サイレンス バトルシップ
サイレンス バトルシップ
インドシナ戦争を終わらせたジュネーブ協定は、当初からその実効性に疑義があった。
外国勢力の都合で南北二つに別れたベトナム国民は、祖国は一つでなければならないと固く信じていたからである。
ベトナム人の頑迷な態度については、日本人もあまり悪くいうことはできないだろう。
台北と東京に別れた二つの日本においても、天皇は昭和帝ただ一人だけだったからだ。
誘拐された皇太子は、天皇に準じる存在として祭られていたが、台北の天皇になることは決してなかった。
反対に昭和帝も、皇太子を皇位継承から外して別の後継者を迎えることはなかった。
そのため、いずれ起きる日本の革命的君主制の継承者問題は昭和帝の加齢に伴って二つの日本における重大な内政問題と見なされることになっていった。
それはさておき、ベトナムは一つでなければならなかった。
ベトナム人民の希望の星となったのは毛沢束だった。
毛沢束は、アメリカ軍や傀儡日本軍を中国から追い出して国を一つにまとめてみせた。
中国ができたのなら、ベトナムにもできると考えたのである。
そのあと毛沢束がやらかしたした事についてはあえて目をつぶることにする。
さらに1953年に第3次国共内戦が赤い中国の勝利に終わり、ハノイから北京まで鉄路でつながったことも大きかった。
中国から大量の軍事支援が到着し、いよいよ北ベトナム陸軍(NVA)と南ベトナム民族解放戦線(NLF)は、アメリカ帝国主義との戦いに突入していくのである。
ベトナム戦争は、1960年代におけるアジア冷戦対決の主要なテーマとなった。
北ベトナムを支援したのはソ連・中華人民共和国、そして日本(東京政権)である。
南ベトナムのセコンドについたのは、アメリカ合衆国と日本(台北政権)だった。
アメリカの介入は、当初は南ベトナムへの軍事顧問団の派遣と武器供与だけだったが、徐々に規模を拡大して海兵隊が派遣された。
南ベトナムへの支援を拡大したのはドワイド・D・アイゼンパワー大統領だった。
アイゼンパワーは前任のトゥルーマンを中国喪失の戦犯と批判することで大統領選挙に勝利し、共和党に政権をもたらした。
よって、自分がベトナムを失うことは絶対に回避しなければならないと考えていた。
日本に引き続き、中国まで赤く染まったことから、ここで赤化ドミノを食い止めなければアメリカの威信が保たないという危機感もあった。
しかし、アメリカの若者を戦場に送ることは避けたかった。
有権者は、アメリカが自由と民主主義の守護者であってほしいと思っていたが、そのために自国の若者をベトナムという聞いたこともない地の果てに送ることには慎重な姿勢を示していたからだ。
そのための代替案が、用日政策であり台日陸軍の動員だった。
60年代を通じて台北政権を指導した辻正信救国軍事委員会委員長は、1957年6月にアイゼンパワーと会談してゴルフ仲間になるほどの信頼を得て、台北政権内で権勢をふるった。
辻委員長はベトナム戦争期間中にアメリカから17億ドルという巨額の財政援助を引き出し、その交換条件に20万の台日陸軍をベトナムへ派遣した。
これはベトナムに展開した兵力の半数に相当するものだった。
ちなみに1955年の東京政権の国家予算は約1兆円だった。1ドル360円の固定相場制の当時、17億ドルである。
また、直接的な財政支援のほかに無償兵器供与もあり、派遣費用がほぼ無料という好待遇だった。
台北空軍が、その経済力からすると明らかに不釣り合いなほど強大な航空戦力を持つことになったのもベトナム派兵以後のことだった。
西側のベストセラー戦闘機となったF-4ファントムⅡはもちろんのこと、輸出向けのF-5EタイガーⅡ、A-4スカイホークなど、最新の米軍機を次々に導入していった。
概ね全てが赤く染まった東アジアにおいて、台北政権はアメリカとって貴重な同盟国であり、極東に打ち込んだ楔と言えた。
実際に、台湾は70年代から一枚岩だった極東アジアの東側陣営を分離させる楔となったので、台湾を優遇した合衆国の極東外交は間違いではなかったと言えるだろう。
もちろん、金さえ払えばどこにでも兵隊を送ってくれる便利なアンチ・コミュニズム・ヤクーザという側面もある。
特に台北が設置した特務機関はまさにヤクザか、ヤクザまがいの活動を得意とした。
冷戦中、台日軍の特務機関は極東・東南アジア、インド、中東といった広大な地域で様々な非合法・諜報活動を行っていた。
1963年の香港銃撃事件やマカオゲート事件、65年のロアナプラ事件、68年のインドネシア陸軍某重大事件、ダッカ事件に台日の特務機関が関与していた。
