サンスプリット
サンスプリット
1945年4月、太陽の帝国は断末魔の叫びをあげていた。
レイテ沖の栄光からまだ半年しか経っていなかった。
連合艦隊の全てをすり潰して行われたレイテ沖海戦は、上陸船団を撃滅し、マッカーサーを敗死に追い込んだ。
帝国は勝ったはずなのに、死にかけていた。
レイテの勝利に、サイパン島から飛来するB-29を止める効果はなかったからである。
むしろ、侵攻作戦をくじかれた米軍をますます戦略爆撃に傾倒させた。
日本陸海軍の戦闘機では、戦闘機よりも高速で、さらに高高度を飛ぶB-29に手も足もでなかった。
絶望のあまり機銃や防弾板を外して体当たり攻撃を行う空対空特攻部隊が編成されたほどだった。
しかし、そうした狂気は何の成果も齎さなかった。
3月10日には、東京が大規模空襲に遭い10万人の都民が焼死した。
これはレイテ虐殺の報復とされた。
軍部隊が被った大損害を民間人への無差別攻撃に結びつける論理的整合性はこの場合、ほとんど無視された。
同月16日には硫黄島に米軍が上陸した。
栗林忠道中将率いる硫黄島守備隊は、戦史上稀に見る巧みな防衛戦によって上陸した米軍に大損害を強いたが、その抵抗は1か月で潰えた。
硫黄島の陥落によって、B-29には護衛の戦闘機がつくことになり、本土上空の制空権さえ失われた。
さらに5月1日には、沖縄戦が始まる。
東京の大本営は、レイテ戦の損害回復には3か月かかると見込んでいたが、アメリカの戦争スケジュールの遅延は1か月程度だった。
短期間に米軍が戦力を回復できたのは、アメリカの膨大な戦時生産力も去ることながら、ソ連向けのレンド・リースの大幅な縮小という戦略方針転換が大きかった。
1944年の大統領選挙を制した共和党のデューイ大統領は、選挙戦において現職のルーズベルトがソ連に譲歩しすぎていると主張した。
ソ連に送られている膨大な軍事援助を自国軍向けに使えば、兵士の損害を減らし、より有利に戦争を進められると訴えたのである。
これには一定の説得力があった。
なにしろソ連に渡った軍需物資は、航空機だけで14,000機、戦車7,000両、ジープやトラックなどの輸送車両は40万台に及んでいた。
赤軍の主力はT-34だったが、アメリカ製のM4中戦車は機械的信頼性の高さから重宝され、エリート部隊に優先的に配備された。
赤軍の兵站を支える輸送車両の3分の2がアメリカからのレンドリースで届いたフォードやGMのトラックだった。
自動車とは別に13,000両の鉄道貨車や機関車も援助された。
鉄道車両をレンドリースで得たソ連は、鉄鋼生産を戦車や火砲に集中することが可能となった。
ソ連の戦時生産拡大を支えたのも10億ドルに及ぶアメリカからの工作機械や機械部品のレンドリースであり、T-34は6万両もの大量生産が実現した。
戦前の為替レート(1ドル5円)で計算すると約50億円分の援助となる。
1939年の日本の一般会計が約20億円だから、国家予算2年半に相当する。
ちなみに戦艦大和の建造費は約1億4,000万円である。
乾いた笑いしか出てこないのは筆者だけではないはずである。
1945年には赤軍は総兵力1,000万に拡大していたが、その食事を支えていたのもレンドリースで、400万tの食料がアメリカからソ連に渡った。
ロシア人はアメリカ製のコンビーフの配給を殊の外喜び、米国製のタバコは高級品としてしばしば通貨の代わりとなった。
アメリカ合衆国が本格参戦したのは1942年で、当時のアメリカの軍事力は経済規模に見合わない僅少なものであり、迫撃するナチス・ドイツの軍事力に直接向き合ったのはイギリスとソ連だった。
英ソの戦争努力を下支えしたのがアメリカのレンドリースで、連合国が最も苦しい時期を切り抜けるうえで重要な役割を果たした。
しかし、米軍の戦力が充実した1944年になってもレンドリースは続いていた。
なお、レンドリースの邦訳は、武器貸与法であり、あくまで貸与である。
リースには当然、賃料が発生する。
賃料の返済は戦争期間中は猶予されるが、戦争が終わったら支払いが始まる。
イギリスとは返済のため交渉が始まっていたが、ソ連は全くの没交渉だった。
ちなみにソ連にはロシア帝国時代の外債を踏み倒したという前科がある。
デューイは大統領に就任すると早速、持論のソ連向けレンドリースの縮小を図ったのは当然の成り行きだった。
