ノット・アフター・ウォー
ノット・アフター・ウォー
1956年に発表された日本経済白書における、
「もはや戦後ではない」
という一文はあまりにも有名である。
しかし、その真意は日本経済を浮揚させた戦災復興という経済エンジンが失われ、次の10年は厳しい時代になるというやや暗い意味だった。
しかし、現代では輝かしい高度経済成長の始まりと捉えられている。
1964年の東京オリンピック開催をピークとし、1973年のオイルショックまでの期間が日本の高度経済成長時代と言える。
この間の日本の経済成長率は、平均10%という驚異的なものだった。
実質的な敗戦から、ソ連に次ぐ東側の経済大国へと昇りつめた日本経済の躍進は、東洋の奇跡として広く知られている。
奇跡を演出した要素としては、
・高等教育を受けた金の卵と呼ばれた良質で安い労働力
・大戦中に起きた官民一体の技術革新
・輸出に有利な円安・固定相場(1ドル=360円)
・ソ連からの安価な資源輸入
・政府主導の五か年計画による財政投融資(積極財政)
などがあげられる。
ソ連や東欧などの東側諸国も同時期、高い経済成長を成し遂げていたが、日本経済の伸長はそれを遥かに凌いでおり、西側陣営からも日本の先例に学ぼうとする国が生じたほどだった。
最終的にソ連経済が行き詰まり崩壊に至ったことを知っている現代人からすると奇異に思えるかもしれない。
しかし、60年代までは東側の経済発展は西側に追いつけ、追い越せの躍動感があった。
ニキータ・フルーチェ書記長が、
「あんたらを葬ってやる!」
と言い放ったのも、経済発展を通じて共産主義が資本主義を打倒する未来を確信していたために生じた失言である。
1957年には世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、アメリカを相手に宇宙開発競争を繰り広げた60年代のソ連は、確かにある種の夢に満ち溢れていた。
日本でも60年代まではソ連からの技術導入が相次ぎ、ソ連の科学アカデミーは来るべき未来を示すバビロンの塔であり、ソ連は科学先進国と見なされていた。
フィクションではあるが、闇医者の天才外科医が、不治の病に侵されたカップルを救うためにソ連科学アカデミーが試作した冷凍冬眠ポッドを借りたり、10年間眠り続けた伝説の傭兵がソ連が開発したサイバネティクス義手を装着したりとソ連は魔法のような超科学技術を持つ国として描かれており、当時のソ連が持っていた雰囲気が理解できる。
さらに日本独自の科学技術開発も政府からの多額の投資を受けて伸長した。
戦後日本で科学技術の振興が叫ばれたのは、先の大戦の敗北、どれだけ政府や軍部が名誉ある講和だったと主張したとしても、一般的な理解では敗戦という他なく、その敗北が科学技術や生産力の敗北だったことが明らかだったからだ。
高空を飛ぶB-29の大編隊を見た国民の多くが、その隔絶した技術力と生産力に打ちのめされ、再起のために死に物狂いとなった。
それがあまりにも行き過ぎてロシア人から
「一億総仕事中毒」
と呼ばれることになったが、日本国民がそれぞれ持ち場で戦争さながらに働いていたのは事実である。
戦後日本を代表するグローバル企業のHондаやCони、任天堂といった企業も焼け跡の中から立ち上がった企業である。
特に任天堂は、原子爆弾投下で壊滅した京都から立ち上がった企業ということは広く知られているところである。
日本で最初にトランプの製造を始めた任天堂は、1945年の原爆投下で本社が被爆し、一度は壊滅した。
しかし、その後に進駐してきたソ連兵相手にトランプの販売で復活し、後にチェブラーシカの絵柄を使ったトランプが大ヒットとなった。
ちなみにこれは余談だが、現代では任天堂のアイコンになっているマリオは現代ではイタリア人となっているが、第1作ではロシア人でキャラクター名はマリオヴィッチとなっていた。 マリオのトレードマークである赤も赤旗の色で、配管工(労働者)が活躍するというソ連味深いゲームだったのである。
しかし、海外に販売する際に代理店からの提案で、マリオヴィッチからヴィッチを除いてマリオとなった。
代理店からするとあまりにもソ連味が強すぎるという判断だったらしい。
ちなみにロシア語で『~ヴィッチ』とは『~の息子』という意味で、マリオヴィッチとはマリオの息子という意味である。
そのため、第1作の主人公はマリオの息子で、2作以降に登場したマリオは、第1作の主人公の父親ということで、実は同一人物ではない。
