チャイニーズ・ワンピース
チャイニーズ・ワンピース
冷戦とは、二つの超大国(米ソ)を軸にしたイデオロギー対決の時代である。
米ソは相手に対する優位を確保するため、思想的同志国を募りヨーロッパを二つに分断することになった。
その結果が北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTO)である。
米ソ冷戦対立は欧州だけではなく、国家をも分断することになった。
ヨーロッパにおいては、ドイツやチェコスロバキアがそれにあたる。
分断は概ね第二次世界大戦中の米ソの占領地域に沿って発生した。
アメリカ軍が占領した西ドイツやチェコ、ソ連軍が占領した東ドイツ、スロバキアがそれぞれ分離独立した。
チェコ・スロバキアについては米ソによる分断国家としては珍しく、国民投票で分離独立が正式に決定したが、これは例外というべきだろう。
戦後のドイツのあゆみとは、ドイツ統一へ向けた長い長い試行錯誤と言える。
分断を強いられたドイツとは異なり、自ら別れた国もある。
大日本帝国は戦争終結のあり方をめぐって自ら二つに分裂した。
その理由については、日本の古都に投下された原子爆弾を用いて説明されることが多い。
圧倒的な破壊兵器を前にして、日本帝国は緊急回避としてソ連軍の進駐を受け入れた。
それに反発した日本の独立と伝統を重んじる側が、一人歩きを始めたのが二つの日本の始まりとされる。
平安時代から1,000年続く日本文化の源を核の炎で焼いたことが、日本人の精神を分裂させたと説明すれば分かりやすいだろうか。
原子核分裂反応とは、不安定なウラン235に高速の中性子をぶつけることで、原子核を分裂させる技術で、分裂によって欠損した質量がエネルギーとして放出される。
このエネルギーを熱線や爆風、衝撃波として利用するのが原子爆弾であり、日本が分裂する際にも同様の現象が発生した。
特に東アジアは大荒れになった。
日本の支那派遣軍は制空権喪失に苦しみながらも大陸打通作戦を成功させるなど、戦術的には蒋介岩の国民党軍に対して優位にあった。
本土との海上連絡線は途絶していたが、支那派遣軍は中国沿岸部の主要な工業地帯を確保して自給自足体制を整えており、まだまだやる気十分だった。
総兵力は100万に達し、日本陸軍最大の兵団は未だ健在だったのである。
分裂した日本の独立と伝統を重んじる側が当初、上海で救国軍事委員会(仮政府)を開いたのも支那派遣軍の戦力をあてにしていたためである。
救国軍事委員会の委員長に就任した岡村寧二陸軍大将の初期構想は、アメリカと停戦した上で、外地に散らばった帝国残存戦力を糾合し、売国政権を打倒するものだった。
ただし、これはすぐに不可能なことが判明した。
地続きの関東軍や朝鮮軍は満州からの撤収、さらに朝鮮の独立準備に向かって邦人保護や帰国事業で精一杯の状況だった。
満州・朝鮮からの邦人引き上げ者は160万人にも上る。
関東軍や朝鮮軍は事前に本国から進駐受け入れを含む入念な根回しを受けており、本国の指揮統制から離脱しなかった。
設置以来、勝手気ままに振る舞いで日本の軍事・外交戦略を振り回してきた関東軍が最後の瞬間に政府の統制を受け入れたことは、皮肉としか言いようがない。
また、本土へ逆上陸する方法がなかった。
日本海軍は既に壊滅しており、大量の機雷投下によって沿岸航行さえ危うかった。
世界第4位を誇った日の丸商船隊は戦時中の通商破壊戦によって壊滅し、船を動かす燃料もなかった。
そのため、フィリピンの第14方面軍や仏印の第38軍、蘭印の南方方面軍などが救国軍事委員会への参加を表明しても、何もできなかった。
同じ理由で日本政府も外地軍の統制を回復させることができなかった。
ソ連に援助してもらった燃料と僅かな残存船舶では、満州・朝鮮からの引き上げだけで精一杯だった。
燃料どころか食料も足りず、国内では餓死者がでるかどうかの瀬戸際で、満州・朝鮮からの撤収の際に根こそぎ徴発(強盗)するという世紀末的な状況だった。
地方都市までB-29の爆撃で焦土となっており、大都市では戦争被災者がバラックで辛うじて風雨を凌ぐ現状で、引き揚げ者には住む家さえなかった。
ましてや反乱を起こして祖国を裏切ったものを助ける義理もなかった。
