ジャパニーズ・アイランド・モディファクション
ジャパニーズ・アイランド・モディファクション
田中核英は共産主義者なのか?
という問いかけには意味がない。
なぜならば、尋ねられた本人は自信満々に
「わたくしは共産主義です!」
と答えているからである。
彼がこれは共産主義だよと言えば、それは共産主義になった。
この分かりやすさこそ核英の武器だった。
ちなみにこれは共産主義の説明方法においては致命的に誤っている。
マルクスは来るべき人類の理想郷である共産主義社会について、
「資本主義的な特徴を持たない社会」
と表現した。
マルクスは、
「こうこうこういうものが共産主義ですよ」
とは言っていないのである。
なぜこんな表現になっているのかと言えば、マルクスが19世紀の人間だったからである。
共産主義社会は遥か未来に実現する人類の理想郷であるため、19世紀的常識が通用しない場所であると表現することで、定性的理解を回避しようとしたのである。
これは宗教における神の説明と同じである。
神は全知全能の存在と表現されるが、なんでもありでしかなく、何の説明にもなっていない。
「神は×××というものですよ」
という定性的な説明は存在しないのである。
それを行った瞬間に、神=×××になってしまい有限の存在として神性を失ってしまうからだ。
仏教は信仰の核となる「悟り」について、
「今だ悟りに至らず、悟りとは何かわかりません」
という態度をとることで、悟り=×××という定性化を回避している。
マルクスの実家はユダヤ教のラビの家系で、宗教というのものに幼いころから慣れ親しんできたから共産主義を説明するのに宗教を用いることに躊躇がなかった。
そういう意味では、共産主義は社会学や経済学ではなく19世紀にマルクスによって創始された宗教の一種であり、20世紀に世界的流行をとげてキリスト教、イスラム教、仏教に並ぶ世界宗教になったと理解することができる。
ソ連がある種の宗教国家であるとするならば、最終的に現実に負けて崩壊したことは、歴史上の宗教国家が世俗化して生き延びるか、さもなくば崩壊するかの二択だったことに通じる。
核英が行ったのは、ある意味において共産主義の世俗化だったと言えるだろう。
少なくとも、大手ゼネコンから多額の政治献金を受け取る共産党員は俗物以外の何者でもない。
ちなみに昭和帝は金にきれいな歴代の共産党書記長と良好な関係を築いたが、核英だけは嫌っていた。
さて、宗教の世俗化とは、世間と妥協して神の有限性を認めることである。
有限性を認めるとは、定性化することである。
核英は、
「まぁーそのぉーこれも一つの共産主義ですよ」
という明快さによって、共産主義を定性化したのである。
彼にとっては、上越新幹線も関越自動車道も柏崎刈羽原子力発電所も日本列島改造論もシベリア開発も日中国交断絶も日台国交樹立も天皇訪米もICBM開発も自衛のための核武装も全てが共産主義だった。
古参の共産党員からすると、
「そんな共産主義があってたまるか!」
となるが、彼がこれは共産主義といえば、それは共産主義となった。
このような人物は、ソ連の短い歴史に一人だけいた。
その名前はスターリンという。
田中核英という男は、遅れてやってきた日本のスターリンだったともいえる。
ロシア人に言わせてみると
「こんなきれいなスターリンがいてたまるか!」
となってしまうので語弊があるかもしれないが、少なくとも田中核英書記長が持つにいたった権勢とカリスマはスターリンに匹敵した。
1972年に書記長に就任した核英は、第64代内閣総理大臣として、ベトナム戦争後のデタントの時代を迎えた。
当時、国力差100対1の戦いで負けたアメリカ合衆国は深刻な自信喪失状態となっていた。
アメリカの自信喪失は、1981年に「Make America Great Again(強いアメリカの復活)」を掲げてロナルド・レーズン大統領が就任するまで治らなかった。