いずれも台日の掲げる滅共政策として行われたテロリズム・暗殺作戦だった。
こうした直接的暴力と平行して宣撫活動が行われた。
具体的には各国の軍部・政府要人の買収工作である。
買収資金の元になっていたのは、満州で実績を積んだ日本陸軍お得意の阿片の栽培と密輸だった。
雲南で麻薬組織になっていた国民党の残党勢力の協力を得てインドシナ奥地で栽培された阿片はヘロインに精製されて、欧州や北米に輸出された。
麻薬ビジネスにはCIAも一枚噛んでいた。
CIAは60年代に中南米で精製されたコカインをヘロインと交換でアジアに持ち込んで売りさばき、巨額のブラックマネーを稼いで工作資金としていた。
スパイ・暴力・金・麻薬ときたら女であり、ありとあらゆる非合法な快楽を提供する台湾最大の売春組織が、実は特務機関のカバーだったことが暴露されたのは冷戦が終わった後のことだった。
そうとは知らずひっかかり、協力者に仕立て上げられ破滅した人間は数知れない。
売春組織の利用者は、東京政権の政府高官だけではなく、同盟国のアメリカ軍将兵も数多く、色仕掛けで台北はありとあらゆる政治・軍事情報を集めていた。
台北の特務機関がヤクザまがいの手法で東京に情報拠点を築き、売春ビジネスで地元のヤクザとトラブルになり、かちこみを受けたことから正体が露見したことさえある。
地元のヤクザから通報を受けて公安警察が踏み込んだところ、血の海になった事務所の中から無線通信装置や暗号表などが押収されたのである。
逮捕された構成員は全員が台北のスパイだったわけだが、見た目はどこからどうみてもその筋の人間にしか見えなかったとされる。
まさにアンチ・コミュニズム・ヤクーザだった。
話が逸れたが、ベトナム戦争中、台湾は米軍の後方支援基地として戦争特需に沸きあがり、アメリカの財政支援を産業政策に投じたことで毎年10%という高度経済成長を達成した。
辻委員長はその辣腕で21世紀現在まで続く台湾の先進経済の基礎を作ったことは、疑いようのない事実である。
ただし、辻委員長の毀誉褒貶は激しい。
帝国軍時代でさえ、兵士から作戦の神様として慕われる一方で独善的な作戦指導、越権行為を繰り返し、民間人、捕虜虐殺事件の首謀者として捜査の対象にもなった。
停戦後はシンガポールでの華僑虐殺事件の容疑で追及され、中華民国へ逃亡。その後、なぜか蔣介岩から重用された。
アメリカとのパイプもこの時期に築かれたものらしい。
蒋介岩の隣で、米軍関係者と一緒にコーンパイプを咥えてレイバンのサングラスをかけた辻の写真が残されている。
ちなみに撮影されたのは中国内陸部の成都で、蒋介岩は撮影から3日後に飛行機でヒマラヤ山脈を超えてインドへ脱出を図って失敗し、墜落死した。
辻は同じ飛行機には乗らず、陸路でカイバル峠を越えてインドへ脱出した。
側近として重用されていた辻がなぜ陸路でヒマラヤ山脈を越えたのかは不明である。
この時、辻は官憲の追及を逃れるためにラマ教の修行僧に扮していたらしい。
中華民国崩壊後は台日政権に合流した。
辻は米軍との太いパイプを背景に、極めて短期間で軍事委員会内部の権力闘争に勝利した。
辻が政界でのし上がるために撒いた金の出どころはCIAである。
辻がCIAの協力者だったことが暴露されたのは2000年代に入ってからだった。
限りなく不透明で、いかがわしい契約による台日陸軍のベトナム派遣に対抗して、東京政権もベトナム支援を拡大した。
ただし、東京政権は反共暴力団のように大っぴらに軍隊を派遣するようなことは避けた。
日本人同士の戦争など冗談ではなかった。
大元帥である同志天皇陛下から絶対不可と言われていたら尚更だった。
さらに中華人民共和国はもとより、東南アジア各国も過去の経緯から日の丸を掲げた軍隊には拒絶反応を示していた。
東南アジア各地で今でも通じる日本語として
「アッコラー!ザッケンナコラー!シネッコラー!スッゾコラー!ヴォラッケラー!」
などがあり、大戦中に東南アジア各地を占領した日本軍の振る舞いがどのようなものだったのか容易に想像することができる。
ベトナムも状況は同じだった。
東京政権が米軍の北爆に対抗するため義勇軍として戦闘機派遣を打診したが、ボー・ブ・ザップ将軍からけんもほろろに断られた逸話は有名である。
ちなみにザップ将軍が雪をかぶった活火山の異名のある激情家として知られており、植民地時代に妻を殺害したフランス人とも怒りを抑えて会食できる自制心の持ち主である。
そのザップ将軍を怒らせるほどのナンセンスだった。
そのため、日本の支援は間接的なものに止まった。
主に医療支援や留学生の受け入れや軍需物資の輸出拡大などである。
