に核爆弾で焼いて77万人を殺傷したという歴史的な事実に基づいていた。
ソ連は1万発以上の核弾頭を既に保有していたが、日本人が核武装したらその2倍、3倍は軽く用意してきそうな勢いがあった。
彼らが国中に建設したリアクターは毎年大量のプルトニウムを生産しているからだ。
しかも、彼らは復讐のためにそれを躊躇なく使用するかもしれなかった。
実際には、日本の核武装は自衛を目的としており、配備された核弾頭は最も多い時であっても200発前後だった。
しかも、80年代の国産ICBMは実用性が皆無で、SLBMが実働体制を確保したのは90年代も終わりに入ってからことである。
日本の核抑止は未完成だったと言える。
また、日本が原子力発電所は全て加圧水型軽水炉で、生産されるプルトニウム240は核兵器に使用するには不適で、核弾頭の増産には寄与しない。
しかし、恐怖を感じたアメリカ人はなりふり構わず日本を叩こうとした。
このような過剰反応は、50年代に発生したスプートニクショックやミサイルギャップと同質のものだった。
或いは、アステカ人の復讐を恐れるコルテスの気分なのかもしれない。
レーズン大統領が就任直後に発表した海軍力の増強政策は600隻艦隊構想と呼ばれた。
一応、表向きにはソ連海軍の封じ込めを標榜するものであったが、米海軍にとっての真のライバルはロシアの田舎海軍ではなく、レッド・ガーズ・フリート(赤衛艦隊)だった。
15個に増強された航空機動群のうち10個が西太平洋をうろついていたのだから、彼らの真の敵が誰だったのかは明らかである。
友好国ソ連からの要請や、恐怖を感じた軍部の圧力を受けて1982年に内閣総理大臣に就任した大曽根康弘は、
「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」
と発言し、アメリカの仕掛けた軍拡競争に真向から対抗する姿勢を示した。
ただし、キングメーカーの田中核英書記長は軍拡競争には反対で、ソ連の最終的な敗北を正確に予想していた。
しかし、弾みのついた軍拡競争を止めることはできなかった。
米海軍の拡張に対抗した国防海軍の海軍拡張計画が「六六六艦隊構想」である。
六六六艦隊構想は666隻の艦船を建造、配備しようとするものではない。
六六六艦隊構想とは、空母6隻と重原子力ミサイル巡洋艦6隻、原子力巡行ミサイル潜水艦6隻を配備して、巡行ミサイルの飽和攻撃+航空攻撃によって本土近海で米空母機動部隊を撃滅するというものだった。
70年代に翔鶴型空母の建造・運用で自信を深めた国防海軍は、666艦隊構想において、原子力空母の4隻の建造に着手した。
国防海軍は原子力空母エンタープライズや、ニミッツ級に匹敵するウルトラキャリアを持つことを悲願としていた。
その願いは、1982年に起工した原子力空母「加賀」によって叶えられた。
加賀は満載時の排水量が10万tに達し、国防海軍の希望が100%満たされたウルトラキャリアになっていた。
原子力推進であることやその巨体から建造可能なドックは新規拡張された横須賀にしかなく、運用可能な母港も当初は横須賀のみとなった。
現在でも原子力艦船の核燃料を交換可能な設備をもつのは横須賀基地のみである。
加賀の就役は1988年で、就役と同時に冷戦が終わった。
2番艦の信濃の就役はソ連が崩壊した91年で、3番艦の出雲は95年に就役し、4番艦の伊勢が完成して計画完遂となったのは99年のことだった。
空母6体制が完成してもまだ米海軍には及ばないが、それを補うのが大量の巡航ミサイル(自爆無人飛行機)の役割と言える。
巡航ミサイルの飽和攻撃に先鞭をつけたのはソ連海軍で、1970年にオケアン70演習で分散配置された長距離爆撃機、原子力潜水艦、水上艦艇から100発以上の対艦巡航ミサイルを発射し、標的に集中・飽和攻撃できることを立証した。
ただし、これはまだ完成形にほど遠いものだった。
オケアン70で問題となったのは、飽和攻撃の指揮を陸上から行っていたため、空中・水上・海中に分散した配置した各発射プラットホームの調整が困難だったことである。
移動する洋上艦に、相対距離・速度、さらに水中・空中といった全てが異なる地点からミサイルを発射して、同時に着弾させるには高度に自動化された戦闘指揮システムとそれを搭載して前線で指揮を行う艦船が必要だった。