軍拡競争においても、核軍備が米ソ伯仲となったことが対ソ融和政策を後押しした。
経済においても、西欧の復活と西ドイツの躍進があり、アジアにおいては高度経済成長をとげた日本に圧されていた。
ソ連もベトナム戦争で肥大化した軍事費の削減や、中国との対立、農業・物流政策の失敗から食料の自給自足が不可能となり、穀物輸入のため対米融和政策を模索するようになった。
米ソデタントの象徴とも言えるのが、二チャード・ニクソンとレモネード・ブレジネフの間で、結ばれた軍備管理協定、第一次戦略兵器制限交渉となる。
ヨーロッパにおいては、1975年に全欧安全保障協力会議が開催され、ヘルシンキ宣言が採択された。
こうした米ソ融和を背景として、核英も戦艦大和強奪事件で最悪の状況となった東京=台北の緊張緩和、融和を模索することになる。
東台対話のボトルネックとなったのは公的な交渉窓口がないことだった。
理由は、お互いが相手を国として認めていないからである。
東京から見た場合、台北は反乱勢力だった。
台北も東京を非合法クーデタ政権として規定していた。
また、どちらも側も日本は一つであるという原則を維持しており、お互いを公式には国と認めていない。
しかし、それでは交渉も何もあったものではないので、東台は非公式で連絡をとりあっていたが、これは軍部を経由したものだった。
帝国軍時代の人間関係を利用した連絡ルートは、戦後のある時期までは有効に機能した。
しかし、軍内部の世代交代もあって先細りだった。
また、退役軍人同士の私的な人間関係をベースにした交渉では埒があかない。
そこで核英は、アメリカから台北政権に返還された沖縄で直接交渉に乗り出した。
沖縄は、ベトナム戦争での台北政権の貢献によって、1972年に施政権が台北に返還された。 建前上は日本は一つの国であり、沖縄は日本へ返還されたという体裁だった。
ただし、本土から沖縄県への渡航は実質的に不可能だった。
また、沖縄本島には広大な米軍基地が残り、対日戦の最前基地という位置付けもそのままだった。米軍の軍用地は本島の2分の1にも及び、軍用地は台米協定で台北の施政権が停止された。
アメリカの軍用地にも多数の沖縄県民が居住しており、返還後も55万人の県民が米軍の軍政下での生活を余儀なくされた。
要するに1972年の沖縄返還とは名ばかりの返還だったと言える。東洋のグアンタナモといえば沖縄だった。
核英は沖縄訪問で実情を知って強く憤り、
「まだ日本の戦争は終わっちゃいない。沖縄の全部が返ってくるまで戦争は終わらない」
と秘書官に語っている。
それでも大戦末期に沖縄から本州へ避難した沖縄県民は帰郷を熱望しており、東台交渉は沖縄県民帰還交渉という形で始まり、最終的に相互国家承認に発展した。
交渉に参加した台北政権の代表団には、後に救国軍事委員会委員長となる後藤田正純がいた。
後藤田は徳島出身で、停戦を台湾で迎えたため帰国が不可能になった。
その後、汚れ仕事を行う軍の特務機関を経て、治安警察である台北憲兵隊長から政界へと転出して70年代後半から頭角を表した。
黒縁メガネをかけた後藤田は、独特の雰囲気から台湾のアンドロポフの異名がある。
後藤田の賄賂嫌いや腐敗に対する容赦ない姿勢は有名で、辻正信軍事委員会委員長の金銭スキャンダルを暴いて、彼を失脚に追い込んだ。
田中は特務上がりながらも実直な後藤田を気に入り、後藤田も田中を信頼したことが良好な東台関係の基礎となった。
台日が交渉に応じたのは、ベトナム戦争終結によって戦争特需が消えて経済が悪化したことと米中国共正常化が背景にあった。
ニクソンショック以前、合衆国にとって台日は東アジア唯一の同盟国だった。
しかし、米中国交正常化と中ソ対立で中華人民共和国が合衆国と戦略的互恵関係となったことで、台日特権が危うくなった。
台日特権とは、1945年に蔣介岩と台日が交わした覚書であり、傭兵契約を結ぶ代わりに国家統一まで暫定的に台湾の統治権を認めるというものだった。