返済意思の怪しい債務者に大金を貸すバカはいない。
さらにルーズベルト時代に横行していた対ソ秘密外交が露見して大問題となった。
1945年2月のヤルタ会議に向けて米国はホワイトハウス主導で英ソと交渉を重ねていたが、その中にはソ連の東欧での優先権を認める内容や、対日参戦求めるものがあった。
その見返りにソ連は西欧でのアメリカの優先権を認め、米ソ協調によって戦後世界を主導することになった。
平たく言えば、米ソによる世界分割計画だった。
デューイは孤立主義者の多い共和党の中では珍しい国際主義者であり、アメリカ合衆国の国際関与を拡大することには意欲的だった。
しかし、米ソによる世界分割などは理解の外だった。
大統領就任後に機密文書を見せられたデューイは元大統領のウォレスを問い詰めたが、元大統領はまともに答えられなかった。
何しろ、元副大統領も何も知られていなかったのである。
それどころか、国務長官のコーラル・ハルさえ知らなかった。
ルーズベルトは国務省を蚊帳の外にしてソ連と秘密交渉を続けていたのである。
これは大統領職の権限逸脱であり、国権の明らかな私物化だった。
戦後、合衆国憲法が改正され、大統領職が2期までとなったのも当然と言えるだろう。
さらに秘密交渉を担当したスタッフには、背後関係に怪しいところがあった。
デューイの元職はニューヨーク州の検察官だった。キャリアの多くの期間を組織暴力との戦いに捧げてきた彼には閃くものがあった。
政権交代でホワイトハウスや政府を追われたニューディーラー、ルーズベルト・ボイーズにFBIのメスが入った。
戦時下ということで捜査は極めて手荒いものとなった。
後に公開されたFBIの捜査資料によって、ルーズベルト政権下で国務省やホワイトハウスの中枢にソ連のエージェントが浸透していたことが明らかにされた。
出来上がった報告書を見たデューイ大統領は東海岸上流階級の教養が身についていたがそれでも、
「こいつは驚れぇた」
と呆れたように呟いたらしい。
確かに驚きだった。最高機密の原子爆弾製造計画にさえ、ソ連のスパイがいた。
ソ連は1948年に原爆実験に成功するが、そのベースとなったのはアメリカからスパイが流出させた開発情報だった。
捜査結果を受けてデューイは、ソ連との秘密交渉を全て白紙に戻した。
その中にはソ連への対日参戦要請も含まれていた。
ソ連の参戦によって日本帝国を挟撃するというプランには、米国単独での日本本土上陸作戦よりも少ない犠牲で戦争を終わらせる可能性があった。
しかし、1941年12月7日以来、日本帝国との戦争で犠牲を払ってきたのは合衆国であり、ソ連がその上前を撥ねるようなことはあってはならないことだった。
日本帝国との本土決戦回避には、ルーズベルトの置き土産を使うこととされた。
相対性理論を応用した全く新しい作動原理を使用する新型爆弾の大量投入によって、日本帝国の抵抗意思を粉砕できるとデューイは考えた。
ただし、彼はこの世の全てが相対的なものであることを見落としていた。
アメリカの急な方針転換に、スターリンは敏感に反応したのである。
スターリンが、対日参戦計画を正式に中止させたのは1945年2月ごろだったと考えられている。
同月4日から11日にクリミアのヤルタで行われた米英ソの三頭会議を受けて、スターリンは対日政策を大転換させた。
スターリンは、元検察官の新しいアメリカ大統領を一目見たときから嫌いになった。
半分は思想的な嫌悪だったが、半分は経験的なものだった。
スターリンがスターリンになる前の時代、若きヨセフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリは銀行強盗や売春宿経営で革命資金を稼いでいた。
官憲に逮捕されて刑務所に送られたこともある。
裁判で自分の罪状を読み上げる検事の虫けらを見るような目つきがデューイにとてもよく似ていた。
ちなみにデューイも似たような感覚をスターリンに抱いた。
こいつは根っからの犯罪者だ、という直観が働いたと後に回想している。
それはさておき、新しい米大統領がロシアの覇権を認めないことはもはや明らかだった。
ルーズベルト時代の密約を反故にして、米軍はチェコやオーストリアへ進入していった。