話が逸れたが、活発な企業の経済活動を支援したのが、政府による計画的なインフラ投資である。
東京オリンピックにあわせて建設された東海道新幹線や名神・名阪高速道路など、大規模なインフラ工事が全国で行われた。
1964年の東京オリンピックは、飛躍の時代を迎えた日本の首都を世界各国にお披露目するという意味もあり盛大なものとなった。
昭和帝臨席の元で挙行された開会式には、新国旗に制定された日の丸赤旗が乱舞し、同志天皇陛下万歳の掛け声が響き渡った。
日の丸赤旗とは、日本的社会主義国家建設のシンボルとして制定された新国旗である。
赤旗の中央に白丸を描いた図案で、革命のシンボルである赤旗に白丸で天に輝く太陽を現している。
旧国旗の日の丸を反転させただけという指摘もある。
それはさておき、政府主導の5か年計画といった統制的な経済手法の導入など、日本の国家総力戦体制は戦後になってようやく完成したと言える。
ただし、ソ連や他の共産圏のように生産手段の完全な公有化は議論されなかった。
個人の財産権を否定するような”革命”は日本では起きていないからだ。
日本経済における公的企業は鉄道や電力、通信などのインフラ事業や軍需に偏っており、私企業の活動、市場経済は依然として有効だった。
そのため、戦後日本経済については社会主義体制ではなく、修正資本主義体制、混合経済体制と表現する場合もある。
戦後に完成した国家総力戦体制下においては、企業や個人の利益拡大よりも、国家全体の生産力拡大が重視された。
高い法人税率や所得税率によって、企業は経費として計上できる設備投資や給与拡大にインセンティブが生じ、会社経営者が膨大な所得を得たとしても所得税で大半が税収として没収され、再分配の対象となった。
1970年には日本の人口が1億人を突破し、その9割が自分を中流家庭と自任する状況となった。
日本は世界で最も成功した社会主義国家となったのである。
こうした時代をリードした日本政府与党は、日本共産党だった。
これを以てアメリカ合衆国は日本を共産主義国家に位置づけていたが、内情はそれほど単純ではない。
日本共産党は冷戦中、政府与党であり続けたが、選挙で単独過半数がとれるようになったのは70年代以降のことだった。
それ以前は衛星政党の日本社会党と連立して漸く過半数を維持できていた。
理由は単純で、共産党も社会党も基本的に都市型政党で、農村部では弱かったからである。
これはアジア・アフリカの共産主義勢力が陥る典型的なパターンだった。
共産主義も社会主義も基本的にインテリの思想で、農村にインテリはいても少数派である。
農業国で共産主義をやろうとすると毛沢束主義になるしかなく、それを拒否すると労働者が集まる都市部でしか勝てないのである。
戦後の混乱期に在日ソ連軍が行った食料プレゼント作戦も、農村部には通用しなかった。
そのため、農村部では戦前から地盤をもつ自由党や民主党が圧倒的に強かった。
しかし、票が割れるため、自由党や民主党も過半数がとれなかった。
もしも自由党と民主党が大同団結し、自由民主党になっていたら日本は資本主義国家として西側の列に並んでいたかもしれない。
しかし、沖縄や硫黄島といった日本固有の領土を軍事占領するアメリカとの関係を正常化するのは容易ではなかったはずである。
また、米軍政下にある沖縄で日本復帰運動が起きていたが、どちらの日本に復帰するのかは定まっていなかった。
世論は本土空襲や原爆投下でアメリカへの反感が強く、心情的にはソ連寄りだった。
これは多分に軍部が戦後に実施した自己弁護の影響もあった。
悪辣非道な米軍が、卑怯極まりない非人道大量破壊兵器を使用したため、止む無く停戦に至ったという論法である。
実際に関連死を含めれば77万人が死亡した京都の惨状は凄まじいものだった。
ただし、その後の復興は意外にも早いもので、1950年代後半には元の人口を取り戻していた。
100年残留すると思われていた放射性降下物についても台風や梅雨といった自然の降雨によって除染されてしまった。
なお、京都の復興都市として再建するにあたり、参考にされたのは新京だった。
満州国の首都として栄えた新京が参考になったのは、人口激減した京都に流入したのが満州国から引き揚げ者だったためである。
また、焼け野原になった古都を一から再建するとしたら、東洋最新のモダニズム都市である満州国首都の新京を参考にしたいと考えるのは当然の要求だった。