しかし、1953年に蔣介岩が墜落死した後、中華人民共和国は中国の唯一の政府として台日特権は無効と主張していた。
これに対して合衆国は、中華民国の亡命政権を立てて対抗し、台日特権を擁護してきた。
交換条件としては台日陸軍は、合衆国極東戦略の先兵となってベトナムを始め、アジア各地でCIAの傭兵として便利に使われてきた。
米中国交正常化によって、亡命政権は解散して中華人民共和国は中国唯一の正統政権(一つの中国)となり、台北政権の統治権は法的根拠を失って、武力による実効支配へと後退した。
これは多大な犠牲者を出して合衆国の極東政策に協力してきた台北政権にとって明確な裏切りだった。
もちろん、合衆国は台湾問題について対話以外の解決方法(武力併合)を認めたわけではないのだが、台北は国家存続のために別の基盤を探すことになった。
それが東京・台北の相互国家承認だったと言える。
これは一つの日本という戦後日本の大前提を覆すものだった。
右派や軍部の保守派は相互国家承認によって明治以来の万世一系による統一国家として日本が失われるとして相互国家承認に反対した。
しかし、現に国として自立した存在となっていた台北を国として認めないことには、統一に向けた交渉を発展させることが不可能だった。
1973年に結ばれた日本基本条約によって、法的に二つの日本が存在することが確認され、両国の首都にはそれぞれの大使館が設置された。
同年、台湾日本は国際連合にも正式加盟することになった。
日本基本条約の成立を受けて、日中は国交断絶にいたった。
理由は日本の反動勢力によって不法占拠中の台湾における中華人民共和国の主権侵害だった。
東台日本基本条約は、台湾に国家主権を認めるものであり、台湾の領有権を主張する中華人民共和国とは相容れないものである。
核英以前の東京政権が、台日を国として認めてこなかったのは中国に対する配慮という意味もあった。
東京は、1953年に中華人民共和国が成立するといち早く国家承認を行って、55年には日中平和条約を結んで10億ドルの賠償金を支払うなど、赤い中国との友好関係の構築に努めてきた。
しかし、中ソ対立と米中国共正常化を受けて、「向こう側」についた中国を慮る必要はなくなった。
ただし、日中国交断絶はソ連の国家安全保障上の不安を払拭するものだった。
ソ連にとっての最悪のシナリオは、日中が手と結びソ連を裏切ることだったからである。
中国と広大な国境線を抱えて頭を悩ませているソ連にとって、日中の対立は歓迎すべきもので、核英はモスクワからの信頼を得ることになった。
同じ時代を生きた共産党の幹部も日本基本条約成立後、目に見えてモスクワでの待遇がよくなったと振り返っている。
実際、日本基本条約と中ソ対立以前の日ソ関係は、宗主国と衛星国に近いもので、対等な同盟国と言える状況にはなったのは核英以後のことと言える。
台湾日本の国連加盟もソ連の全面的なバックアップによって実現した。
これは裏切った中国に対する嫌がらせだった。
相互国家承認後、東台の経済交流は大きく前進することになった。
台湾企業やその合弁会社が進出したのは、核英の持論である日本列島改造論で造成された地方の工業団地だった。
日本列島改造論は、インフラ整備によって太平洋沿岸に集中した日本の重工業を全国に分散することで大都市部の環境問題と地方の雇用問題を同時に解決し、国土の均衡ある発展を目指すものだった。
特に重視されたのは高速道路と新幹線といった交通インフラ整備と電力源としての原子力発電所の建設だった。
核英は列島改造計画最終章において、日本全国に原子力発電所を作ることを列島改造計画のゴールに掲げていた。
ちなみに、この目標は2019年にSMR(小型モジュール原子炉)が実用に達し、2027年に同原子炉を採用した沖縄の吉原子力発電所、東京都のお台場原子力発電所、大阪府の夢洲原子力発電所が完成することで遂に達成される見込みである。