プラハやウィーンに一番乗りを果たしたのは、米陸軍第3軍のジョージ・Q・パットン中将だった。
パットンは、本当はベルリンに行きたかったのだが、既にベルリンはソ連軍に包囲されていた。
ソ連軍から逃れるため殺到する敗残兵や避難民をパットンは気前よく受け入れ、保護した。
敗残兵と避難民は次から次へとやってきた。ドイツ人にとりソ連軍の捕虜になることは論外だった。
ソ連は引き渡しを要求したが、パットンはやってきたソ連軍の特使に腰の大口径を見せびらかして挑発した。
激烈な反共主義者のパットンは上司のドワイド・アイゼンパワーを胃痛で悩ませたが、デューイ大統領からは容認された。
スターリンは新しいアメリカ大統領を歯牙にもかけていなかったが、アメリカの軍事力は心底恐れていた。
唯一、スターリンが己と対等と認める人間はベルリンで4月30日に自殺したアトール・ヒトラーただ一人だけだった。
スターリンはヒトラーをボヘミアの伍長と蔑んだが、同族として尊敬すらしていた。
そのため、最後までその死を信じようとせず、どこかで生き延びていると確信して、KGBに追跡調査をさせている。
「あの男が、こんなところで死ぬはずがない」
というのがヒトラーに関するスターリンの口癖だった。
ヒトラーがアフリカに潜水艦で逃亡したと聞けば、KGBのスパイを容赦なくガーナへと送って調べさせるほどその姿勢は徹底したものだった。
のちにそれが誤報で、ヒトラーをこき下ろしたB級映画の撮影だったことが判明するとスターリンはその映画をとりよせ、クレムリンで試写会を開いた。
少なくともスターリンは3回はその映画を見たとされる。
米ソの対立が急速に顕在化する中で、スターリンが対日参戦から対日融和へと舵を切ったのは、日本をアメリカに対する防波堤にするためだった。
モスクワを中心に世界地図を見れば、スターリンの思惑は簡単に理解できる。
ユーラシア大陸の東の果てにへばりつくように広がる弧状列島は、太平洋という外海から押し寄せる荒波を防ぐ防波堤に見える。
また、スターリンは、レイテというロシア人の感覚では南の果てにあるような場所で起きた大海戦を詳細に分析させた。
そのうえで、日本海軍の戦闘力を高く評価した。
特にヤマトとムサシという2隻の巨大戦艦は、スターリンの興味をひきつけた。
スターリンは第二次世界大戦前に、イタリアやドイツの協力を得て、巨大戦艦の建造を試みたことがあった。
設計時の排水量が60,000tを超えたソ連の巨大戦艦は、完成の暁にはソビエツキー・ソユーズと命名されるはずだった。
残念ながら建造中に独ソ戦が始まり、戦艦建造は未完に終わったが、スターリンは戦後処理が片付いた後に戦艦建造を再開したいと考えていた。
その時、日本の造船能力は有用となるはずである。
幸運なことに追い詰められた日本帝国はソ連に講和仲介を求めてきていた。
これを使わない手はなかった。
ただし、タイミングが問題だった。
少なくとも対ドイツ戦が片付くまでは先送りする必要があった。また、講和の仲介料をできるだけ高く釣り上げる必要があった。
戦争で奪うことができないのなら、交渉で奪うのがスターリンの流儀である。
そのためにはギリギリまで日本帝国が追い詰められ、破滅の瀬戸際に立っていることが好ましかった。
もちろん、完全に破滅してアメリカに降伏してしまっては意味がない。
中立国スイスのダボスで続いていた日ソの秘密交渉が遅遅として進まなかったのは、そのような理由があった。
ダボスはスイスのリゾート地で、日ソ秘密交渉は連合国の妨害を回避するために、民間企業同士のパテント交渉という体裁をとった。
民間企業の交渉ということで、接触はダボス市の商工会議所の貸し会議室で行われた。
日本政府は秘密交渉を意味する符丁としてダボス商工会議所を使用し、戦後も対外秘密交渉を意味する隠語として利用した。
のちに日本の外交公電が暴露された際に、
「ダボス商工会議所に首相と大統領が到着」
「戦車の輸出はダボス商工会議所での決定事項であり変更不可」
「自動車関税は、ダボス商工会議所の最終決定を待ってから報道発表する」
などというやり取りがインターネット上に流布することになり、何の罪もないダボス商工会議所が日本政府を影から支配する巨悪という誤解を招くことになった。
ちなみにダボス商工会議所のモットーはエンジョイ&エキサイティングである。