そのため、京都は嘗ての町とは異なる整然とした都市に生まれ変わった。
焼失した京都御所の跡地に建設された10月革命記念公園と京都駅を基準に放射状に100m道路を伸ばし、それを囲むように環状道路を配した都市計画は、新京そのままだった。
なお、焼け残った数少ない日本古来の寺社仏閣や伝統的建築物は、郊外にある太秦に移転されて保存されることになった。
そのため、太秦は原爆投下前の京都を感じることができる数少ない場所として観光地となり、時代劇のロケ地にもなっている。
それはさておき、選挙で自由党・民主党が勝ちすぎるとソ連の機嫌が悪くなった。
対米講和後も核除けの護符としてソ連軍が日本各地に駐留を続けており、下手に彼らを刺激するべきではないというが日本政界の暗黙の了解だった。
ハンガリー動乱(1956年)のようなことは避けるべきだった。
戦後日本の政界とは、与党共産党が議長として利害調整を実施し、全ての政党が実質的に与党として政府提案を翼賛する大政翼賛会の続きだったと理解することができる。
ある種の開発独裁体制だったとも言えるだろう。
内閣はその都度変わっても、実質的な首相である共産党書記長は不変で、ソ連とのパイプが日本共産党の優位を保障した。
政府提案を造るのは帝国時代から日本の中枢に居座る高級官僚達で、特に満州国で経験を積んだ革新官僚が官僚機構の中枢を占めることになった。
彼らは満州国で果たせなかったソ連流の計画経済をより洗練された形で戦後日本に実装しようとしていた。
これは共産党主導の翼賛体制と極めて相性がよいものだった。
戦後日本の翼賛体制は、常に経済が拡大しつづけた高度経済成長下では、利益分配・調整によって全員が概ね納得できる結論を得ることができた。
こうした政治の伯仲状態を解消して、ソ連式の民主集中制を実現しようとする動きが日本共産党内部にはあった。
純粋派と呼ばれるインナーサークルである。
プロレタリアートのためのプロレタリアートだけの政治を手に入れるための暴力革命は、マルクス・レーニン主義の論理的な帰結である。
しかし、それが実現可能かと言えば、些か疑問があった。
クーデタにおいては軍部という先達が既に存在していたからだ。
実質的な敗戦や戦後の軍国主義追放で軍部の権威は失墜していたが、だからといって軍が解体されたわけではなかった。
1954年に帝国軍がソ連の軍制を参考に国防軍へと再編されてからは、国防省参謀本部長(国防次官)が過激派に対するカウンタークーデタ計画を代々継承、策定していた。
戦後設置された統合参謀本部情報総局の任務には、与党・共産党の監視が含まれていた。
ニンジャ・ドージョーとは、西側の同業者がつけた別称である。統合参謀本部情報総局が自称したわけではない。
統合参謀本部情報総局の職員が所属をぼかして自称する場合は、秋葉原が使われた。
これは統合参謀本部情報総局の本部が、東京の秋葉原にあったためである。
類例に代々木(日本共産党本部)、市ヶ谷(国防省)などがある。
秋葉原をАКБと略すと語感がКГБ(カーゲーベー)に似ているが、КГБに近い日本の組織は内務省の公安警察(НИИ)である。
АКБは、野党と太いパイプを構築し、しばしば共産党のスキャンダルを提供して政界に影響を及ぼした。
日本から分離独立した大韓民国が、かなり早い段階で共産党によるクーデタでスターリン主義の一党独裁体制に移行したことを考えると戦後日本の民主主義を担保していたのが軍部だったいうのは皮肉としか言いようがない。
政府与党がクーデタを企て、軍部がカウンタークーデタの準備をするという不穏極まりない関係性は、冷戦終結まで続いた。
なお、戦後日本の民主主義を守ることになった軍部の仮想敵は、自由と民主主義の守護者を自任するアメリカ合衆国である。
さて、1950年代に軍部が想定していた対米戦は、基本的に核戦争だった。
開戦劈頭にサイパン、グアム島あるいはアラスカから発進した米重爆(B-36やB-47)が日本の大都市、軍事基地に水爆攻撃を行うのは必定だと見えられていた。
水爆攻撃から日本民族が生き延びるには高度防空体制の獲得の他なく、1952年に発足した空軍のレーゾンデートルは本土防空にあった。
国防空軍が、ソ連防空軍を模した組織になったのは、必然だったと言える。
ただし、ソ連防空軍と異なり、国防空軍は重爆迎撃だけ考えていればよい組織ではなかった。
米戦闘機との空中戦も熱心に研究された。