日本は地球温暖化対策の切り札としてSMRで全ての国内火力発電所を置き換え、SMRを全世界に輸出する計画を推進しているところである。
核英の原子力発電に対する思い入れは極めて強く、
「レーニンもロシア全土の電化が共産主義だと言っているんですよ。つまりですね、日本の場合は、全ての電源の原子力化が共産主義ということであります」
と国会答弁し、日本全土の原発設置に意欲を示した。
それはさておき、新潟県と関東を結ぶ関越自動車道、上越新幹線、そして柏崎刈羽原子力発電所は日本列島改造論のモデルケースだったと言える。
高速道路・新幹線・原発は、70年代以降の日本での地方開発における三種の神器となった。
また、ソ連との重要な貿易港として直江津港と新潟港など日本海沿岸の諸港が整備された。
ソ連からの主な輸入品は原油・石炭などのエネルギー資源と工業原料などだった。
戦後日本では、ソ連から同盟国価格で買った資源を加工(付加価値付与)して、西側諸国に売って外貨を稼ぐという加工貿易が発展した。
日本が輸出産業に力を入れたのは、食料やエネルギー資源の輸入のため外貨が必要だったことや多額の賠償金請求があった。
中国や朝鮮、東南アジア諸国やオランダといった日本との戦争で生じた被害に対する賠償のためには外貨(米ドル)が必要だった。
70年代まで日本企業の輸出攻勢が西側諸国から容認されていたのも賠償金の支払いという要素が大きかった。
また、合衆国の国務省などは日本を西側経済に関与させることで、資本主義的な発展を促して東側から引きはがすという目論見があったとされる。
しかし、70年代に入るとさすがにそうも言っていられなくなった。
特にベトナム戦争での敗北でアメリカが自信喪失状態になるとアメリカ国内の日本製品はフラストレーションの対象となっていった。
さらに1973年に第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まると事態はより深刻なものとなった。
中東の安価な石油に依存していた西側経済は激しいインフレーションに見舞われたが、ソ連から同盟国価格で石油を買っている日本は相対的に物価が安定していた。
結果、日本の輸出商品は西側の同一商品よりも大幅に安くなっていった。
人件費の差を差し引いても安すぎたため、不当廉売として制裁関税の対象となってしまったのである。
自動車への対日制裁関税は、一時期100%になった。
また、日本への技術輸出制限も70年代以降はソ連並みに厳格なものとなった。
国内でトランジスタを製造したソニーや日立製作所、三菱電機といった企業は60年代まではアメリカ企業と技術提携を結ぶことさえできたが、次世代産業であるコンピューターや産業用ロボット技術については完全にシャットアウトされた。
日本企業に圧された西側企業は、政府やマスコミを使ってなりふり構わぬキャンペーンを実施して、日本製品排除へ走った。
ベトナム戦争に敗北して自信喪失したアメリカ世論もそれに迎合したのである。
これが70年代以降の日米貿易摩擦のアウトラインである。
ただし、これには抜け道があった。
台日経由の迂回輸出は規制されておらず、台東合弁会社を使うことで合衆国の最新技術に触れることができた。
60年代までは技術先進国と見なされていたソ連は経済が停滞し、徐々に技術革新も滞ったことから、台北企業を通じた西側からの技術輸入が日本経済の継続的発展に不可欠となった。
また、台湾に進出した日本企業は、メイド・イン・タイワンということで、対日制裁関税の対象外となったので日本の輸出産業は生き延びることができた。
しかし、そのような抜け道工作を使っても戦後日本企業にとって、西側経済からの排除は厳しく、険しいものだった。
冬の時代を迎えた日本の企業の岐路は3つあった。
一つはあくまで国際主義に拘り、ありとあらゆる手練手管を駆使して制裁を回避しつつ国外輸出を開拓する道である。