特に留学生の受け入れには大きな需要があった。
北ベトナム政府高官の子息を安全な日本に退避させる必要があったからである。
隣国の中国という退避先もあったが、彼らは毛沢束中国よりも発展著しい日本へ子息を送りたがった。
辻委員長時代の台北には、こうした配慮が奈落のように欠けていた。
満州事変や仏印進駐のように自分の都合だけで作戦を決めて、外交相手の感情を全く考慮しないあたり、極めて大日本帝国の正当後継者らしい行動だった。
台日陸軍は、さも当然のごとくベトナムに日の丸と日本軍人の誇りとして95式軍刀を持ち込んだが、それらをベトナム人がどのように映るかについては思慮した形跡がない。
むしろ南方にいくなら必須アイテムだと考えていた節さえある。
国共内戦時に白軍として戦ったときは、日の丸をおろして青天白日満地紅旗を掲げる程度の思慮はあったのだが、ベトナムではなかった。
要するに台日にとってベトナムとはそういう国だった。
そのため、台日軍は米軍以上にベトコンの執拗な攻撃を受けることになったが、その報復は極めて苛烈で、洗練されたものとなった。
対ゲリラ戦に関して台日陸軍以上に経験豊富な軍隊は珍しかった。
ベトナム戦争を通じて台日陸軍は極めて効果的なゲリラ掃討戦を実施して、同盟国から賞賛を集めた。
東京の新聞ではメコン虐殺と報道された戦いでは、1個連隊で分散して浸透攻撃を図った北ベトナム軍の2個連隊を撃退した上で海岸部に追い込み、米海軍の戦艦アイオワによる無差別絨毯艦砲射撃によって全滅させることに成功した。
米軍はこの戦いを対潜水艦戦の発想を応用したものと評価したが、実際にはシナ事変での対ゲリラ戦を現代風に焼きなおしたものだった。
台日陸軍の編成や装備にもシナ事変当時を思わせるものが多く、とにかく軽さと機動力を重視した構成となっていた。
主力戦車として大量配備したM41軽戦車などは、現代版チハと呼べるほど台日陸軍に愛されて、歩兵直協に特化して運用された。
ただし、台日軍がゲリラ掃討作戦を”成功”させるたびに、東京政権が進めている過去の清算と和解が遠のいた。
東京政権は、中国や東南アジア各国に対して講和条約に基づく賠償金の支払いだけではなく、反日感情の緩和、解消を目的として有償・無償の人道支援を行っていた。
東南アジアでは前述のとおり過去の経緯から極めて反日感情が強く、邦人保護や企業進出の促進という観点からしても、政府に対応を迫るものだったのである。
過去の清算・和解事業は帝国時代に、日本が戦火に巻き込んだ全ての国が対象となっており、シンガポールやマレーシア、インドネシアや中国、そしてベトナムでも支援が行われた。
そのため、ハミ村の虐殺など台日軍による民間人虐殺、ベトナム人女性へ集団強姦などの戦争犯罪も、東京政権はベトナムでの医療支援活動などを通じて把握していた。
これらの戦争犯罪は、中国やソ連のプロパガンダ放送で米軍の戦争犯罪とともに広く知られるところとなり、東京政権は頭を抱えることになった。
台北政権に抗議しても、
「我ハ猛然ト滅共作戦ヲ遂行セリ」
という辻な回答しか返ってこないため、話し合いにもならなかった。
ちなみに台北政権は、帝国時代の賠償請求については国家統一後に支払うとして実質的に拒否していた。
統一後も東京政権によって既に支払済の立場をとっており、要するに踏み倒したと言える。
北ベトナム政府は、東京と台北が違う国であることを行動で示すことを求めた。
これを受けて軍内部で検討が行われ、
「戦艦を使って、ハイフォンを守れないか?」
として企画されたのが、1966年7月の戦艦大和のベトナム・クルーズだった。
派遣の名目は、日本とベトナムの友好親善だったが、実際にはハイフォン港の防衛が目的である。
ハイフォン港は北ベトナム最大の補給港で、ソ連や中国からの船舶輸送された軍事物資の荷揚げに使用されていた。
そのため、ハイフォン港は米軍の爆撃目標になっていたが、ソ連や中国といった表向きは中立国の艦船、船舶を停泊させることで、爆撃を回避していた。
アメリカ軍は、中ソ艦船への爆撃が第三次世界大戦に発展することを極度に警戒していた。
1962年のキューバ危機の記憶はまだ新しかった時期である。
キューバの革命政権を防衛するためソ連はキューバに中距離弾道ミサイルを配備し、それを察知した合衆国による海上封鎖から、米ソ全面核戦争の危機を招いたことは合衆国に厳密なエスカレーション管理を強いることになった。
結果、ベトナム戦争で米軍は交戦規定により自縛自縄状態となり、現場の兵士が犠牲を強いられ、深刻な士気低下に見舞われた。