1945年時点で、国外にいた日本人は660万で、引き上げに成功したのは260万人だった。
残りの400万人、うち300万人が中国(満州を除く)、他100万人が南方に取り残され、帰還困難者となった。
1945年の日本の総人口が7,200万人であるから、大戦中の戦没者310万人を含めると総人口のおよそ1割が失われた計算となる。
国家体制が全面的に崩壊しなかったのはある種の奇跡で、このことは様々な社会学的な研究の対象となっている。
救国軍事委員会も短期に日本解放が不可能であることを理解し、1947年に台北で政権を固めた。
1949年には台湾全土で反日暴動の発生し、戒厳令が布告され、1987年まで続く台湾の軍事独裁政権(戒厳令政治)が始まることになった。
以後、ポリティカルタームとして台北政権、台日政府が政治の世界に現れることになる。
台日政府は内地を統治する政府を売国政権と呼んでいたが、ポリティカルタームとしては東京政権、東日政府が使用されている。
台日は蒋介岩と交渉を持ち、傭兵契約を結び、祖国帰還の暁には台湾を中国へ還付すること条件に、当面の間、台湾の統治権を確保した。
所謂、台日特権である。
これは蒋介岩と当時の救国軍事委員会委員長であった岡村寧二大将が個人的に交わした覚書だった。
蒋介岩が交渉に応じたのは、共通の敵(中国共産党)がいたからである。
日米停戦後、国共合作は崩壊に向かっており、各地で武力衝突が頻発していた。
本国から離反した100万の支那派遣軍を手駒に加えたいと考えるのは蒋介岩にとって当然の要求だった。
所謂、用日政策である。
支那派遣軍は白軍として再編成され、1947年3月には共産党の本拠地であった延安を攻略するなど、国民党の優位を決定的なものとした。
白軍の軍備は当初、日本式だったが、途中から米式装備が供給された。
多くの日本兵は供与されたアメリカ製兵器の性能や潤沢な補給に驚いた。
三八式歩兵銃の代わりにM1ガーランドが供給され、九七式中戦車はいつのまにかM4中戦車に置き換えられていった。
航空戦力もスペアパーツの不足で飛べなくなった一式戦や四式戦の代わりに、P-51マスタングが爆装して航空支援を実施した。
日本兵よりも驚いたのはハ路軍のゲリラで、日本軍がアメリカ製の武器で強化され手に負えなくなり、完全に圧倒されることになった。
同じ米式装備でも、やる気のない国民党軍と白軍は次元の違う存在だった。
壊滅的な打撃を受けた共産党は、ソ連が駐留する満州へ逃亡した。
1948年10月1日には、天津停戦協定が結ばれて、中国も二つに分裂したのである。
蒋介石の用日政策をアメリカ政府も追認した。
ソ連との対決姿勢を打ち出したトーマシュ・デューイ大統領だったが、国共内戦への直接介入は基本的に回避する姿勢だった。
国内世論は、中国の内戦でアメリカの若者が死傷する理由がないと考えていたからである。
それどころか、欧州からも早期に撤退すべきと考えていた。
ナチスも滅びて、卑怯なジャップも再起不能にしてやったのだから、さったとおうちに帰りたいと思うのが一般的なアメリカ人の思考だった。
帝国軍残党に武器を与えて、自国の若者の代わりに死なせるという用日政策はデューイ大統領にとっては渡りに船だったと言える。
台日にとってもアメリカとの関係改善は必須といえた。
海軍力に欠く台日軍が海を押し渡り、売国政権を倒すにはアメリカ海軍の力を借りることが不可欠だと認識された。
また、外地に散らばった残存戦力を糾合するためにもアメリカ海軍の助力が必要だった。
フィリピンやニューギニア、ラバウルといった南方から台湾への引き上げが加速したのもデューイ大統領の用日政策を受けたものだった。
これは離散家族問題という別の問題を生み出したが、台日が急速に国家としての体裁を整えることができたのはアメリカの援助があればこそだった。
ラバウルから生還した事業家の木水しげるは、
「日本に帰れると聞いていたのに、台湾に置き去りにされて自暴自棄になっていた」
と自著の「隻腕繁盛記」の中で当時を振り返っている。
なお、木水氏はヤケクソで始めた台湾バナナのたたき売りで財をなし、戦後の台湾経済で重きをなした。
彼が作り上げたGGグループの商品は日本全国のスーパーの青果コーナーでバナナやマンゴーとして容易に手をとることできる