国際主義にこだわった企業としては、ХондаやСониなどがあり、台北企業との合弁やメキシコ・カナダへの工場建設、現地生産などを通じて多国籍企業化を図った。
二つは国際主義をとりつつも西側ではなく東側へ活路を見出した企業で、日産などはソ連や東欧との政府間貿易に頼るようになった。
東側との貿易は基本的に政府間貿易であり、利益は少ないものの広告費用や営業費用が安上りだった。
また、ソ連な生産管理では、品質や性能よりも政府の定めたノルマが満たされていることが重要だった。家電製品に対するノルマの基準が重量だった場合、ノルマを満たすためにとてつもなく重い冷蔵庫やオーブントースターが製造された。
日本ならば来季をまたずに会社が潰れるような話だが、ソ連的には十分アリだった。
これは二流・三流の技術しかない日本企業にとってはありがたい話で競争力のない型落ちでも利益が出せることを意味する。
そんな商売を続けていれば、最後にどうなるのかは明らかであるが、会社にとっては利益がでることが重要であり、その手段の持続可能性はしばしば無視される。
三つは、政府の内需振興政策に乗って、国内市場で競争する道である。
外需拡大の道が塞がれたのだから、70年代以降に日本経済が内需拡大に舵を切るのはある意味、必然だったと言える。
そのため、核英の列島改造計画は世論から支持され続け、日本全国に高速道路と新幹線と原子力発電所が作られ続けることになった。
そのための膨大な資金需要に応えたのが、ネコ手形の発行である。
ネコ手形とは、政府・公共団体が発注した事業を受注した企業が、国土開発公社を引き受け手とする手形を振り出し、日本銀行が再割引を保証し、銀行または銀行団が割引き、5年の償還期間内に政府がこれを決済するというものであった。
戦後日本では大量の戦時国債(紙幣)の発行によりハイパーインフレを招いた反省から財政法によって税以外の財源が認められておらず、建設国債の発行も議会の議決が必要で、国債発行は極めて抑制的な仕組みになっていた。
また、世論も財政赤字には批判的で、国債=国の借金として忌避する傾向が強かった。
しかし、それでは多額のインフラ投資の実施は原理的に不可能で、列島改造計画は絵に描いた餅になる。
そこで核英が考案したのは、手形による予算外の資金調達だった。
実質的には政府が国債を発行し中央銀行が直接引き受けて通貨を発行する財政ファイナンスと何も変わらないのだが、手形を使うことで予算・決算書から赤字国債が消えて、健全財政を維持しつつ理論上無限に資金調達が可能という錬金術である。
しかも手形発行という偽装工作を挟むことで、外部からは異常に分かりにくい償還の仕組みとなっており、表面上は均衡財政のため世論からの批判を回避できた。
実際には、国債発行と売りオペの合わせ技のような制度で、インフレーションを抑止しつつ公共事業(あるいは軍拡)を行うものだった。
インフレーションが抑制されれば、同一予算でより多くの政府発注が可能になる。
このスキームを使うことで、国土交通省や原子力省は大蔵省の監督を離脱して、インフラ投資のためならば、ほぼ無制限の資金調達ができるようになった。
実際には無制限ではなく、日銀が管理するインフレ率で振りだせる手形の限度額はある程度決まっている。
ネコ手形の発行は、およそ革命家らしからぬ田中核英の財政革命だったと言える。
ちなみにネコ手形のネコとは、手形に印刷された国土開発株式会社の社章が猫の手形に似ていることからつけられた。
ちなみに国土開発株式会社は偽装工作のためのダミー会社で、実体はなかった。
ネコ手形の最大の受益者は国土開発省と原子力省であったが、本来の利用者は軍部だった。
より具体的には、核武装のための極秘の資金調達スキームをインフラ投資に流用したのがネコ手形の始まりである。
田中核英が核武装の必要性に目覚めたのは1962年だった。
1962年はキューバ危機の年である。