70年代の東側のコンピューター技術でそれを実現しようすると大型化は不可避で、それを操る人員も膨大な数となる。
さらに戦闘を指揮する司令部要員も含めるとさらに多数の乗員が必要となり、彼らが生活するスペースも考えると艦の肥大化は必然だった。
こうして完成したのが日ソ海軍のキーロフ級/金剛型重原子力ミサイル巡洋艦だった。
キーロフと金剛の主な相違点は、P-700「グラニート」重巡航ミサイル、補助ボイラーの有無、ソナーの簡略化、国産レーダーシステム・81式対空捜索電探(NATOコード:ナイト・ウォッチ)に連接した82式艦隊防空複合体の有無などがある。
金剛型は艦隊指揮艦・艦隊防空艦として設計されたため、P-700重巡航ミサイルは非搭載となり、対潜ソナーも最低限のものとなった。
これは水上艦を叩くなら潜水艦か航空機を使うべきという過去の血塗られた経験に基づく結論だった。また、24,000tの大型水上艦には対潜戦闘は無謀として空母と同格の防護対象とし自衛用のソナーは最低限のものとした。
対艦ミサイルとしては、P-270「モスキート」が搭載されたが、これは西側の対艦ミサイルに比べて大型であるものの個艦防御用だった。
補助ボイラーなしの純粋な原子力推進としたのは、前述の原子力空母建造のために十分なテストを繰り返した国産の第3世型加圧水型原子炉(JN-3)があり、信頼性が十分に確認されたためである。
これにより煙路、煙突の設置が不要となり、衛星通信アンテナ用のマストが煙突を兼ねるキーロフと金剛の大きな外見上の相違点となった。
また、純粋原子力艦としたのは、81式対空捜索電探(NATOコード:ナイト・ウォッチ)に連接した82式艦隊防空複合体の搭載に煙突が邪魔だったという事情もある。
81式対空捜索電探は、パッシブ型のフェイズ・アレイ・レーダーで長方形型の固定された4面のレーダーで構成される。
国防海軍はレーダーの探知距離を300km以上で、同時捜索追尾能力は200目標以上と公称しており、これは米海軍自慢のSPY-1と同等という代物だった。
レーダーも飛びぬけて高性能であったが、要は82式艦隊防空複合体の方で、これは米海軍のイージス・システムと同じ性質の高度なコンピューター化戦闘システムである。
西側では、これをタイフーン・システムと呼び、あらゆる手段でその性能を明らかにしようとしていた。
タイフーン・システムとは、国防海軍の開発計画名である台風計画に由来する。
日ソ海軍でもこれを逆輸入する形で、タイフーン複合体と呼ぶことがある。
国防海軍が台風計画を構想したのは60年代後半だった。
日ソ海軍では米空母撃滅のためミサイル飽和攻撃を構想すると同時に、米海軍がミサイル飽和攻撃を実施した場合の対抗策を検討した。
こちらにできることは、あちらにもできるからである。
むしろ米海軍の方が、科学技術で優位にある分、こちらよりも上手にやりかねなかった。
日ソ海軍のミサイル飽和攻撃に対する米海軍の回答がイージスシステムであり、米海軍のミサイル飽和攻撃に対する回答がタイフーン複合体だった。
なお、構想初期段階には台風の文字はなく、素っ気なく海軍T計画と表記されるのみだった。
Tの由来は不明だが、一説によれば昭和末期から平成初期にかけて国防海軍を代表することになった藤堂晋海軍大将のイニシャルという説がある。
台風の中心に座するのは、タイフーン複合体を搭載した重原子力ミサイル巡洋艦と原子力空母で、艦隊防空の中枢艦として81式対空捜索電探を搭載した。
ただし、VLSと80式艦対空誘導弾を搭載するのは金剛のみで、加賀にはレーダーと指揮装置のみ搭載した。
80式艦対空誘導弾は、ソ連軍のC-300と同等の大型ミサイルである。
C-300と異なるのは発射方式で、国防海軍は連続発射性能を重視したホット・ランチ方式を採用していた。
金剛はこれをキーロフ級の2倍にあたる192発搭載していた。
ミサイル終末誘導用のイルミネーターは6基搭載しており、最大で24目標を同時攻撃が可能と公称されていた。
金剛は艦隊防空ミサイルの他に、個艦防空ミサイルとして74式艦対空誘導弾や両舷と前後に4門の100mm単装砲と4基の23mmCIWSを搭載しており、就役時点でおそらく世界最強の防空艦だった。