遠い未来の話はさておき、ソ連が講和仲介の条件として提示したのは、南樺太の割譲、満州国の中華ソビエト(中国共産党)への合流、満州鉄道の譲渡と朝鮮半島の再独立だった。
平たく言えば、日露戦争以前の状態への回帰と言える。
この条件に日本陸軍は強く反発した。
日米戦、あるいはその前から続くシナ事変とは、満州国、あるいは満鉄利権を守るための戦いだったからだ。
満鉄利権を守るために満州事変が勃発し、満州国を守るために国際連盟を脱退、さらに中華民国との戦争にいたり、対日経済制裁を打破するために対米戦へと進んだのが1930年代の日本の政治・外交の全てだった。
逆に言えば、満鉄さえなければ、外交的な孤立も戦争もなかったと言える。
ソ連を講和の仲介者として選ぶにあたり、日本政府内でも仲介料として南樺太の割譲は止む無しだったが、満鉄は死守する方向だった。
「そんなにも満鉄のことが好きになったのか・・・」
と光の国からきた宇宙人が呆れるかもしれないが、日本政府は真剣だった。
何しろ満鉄の税収は、日本五大財閥からの税収を全部合わせた額よりもさらに多いのだ。
日本が列強国らしい顔をしていられるのも、満鉄があればこそだった。
だからこそ、国際的孤立に至っても捨てられなかった。
しかし、1945年5月に入り、沖縄に米軍が上陸すると陸軍も、満鉄放棄も止む無しとなった。
1945年5月1日、アメリカ軍はアイスバーグ作戦に基づき、6万の戦力を沖縄本島中西部に上陸させた。
参加した艦船は1,500隻、参加総兵力は54万に上った。
レイテでの敗戦などなかったかのような大軍勢に日本軍は圧倒された。
上陸先だっての準備砲撃では、40,000発の砲弾・ロケットを撃ち込み、1,600機の空襲によって沖縄全土が火の海となった。
米軍の侵攻に対して、沖縄防衛を担当した日本陸軍第32軍は、水際での迎撃を放棄して長期持久体制をとった。
大本営の見込みでは、米軍の侵攻時期は6月だったが、5月に彼らはやってきた。
それでも、1月間の猶予は日本軍の地下陣地を強靭にし、島民の島外退避を増やしたから、まるで無意味というわけではなかった。
また、その理屈は不明ながらも満州や北の守りは不要ということで、北方から多数の増援が沖縄へと送られた。
その中でも特に期待されたのは戦車第1師団だった。
本土決戦に備えて関東へ展開していた戦車第1師団にはM4中戦車に対抗可能な三式中戦車が配備されており、沖縄戦で多大な戦果を上げた。
日本の航空機産業は南方航路の途絶とB-29の爆撃で息の根を止められつつあったが、それでも多数の航空機を工場から送り出した。
陸海軍はその殆どを特攻機として沖縄を囲む米艦隊への攻撃に投じた。
その中には、人間爆弾桜花のような特攻専用機もあった。
海上に目を向ければ、特攻艇の震洋や、陸軍のマルレ艇といった自爆兵器が多数配備されており、自殺攻撃が通常戦法となっていたことがわかる。
震洋やマルレはベニヤ板とトラックのエンジンを組み合わせた急増兵器で、艇首に爆薬を充填した特攻モーターボートだった。震洋とマルレは全ての生産計画が遅延していった大戦末期の軍需生産の中で、唯一計画どおりに製造できた量産兵器となった。
沖縄戦は、本土決戦・一億総特攻の先触れとして全てが特攻に結びつけられた。
例外は、彗星艦上爆撃機による夜襲戦法を採用した芙蓉部隊と特攻機を護衛する制空戦闘機部隊だった。
特に紫電改を装備した343空や烈風装備の601空は制空権奪還の切り札として期待された。
零戦の後継機として三菱航空機で開発された烈風艦上戦闘機は、2,000馬力級のハ43を採用した大型戦闘機で、漸く日本海軍はF6Fと互角に戦える翼を手に入れた。
母艦航空隊として編成された601空が下りるべき空母は全滅していたが、新鋭戦闘機を与えられたパイロット達の士気は高かった。
さらに海軍は、北海道や関東などの防空部隊や本土決戦用の戦力を引き抜いて、後先考えない航空作戦を展開した。
理由は、海軍として戦えるのが沖縄戦が最後であると認識していたためである。
本州での本土決戦になれば、海軍はもはや不要だった。
さらに日ソ交渉の進展で、本土決戦はもう起きないという認識もあった。
ならば、出し惜しみをするべきではなく、連合艦隊最後の水上部隊も特攻作戦に投入することが決まった。