ГГГの商標が目印である。
それはさておき、台湾では押し寄せる復員兵を収容する施設もなく深刻な住宅問題が発生したが、アメリカの援助で食料は事欠かなかったし、財政支援は膨大なものだった。
台日政権が熱望していた海軍整備もアメリカの援助があり、シンガポールで抑留されていた重巡高雄と妙高が返還された。
高雄と妙高は1960年代まで交代で台日艦隊の旗艦を務めた。
特に高雄は見栄えがすることから台日海軍の象徴となり、退役後は記念艦として高雄市で保存されている。
食料・財政支援の対価として、台日政権は滅共政策を採用し、アメリカの代理人として冷戦中にアジア各地で非公式・公式問わず軍事活動を行った。
ホワイトハウスは非公式に台日政権をアンチ・コミュニズム・ヤクーザと呼んでいた。
それだけで当時の台日政権がどのようなものだったか想像ができるだろう。
台日とアメリカとの関係深化は、東日とソ連の関係深化という反応を引き出し、二つの日本が米ソ冷戦対決に組み込まれていった。
冷戦中、ソ連の同盟国とされた東京政権であるが、実情はもう少し複雑だった。
東日にとって、ソ連の日本駐留は日米停戦のための一時的な措置で、最終的には撤退させる予定だった。
1940年代後半の東京政権の外交担当者の最重要課題とは、いかにして内地に駐留するソ連軍を穏便にお帰りいただくかに尽きていた。
こればかりはぶぶ漬けを出すだけで済む話ではない。
日本に駐留するソ連軍約10万は停戦監視のため存在するという建付けで、講和が成立しなければ撤退させることができない。
1945年7月15日に結ばれたのは停戦協定であって、講和条件を話し合うために戦闘を停止しているだけで、法的には戦争状態だった。
ただし、駐留するソ連軍は陸海軍が壊滅した日本にとって国防の一助にもなっていた。
合衆国は、停戦後にも原爆実験を繰り返しており、1946年にはビキニ環礁で大規模な原爆実験(クロスロード作戦)を行っていた。
原爆事件には日本とソ連を恫喝する意図があった。
停戦が崩壊した場合、即座に原子爆弾が頭上で炸裂することは明白であり、それを防ぐために東京政権は大都市周辺にソ連軍の駐留を認めた。
東京の横田に在日ソ連軍総司令部があったのはそのためである。
講和交渉の争点となったのは、政治の自由・民主化と軍国主義の追放だった。
これは戦争の大義を民主主義と自由の勝利においていた合衆国にとって譲れない一線だった。
ある意味、領土割譲や賠償金の支払いよりも面倒な要求だったと言える。
交渉を担った幣原喜重労内閣は、連合国の内政干渉に反発しつつも、壊滅的な現状をもたらした軍部の増長、無分別な軍国主義については反省が必要だと考えていた。
そのため、大正デモクラシーの生き残りを集め、憲法改正などの諸改革を推進した。
婦人参政権や労働組合結成の自由、特別高等警察の解体、憲兵隊の縮小、農地改革といった戦後改革は講和交渉の過程で生じたものである。
軍国主義者の追放は東京裁判という形で実施された。
当初、連合国は平和や人道に対する罪や捕虜への虐待・民間人虐殺といった罪状で13,000名の逮捕者リストを提示し、日本側に戦争犯罪者の引き渡しを迫った。
さすがにこれでは講和交渉とは言えないので、ソ連のモロトフ外相が介入して止めさせたが、連合国の態度は強硬だった。
幣原首相は、13,000人の戦犯引き渡しは論外としたが、0回答は講和交渉を破綻させかねないため苦悩した。
また、国内世論も戦犯問題には敏感だった。
戦時中は聖戦遂行のために献身的にふるまった国民は、戦争が終わると壊滅的な惨状に不満を爆発させて、軍人たちを責め立てた。
戦略爆撃で大都市は灰燼となり、多くの家庭では伴侶や子息、あるいは父母を戦災で失っていたのだから、その怒りは正当なものだった。
もちろん、軍部にも言い分はあった。
ナチス・ドイツの快進撃にのぼせ上り、新しい植民地獲得という野心から対英米開戦を熱望したのは国民であり、軍部は国民の大多数の支持を受けて開戦に至った。
少なくとも、1941年12月の段階で、戦争に反対する声が世論の大半を占めたことは全くなかった。
むしろ逆に、戦争回避を模索する政府を軟弱と攻撃する声が圧倒的多数だった。
しかし、やはり起きてしまった戦争の結果については責任者が責任を負うしかない。