キューバ危機では、米ソは核戦争の瀬戸際まで緊張を高めたが、最終的にソ連が折れる形でキューバから核ミサイルを撤去した。
このことは国防上の危機として認識されており、いざという時にソ連の核の傘(拡大抑止)が機能しないのではないかという恐怖が残った。
少なくともキューバは裏切られた。
在日ソ連軍は、防衛用に限定して戦術核兵器を日本に配備していたが、管理権は日本にはなかった。
ちなみにキューバ危機でアメリカと対峙したニキータ・フルーチェは日本国内での評判は最悪の一言で、高齢者の中にはソ連が崩壊したのはフルーチェが悪いという人がいる。
現役時代からフルーチェの評価は最悪で、専らの理由はスターリンを批判したことだった。
フルーチェのスターリン批判は日本では殆ど陰謀論扱いされており、大粛清やカチンの森事件等についてもでっち上げという意見が未だに多い。
キューバ危機でも、
「フルーチェはなぜ核を撃たぬ!」
と世論は腰の引けたフルーチェの対応を批判して、スターリンが生きていればこんなことにはならなかったと嘆いていた。
ソ連の核に頼れない上に、中国の核武装も核英の危機感を煽った。
中国は1964年に原爆実験、1967年には水爆実験を成功させ、米ソ英仏に次ぐ核保有国となっていた。
国防軍は1950年代から密かに核開発を行っていたが、日本国内では核物質の確保が困難という壁につきあたり、ソ連の圧力もあり進捗がなかった。
しかし、核兵器不拡散条約は軍部の反対で加盟見送りとなり、日本は核兵器開発のフリーハンドは維持していた。
また、核英は日本の国際的な地位を高めるという意味でも、核武装は必須と見なしていた。
戦後日本の外交的地位は、端的にいってソ連の衛星国だった。
レオタード・ブレジネフ書記長は、1968年に制限主権論を振りかざし、社会主義体制を守るため衛星国への軍事介入を正当化した。
そのため、いつ在日ソ連軍が永田町を占領するか分かったものではなかった。
しかし、日本が核武装すれば彼らはためらうだろう。
角英が核武装を決意したのは1973年ごろだったとされる。
なぜならば1973年の予算委員会において、
「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」
と答弁し、自衛のための核武装を正当化したからである。
この時、既に軍部は核武装に向けて動き出していた。
50年代の核武装計画を頓挫させた核物質の入手困難については、アパルトヘイト政策をとる南アフリカからの入手の目処がたっていた。
西側諸国はアパルトヘイト政策に反発し、南アフリカに経済制裁を行っていた。
日本が人種差別政策を無視して制裁に参加しなかったのは核物質入手のためだった。
南アフリカにはウラン鉱山があり、日本に密輸された天然ウランは数万tにもおよび、プルトニウム生産に十分な量のウランが日本の手に渡った。
南アと日本の核兵器開発には、イスラエルも関与していたとされる。
イスラエルと敵対するアラブ諸国に対して武器輸出を行うソ連とは異なり、日本政府はイスラエルに対していかなる敵視政策も行わないとしていた。
日本の親イスラエル政策は、核密約の存在を匂合わせるものだが、日本もイスラエルも公式に否定している。
最初の核実験が行われたのは1979年9月22日だった。
南極大陸沖プリンス・エドワード諸島付近で、アメリカの核実験監視衛星が、核実験の兆候を探知した。
プリンス・エドワード諸島付近には、日本海軍とイスラエル海軍の艦艇が展開しており、アメリカの情報機関は南アフリカ、イスラエル、日本が共同で核実験を行ったと判断している。
実験に参加した駆逐艦花月は、
「サクラサク」
という電文を発した。
ちなみに失敗した場合は、
「サクラチル」
だったらしい。
核実験成功の知らせを受けた核栄は、
「よっしゃ!よっしゃ!」
と上機嫌になったが、本人は決して核実験やそれ類する情報に触れたがらなかった。
理由は不明だが、見ると負けるという発言だけが残っている。