米空海軍のF-4ファントムⅡなどは、目視射程外ミサイルをもちながらも、目視で敵機を確認してから攻撃するように強制され、宝の持ち腐れになる始末だった。
ベトナム戦争後半になると非合理的なエスカレーション管理も緩和され、ハイフォン港も最終的には爆撃と機雷封鎖によって使用不能となった。
しかし、1966年時点では爆撃回避のテクニックとしては、中立国艦艇のハイフォン港入港はまだ有効だった。
また、米海軍はどういうわけか大和型戦艦に核兵器が搭載されていると固く信じ込んでいることもポイントだった。
米軍の誤解はちょっとした翻訳ミスに基づくもので、大和に積み込まれた46cm砲弾の分類が新型砲弾への更新された際に通常弾(対艦攻撃用の徹甲弾)と非通常弾(対地攻撃用の榴弾)に区分され、この際に非通常弾=核弾頭と誤解したのだった。
この分類方法は、帝国時代からの伝統で、海軍では通常弾=艦船攻撃用という認識だった。
都合がいいので敢えて国防海軍も米軍の誤解を解消せず放置していた。
敵が誤りを犯しているときにそれを修正しようとしてはいけないからである。
当時の大和は1959年にオーバーホールを受けて艦隊に復帰して、その後も細かい改装を受けていたが基本的に第二次世界大戦時の姿を残した船だった。
電探や水測兵器は戦後開発されたものに変更され、発電力強化のため前後の副砲は撤去されて発電機に代わっていた。高角砲は戦後型の100mm単装砲に代わったほか、多数設置されていた25mm機銃は撤去されてソ連式の37mm機銃と57mm機銃になっていた。
100mm単装砲は、戦後建造の日本艦艇の基本装備といえるほど多用された優秀砲で、原型は秋月型駆逐艦の長10糎高角砲を近代化したものである。
誘導兵器の類は装備されていなかったが、水上偵察機の代わりに回転翼機を3機搭載していた。
一応、対空誘導弾の搭載が検討された時期もあったが、主砲発射の圧力に耐えられないことが判明して沙汰止みになっていた。
扱いは赤衛艦隊旗艦ではあったが、運用に莫大な経費がかかることから、大和は基本的には柱島艦隊を決め込んでいた。
それだけで常時、2~3隻のアイオワ級戦艦ないし重巡洋艦1個戦隊を那覇港に拘束できるのだから、割のよい取引と言えた。
米海軍を散々打ち破った伝説の戦艦派遣は、ベトナム国民を勇気づけるというプロパガンダという政治的な意味合いもある。
政府も軍部の提案に乗り気で、1945年にソ連の日本進駐によってB-29の焼夷弾攻撃が止んだ先例をあげて、大和派遣に賛成した。
1966年6月25日、護衛の駆逐艦雪風、冬月、涼月を伴って戦艦大和は呉を出航した。
駆逐艦雪風、冬月、涼月は帝国海軍最後の勝利となった沖縄沖海戦から生還した3隻で、プロパガンダの一環として敢えて護衛に抜擢された。
外洋に出た親善訪問艦隊は、すぐに待ち構えていた米海軍の哨戒機に捕捉された。
那覇港を出港した米戦艦戦隊(アイオワ、ニュージャージー、イリノイ、ケンタッキー)が、親善訪問艦隊を捕捉したのは6月26日の午後2時15分だった。
大和1隻相手に、アイオワ級戦艦全艦同時投入してくるあたり、米海軍が大和をどのように評価していたかが知れるところである。
戦艦戦隊の後には重巡洋艦3隻(デモイン・セイレム・ニューポート・ニューズ)が後続していた。
デモイン級は合衆国海軍が最後に建造した砲戦用重巡洋艦で、基準排水量は16,000tに達し、全長は長門型戦艦よりも長いという戦艦並みの巡洋艦だった。
なお、このような歓迎委員会は日常茶飯事であり、緊張をはらんだものだったが、両海軍は手慣れた雰囲気でもあった。
その後、艦隊は速力をあげて台湾海峡を通過して、南シナ海に入った。
台湾海峡通過時に、追跡艦隊に台日海軍の重巡高雄が加わった。
重巡高雄は台日艦隊の旗艦として最後の日々を送っていた。
高雄は就役から30年以上が経過しており、機関の寿命が尽きかけていたのである。
しかし、東京政権の艦隊旗艦が出てきた以上、それにふさわしい船を送るのが礼儀作法というものだった。
見方によっては、戦艦5、重巡4、駆逐艦多数という日米連合艦隊とも言える威容に、中ソ海軍の情報収集船が加わって、総数40隻を超える大艦隊となった。
大和のハイフォン入港は1966年7月2日だった。
戦艦大和強奪事件が起きたのは翌3日の深夜である。
事件がおきた時点で、乗員の半数は上陸して不在。艦長もベトナム親善訪問を記念するレセプションに参加して船にいなかった。
残る乗員もアイスティーに混入されたスコポラミンによって人事不省の状態となっていた。
そのため、留守を預かる霧島奈智副長の手引きで、台北の海軍N部隊が艦内に侵入しても殆ど抵抗はおきなかった。