責任を負わないのなら、責任者など不要だからだ。
政府中枢は、国民から不要(革命)とされることを極度に恐れていた。
責任追及の先鋒は、急速に勢力を拡大した共産党勢力で、東京政権の恐怖感は実体を伴ったものだった。
責任の追及が昭和帝に及ぶ前に決着をつける必要があり、開戦内閣を率いた東丞英機他28名を被告人として軍事法廷が開かれた。
所謂、東京裁判である。
東京裁判は連合国の要求で行われたものであるが、あくまで自主裁判であり、弁護人や検事、裁判官も含めて全てが日本人の手で行われた点が、ニュルンベルク裁判とは異なる。
近衛史麿のように逮捕前に服毒自殺したり、既に自決していた杉山陸軍参謀総長や阿楠陸相の責任は追及されなかった。
また、昔原莞爾のように連合国の戦犯リストに名前がなくても訴追対象になる者もいた。
出廷した昔原は日米開戦はペリー来航が原因と主張したが、満州事変を共謀した板垣征五郎共々、死刑判決が下った。
昭和帝の身代わりとなるため自決を思いとどまった東丞は、犬猿の仲だった昔原の死刑判決を聞くと
「15年前にこうしておけばよかった」
という後悔を述べている。
ただし、どこか表情は晴れ晴れとしていたとされる。
最終的に東京裁判では東丞を含めて8名が死刑となり、護国の鬼として祭られた。
ちなみに東丞元首相達を祭った靖国神社など、日本の神道は戦前の軍国主義に深く結びつき、侵略戦争を肯定する役割を果たしたことから連合国から宗教改革が求められた。
改革の結果、神道は国家主導で社会主義思想を涵養する役割を果たすこととなり、国家社会主義神道政策が推進されることになった。
憲法改正で統帥権の独立や徴兵の義務が削除され、連合国の求める軍国主義の追放は一応、達成されたと見なされた。
次の問題は政治の民主化だった。
前述のとおり、日本は講和のため憲法改正を実施し、大帝国憲法を日本国憲法に改めた。
帝国憲法は全76条から構成されていたが、そのうち46条を修正するという大幅な改正だった。
首相権限の強化や責任内閣制導入、枢密院と貴族院の廃止など、明治憲法の欠陥とされていた部分も補強された。
これらは大正デモクラシーの時点で既に問題視されていたが、明治憲法が不磨の大典となってしまったため、手つかずとなっていた部分だった。
ただし、憲法第1条の
「第1条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
という日本の国体そのものを表す条文は全く修正されなかった。
日本の国体(天皇)は、
「第3条:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
であるため改正するという発想すらなかった。
連合国はこの条文を問題視し、民主化の障害となるとして修正・廃止を求めたため、講和交渉は暗礁に乗り上げた。
しかし、幣原首相を始めとする政府関係者の全てが絶対拒否の姿勢を貫いた。
天皇が統治権を総攬する国体(天皇主権)を維持することは、日本政府のレッドラインだった。
それを修正するぐらいなら、原爆戦争の方がマシだとさえ考えていた。
しかし、このままでは講和が成立しないため、何らかの妥協が必要だった。
また、国内の共産主義勢力の著しい拡大も脅威となった。
日本共産党は、独自に憲法試案を発表し、国民主権、皇室廃止を打ち出しており、東京政権の危機感を煽った。
共産主義勢力の急速な拡張には、駐留ソ連軍の影があった。
1946年の日本は、物流の崩壊により都市部では配給だけで生存に必要なカロリーがまかなえず、闇の米を食べることを拒否した法曹家が餓死するほどの惨状が広がっていた。
共産党員になれば、駐留ソ連軍から食料の配給が受けられるとなれば、生き延びるために赤旗も止む無しだった。
特別高等警察の刑事でさえ、家族を食べさせていくために共産党に入党したほどである。
援助を受けられる窓口は共産党しかなく、食料不足の都市部においては党勢拡大に絶大な効果を発揮した。
1947年にはアメリカのマーシャルプランに対抗して、ソ連はモロトフ・プランを発表して日本へ復興支援を実施した。
復興支援を受けるには、共産党員になることが条件だった。
生きるためには、赤旗を振るしかなかった。