しかし、台風計画の要は同時に建造された秋月型ミサイル駆逐艦との情報連携にあった。
秋月型ミサイル駆逐艦(4,500t)は、80式艦対空誘導弾61発と終末誘導用のイルミネーター4基を搭載しており、金剛や信濃からの情報連携に基づき自働対空戦闘を行うことになっていた。
ちなみに秋月型ミサイル駆逐艦はそれ以外のことは何も考えないという割り切った船で、自衛用の武装は100mm単装砲1門とCIWSのみで短魚雷や対艦ミサイルさえない。
まさに、
「そんな船に誰が乗りたがるのだ!」
という代物だった。
対潜戦闘については、平行生産された五十鈴型対潜巡洋艦に頼ることになっていた。
つまり、タイフーン複合体を搭載した加賀が高射砲陣地の射撃統制装置で、秋月型ミサイル駆逐艦はその指示を受けて対空射撃を行う高射砲群、前衛防御に出す金剛は自立した自走対空戦車という扱いだった。
いっそのこと、艦隊の全ての船にタイフーン複合体を乗せてしまえば、完璧な艦隊防空が完成するように思えるが、それは不可能だった。
理由は単純でタイフーン複合体はレーダーや指揮装置の重量だけで250tを超える大規模システムだったからである。
これは70年代の日本のエレクトロニクスでは、必要なだけの性能を追求すると巨大化が不可避という事情があった。
また、電力消費量も莫大なものであり、原子力艦かそれに近い発電力のある船でなければ運用できなかった。
タイフーン複合体は、60年代の発想に基づき、70年代の技術で開発された80年代の兵器なのである。
それでも図上演習では、艦隊に270発まで対艦ミサイルが押し寄せても無傷という結果がでており、タイフーン・システムは日本海軍空母機動部隊の守りの要だった。
金剛型重原子力ミサイル巡洋艦は、1986年から1992年までに全6隻(金剛・榛名・霧島・比叡・鳥海・妙高)が就役した。
守りの要が金剛型ならば、攻撃の要となるのが蒼龍型原子力巡航ミサイル潜水艦6隻となる。
蒼龍型潜水艦は水中排水量33,000tに達する大型艦で、ソ連海軍の949型(NATOコード:オスカー級)と同じP-700重巡航ミサイル48発を搭載した。
蒼龍型は949型と同型艦と扱われたが、実際にはその2倍も大きな船だった。
重巡航ミサイルP-700は、航空機なみの大型誘導弾であり、巡航ミサイルが実質的に無人自爆飛行機であることを考えると蒼龍型SSGNは殆ど水中空母のようなものだった。
海軍もそのつもりで帝国時代に空母につけられた艦名を流用していた。
ただし、あまりにも巡航ミサイル攻撃に特化しすぎた蒼龍型は汎用性に欠け、運用には別の攻撃型原潜の護衛が必要だった。
また、米海軍のイージスシステム搭載艦の増勢もあって蒼龍型6隻(蒼龍、白龍、雲龍、瑞龍、黒龍、赤龍)では攻撃力が不足すると考えられた。
そのため、巡航ミサイルの搭載数は4分の1に減らして汎用性を高めた9,000t級の鳴潮型巡航ミサイル原子力潜水艦が12隻調達された。
水中から巡航ミサイルを発射するプラットフォームが蒼龍型SSGNや鳴潮型SSGNならば、空中から発射するのは陸上攻撃機である。
1980年代にソ連から216機輸入、ライセンス生産されたTu-22MJ(NATOコード:バックファイア)はマッハ2級の超音速中型爆撃機だった。
70年代に流行した可変翼をもつこの爆撃機は、ラドゥガ設計局が開発した長射程空対艦ミサイルKh-22(NATOコード:キッチン)を1~3発搭載可能だった。
日本でライセンス生産された機体は初期型(ダウングレード仕様)だったが、国産の射撃管制・航法システムに換装することで、非常に優れた低空飛行性能を発揮した。
いくつかの演習では、海面高度5mまで下げて飛行した。
外洋の場合、ちょっと海が時化ただけで波がかぶる高度である。
ただし、これはデモンストレーションというもので、主兵装のKh-22の射程距離は公表値で600kmもあり、米空母の防空圏外から攻撃することが可能である。
冷戦中の構想では、小笠原諸島沖で日米艦隊決戦が発生し、事前に配置した蒼龍型/鳴潮型SSGNと本土の航空基地から飛来したTu-22MJが、金剛の指揮・調整のもとで空母艦載機の一斉攻撃に合わせて巡航ミサイルを発射し、300発以上の対艦ミサイル/巡航ミサイルが米空母に誤差1分以内に殺到することになっていた。