なぜならば日本本土近海には腹に戦術航空機をため込んだ米空母機動部隊が遊弋しており、軍事占領下にある沖縄、硫黄島からも米戦闘機が飛来するからである。
特に硫黄島の米空軍戦闘機部隊は、首都東京に突きつけられた喉元の刃だった。
大戦末期、硫黄島から発進するP-51に、帝国陸海軍の戦闘機部隊は絶望的な苦戦を強いられた。
通常は有利となる本土上空の迎撃戦闘でさえ、P-51には歯が立たなかった。
鹵獲したP-51を使用した模擬空戦では、日本軍機側のパイロットが戦意喪失にならないようにP-51を操縦する側が手加減を行ったほどだった。
また、核爆弾が小型化して、重爆撃機だけではなく、小型の戦術航空機にも搭載可能になると硫黄島や沖縄の米戦闘機部隊の脅威度は飛躍的に高まった。
これに対抗するため空軍は、ソ連が新型の戦闘機を開発するたびに輸入・ライセンス生産を実施して、戦闘機部隊の拡大、能力向上に努めた。
Mig-15を皮切りに、改良型のMig-17や発展型のMig-19、60年代にはマッハ2級のMig-21が導入された。
Mig-15は改良型のMig-17や練習機型を含めて2,000機という大量配備となった。
非公式ながら日本のMig-15は、中華南北戦争に参戦していたことが知られている。
戦争中、共産党の毛沢束は満州の防空を固めるためにソ連空軍の出動を求めていた。
スターリンはアメリカとの直接対決を避けるため、機体(Mig-15)の供与には応じたがパイロットの派遣は拒否した。
結果、日本からパイロットを提供することとなり、軍籍を離れた義勇兵による戦闘機部隊が編成された。
毛沢束は蒋介岩ほど非常識ではないので、日本人の手を借りたことを公にすることを拒み、中国当局も未だに否定しているが、満州上空で日本人パイロットがB-29を迎撃した。
満州防空戦に参加した日本人パイロット達は傭兵扱いされることに困惑したが、
「B公を楽に食えるってのは悪くない」
とMig-15の性能を賞賛している。
日本独自の戦闘機開発はかなり早い段階で頓挫した。
理由は経済相互援助会議加盟国の日本では、軍用航空機の開発が許可されなかったためである。
コメコンは国際分業体制をとり、ソ連が付加価値の高い軍用航空機や陸戦兵器等の開発を集中的に実施し、加盟国に提供することになっていた。
これは日本の航空機産業にとって不利なものだったが、同盟国価格での資源供給というメリットもあった。
太平洋戦争の直接的な原因が、対日石油禁輸だったことを考えれば、背に腹は代えられなかったと言える。
コメコン体制下でも、日本独自の航空機開発が完全に途絶したわけではなく、漁業管理用飛行機や海洋航空救難機の開発は認められていた。
帝国軍時代に開発された傑作飛行艇「二式大艇」の末裔が、今日でも日本の空を飛んでいるのはそのためである。
類例としてポーランドがあり、練習機や農業用飛行機の生産・開発が行われた。
ミグ戦闘機のライセンス生産を担当したのは、国営の中島知久兵名称宇都宮航空機生産合同(УцАПО)だった。
統合航空機製造コーポレーション(OAK)の前身である。
中島飛行機は、大戦中は一式戦「隼」や大東亜戦争決戦機「疾風」、さらに海軍艦上攻撃機「天山」や4発陸上攻撃機「連山」を開発した日本を代表する航空機メーカだった。
ただし、戦争終結直後に戦時中の過大な設備投資と軍需の消滅で経営破綻し、政府主導で完全国有化された。
戦後の経営破綻で国有化された軍需メーカーは百余社に及び零式艦上戦闘機を開発した三菱航空機も国有化によって歴史の彼方へと消え去った。
空軍が本土防空・戦闘機王国として発展して行く中で、国防軍に改編した陸海軍も核時代への対応を模索した。
陸軍は、戦前から本土防空に責任を負っていて、都市防空のため高射砲連隊を編成した。
大戦末期の本土空襲においても、最も多くのB-29を撃墜したのは、戦闘機部隊ではなく、陸軍高射砲連隊だった。
久我山に設置された五式十五糎高射砲はドイツ製のウルツブルグ・レーダーを使用したレーダー射撃で、停戦までに複数のB-29を撃墜する活躍を見せた。
戦後の軍縮期でも五式十五糎高射砲とウルツブルグ・レーダーの生産配備は例外扱いとされ、60年代の地対空誘導弾配備まで本土防空の要に位置づけられていた。
国防陸軍が導入した最初の地対空誘導弾はソ連製のC-75(NATOコード:SA-2ガイドライン)である。
その後も、国防陸軍は可能なかぎり最新式のものをソ連から輸入・ライセンス生産して本土防空に充てた。