海軍N部隊とは、台日海軍が編成した特殊部隊の一つで、潜水艇などを使った水中からの潜入工作に特化していた。
反乱を首謀し、台北のN部隊を引き入れた霧島副長は二つの日本によって家族を引き裂かれた離散家族の息子だった。
台北は台日陸軍大佐の父親を通じて接触をとり、大和副長を内通者に仕立てあげた。
従わなければ、父親の戦中犯罪が暴露されると脅されれば是非もなかった。
副長は台北からの指示と資金提供によって艦内で密かに細胞をつくって反乱を首謀し、台北の特殊部隊を艦内に引き入れる役割を果たした。
台北政権は、売国奴(東京政権)から日本海軍の象徴である戦艦大和の奪還することをかねてから画策していた。
大和自身の軍事的な価値は僅かだが、その政治的な価値は計り知れなかった。
大和のハイフォン訪問計画が内通者によってもたらされると、台北の計画は急速に具体性を帯びることになったのである。
奪還計画を承認した辻は、
「売国奴から大和を取り返す、これは日本を取り戻すことに等しい」
と述べて意欲を示したとされる。
しかし、冷戦当事国の海軍艦艇を強奪するという行為がもたらすセンセーションに対する外交的考慮が著しく欠けていた。
帝国陸軍らしいといえばそれまでだが。
大和に侵入した海軍N部隊は1個中隊規模だった。
小型潜水艇でハイフォン港に潜入した彼らは、内通者の手引きによって容易に船内に進入することができた。
襲撃部隊は綿密な下準備をして作戦に臨んでいた。
艦内行動に慣れるため、重巡妙高の艦内で予行演習を実施している。
軍艦の内部構造は極めて複雑であり、戦艦大和のような巨艦となれば殆ど立体迷路のようなものだったから、この訓練は必須だった。
重巡高雄が大和追跡に参加したのは、襲撃部隊を同乗させ、攻撃目標を事前に確認するという意味もあった。
戦艦大和の強奪に、東京の国防省はパニックとなった。
全ての停船を命令を無視してハイフォンを緊急出港した大和を出迎えたのは、アイオワ級戦艦4隻を含む米艦隊だった。
米艦隊は何も知らされておらず、大和の反乱・政治亡命にパニックとなった。
何しろ米海軍は大和の艦内に戦術核兵器があると誤解しており、核兵器搭載艦船が反乱をおこして、公然と亡命してくるなど予想外もいいところである。
これから起きることへの恐怖に凍り付いた参謀から、
「一体、何が始まるんですか?」
と問われ、艦隊司令長官を務めていたフランクリン・カービィ提督が
「第三次大戦だ」
と応えたのは有名である。
台北の描いた事前のシナリオは、殆ど破綻したも同然だった。
事前のシナリオでは、このまま大和はなし崩し的に米艦隊と共に高雄に入港し、辻委員長が大和を背景にして欺瞞に満ちた売国政権を糾弾、日本の伝統を重んじる台北の正義を高らかに謳いあげることになった。
そのための原稿も用意されており、重巡高雄にCNNやBBCのテレビクルーを事前に同乗させておくという手回しの良さだった。
ちなみにCNNもBBCのテレビクルーも米海軍と同じ誤解をしており、戦艦大和に戦術核兵器が搭載されていると信じていた。
BBCの衛星放送によって、全世界の人々が戦艦大和強奪事件の目撃者となったのである。
キューバ危機に並ぶ東西冷戦の焦点が、日本帝国が建造した神話じみた伝説をもつ巨大戦艦の一点に集中した瞬間だった。
映像は、不気味な終末の予感を伴い衝撃となって全世界を駆け巡った。
これほどまでのセンセーションは大和強奪を実行した台北政権にとっても想定外だった。
何しろ戦艦大和を奪還しただけなのに、なぜか核ジャックの実行犯になっていたからだ。
ちなみに台日海軍は帝国海軍の後継であるため、非通常兵器=核兵器のようなちょっとした翻訳ミスのような誤解はしておらず、大和には核兵器がないことを理解していた。
米海軍の抱いてる奇妙な誤解については、おいおい解決すればよいという認識だった。
台北の想定外はもう一つあった。
内通者をつくっていたのは東京も同じで、計画が漏洩していたのである。
ただし、東京の参謀本部情報総局は想定していた反乱謀略は、戦艦大和ではなく新鋭の原子力潜水艦を対象としたものだった。
ソ連海軍の協力を得て1964年に就役した朝潮型原子力潜水艦は、機密のベールに包まれた日本海軍の新たなる決戦兵器だった。
当然、狙ってくるならこちらのはずだった。
台北のターゲットが時代遅れの戦艦だったことが、АКБにとっての想定外だった。
АКБが戦艦大和に特殊部隊を潜入させていたのは万が一の保険で、彼は直前に上司とトラブルをおこして左遷されただけだったのである。
しかし、それが台北の計画を破綻させた。