飽和攻撃後に起きるであろう残敵掃討、さらに硫黄島逆上陸作戦といった敵前上陸には、大口径火砲が有効だと考えられた。
撃破されて漂流する米空母や、アイオワ級戦艦などを始末するのに新たにミサイルを発射するのは不経済であるし、要塞化された硫黄島の防御設備を砕くには大質量弾が有効である。
少なくとも、戦艦大和の現役復帰の論理的な裏付けはそのようなことになっていた。
国防海軍の本音がどこにあるのかは、敢えて説明する必要はないだろう。
レーズン政権がアイオワ級戦艦3隻を現役復帰させ、触発されたソ連海軍がソビエツキー・ソユーズを復活させ、その余波が戦艦大和を目覚めさせた。
オーバーホールと近代化改装を受けて戦艦大和は1986年に現役復帰した。
その姿は、古い世代には帝国海軍の栄光と戦後から今日まで過ぎ去った時間の長さを理解させるものだった。
大和の甲板には、ソ連製の巡航ミサイルの発射チューブがズラリと並べられ、さながら洋上を動くミサイル発射基地となっていた。
大和に搭載されたP-500重巡航ミサイル「バリザート」は、スラヴァ級巡洋艦の2倍の連装16基となっており、合計32発の重巡航ミサイルを搭載していた。
巡航ミサイルを無人自爆航空機と表現すれば、航空機32機搭載となり、軽空母並みの航空戦力を搭載していたことになる。
計画では、さらに多くのミサイルを搭載するため、砲塔を撤去するプランさえあった。
撤去案では、砲塔跡地にVLSを搭載することになっていたが、これは交換のための予備砲身の在庫がなく、主砲発射が不可能だったためである。
しかし、最終的に主砲撤去は見送られた。
日本製鉄が、こんなこともあろうかと主砲製造設備を社内で保管していたことが判明し、46cm砲の新造が決定したのである。
また、嘗ての高角砲群は61式10糎速射砲5型12基に換装されていた。
61式10糎速射砲5型は国防海軍の主力艦載砲で、3型以降はFCSに連接した無人砲塔となっており、5型は発射速度を向上させた最新型だった。
これに加えて23mmCIWSを4基搭載した。
他に個艦防空用ミサイルとして、国産の74式艦対空誘導弾の8連装発射基が2基あった。
74式短SAMとPー500以外の誘導兵器は搭載されなかった。
大和にタイフーン複合体とVLSを搭載して、金剛型のような艦隊防空艦として使うアイデアもあったが、熟慮の末、断念された。
砲戦があり得る大和の船体にVLSを埋め込むのは危険という判断だった。
では、甲板上にずらりと並んだ重巡航ミサイルはいいのか?という疑問が生じるが、仮に誘爆しても甲板上であれば、爆風の大半は外部に拡散するため大和のバイタルパートに被害が生じることはない。
船体に埋め込むVLSではそういうわけにはいかなかった。
また、機関を増設するためのスペースが必要という事情もある。
大和の速力は最大27ktであり、原子力艦に追随することが困難だった。
そのため、ガスタービンエンジンを加速用に追加搭載して、在来の蒸気タービンエンジンを補う改造が施された。
いわば蒸気タービンとガスタービンのハイブリット方式であり、最大で25万馬力の大出力を発生させて、大和を33ktで走らせることができるようになった。
波が穏やかな場合は、35ktという駆逐艦並みの速力で走ることができた。
もちろん、そんな速力を出す場面など殆どなく、そもそも大和が現役復帰した時点で、冷戦は終わりかけていた。
1986年には、ミサイル・ゴルバチョフ書記長とロナルド・レーズン大統領が会談し、中距離核戦力の全廃に同意し、ソ連軍はアフガニスタンからも撤退した。
ゴルバチョフの進めたペレストロイカとグラスノスチは、日本にも激震をもたらした。
強大極まるコミュニストの帝国が、実は常にウォッカを飲んで酔っ払っている遅れた農奴の子孫が暮らす田舎派の国だったことが露見したのである。
与党共産党は、日本資本で行っていたシベリア開発などでかなり正確にソ連の実情を掴んでいたが、そうした都合の悪い事実は伏せられていた。
ソ連とのパイプによって政治的優位を獲得してきた共産党にとっては、ソ連はアメリカに匹敵する赤い帝国でなければならなかった。
赤い帝国と話ができるということが、共産党を与党たらしめていたからである。