共産党の党勢拡大には、こうした経済面の影響だけではなく、鬼畜英米の爆撃から日本を守ってくれたスターリンへの素朴な感謝の念もあった。
日本人の圧倒的多数が思い浮かべる戦争体験といえば、ほとんどはB-29の空襲だった。
ソ連の進駐で空襲が止まったことを考えれば、スターリンへ感謝に念が募るのは自然な反応だったと言える。
アメリカが京都へ核攻撃を行ったこともスターリン人気を間接的に押し上げたと考えられている。
非人道的な大量殺戮を行った鬼畜英米から、身を挺して日本を守る勇敢で慈悲深い同志スターリンという構図である。
平和の使者=スターリンというイメージは駐留ソ連軍のプロパガンダによってさらに加速された。
結果、日本におけるスターリン人気は絶大なものとなり、上野公園の西郷像のとなりにはスターリンの銅像が立つほどになった。
作家の三島由紀男も、昭和帝の御真影に並べてスターリンの写真を祭ったほどである。
1950年代にはスターリン人気をあやかって宗教観光用にスターリン神社や巨大なスターリン大仏が造られたりもした。
スターリンが自らを模した大仏をどのように評したかは記録が残っていない。
それはさておき、政府や軍部は駐留ソ連軍から日本共産党への援助は詳細に把握しており、いずれ武装蜂起もありえると危機感を募らせていた。
講和交渉も民主化をめぐって進展がなく、左派勢力の暴力革命が迫ったため、昭和帝は自ら神格の否定と主権者の座から下りることを決断した。
所謂、天皇の共産党宣言である。
年始の挨拶として発表された談話で、昭和帝は自ら現人神の概念を架空のものと否定し、自らが共産主義に転向することを発表した。
共産党書記長の徳田久市は、モーニング姿で宮中に参内し、昭和帝に党員証を献上し
「同志天皇陛下万歳!」
と万歳三唱した。
なお、党員番号は皇室の弥栄と日本の復興を祈念して、
「114514(良い世 来い世)」
とされた。
自ら共産党員になることで神性君主であることを否定した天皇の共産党宣言は、日本国内のみならず、世界的なセンセーションを巻き起こした。
欧米にあってはローマ法王が共産党員になるようなものと言えばわかりやすいだろうか。
各国の専門家は原子爆弾の放射線が日本人の脳に何らかの影響を与えたのではないかと分析した。
天皇の共産党宣言を聞かされたスターリンは、
「わけがわからないよ」
と言い残してソチの別荘に引きこもった。
かねてからスターリンは天皇を残したままの共産主義革命について徳田から説明を受けて意味不明さに頭を悩ませていた。
ましてや
「同志スターリン、お喜びください。今や天皇陛下は貴方の同志となりました。革命は成功です!」
と報告書をおくられても困るのだった。
スターリンは日本人に真の革命とは何か理解させようとしたが、天皇の共産党宣言後に日本各地で共産党への入党希望者が殺到していることを知り、考えることを止めた。
作家の三島由紀男は天皇の共産党宣言について、
「2・26事件の続きであり、昭和維新の完成形である」
と自著の中で指摘している。
確かに下からの請願を受けた君主が、絶大な権威を背景に上から国家改造を断行するのはまことに日本的である。
明治帝の下で文明開化(近代化・欧米化)の諸改革を断行した明治日本の相似形と言えるだろう。
同志天皇陛下と心ひとつにして日本人は戦後復興に取り組むことになった。なぜならば、今は天皇陛下は同志であるからだ。
1948年の日本の流行語は同志××で、あらゆるものに同志をつけることが流行った。
新憲法下で行われた1948年の衆議院選挙では、日本共産党が第1党となり、徳田書記長に組閣の大命降下となった。
共産主義者が、神聖不可侵の君主から内閣組閣を命じられることについて、特に誰も疑問を差しはさむことはなかった。
そんなことは当たり前のことであり、日本人なら疑問に思う余地もなかった。同志天皇陛下万歳。
同年のアメリカ大統領選挙は講和交渉の追い風となった。
共和党のデューイ大統領が敗北を喫し、ハリー・S・トゥルーマンが勝利して民主党が4年ぶりに政権を奪還したのである。
大手の新聞社が誤報を飛ばすほど現職の勝利で固いとみられた1948年の米大統領選挙はまさかの民主党の勝利に終わった。