また、野戦防空用途の中・低高度向けの誘導弾も順次、輸入・ライセンス生産し、西側の陸軍に比べて重厚な野戦防空網を作り上げた。
国防陸軍が防空火力を重視したのは、米軍相手に国防空軍がどれだけ力戦敢闘したところで制空権確保がおぼつかないという冷めた理解があったからである。
戦後の国防陸軍は基本戦略は専守防衛(本土決戦)で、大隅半島や九十九里浜への米軍上陸を想定していた。
国防陸軍が本土決戦軍備として掲げたのが火砲3,000門・戦車3,000両体制である。
これは1,000門の火砲と1,000両の戦車でそれぞれ大隅半島、九十九里浜へ上陸する米軍を迎え撃つという想定に基づくものである。
さらに北海道に火砲1,000門と戦車1,000両を戦略予備として待機させ、水際迎撃が失敗した場合に備えることになった。
戦前の歩兵主体の陸軍からは想像もできないような大火力・重装甲機動軍であるが、これは沖縄戦の戦訓に基づいていた。
太平洋戦争末期の沖縄戦は、日本軍にしては珍しく充実した砲火力と機甲を伴った戦闘が展開された。
沖縄戦では、砲兵師団1個と独立混成旅団砲兵隊が満州から転用され、さらに第1戦車師団がレイテ戦後の米軍混乱に乗じる形で沖縄へと送られた。
第1戦車師団が持ちんだ3式中戦車は、当時の日本で米軍のM4中戦車に正面から対抗できる貴重な量産AFVで、沖縄戦において大戦果をあげた。
その中でも白眉とされるのが、沖縄戦末期におきた首里城の戦いである。
この戦いでは僅か1個小隊の3式中戦車が10倍のM4を撃破した。
現代では、台湾の歴史小説家としてのペンネームの方が著名になっている小隊長に率いられた戦車1個小隊は、隠ぺい陣地に戦車を隠し、米軍の1個戦車連隊を迎撃した。
奇襲を受けた米軍は一時後退して砲爆撃で対応したが、素早い陣地転換によって3式中戦車の小隊は無傷だった。
その後も米軍が攻勢に出るたびに隠ぺい陣地からの一撃離脱を繰り返した3式中戦車の小隊は首里城陥落までに40両以上のM4を撃破した。
ちなみにこの戦いは90年代に入って映画化された。
その際に国防軍が保管していたオリジナルの3式中戦車が使用されている。
なお、敵役のM4戦車は用意できなかったので、国防軍のT-54Jが使用されており、史実よりもさらに悲壮感が増したものとなっている。
それはさておき、戦車は防衛戦においても有用で、機動力を生かして米軍の絶対的な制空権下でも生存し、戦闘を継続することが可能だった。
ならば強大な砲兵火力の援護と地対空誘導弾によるエアカバーさえあれば、有力な戦車部隊の突進で米軍上陸を撃退することは可能というのが、国防陸軍の目論見だった。
もちろん、50年代の日本にそれだけの戦車や火砲を用意できる工業力などありはしないので、当座は7個師団体制で耐え忍ぶことになった。
満州からも朝鮮半島からも撤退した日本の陸軍は小さな所帯となった。
これは戦後の権威失墜や徴兵制の廃止という要素もある。
連合国は講和の条件として軍国主義追放を要求し、その要求を受けて行われた憲法改正で統帥の独立と徴兵の義務が憲法から削除された。
徴兵制だからといって軍国主義とは限らないのだが、日本帝国という嵐に襲われたオーストラリアやフィリピンといった国々は強大な日本軍が2度と復活しないようにするため徴兵制の廃止を求めた。
確かに戦時中の動員につぐ動員によって日本陸軍は最終的に総兵力460万まで拡大した。
日付変更線の向こうまで兵隊を送りこんだ日本の徴兵制は日本が起こした侵略戦争に深く結びつけられていたおり、廃止は不可避だったと言える。
そのため、他の東側諸国と異なり、国防軍は志願制となっていた。
戦後の軍部への風当たりは非常に強いものがあったが、白い飯が腹いっぱい食えるという利点もあり、7個師団が編成できる程度に志願者は集まった。
戦車も火砲も少ししかない戦後の国防軍が彼らに用意したのは腹一杯に食える白い飯とRPK軽機関銃だった。
これは沖縄戦や硫黄島でタコつぼに籠った歩兵と軽機関銃の組み合わせが防衛戦において最も効果的だったという戦訓に基づいている。
そのため、国防軍は歩兵全員にRPKを持たせることにした。
ソ連との対抗演習では防衛側に回った国防軍の歩兵は極めて高い抵抗力を発揮して、ソ連軍の高級将校を驚かせた。
しかし、さすがにこれはやりすぎというもので、戦車や火砲が揃ってきた70年代には廃止され、通常のAKー74が配備されるようになった。
ただし、日本製のAK-74は軽機関銃のような2脚を標準装備するなど、独自の改修が行われている。