シベリア開発に従事する日本企業も、ソ連の実情は知っていたが、大ソビエトでもシベリアの辺境ならこんなものだろうという意識があった。
まさか、首都のモスクワまで似たような状態だとは夢にも思わなかった。
グラスノスチが明らかにしたところでは、もはやソ連は瀕死の巨人だった。
ソ連が生き延びるのか、それともまた革命が起きるのか、先行きは不明だったけれども、誰もがとてつもない大きな変化を予感していた。
そして、それは日本も同じだった。
昭和という時代が終わろうとしていた。
1987年9月に天皇として初めて開腹手術を受けるなど体調を悪化させていた昭和帝は一旦回復したものの肉体の衰えは隠しようがなかった。
この時点で、東京政権内部では恐れていたことが目前に迫っていること理解した。
皇位継承問題は、停戦直後から日本政治における時限爆弾だった。
昭和帝が崩御されれば、皇室典範に基づき皇太子が即位する。
しかし、その皇太子が反乱勢力によって台湾に拉致・監禁されている場合はどうするのかは長年に渡って不明だった。
不明になっていた理由は、昭和帝が皇太子変更を絶対拒否する姿勢だったからである。
皇太子問題は、日本政治におけるアンタッチャブルだった。
これは闇将軍として政界に君臨した田中核英書記長でも例外ではなかった。
皇太子は絶対に変えないというのが昭和帝の政治意思表示だった。
昭和帝の政治意思表示は、生涯に渡って3度しかなく、2・26事件の鎮圧、1945年の停戦受入、そして戦後の皇太子変更拒否の3つである。
この3つの意思決定は、そのまま日本の歴史となる大いなる決断だった。
東京政権は、目前に迫ったXデーに備えて、台北政権と極秘交渉を重ねた。
それはそのまま今後の台北と東京の関係性を規定するものだった。
交渉を通じて双方が理解したことは、
『この機を逃しては、祖国統一は永遠に不可能になる』
というものだった。
当時の台北政権のトップである軍事委員長を務めた後藤田正純は祖国を日本とする世代が台湾から去った後のことを思った。
自分たちが生きている間は、まだ祖国は日本であり続ける。
しかし、自分たちの子や孫は、日本を知らない。彼らの祖国は台湾だった。
今は、まだ台湾日本という国号が使えるが、半世紀もしないうちに、台湾日本から日本という文字は消えてなくなる。
例え、日本語を話していても、日本を知らない彼らは、台湾にアイデンティティを持つ台湾人であって、それはもう日本人ではない。
既に皇太孫は、台湾で生まれた台湾育ちで、台湾しか知らなかった。
彼が成人して、皇位を継ぐときはいつくるのか?
その時、皇室はどうなるのか?
そもそも皇太子は即位することができるのか?
できないとすれば、次は誰が天皇になるのか?
台湾と、日本でそれぞれ別の天皇を仰ぐことになるのか?
南北朝時代のように二人の天皇が並び立つことに、日本人は耐えられるのか?
そうなったとき、皇室は次の100年を生き延びることができるのか?
「考えれば、考えるほど、夜も眠れなくなるほど、恐ろしくなった」
と後に後藤田はコメントしている。
台北憲兵隊長を務めた経験のある後藤田は、台湾のアンドロポフという異名をかり畏怖される同時に監視対象の国民の意識を知り尽くしていた。
ここで祖国統一を絶対に果たさなければならないと固い決意を抱いた台北と東京は、遂に運命の日を迎えた。
1989年1月7日、激動の昭和が終わった。
新たな年号が発表され、時代は平成に移り変わる。
その第一歩を発表したのは台北の軍事委員長補佐の岩里政男だった。
衛星放送で台北から新しい年号を発表した岩里は、本省人(台湾出身者)としては異例の出世をとげ、台湾の事実上の副総理に登り詰めた苦労人だった。
ちなみに岩里の記者会見が先行したのは実は事務処理のミスで、台北と東京で同時に記者会見を開いて発表する予定になっていた。
しかし、台北と東京に1時間の時差があるため、手違いで台北が先行する形になってしまった。
また、東京側の発表を行った官房長官の大渕恵三は能弁の人ではなく、発言も殆どなかったから、全くと言っていいほど印象が残らなかった。
日本側の発表が終わった時点でも、まだ皇太子の帰国と祖国統一を熱く語る岩里の雄弁が続いていたほどだった。
それを聞いた人々は、