トゥルーマン大統領は、対日講和の停滞の原因は過度な内政干渉であると考えていた。
事実、連合国が圧力を加えるたびに、日本を東側に追いやり、民主選挙で共産党が第1党になる立憲君主国家という意味不明なキメラが誕生する結果に終わっていた。
知日派の外交官からするとサモナーでもいるのかと問いかけたくなる惨状だった。
あるいは古代日本の呪いかもしれなかった。
何しろ原子爆弾で焼いたのは1000年の古都京都である。田舎には一つしかない禁忌の祠も、京都にならごまんとある。
しかし、オーストラリア、中華民国といった日本帝国の侵略にさらされた国は、日本へ厳しい視線を向けていた。
少なくとも日本が2度と侵略戦争をできない国にならなければ、安心できないというのが彼らの言い分だった。
そのために軍備の除去、非武装化しかない。
しかし、その後の日本の国家安全保障をどのように提供するのか具体的な方法が全くなかった。非武装の日本を放置したら、今度こそソ連が日本を革命するだろう。
中華民国とオーストラリアのデタラメな主張で講和交渉が停滞する中、再び中華世界が戦火に包まれることになった。
第3次国共内戦である。
中華南北戦争という表記もあり、西側ではこちらの方が一般的である。
直接的な原因は1950年4月12日に起きた北京での爆弾テロ事件だった。
テロ事件を中国共産党の第5列による犯行と断定した蔣介岩は、天津停戦協定が破られたとして満州へと侵攻した。
1950年6月1日のことだった。
中華民国(西側)による侵略に日本の世論は騒然となった。
蔣介岩の支援者が合衆国ということは周知の事実であり、国民党軍の北上は合衆国の指示を受けたものと考えられた。
軍備の制限、縮小を受け入れたら、アメリカの手先(台日政権)が侵略してくることはもはや一目瞭然となった。
しかし、満州侵攻はトゥルーマン大統領にとっても寝耳に水だった。
そもそも第2次国共内戦でさえ、アメリカは反対の立場をとっていた。
アメリカの反対を押し切って内戦に勝つための用日(白軍)政策だったと言える。
ただし、満州へ侵攻した国民党軍に白軍の姿はなかった。
天津停戦協定では、内戦が世界大戦に拡大することを防ぐため、外国軍の撤退が定められており、中華民国から米海兵隊が撤退すると共に白軍も解散となった。
満州からもソ連軍が撤退することとなり、蔣介岩には中華統一を阻む最後の障害が除去されたと見えていた。
中華統一という歴代中華皇帝の偉業に並ぶことを夢見た蔣介岩は、最後の仕上げを自分の手で成し遂げたかったのである。
蔣介岩が親しい身内だけに明かしていた統一後のプランでは、日本人に預けている台湾を皇太子ごと飲み込み、中国の”指導”のもとで日本を再統一させ、アジアの新秩序を作り上げることになった。
誇大妄想も甚だしく、蔣介岩の本質はヒトラーと同じファシストだったと言わざるえない。
問題は、蔣介岩の軍隊はヒトラーの軍隊ほど精強ではなく、ヒトラーもまた最後に負けて死んだということだろう。
まさしく、彼はヒトラーのしっぽだったのだ。
満州に侵攻した国民党軍は無人の荒野をいくような進撃を見せたが、満州の主要都市である奉天を占領したところで、息切れとなった。
国民党軍の停止を確認した人民解放軍は反撃に転じた。
反撃の先鋒を務めたのはモスクワの守護神T-34だった。これは満州から撤退したソ連軍の置き土産だった。
それを操る人民解放軍の戦車兵は、元は満州国軍の戦車兵達である。
日本帝国は満州から撤退する際に全てを持ち去り、そのあとからやってきたソ連軍が満州を更地へと変えたが、それでも残ったものがあった。
近代教育を受けた人材である。
満州国に仕えた漢人官僚や近代的な軍事訓練を受けた満州国軍の兵士は、ゲリラに毛が生えた程度だった中国共産党にとっては値千金の価値があった。
延安から撤退した中国共産党が短期間で再建、強大化させたのは満州国の遺産だった。
再建された人民解放軍は、軍閥寄り合い所帯の国民党軍は比較にならないほど統率がとれた軍隊となり、彼らが罠にかかるのを辛抱強く待っていた。
奉天占領はトラップのワイヤーで、国民党軍の後方で一斉に解放軍が蜂起した。
さらに前面からはT-34の大群が迫り、国民党軍は進退極まった。
撤退しようとした部隊は、撤退路のそこかしこで待ち伏せる解放軍の磔刑場を通過することになり、大損害を被った。