同じ報告に接した昭和帝の反応は知られていない。
ただし侍従長に依頼して核物理学者を呼び出して進講させた記録が残っている。
イスラエルは核保有については曖昧戦略をとり、否定も肯定もしないという立場をとり、アメリカ合衆国も外交上の配慮から追及を見送った。
南アフリカも国際的な孤立を回避するため核武装は否定した。
後の情報公開で、アパルトヘイト政策を廃止に先立って製造した核兵器を全て破棄したことが判明している。
日本だけが、1980年8月6日に択捉島で追加の公開地下核実験を実施して、公式に核武装を宣言した。
核英は国際的な批判に対して、
「じゃあ、なんですかね!京都がもう一度燃えても黙ってみていれば満足ですか?やられてもやりかえさないのが正しいっていうなら、わたくしは間違っていた方がずっとよいと思いますね!」
と京都への原爆投下をひきあいに出して真向から反論した。
国内の被爆者団体の反応は複雑なもので、これでやっとアメリカに復讐できると喜ぶ者もいれば、核の惨劇が繰り返されることに怯える者もいた。
こうした懸念に応える形で、1980年は日本の核武装元年として国防軍主導で全国の主要都市にて核兵器博覧会がひらかれ、最終的に260万人が来場して好評を博した。
核爆発の閃光と共に核英が現れ、核の炎で赤く焼けた空に日の丸が昇って、それが国旗に変わるというモーフィング技術を凝らしたプロパガンダ映像に見覚えがある人も多いだろう。
この作品は海外でも、閃光のカクウェイとして繰り返し放送された。
ソ連は日本の核武装にいい顔はしなかったものの同盟関係の継続を確認すると強く非難することはなく、日本への核燃料を輸出した。
1979年のソ連・アフガニスタン戦争でデタントが崩壊し、新冷戦がはじまっていたことから、ソ連は同盟国の核武装に目をつぶったのである。
それに対して西側諸国は日本に対する経済制裁を発動した。
制裁は主に金融制裁で核開発に関わった個人、企業の資産凍結などが行われた。
日本製品に対する不買運動も激化して輸出産業は大きな打撃を受けた。
しかし、日米貿易摩擦の最前線で戦っていた経産省や外務省の官僚は、核武装後に目に見えてアメリカ合衆国通商代表部(USTR)の態度が軟化したと当時を振り返っている。
確かに手に銃を添えていた方が、無手より話は通りやすい。
核兵器と共に核抑止を構成する運搬手段については、1970年に衛星打ち上げに成功しており、その発展型が軍事転用された。
日本のロケット開発は東京大学主導の固体燃料方式と軍部主導のソ連のR-1(V2ミサイルのコピー)をお手本にした液体燃料方式の2系統で発展した。
このうち東大主導の固体燃料方式は、元は人間爆弾桜花の推進用ロケットをベースに発展してきたものであり、軍事転用は先祖返りしたともいえる。
日本発のICBM発射場は北海道の大樹町に建設された。
本州に比べて広大な平野が得られる北海道は発射場とロケット組み立て工場の建設に必要な土地の確保が容易だったためである。
ほかの候補地としては、鹿児島県の種子島や大隅半島があげられた。
しかし、建設費を一部負担した軍部が防衛の観点から反対した
米軍基地がある沖縄に近すぎるというのが理由だった。
しかも大隅半島は米軍との本土決戦予定地である。
ただし、大樹の発射施設は過渡期の産物であり、軍部の本命は最初から潜水艦から発射するSLBMだった。
国防軍は米ソが建設したような硬化サイロは早い段階で断念していた。
理由は米ソのような広大な土地に秘密地下サイロを建設するようなことは、地積がない日本では困難だったからである。また、核戦争下での硬化サイロの生存性には疑問符があった。
その点で、水中に隠れ、常に移動することで位置を秘匿できる原子力潜水艦とSLBMの組み合わせは島国の日本の適していた。
同じ島国の核保有国であるイギリスも原子力潜水艦とSLBMの配備で核抑止は確保している。