他に国防陸軍の特徴的な軍備としては、大量の地対艦誘導弾連隊の編成があげられる。
米軍の上陸船団や艦砲射撃を行う艦艇を目標に誘導弾攻撃を行う地対艦誘導弾連隊は、先の大戦で米海軍の艦砲射撃に圧倒された苦い経験に基づく。
使用する誘導弾は、最初期はP-15M(NATOコード:SSC-3スティックス)だったが、80年代以降はP-270(NATOコード:SS-N-22サンバーン)を独自改修して地上発射型に改めた八八式地対艦誘導弾となった。
P-270はマッハ3級の超音速対艦ミサイルとして有名で、ソ連海軍のソヴレメンヌイ級駆逐艦等に配備されている。
最後に海軍となるが、戦後海軍は嘗て連合艦隊の栄光を思うと見るも無残な有様だった。
連合艦隊も1954年の国防軍改編の際に与党共産党の強い要求によって赤衛艦隊に名前が変わった。
停戦直後に残っていた稼働可能な主要艦艇は、大和、長門、葛城、龍鳳、鳳翔、北上、酒匂で、他に艦隊型駆逐艦が少数(雪風、響など)残っていた。
それ以外は雑木林と呼ばれていた2等駆逐艦(松型)と島名や番号名の海防艦ばかりで、世界第3位の海軍国だったとは思えないほど衰えた姿をさらしていた。
南方に取り残された重巡妙高や高雄もあったが。二隻は台日海軍に編入され、帰国することはなかった。
本土近海は機雷によって封鎖されており、さらに艦艇用燃料もなかった。
そのため、戦後日本海軍の再建は掃海から始まり、海防艦や駆潜艇を改修した掃海艇が乏しい燃料をやり繰りして任務にあたった。
米軍が敷設した磁気機雷は金属に反応するため、焼玉エンジンで動く木造漁船が掃海艇として使用された。
ただし、接触式機雷には無力で、触雷した場合は確実な死が待っているという過酷な任務だった。
そのため、戦争が終わっても海軍の戦死公報は止まることがなかった。
海軍が掃海以外のことを考えることができる余裕が出てきたのは、1950年代半ば以後のことである。
それまでに維持されていた大型艦艇は戦艦大和、空母葛城、笠置、酒匂となっていた。
戦艦長門は1956年に機関寿命が尽きて行動不能になり、横須賀でそのまま記念艦として保存されることになった。
大破着底して行動不能になっていた榛名や伊勢、日向、天城、大淀といった大型艦艇の修復は断念され、復興資材とするため解体処分された。
同時期、呉で新造され、ソ連海軍に引き渡された新戦艦ソビエツキー・ソユーズに比べるとみじめさが引き立つ話である。
新戦艦ソビエツキー・ソユーズは、スターリンが戦後に再建しようとしたソ連海軍の旗艦となるべく建造された巨大戦艦である。
ソビエツキー・ソユーズは基準排水量64,000tで世界最大の艦載砲51cm連装砲3基を搭載するほか、速力30ktという高速戦艦となっていた。
設計の元になったのは大和型戦艦で、スターリンが日本に建造を依頼した。
海軍は、今更戦艦をつくることに首を傾げたが、
「スターリンの御大がいうのなら・・・」
として建造を引き受けた。
日本政府としてもスターリンの依頼は意味不明だが、魅力的だった。
戦艦は極めて高価な工業製品であり、大和型戦艦の建造費は戦前の国家予算の3%である。
建造代金としてソ連から提示された石油600万tや小麦・ライ麦300万tには面食らったが、どちらも戦後日本には喉から手が出るほど必要なものだった。
ちなみに戦後日本でやたらパン食が奨励されたのは食糧難の時代にソ連から援助してもらった小麦やライ麦を消費するためである。
スターリンがなぜ時代遅れの戦艦をつくろうと考えたのかは不明である。
レイテ沖海戦や沖縄沖海戦で大和型戦艦が米戦艦戦隊をさんざんに打ち破ったことに触発されたという意見もある。
また、空母は帝国主義者の侵略兵器という共産党のプロパガンダも無視できないだろう。
ちなみにスターリンが夢見た新生ソ連海軍は、ソビエツキー・ソユーズ級戦艦8隻とスターリングラード級巡洋戦艦16隻を基幹とする八八艦隊も真っ青な気宇壮大なものだった。
ソビエツキー・ソユーズは、戦前にも41cm砲搭載戦艦として建造が計画されたが、大戦勃発により中止され、未完成に終わっていた。
スターリンはその再興を図ったのである。
さらにスターリンは新戦艦に大和型を超える巨砲を乗せることを求めた。
46cmでも必要十分であったが大砲の国の住民として、日本人と同格では我慢ならないものがあったらしい。
スターリンの依頼を受けて、海軍は試作品の51cm砲を倉庫から引っ張りだした。