万里の長城を超えて満州に雪崩れ込んだ時、150万の大軍だった国民党軍は、僅か半年で3分の1まですり減らされ、這う這うの体で逃げ出した。
首都北京に解放軍が迫ると蔣介岩は紫禁城の財宝を列車に詰め込んで南京に逃亡、部下も政府も見捨てて我先に逃げた。
蔣介岩の醜態には、トゥルーマンも唖然とする他なかった。
さらに南京に逃げた蔣介岩は、厚顔無恥にもアメリカ政府に救援を求めた。
トゥルーマンとしては、どの口がいうのかと罵詈雑言をぶつけたいところだったが、中国を失うわけにはいかない。
ただちに空母機動部隊が派遣され、黄海に展開して地上支援を行うことになった。
しかし、空爆だけでは解放軍の南進を止めることはできなかった。
地上戦力で派遣できたのは、海兵3個師団が限度だった。
米議会は蔣介岩が勝手に始めた内戦にアメリカの若者を送ることに同意しなかった。
空母と海兵隊が送れたのは、邦人保護、退避のための時間稼ぎというエクスキューズが効いていたからだった。
しかも、送れる空母と海兵隊には限りがあった。
主力は日本近海にあって対日戦シフトを維持していたからである。
1950年時点で、日本海軍の主要艦艇で稼働状態にあったのは、戦艦大和、長門と空母葛城、さらに戦後に完成した空母笠置だった。
ただし、長門は老朽化と戦時の酷使で機関寿命が尽きかけていた。
大和はそれよりマシだったが、重油をがぶ飲みする大和型戦艦を動かすための燃料がなかった。
空母も訓練用燃料に欠き、艦載機は大戦末期に完成したレシプロ機しかなく、しかも定数を満たしている船は1隻もなかった。
そんな状況であったが、米海軍にこれを無視するという選択肢はなかった。
日本側の苦しい内情は見透かされていたが、死にかけていようと戦艦は戦艦であり、空船であっても空母は空母だった。
横須賀の死にかけた海の女王と欠食で動けない呉のリヴァイアサンを封じるために、米戦艦戦隊の全部(アイオワ、ウィンシスコン、イリノイ、ケンタッキー、ノースカロライナ、ワシントン、インディアナ、マサチューセッツ)が拘束されていた。
レイテや沖縄の悪夢を思いだすと、これぐらいしなければ安心できなかった。
合衆国海軍では、かなり真剣に大和対抗艦として1隻だけでもモンタナ級戦艦を建造するべきではないかという議論をしているぐらいだった。
さらに潜水艦の脅威もあった。
より具体的には核兵器を搭載した潜水艦による神風攻撃の恐怖である。
当時のアメリカのパルプフィクションには、ソ連から原子爆弾を供与された日本軍が巨大潜水艦(おそらく伊400型と思われる)に数十発の原子爆弾を詰め込み、東海岸で自爆することで放射能嵐を起こして合衆国壊滅を企てるという筋書の作品があったほどである。
アトミック・ハリケーンは論外だとしても、潜水艦に原子爆弾を搭載して片道攻撃を行うことは十分にあり得る話だった。
何しろ、数年前に日本軍はその種の狂気を通常攻撃のように連打していた前科がある。
アメリカの艦隊全力を投じるには、日本との戦争状態を終わらせる必要があった。
新しい戦争のため、古い戦争を終わらせようとして結ばれた講和条約が、サンフランシスコ講和条約だったと言える。
ただし、講和条約が結ばれ、米太平洋軍が解放されたのは、戦争の大勢が決まったあとのことだった。
また、講和がなったところで、米陸軍が送れるわけでもなかった。
議会の同意が得られないからだ。
そこで米陸軍の代わりを務めることになったのが台日軍だった。
再結成された白軍(台日軍)20個師団は、解放軍の南下を各地で食い止めた。
装備も補給も全て合衆国持ちであるため、中身が日本人であることを除けば実質的に米軍参戦である。
新白軍を率いたのは、ビルマ戦線で活躍した宮崎繁二郎大将だった。
宮崎はインパール作戦後の絶望的なビルマ戦線でイギリス軍相手に敢闘、停戦まで組織的な抵抗を行った防衛戦の名手である。
停戦後は、イギリス軍の捕虜収容所から台湾に送られ、帰国することは敵わず、部下を見捨てることもできなかったため、台日陸軍に籍をおいていた。
人民解放軍の戦法(便衣兵による後方遮断と戦車の正面攻撃)を見抜いた宮崎は、米軍供与のM4中戦車でハリネズミの陣(全周防御)を実施すると共に、米軍に空中補給を依頼した。