「ひょっとして・・・次の総理大臣はこの人なのか?」
という完全に誤ったあらぬ印象を抱くことになった。
後の展開を考えると事実は小説よりも奇なりというべきだろう。
昭和帝の崩御、皇太子の帰国、そして祖国の統一。
盆暮れ正月が同時にやってきたようなセンセーションが列島を覆い尽くした。
人々は大きな変化に驚きながらもおぼつかない足取りで新しい時代に向かって歩み始めたが、大きな変化には反動もつきものだった。
特に既得権を失うことが確実な保守派の感じた危機感は凄まじいものとなった。
爆心地となったのは、与党共産党純粋派だった。
純粋派とは、70年代以降に共産党主流派となった田中派、世俗化する共産党以前の本来の共産主義社会の建設を目指す派閥である。
圧倒的なカリスマと資金力で共産党を牛耳った核英以後、セクトは脇に追いやられ、縮小傾向だった。
ボルシェビキ革命を指向して全企業の国営化、革命による私有財産制の転覆を主張するセクトの存在は、ゼネコンから多額の献金を受け取る田中派にとっては有害無益な存在だった。
さらに権威の背景となったソ連の弱体化、グラスノスチによってチェルノブイリ原発事故などソ連の悲惨な現状の暴露され、純粋派の弱体化は不可避の情勢となった。
世間では、もはや共産主義は非現実的なものとみなされるほどだった。
核英子飼いの小沢二郎書記長代理は、時代遅れになった共産党の看板をおろして、刷新をアピールするため党名を緑の党に変えようとさえしていた。
共産党が共産主義の看板をおろすという自分たちの存在意義の完全消滅を前にして、セクトは半世紀に渡って温め続けたボルシェビキ革命を実行に移した。
彼らにはもう後がなかったのである。
1989年1月10日、東京には雪が降った。
国会議事堂前にはT-72Jが展開し、BTRとMi-8から展開したクーデタ軍が制圧した永田町には機関銃座と鉄条網が敷設された。
市ヶ谷(国防省)を対戦車誘導弾で爆撃したMi-24を見た人もいたことだろう。
交通遮断のため、東京都内の橋梁を破壊した攻撃ヘリは在日ソ連軍の機体だった。
さらに海上交通制圧のため、ソ連太平洋艦隊の戦艦ソビエツキー・ソユーズが東京湾に進入し、その威容をお台場沖に現した。
電波妨害と通信ケーブル破壊によって、通信・放送網は麻痺状態に陥った。
在日ソ連軍の一部及び国防軍の”信頼できる部隊”が治安維持を名目に出動し、政府中枢を制圧して戒厳令を布告した。
祖国統一と昭和帝崩御で浮足だっていた政府・国防軍中枢は、セクトの仕掛けた電撃戦に全く対応できなかった。
参謀本部情報総局も、セクトや在日ソ連軍、国防軍の一部に不穏な動きがあることを掴んでいたが、よもやこのタイミングで仕掛けてくるとは予想外だった。
昭和帝崩御からまだ3日だった。
臨時国家主席を名乗った奥平剛は、占拠した国営放送局から立憲君主制の終了と軍国主義の復活阻止、金権腐敗政治の打倒を掲げて、政治改革のためボルシェビキ独裁を実施することを宣言した。
さすがに半世紀近くも温めてきたクーデタ計画であって、セクトの行動は迅速で淀みないものだった。
しかし、それに対応する軍部のカウンタークーデタ計画も練りに練られたものだった。
習志野第一空挺連隊、富士の戦車教導連隊及び横須賀海軍陸戦隊の各連隊室には開かずの金庫があり、代々の連隊長によって厳格に管理されてきた。
開錠には厳格な規則があり、首相や政府閣僚または国防大臣、統合参謀本部長、または三軍長官の全員と48時間以上連絡が途絶した場合のみ開錠が許可されていた。
これはクーデタが成功して政府中枢が制圧された場合を想定した設定だった。
仮にそうした事態になったとしても断固としてカウンタークーデタを実行して、共産主義革命を阻止するという軍部が残した死の手だった。
作戦書を開封した各連隊長は、協働してクーデタ政権打倒に向けて動きだした。
習志野空挺連隊、富士戦車教導連隊、横須賀海軍陸戦隊は国防軍最精鋭部隊という位置づけにあった。
富士の戦車教導連隊は行動開始から僅か4時間で多摩川線まで進出し、横須賀海軍陸戦隊と合流した。
世田谷区永田町までは指呼の距離であった。
しかし、ここで反撃は停滞を余儀なくされた。
彼らの元には恐るべき情報が辛くも脱出した諜報員によってもたらされたからである。
東京都内に核が持ち込まれていた。