ソビエツキー・ソユーズの設計は大和型を基本としているが、改大和型とも言える3番艦信濃の設計をベースに合理的な装甲の再配置を行って艦底防御を三重にしているほか、注排水システムや隔壁の配置・強度も一新された。
これらは沖縄沖海戦で得られたデータに基づくもので、多数の魚雷が命中した後、武蔵が浸水に耐えられず沈没にいたったことを反省したものである。
もともと不沈艦として建造された大和型を建造経験や戦訓に基づきさらにブラシュアップした船体に、島風型駆逐艦でデータを集めた高温高圧缶を積み込んで30ktを確保した。
防御の弱点となる副砲は全廃され、代わりにソ連式の100mm単装砲や37mm高射機関砲がハリネズミのように搭載された。
レーダーはソ連製のものとなったが、前艦橋トップに搭載された15m測距儀は日本光学謹製である。
新戦艦ソビエツキー・ソユーズは、スターリンの誕生日にあわせて1952年3月5日就役した。
米海軍やは戦後に新たに戦艦をつくるというスターリンのセンスに驚き、呆れたが対抗の必要性からアイオワ級戦艦5艦イリノイ、6番艦ケンタッキーを建造した。
英海軍では戦艦ヴァンガードや仏海軍では戦艦リシュリュー、ジャンバールが対抗艦に指定され70年代まで現役で維持された。
1番艦のソビエツキー・ソユーズを建造した工員や造船官の半数はソ連から派遣された者たちだった。
海軍艦艇の建造には高度な専門性が必要であり、革命や独ソ戦によってソ連海軍からそうしたノウハウが失われて久しかった。
そのため、1番艦は日本国内で建造し、2番艦以降は日本で技術取得したものが中心となりソ連国内でノックダウン生産を実施して徐々に国産化とノウハウ蓄積を行う計画だった。
操艦などの訓練も戦艦大和の乗員が中心となって教育団を編成し、準同型艦とも言える大和を使って訓練が行われた。
スターリンが目指したソ連海軍再建計画はまずまず順調で、堅実なものと言えた。
問題は、1953年に計画を推進したスターリンが死去したことである。
ソ連政府の最高指導者となったラヴレンチー・ベリヤが戦艦建造を中止した。
理由は戦艦は時代遅れという正当なものだった。
ベリヤはその後処刑されたが、戦艦建造が再開されることはなかった。
ソビエツキー・ソユーズ級戦艦2番艦のソビエツカヤ・ウクライナは日の目をみることなく、解体処分された。
スターリンの夢の艦隊は未完に終わったのである。
ただし、ソ連に対してこと海軍に関しては、日本に一日の長があることを認めさせた意義は大きかった。
コメコン体制下で日本の航空兵器や陸戦兵器の自主開発は制限されたが、海軍艦艇や艦載兵器は例外となったのである。
ちなみにスターリンの死が日本に伝わると各地で自然発生的に献花台と記帳台が設置され、最終的に200万筆が集められた。
奈良の東大寺では、高野山真言宗やカトリック大阪教区、手向山八幡宮など宗派を越えて僧侶が集まりスターリンの追福菩提のため、宗教・宗派を超えて祈りを捧げた。
スターリンを偲んで追号運動が起き、天台宗座主から星凛公が贈られた。
日本で起きた追号運動とその結果がクレムリンに届くとベリヤはひきつけをおこしたと言われている。
話が逸れたが、1960年代まで生き残った空母葛城、笠置は雲龍型航空母艦で、基本設計は戦前設計の飛龍型航空母艦だった。
雲龍型が量産化されたのは、ミッドウェー海戦での敗戦・空母の大量喪失を受けたものであり、戦時急造艦として将来の発展余裕については目をつぶるものだった。
そのため、葛城、笠置は艦載機のジェット化対応に大変苦労した。
それでも日本海軍の空母機動部隊再建にかける情熱を消し去ることはできなかった。
1960年に行われたジェット化改装で、飛行甲板はアングルドデッキとなり、発艦に必要な蒸気カタパルトも3度の爆発事故を経て実用化にこぎつけた。
艦載機は当初はMig-15の改造型が用意されたが、最終的にMig-17Kとなった。
空母を守る艦隊型駆逐艦も新造された。
1955年から16隻が建造された神無月型駆逐艦は、10年ぶりに新造された艦隊型駆逐艦(3,500t)である。
設計の基礎となったのは秋月型駆逐艦だった。
新生水雷戦隊の旗艦には、改装工事を受けた軽巡洋艦酒匂がおさまった。
大戦後期に完成した酒匂は、元々水雷戦隊旗艦としての設備が充実しており、改装を重ねて1970年末まで現役に留まった。