それでも大樹に発射施設が作られたのは技術開発のためであり、将来の民生転用の布石だった。
民生用衛星や軍事偵察衛星の打ち上げには制御の容易な液体燃料方式が優れており、1975年にソ連からの技術供与で、コスモスロケットのライセンス生産が実現した。
ソ連製ロケットのライセンス生産は、1985年にはソユーズロケットに切り替わった。
日本国内ではカガーリンを宇宙に運んだロケットということでメディアの注目を集めたが、ソ連としては技術的に枯れたものを売って多額の外貨を得られる良い取引という認識だった。
ただし、ソユーズは枯れた技術だけあって安全性も高く、低コストでの打ち上げが可能である。
21世紀現在でも運用が続くほどで、国際宇宙ステーションへの物資輸送にも使用されている。
大樹宇宙センターから最初の日の丸ソユーズロケットが打ち上げられたのは、1986年1月2日のことである。
同じくライセンス生産されたソユーズ宇宙船で日本人初の宇宙飛行士が誕生したのは1990年12月2日になった。
日本人初の宇宙飛行士となった毛利守は、
「宇宙から国境線は見えなかった」
とコメントしている。
なお、この時既に冷戦は終わっていて、翌91年にはソ連が終わった。
田中核英も1993年に死去する。
ただし、政治家としての田中核英は1985年に脳梗塞で倒れた時点で死んでおり、一命はとりとめたものの意識障害や言語障害が残り、政治活動は不可能だった。
政権末期はストレスから酒量が増えており、健康を害していた。
特にデタント崩壊は核英にとって大打撃だった。
1974年にジェネラル・フォード大統領が現職大統領として初の訪日を果たし、翌75年に実現した昭和帝訪米は日本における東西デタントの絶頂的だった。
アメリカ合衆国は、日本から来た革命的なコミュニズム・エンペラーを国賓扱いで遇した。
これはそのまま日本の国際的な地位向上を意味しており、日米は対等であると国内外に宣言するものであった。
天皇訪米を成功させた核英は、大きな満足のうちに内閣を解散した。
ただし、以後も書記長としての絶対的な権力を保持した。
沖縄疎開民の沖縄帰郷事業や、東台離散家族の帰郷が進んだのも東西デタントが背景にあった。
核英の政治哲学は、
「政治とは生活である」
であり、国民の生活をよくすることが核英政治の全てだった。
彼は革命の輸出には全く興味を示さず、ほかの共産圏の指導者、キューバのフィデル・ネギトロ議長などを呆れさせた。
東独のエーリッヒ・ホネオッター書記長からは、
「このような反革命的な書記長は、世界中のどこを探しても見当たらない」
と罵倒されるほどだった。
ただし、ソ連の政治改革を指導したミサイル・ゴルバチョフからは高く評価された。
ゴルバチョフは、ペレストロイカにあたって日本に大量の政府職員を研修として派遣して、改革のモデルとした。
また、日本との冷戦に突入した中華人民共和国は、毛沢束の没後に日本をモデルとした市場経済体制の導入を図った。
核英は新冷戦には否定的で、アメリカの挑発に乗るべきではないと考えていた。
日本の核武装を推進したのはあくまで政治的な利益の追及であり、
「核爆弾なんてものは1発ありゃ十分だよ。地球を焼き林檎にしてどうするんだよ?」
と述べるなど大量核軍拡の無意味さを理解していた。
さらに日本の資本投下で行ったシベリア、サハリンの資源開発によって核英はかなり正確にソ連の疲弊した内情も掴んでいた。
核英の口癖は、
「おい、飯食ったか?」
であり、ソ連が大量の穀物をアメリカとカナダから輸入している現状からしても、既にソ連の負けは見えていた。
同じ理由で、日本も足りない食料を西側から買っている現状では、軍備だけ優秀になったところで無意味だと考えていた。
核英がこよなく愛した塩辛い食事に必要な醤油や味噌の製造に使う大豆はアメリカやブラジルからの輸入品だった。
しかし、ソ連と軍部の圧力に折れる形で冷戦最後の軍拡競争が始まることになる。