戦艦大和強奪事件は後に映画化され、スペツナズ隊員が一人で敵をなぎ倒すという史実とは異なる展開(アクション娯楽大作)となってしまったが、スペツナズ隊員が一人で立ち向かったことは史実どおりである。
また、潜入時の身分が艦内烹炊所の民間嘱託職員だったことも史実である。
コックに扮装していたスペツナズ隊員は食事にスコポラミンが混入されていたことをいち早く察知して、難を逃れることができた。
映画では前艦橋に立てこもった反乱軍に対して、2番砲塔から空砲射撃を行って、爆圧で反乱軍を吹き飛ばすというド派手な展開となる。
これは映画じみた展開であるが、史実に則ったものである。
実際にBBCが撮影した映像で、真後ろに旋回して艦橋に狙いを定めた大和の2番砲塔が発砲し、爆圧によって前艦橋の構造物が吹き飛ぶ様が確認できる。
ちなみに使用されたのは映画とは異なり実包(榴弾)である。
АКБスペツナズによって解放された大和乗組員も戦闘に参加し、大和は艦のコントロールを取り戻した。
ただし、依然として米艦隊の重包囲下にあるという危機は続いていた。
危機は他方面で進行しており、大和の高雄入港を阻止するため、呉からは赤衛艦隊が緊急出港した他、現場には海軍航空隊のTu-16爆撃機と日ソの原潜艦隊が急行中で、場合によっては大和撃沈も止む無しとされていた。
もちろん、大和の周囲に展開する米艦隊の反撃は必至であり、そのまま第3次世界大戦になりかねなかった。
国防軍の活動にあわせて米軍もデフコン3を発動した。
ただし、グアム島のB-52戦略爆撃機は水爆を搭載して離陸して空中待機態勢にあり、限りなくデフコン2に近いデフコン3である。
状況はもはや極東のキューバ危機だった。
危機を終息させる鍵は、渦中の中の渦中にある大和しかなく、米戦艦から出た停船命令を無視して全速で包囲突破を図った。
この時、映画では作戦として大和が衝角戦法を実施したことになっているが、戦艦ニュージャージーと大和の衝突は意図せず発生した事故だった。
しかし、64,000tの鉄塊がありたけの速力を出して、45,000tの鉄塊にほぼ直角に近い角度で衝突したことを事故と言い切ってしまっていいものかは疑問が残る。
BBCの撮影した映像を見るかぎり、故意だったとしか思えない。
ただし、当時としてはあくまで事故として処理された。
アイオワ級戦艦の高速発揮に適した細く長い艦首が、大和のバルバスバウによって引き裂かれ、大和が乗り上げる形で前進したことでニュージャージーの艦首が切断された。
さらに衝突によって発生した高圧・高温によって船舶塗料が燃えはじめ、大和とニュージャージーは炎に包まれた。
火災によって発生した黒煙が目印となり、駆逐艦雪風を先頭に北ベトナム海軍の高速魚雷艇隊が突入に成功した。
トンキン湾雷撃戦で、北ベトナム海軍は魚雷艇全滅と引き換えに重巡セイレムに魚雷3本を命中させ、これを撃沈するという大戦果をあげた。
米艦隊の大混乱に乗じたとはいえ、16,000tの超重巡洋艦を真昼に正面から100t足らずの魚雷艇が討ち取ったのは古今例がない。
セイレム撃沈を記念して、この日はベトナム海軍記念日とされている。
この時、先導艦となった駆逐艦雪風は、老朽化でボイラーが1缶停止しており、海戦に参加できる状況ではなかった。
しかし、出港後になぜかボイラーが突如として復活した。
速力をあげた雪風は36ktの全速発揮し、いつのまにか魚雷艇隊を追い越して突入隊の先頭に立っていたとされる。
ちなみに僚艦の冬月、涼月は機関不調で海戦に参加できていない。
2025年に公開された雪風を主人公とする映画でもこの件は映像化されており、冬月と涼月が機関不調で落後していく中で、雪風のボイラーが突如として復活し、速力をあげて北ベトナム海軍の魚雷艇隊を追い越し、「我に続け」という発光信号を出すところがハイライトとされている。
砲雷撃戦の大混乱をついて、大和は奇跡的に包囲網を突破、生還した。
なお、大和も衝突時の衝撃によって艦首が大破して大量の浸水が発生しており、ハイフォン港に逃げ延びたときには、予備浮力を殆ど使い果たした状態だった。
大和が生き延びることができたのは、1959年にオーバーホールを受けた際に、ソビエツキー・ソユーズにも採用された改良された応急注排水システムが適用されたからである。
それは沖縄沖海戦で沈んだ武蔵の戦訓に基づき開発されたものだった。
先に沈んだ姉妹艦の最後の贈り物が、大和を現世につなぎとめたと言える。
2013年にリリースされたブラウザゲームでも、この事件はキャラクターボイスとして採用されており、擬人化された戦艦大和が2番砲塔の向きや食事への異物混入を異常に気にしていたり、武蔵からのプレゼントを常に身に着けていることが示唆されている。