クーデタ軍が持ち込んだのは、在日ソ連軍が保管する戦術核兵器だった。
戦術核兵器といっても爆発威力はキロトン級からメガトン級まで操作可能で、最大核出力で作動した場合は1メガトンになる。
1メガトンが都内で炸裂した場合、東京都23区は即座に蒸発する。
セクトは東京都民1,000万人を人質にとったも同然だった。
しかし、セクトが核の起爆コードを持っているかは不明だった。
在日ソ連軍がもつ戦術核兵器の管理権はソ連政府にあり、彼らが核の起爆コードをセクトと共有しているとは考えにくかった。
つまり、ブラフの可能性は十分あった。
問題は照会先のソ連でも大混乱が発生し、恐ろしいことにゴルバチョフ書記長と連絡がとれない状態となっていた。
反動勢力による日ソ同時クーデタによってゴルバチョフが既に死亡している可能性もあった。
これは十分に考えられる事態だった。
東京都内に核を持ち込み、都民1,000万人を人質にとるような連中は勝つため何をしても不思議ではなかった。
なお、パニックを回避するため、戦術核兵器については情報統制が行われ、核持ち込みが判明したのは後のことだった。
このような事態は、軍部が事前に作成したカウンタークーデタ計画にも想定がなく、状況は膠着状態に陥った。
政府機能停止をうけて大阪で開かれた全国都道府県知事会の緊急会合では、話し合いよる平和的解決を求める声明が発表された。
これはセクトにとっては話し合い=現状固定化であり、非常に都合のいい発表だった。
知事の中にはセクトの息がかかった者がいて、裏工作が行われていたのである。
鎮圧部隊は知事会に指揮権はないとして、声明を無視することとしたが、膠着状態が続くことに焦りは隠せなかった。
事態を打開したのは、台北から駆け付けた皇太子だった。
ミサイル駆逐艦丹陽(キッド級駆逐艦)で横須賀に乗りつけた皇太子は、赤いベレー帽にBDUを着用した姿でマスコミ各社の前に姿を現し、天皇不在のため摂政として憲法に基づき統帥権を行使し、自ら反乱暴徒を鎮圧すると宣言した。
昭和帝が戦後に軍装で公の場に姿を現すことはなかったから、最新の迷彩服姿でテレビの前に現れた皇太子に、世論は驚き、ただただ頷くしかなかった。
これによって世論と国防軍の実戦部隊はクーデタ鎮圧で一致した。
台湾の著名な歴史小説家は、
「この国の困ったときの天皇頼みはここに極まれり」
とその日に起きたことを嘆いた。
ただし、非常事態における立憲君主政体としてはむしろ正常という評価もある。
なお、実際の実務は皇太子と共に上陸した軍事委員長補佐の岩里政男が担当した。
テレビでその名を日本全国に知られていた岩里は、クーデタに皇太子の帰国と摂政就任、鎮圧軍直接指揮という急展開で頭が飽和状態になった日本人から、なんとなく臨時首相代行のような扱いを受けることになった。
これが最終的に統一日本の最高権力者の座へ岩里を導く階段になった。
この時点で、軍国主義復活阻止(皇太子帰国阻止)を掲げていたクーデタは半ば失敗したも同然だった。
また、セクト暗殺部隊の襲撃を受けて政府首脳専用バンカーに避難していたゴルバチョフと連絡が回復し、ソ連政府がクーデタに関与していないことが確認された。
これでセクトが戦術核兵器の起爆コードを手にしていないことが明らかになった。
ただし、安全装置を改造・無力化することで手動で核兵器を起爆させることは理論上は可能で、核テロの可能性は排除できなかった。
しかし、ソ連からの情報提供によって核の隠匿場所が判明したことは大きな前進と言えた。
セクトが核兵器を隠したのは東京大学の安田講堂だった。
慎重な偵察の結果、安田講堂内部に核弾頭の存在が確認された
これを受けて習志野空挺連隊の精鋭が、空中機動で安田講堂を急襲して核兵器を無力化する作戦が立案された。
確実な奇襲のために陽動作戦の実施が望まれた。
陽動作戦はできるだけ派手な攻撃で、クーデタ軍の耳目を引いて意識を核兵器からそらす必要があった。テレビ中継することも考慮した上で、お台場に停泊する戦艦ソビエツキー・ソユーズがターゲットになった。
陽動という目的のためには攻撃側も目立つ方が都合がよいのは言うまでもないことである。
できるだけ目立つ目標をできるだけ目立つ方法で派手に攻撃する手段として、戦艦大和はその生涯における最後の戦いに赴くことになった。