空中補給のアイデアは、宮崎自身がインパール作戦中にイギリス軍が実施した空中補給を自軍に適用したものである。
敢えて敵中に孤立するという宮崎の大胆な戦略は滁州会戦において正しさを証明した。
人民解放軍は便衣兵を浸透させて白軍の後方を遮断したが、宮崎は少しも動揺せず、空中補給を受けて全周防御を継続した。
装甲戦力、砲兵火力と航空支援がある白軍に対して人民解放軍は人海戦術しかとれる戦法がなく、屍の山を築くばかりだった。
このまま滁州を守り切れば、解放軍の南下は食い止められるはずだった。
白軍の努力を破綻させたのは、蒋介岩の逃げ癖で、滁州が解放軍に包囲されたと聞くと再び部下を見捨てて南京から武漢へと逃亡した。
蒋介岩の逃亡によって南京は無政府状態となり、政府庁舎には赤旗が翻った。
踏み止まっていた国民党軍も兵の脱走が相次いで霧散した。
もっとも致命的だったのは空中補給を行っていた南昌の飛行場が機能停止したことだった。
南京陥落の知らせに接し、宮崎は自分の運のなさを笑ったと言われている。
宮崎が上級司令部の敵前逃亡を経験するのは、これが初めてではなかった。
インパール作戦後のビルマで、宮崎は上長のビルマ方面軍司令部の敵前逃亡によって敵中に孤立、絶望的な撤退戦となったのである。
それを数倍巨大化して、さらに悪化させたスーパー・スターリングラードのような状況が目の前にあった。
それでも宮崎は泰然として、
「前にもやったことがあるじゃないか。あの時に比べたらマシな方だよ」
と部下を励まし、宮崎に心酔していた幕僚も上長の信頼によく応えた。
新白軍の生き延びる道は、米海兵隊が確保している上海までの敵中突破しかなかった。
1950年11月27日、降雪の中、白軍の脱出作戦が始まった。
米空母艦載機のナパーム弾投下と共に突破先鋒のM4中戦車が前進を開始し、そのあとに歩兵の梯団が続いた。
解放軍は白軍を殲滅するために人海戦術で突撃を繰り返して激戦となった。
白軍の撤退戦闘は、非常に困難なものだった。
白軍に殺到してきたのは人民解放軍だけではなく”解放”されることを望まない中華民国の資本家や、その家族、政府協力者といった膨大な数の難民がいたからである。
その数は25万人にも及んだ。
宮崎は熟慮の末、彼らを受け入れ、護送しながら撤退することを選んだ。
これは通常でも困難な撤退戦をさらに困難なものとする決断だったが、アメリカからの増援を期待できるという計算があった。
これを受けて上海の米海兵隊第1師団は、邦人保護命令を拡大解釈して長江を水陸両用車両で遡上して、白軍の撤退支援にあたった。
英仏の河川砲艦も難民保護を名目に出動して、負傷兵や難民の後送にあたった。
米軍が持ち込んだ採用間もないヘリコプターが補給や負傷兵の後送でたぐいまれなる活躍を示し、僅か10数機のヘリコプターが数千人の将兵を救うことになった
宮崎は、全将兵の脱出まで最前線で指揮をとり、可能なかぎり遺体の回収と負傷者、戦争難民の収容に努めた。
その公正な戦いぶりは、敵である人民解放軍を指揮した彭得懐をも感嘆させるものだった。
白軍の脱出完了は、1950年12月11日だった。
東アジアのスターリングラードは回避された。
上海にも解放軍は押し寄せたが、海軍艦艇の艦砲射撃で撃退された。
台日海軍の高雄と妙高も出動し、砲身寿命が尽きるまで20.3cm砲を撃ちまくり人民解放軍を吹き飛ばした。
なお、武漢に逃亡した蒋介岩は解放軍が迫ると中国奥地の成都まで逃げ延びた。
蒋介岩は対日戦のように中国奥地で抵抗するうちに合衆国の参戦して形成逆転できると楽観的だったが、白軍や米軍協力者を脱出させると海兵隊は速やかに上海から撤退した。
あてがはずれた蒋介岩は成都から飛行機で脱出を試みたが墜落死した。
墜落地点はヒマラヤ山脈で、長らく死亡が確認されなかったが、1971年になってドイツ人の登山家によって偶然、飛行機の残骸とミイラ化した遺体が発見されて死亡が確定した。
1953年10月1日、北京の天安門広場で毛沢束が中華人民共和国の建国を宣言し、中華は赤い皇帝の元で一つになった。
この間に、日本は戦争特需によって経済の立て直しに成功。
1956年には経済白書おいて
「もはや戦後ではない」
と名言が生まれることになった。