なお、艦首を切断されたニュージャージーは、大和のような幸運には恵まれなかった。
彼女は沖縄沖海戦で戦艦武蔵の砲撃で大破しながらも生き延びたが、それから20年後に武蔵の姉妹艦によって南シナ海へと沈められた。
戦艦による戦艦撃沈は1945年以来の快挙だった。
衝角戦法による装甲艦撃沈というカテゴライズを採用すると1866年7月20日のリッサ海戦以来の珍記録と言えた。
最長不倒にして神話じみた活躍を誇る大和の戦歴にまた一つ伝説が加わったのである。
ただし、公式記録では接触事故として処理された。
意図した撃沈となった場合、日米開戦から第三次世界大戦になりかねないからである。
辻は第3次世界大戦を引き起こしかねない男として米ソから警戒され、1968年にスキャンダルによって救国軍事委員会委員長の座から引きずり降ろされた。
ちなみにこの時、金銭スキャンダルを暴いて辻に引導を渡したのは台北の憲兵隊長だった後藤田正純で、汚れ仕事を厭わない実直な仕事ぶりが評価され、後に後藤田は救国軍事委員長に上りつめた。
失脚した辻は、事件は東京政権の陰謀だったと責任転換した。
しかし、仮に作戦が成功して大和の奪取に成功していたとしてもベトナム戦争の趨勢に関係したとは考えづらく、ベトナム戦争に深入りし過ぎた辻の失脚は不可避だったと思われる。
アメリカは中国に続き、ベトナムも失ったからである。
アメリカ軍は、最盛期には54万の兵力をベトナムへ送り込み、無限に近い航空支援と砲兵支援をもって100戦100勝に近いレベルで勝利しつづけた。
台日派遣軍はキルレシオ1,000対1という殆ど完璧な対ゲリラ戦を成し遂げていた。
B-52のパイロットがこれから毎日ベトコンの家を焼こうぜと言った。
だが、戦争には勝てなかった。
北ベトナムは空爆で国土の全てを焼かれ、枯葉剤で国中を滅茶苦茶にされて、ある世代の成年男子が死に絶えるまで消耗しつくしたが、継戦意思を失うことはなかった。
中ソからの武器支援を止める方法もなかった。
日本帝国は1941年に中国への武器支援を止めるために米英と戦争を始めるという意味不明な大戦争を始めたが、アメリカが同じ理屈で戦争を広げた場合は米ソ全面核戦争だった。
また、戦争は戦場だけで起きるものではなかった。
アメリカの首都ワシントンでは反戦平和運動が盛り上がり、世論と政府方針の乖離が浮き彫りになった。
ホワイトハウスは、ドミノ理論でベトナム戦争の意義を訴えた。
しかし、ベトナムが赤色政権になったところでインドシナ半島の先は海である。倒れるドミノなどなかった。
もちろん、インドシナ半島の地政学的な意義、日本軍がかつて南部仏印を足がかりに南進したことを考えれば、東側がインドシナ半島を牛耳ることは脅威である。
しかし、当時の西側海軍との戦力差を考えれば、こじつけに過ぎない。
1962年のキューバ危機では、アメリカは圧倒的な海軍力でキューバを海上封鎖し、ソ連軍を撤退に追い込んだばかりである。
インドシナ半島に日ソ海軍が展開したところで、東南アジア全域を赤化するなど、アメリカの被害妄想にすぎなかった。
ニキータ・フルーチェ政権は、核ミサイル軍備を推進して通常兵器を削減することで軍縮を実施しており、海軍力は縮小傾向だった。
スターリンが造った戦艦ソビエツキー・ソユーズが予備艦指定されたのも1963年のことで、キューバ危機のあとにも通常兵器削減の方針は変わっていなかった。
ソ連が海軍拡張に転じたのはフルーチェ失脚後のことである。
率直に言って、ベトナムでの戦いには何の意味もなかった。
少なくともベルリン並みの価値が、インドシナ半島の農業国にあるはずがなかった。
それでも勝っていると国民が思っているうちは、戦い続けることができた。
しかし、1968年のテト攻勢でサイゴンのアメリカ大使館が占拠され、古都フエが一時的に陥落すると世論の風向きが変わった。
勝利による戦争終結が遠のいたことが実感されたのである。
特に戦場に入り込んだメディア、テレビの影響は絶大だった。
解放戦線の攻勢にさらされ、おびえる兵士の映像がアメリカの家庭を直撃し、政府の説明から説得力を奪った。
事態の収拾にあたったアメリカ合衆国大統領キンコン・ジョンソンは失敗を認め、次期大統領選挙への出馬を自ら取り消した。
地球の反対側にある名も知らないジャングルで10年近く戦争を続ける意義を説明する言葉がホワイトハウスやワシントンにはもうなかった。
なお、強奪事件で大破した大和は、艦首切断の上で一から再生産するという大手術の末、2年後の1968年12月6日に艦隊へ復帰した。