1989年1月21日早朝、東京湾に進入した戦艦大和からの停泊中のソビエツキー・ソユーズに対して退去勧告が発せられた。
勧告が無視された午前7時19分、戦艦大和は半世紀ぶりに敵戦艦への主砲を放った。
彼我の距離は、10kmしかなく大和の砲撃は殆ど水平射撃だった。
戦艦の交戦距離としては殆ど至近距離から撃たれたソビエツキー・ソユーズは大爆発を起こした。
ソビエツキー・ソユーズの甲板上には、大和と同型の重巡航ミサイルの発射チューブが満載されており、引火誘爆したミサイルの固形燃料と高性能爆薬が次々に誘爆した。
この場面はテレビによって生放送されており、日本人全員がリアルタイムで戦艦による最後の砲撃戦の目撃者となった。
「大和が撃った、撃った、撃った、撃ったー!戦艦ソユーズが燃えている!ソユーズが燃えている!大和は負けられない、大和は負けられない!しかし、ソユーズも撃ち返す!負けられない戦艦大和!譲れない戦艦ソビエツキー・ソユーズ!」
という有名な海戦実況のフレーズを覚えている人も多いだろう。
アナウンサーは競馬実況者として有名な人物だった。
呑気に実況中継をしているように思えるが、現場は戦場であり、外れ弾が当たって全滅したテレビ局もあった。
先制攻撃によって爆炎に包まれたソビエツキー・ソユーズだったが、流石は戦艦であり、その地獄の中から世界最大艦載砲=51cm砲で撃ち返してきた。
ただし、命中弾はなく、全弾が大和を飛び越えてそのまま対岸にある千葉の石油化学コンビナートに着弾して、そこにあった石油タンクを爆発炎上させた。
大和の砲撃も外れたものは着弾地点にあったものを容赦なく吹き飛ばした。
東西デタントの象徴して建設された米国資本の大規模アミューズメントパークに着弾した46cm砲弾は、そこにあったシンデレラ城を木っ端微塵にした。
東京湾はまるで放射能怪獣が暴れているかのような状況となった。
実際に暴れているのは鋼鉄のレヴァイアサンだった。
東京湾海戦は、大和の7斉射目で決着した。
発射された9発の46cm砲弾のうちの1発がソビエツキー・ソユーズの甲板に埋め込まれたC-300FのVLSに命中した。
長距離防空ミサイルを搭載することでソビエツキー・ソユーズは艦隊防空能力を手に入れる代わりに、戦艦としてはあるまじき致命的な弱点(VLS)を腹に抱えていた。
大型SAMの固体燃料と高性能爆薬が船体内部で誘爆し、熱と衝撃波が隔壁と装甲板を突き破って、ソビエツキー・ソユーズの主弾薬庫に広がった。
51cm砲弾のコルダイトが誘爆したソビエツキー・ソユーズは、巨大なキノコ雲をあげて真っ二つに割れて東京湾に沈んだ。
世界最後の戦艦轟沈だった。
このようなものを実況生中継で見せられては、訓練された兵士でもテレビに釘付けになるしかなかった。
そして、それこそがヘリボーンする習志野空挺連隊の狙いだった。
安田講堂を急襲した空挺連隊は、奇襲と隔絶した練度をもって核弾頭を守っていたセクト兵を排除して、戦術核兵器を無力化した。
これを受けて横須賀海軍陸戦隊と富士戦車教導連隊は多摩川を超えて世田谷区永田町に雪崩れ込んで激しい市街戦となった。
もはや後がないセクトは死に物狂いで抵抗した。
セクトが立てこもった総理官邸・国会議事堂周辺では戦車同士の砲戦が発生し、その余波で国会議事堂が倒壊・総理官邸は全焼した。
セクト首領の奥平は最後まで抵抗し、手榴弾で自爆して果てた。
1989年1月21日、セクトの乱は発生から10日で終息した。
クーデタによって所在不明になっていた昭和帝のご遺体も無事発見され、皇太子と昭和帝は半世紀ぶりに無言の再会を果たした。
大喪の儀の後、皇太子によって半世紀前に起きた皇太子誘拐事件の真相が明らかにされた。
皇太子の誘拐事件の真相は、緊急回避行為としてのソ連軍の進駐が、最悪の事態(共産主義革命)に発展した場合に、皇統断絶を避けるため昭和帝と宮中グループによって計画されたものだった。
皇太子変更を拒否しつづけたのも自分の死後、皇太子の帰国と即位を利用して日本統一を果たすための叡慮だったのである。
こうして昭和最後にして平成最初の戦争は終わった。
事件後、東台両政府は共同記者会見をひらき、2国1制度、すなわち同君連合・連邦国家による日本統一が発表された。