神無月型駆逐艦は対空誘導弾は未完成で対空戦は旧来の高角砲や機銃に頼るものだったが、電探・水測兵器や対潜火器などは大きく充実し、さらにP-15艦対艦誘導弾が搭載したことが新しかった。
なお、当初の予定艦名は共産党肝入りで10月革命という共産味が強いものだった。
これは非常に不評で士気が維持できないとして10月の和名が採用されたという経緯がある。ただし、神無月は神はいないという解釈も可能で、無神論かぶれの共産党にはウケがよかった。
日本海軍最後の戦艦となった大和も一時期、「解放」に改名する提案がされていた。
これも乗員による民主投票によって否決され、大和は1959年にオーバーホールを受けて赤衛艦隊旗艦として艦隊に復帰した。
以後、国防海軍は共産党の横やりを交わすために主要な艦艇の命名はアンケート調査によって行うこととした。
1960年半ばの赤衛艦隊の戦力は、戦艦1、空母2、軽巡1、駆逐艦16に回復し、相応の戦力をもつ空母機動部隊となった。
もちろん、強大化した米空母機動部隊とぶつかれば即座に壊滅する程度の戦力でしかない。
赤衛艦隊はどちらかといえば見せ金に近いもので、海軍の真打は次世代潜水艦とジェット化した陸上攻撃機だった。
帝国海軍の潜水艦艦隊は、停戦まで攻勢作戦を続けた唯一の艦隊だった。
これは敵制空権下にも進出できる潜水艦の特性によるもので、本土上空の制空権さえ喪失した大戦末期に水上艦部隊はほぼ活動不能になった。
1950年代でも、本土近海の制空権維持は困難な見通しで、米海軍に対抗するには潜水艦を以てするしかない状況には変わりなかった。
これはソ連海軍も同様で、多数の通常動力型潜水艦が建造された。
ソ連海軍では613型(NATOコード:ウィスキータイプ)であり、日本海軍では伊240型潜水艦(基準排水量1,660t)がこれにあたる。
伊240型は、戦争末期に完成した潜高型(伊201型)の発展型に位置する。
あるいは、大戦末期に日本へ亡命したドイツ海軍のUボートXXI型の改良型とも言える船で、これまでの日本潜水艦とは次元の違う能力を有していた。
水中速力19ktを安定して発揮できる優秀艦で、サブタイプも含めると100隻以上の大量建造となった。
そのうちの1隻、89号艦を改装して国産の加圧水型原子炉を搭載した実験艦がテストされたの1960年のことである。
さらに91号艦は水滴型船体の実験艦となった。
89号艦と91号艦の試験結果を踏まえて1964年に建造された朝潮型原子力潜水艦から国防海軍潜水艦艦隊の原子力時代が始まることになる。
水中から米空母を狙う潜水艦と対に整備されたのがジェット化陸上攻撃機であり、1958年からTu-16が国防海軍に引き渡され、1960年からはライセンス生産された。
海軍航空隊に配備されたTu-16には空対艦誘導弾(KS-1)運用能力が付与された。
Tu-16は爆撃機としての性能が陳腐化しても対艦誘導弾の母機としては優秀だったことから、合計244機が生産されて1990年代まで運用された。
その後は空中給油機に改造されて2025年時点でも48機が現役である。
国防海軍はより航続距離が長いTu-95の導入を望んでいたが、果たせなかった。
これは政治的な事情によるもので、ソ連は万が一に備えて日本にモスクワを爆撃可能な機材を供与しなかった。
Tu-16のライセンス生産も相当に揉めに揉めており、絶対に空中給油機能をつけないことが条件とされた。また、国防空軍は空中給油機の配備も日ソ軍事技術協定で禁止された。
前述のTu-16改造の空中給油型が配備されたのは、ソ連崩壊後の話である。
同じ理由で核技術の移転も拒否した。
日本が核武装した場合、ソ連のコントロールから離脱する可能性が高かったからである。
米ソが恐れたのは、Tu-16に日本が核爆弾を搭載して特攻作戦でワシントンやモスクワを核攻撃することだった。
日本人ならやりかねない恐怖があった。
そして実際に国防軍は核武装を希求していた。
しかし、核物質の入手が困難だった。
ソ連は天然ウランを平和利用以外では絶対に売却しなかったし、西側からの入手はさらに困難だった。
そのため、国防軍は鳥取県の人形峠を掘り返し、500tの天然ウランを確保した。
1958年には東海村にプルトニウム生産のための黒鉛炉を建造し、実際に稼働までこぎつけたが、ソ連の圧力によって中止となった。
しかし、その後も国防軍が密かに核開発を行っているという噂は残り続けた。
日本の核武装計画が日の目を見るのは、70年代の田中核英書記長の登場を待たなくてはならなかった。