それから5年後の1973年にベトナムからの米軍撤退に伴って、大和は予備艦指定され、赤衛艦隊旗艦の任務を解かれた。
新たに赤衛艦隊旗艦を担ったのは、次世代の大型空母”翔鶴”だった。
国防海軍は老朽・陳腐化した雲龍型空母(葛城、笠置)を置き換える目的で64,000t級の翔鶴型空母を建造した。
1972、73年にそれぞれ就役した翔鶴、瑞鶴はアメリカ海軍主力のキティーホーク級空母の対抗艦だった。
基準排水量が大和と同じ64,000tとなったのは、国防海軍の主要な海軍基地(横須賀、呉、佐世保)は、64,000tの大和型戦艦の運用を基準にしており、それより重い船になると運用に難があったためである。
ただし、艦の全長は戦艦大和の263mを遥かに超える322mで、国防海軍最大の艦艇となることは確定していた。
艦載機は、当初はMig-21の改造機だったが、すぐにMig-23Kに置き換わり、さらに攻撃機型のMig-27Kが配備された。
Mig-23とMig-27は国防空軍にも配備された可変翼機で、70年代にMig-15、Mig-17、Mig-19を置き換えるため海空軍向けに1240機の大量調達になった。
Mig-23は性能的にはFー4ファントムⅡに相当し、国防空海軍の戦闘機部隊に初めてBVR戦闘能力をもたらした。
また、20,000t級の雲龍型では運用できなかった早期警戒機の運用が可能となり、艦隊の防空能力が飛躍的に向上した。
76式艦上警戒機は、日本が独自開発した機体でE-2ホークアイに相当する。
ただし、同じ部分は役割とターボプロップ機であることだけだった。
E-2は双発機だが、76式は単発機で、胴体後部にTu-95に採用された大出力ターボプロップエンジンを推進式に改造して装着した。そのため、通常型の尾翼は設けることができず、主翼からテイルブームを伸ばした双胴機となっている。
機体設計の近似例をあげるとするならば、キ98やサーブ21を中型機にして、レーダードームの円盤を乗せた形になる。
翔鶴に展開した601航空隊の構成は時期により変遷があるが、概ねMig-23K36機、Mig-27K36機、76式AEW4機、Ka-25PL/BSh6機の合計80機となっていた。
赤い帝国の戦闘機、戦闘爆撃機を満載した翔鶴、瑞鶴は冷戦時代の国防海軍の象徴だった。
空母笠置は練習用空母として現役に止まったが、葛城は1975年に退役となり、葛城海軍航空博物館に改装され、呉で余生を送っている。
葛城海軍航空博物館のとなりには駆逐艦雪風博物館が併設され、2024年現在も共通チケット300円で艦内を見学することができる。
展示物の目玉は、葛城の格納庫で保存されている歴代の海軍航空隊の主力艦上戦闘機・攻撃機である。
先の大戦で活躍した零式艦上戦闘機はもちろんのこと、その前進にあたる九六式艦上戦闘機や、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機といった真珠湾攻撃を担った初期の主力爆撃機・攻撃機や後期主力の彗星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機、彩雲艦上偵察機が収蔵されている。
珍しいところでは世界にそれぞれ1機しか残っていない零式水上偵察機や零式観測機、水上爆撃機瑞雲、水上戦闘機強風と特殊攻撃機晴嵐がある。
大戦末期・戦後配備の烈風艦上戦闘機や流星・流星改艦上攻撃機、陸上機ではあるが局地戦闘機雷電や紫電、紫電改、夜間戦闘機月光、世界に3機しか残っていない特殊攻撃機橘花や戦後に少数生産された震電・ジェット化された震電改も見ることができる。
飛行甲板に露天で展示されている機体は、冷戦時代のMig-17KやMig-21K、さらに前述のMig-23Kなどのミグ系の機体やKaー25やKg-27といった東側の回転翼機で占められている。
併設の駆逐艦雪風博物館は、1964年時点の姿を再現した駆逐艦雪風の艦内を歩くことが可能である。
太平洋戦争の主要な全ての海戦に参加して最後まで無傷で生き残った雪風は帝国海軍一の幸運艦として知られている。
なにしろ雪風の同型艦は38隻建造され、そのうち37隻が戦没している。
戦後は復員船としても活用され、貴重な艦隊型駆逐艦として長きに渡って、艦隊の第1線に在り続けた。
そして、最後の戦いとなったトンキン湾雷撃戦でも先頭に立ち、生還した。
なお、どちらの施設も毎年のように前述のブラウザゲームとのコラボイベントの会場となっており、開催期間中は非常に混雑するので訪問前にイベントの開催状況を確認することが推奨されている。