戦艦武蔵を基幹とする特攻艦隊が呉を出撃したのは、1945年5月6日だった。
同型艦の大和の参加は燃料不足のため断念された。
徳島にあった燃料タンクに残った重油をかき集めても、大和型戦艦2隻を動かすことさえままならなかった。
燃料がなければ軍艦は動けないので、本当の終わりは目前に迫っていた。
第5艦隊司令長官のエドモンド・スプルーアンス大将は、日本艦隊の出撃を知ると航空攻撃による接近阻止を下令するとともに戦艦戦隊に集合を命じた。
スプルーアンスは可能なら、レイテ虐殺の下手人を戦艦によって仕留めたいと考えていた。
しかし、まずは空爆だった。
伊藤正一中将率いる第1遊撃部隊は、武蔵を筆頭に重巡利根、鳥海、軽巡矢矧と駆逐艦9隻(冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞、時雨)からなり、7度に渡る空襲受けるも戦闘機部隊の献身によって、全艦健在のまま日没を迎えた。
米海軍による航空攻撃は、艦隊上空を守るジョージ(紫電改)とラージ・ゼロ(烈風)によって不首尾に終わった。
海軍は本当に後先考えない迎撃戦を展開し、試作機すら実戦投入した。
その中には試製震電さえ含まれていた。
試製震電は大戦中に3機のみ完成したエンテ式と呼ばれる特異な設計を採用した迎撃戦闘機で、B-29邀撃の切り札と目されていた。
実際に米軍のパイロットが後ろ前逆に飛ぶ奇妙な飛行機を目撃したと報告書を作成しているので、試製震電が実戦投入されたのは確実視されている。
日本海軍は艦隊防空だけではなく反撃作戦を実施し、300機近い特攻機を出動させて第58任務部隊を襲った。
特攻機の突入で、空母バンカーヒル、ハンコックが大破して後退を余儀なくされた。
作戦に参加した特攻機の大半は爆装零戦だったが、少数機の人間爆弾桜花も含まれていた。
さらに近年の資料研究によって、特殊攻撃機橘花が実戦投入され、駆逐艦スタンリーを大破させる戦果をあげていたことが判明した。
特殊攻撃機橘花は日本初の双発ジェット機である。
ただし、通常の戦闘機は攻撃機ではなく、特攻専用機として開発された。
特攻専用機にジェットエンジンが採用されたのは、粗悪な燃料でも推進力に変えられるジェットエンジンの特性が大戦末期の劣悪な補給状況に適していたためである。
長年にわたって駆逐艦スタンリーを大破させたのは人間爆弾桜花だと考えられてきたが、地道な資料研究によって桜花突入が誤りであり、特殊攻撃機橘花が少なくとも1機は完成してスタンリーが大破した時間帯に飛行していたことが立証された。
さらに薄暮攻撃を図った芙蓉部隊の彗星艦爆が三式一番二八号ロケット爆弾による攻撃で、空母エセックスの飛行甲板を破壊した。
ロケット爆弾は策薬量が少なく破壊効果は僅かなものだったが、飛行甲板に並べられた艦載機を引火・誘爆させたため大火災が発生した。
芙蓉部隊の他に夜間雷撃を行った601空の流星艦上攻撃機が重巡タスカルーサを撃沈した。
雷撃に成功した流星は発動機を烈風に採用されたハ43に換装した流星改だったとする説もあるが、詳細は不明である。
明々と燃えるエセックスを見たスプルーアンスは、夜間航空雷撃の進言を退け、モノトーン・デヨ少将の戦艦戦隊に迎撃を命じた。
この時、砲術家のスプルーアンスは自ら戦艦戦隊を直接指揮する誘惑に駆られた。
しかし、自重した。
自重を忘れた指揮官がどうなるかは、ハルゼーの予備役編入を見れば明らかだった。
これは極めて賢明な選択だったと言える。
もしも、スプルーアンスが艦隊を率いていたら、彼は間違いなく戦死していたからである。
デヨの戦艦戦隊は、戦艦サウスダコタ、インディアナ、マサチューセッツ、ニュージャージー、ウィスコンシン、ミズーリの6隻からなり、さらに重巡7隻と駆逐艦21隻が機動部隊から引き抜かれて第1遊撃部隊を迎撃した。
戦艦の全てが戦中に就役した新世代艦で6倍の戦力差があり、さらに電波技術の優位を知っていたデヨは自信に満ち溢れていた。
艦隊の士気も高く、全員がレイテの仇を討てると喜んでいた。
しかし、それが恐怖へと変わるのにさほど時間はかからなかった。
電波兵器の開発で遅れをとった日本海軍は、最後の海戦において米海軍の上をいった。
武蔵の艦橋トップには日本海軍初の実用対水上レーダー(32号電探)が設置され、さらに駆逐艦を含めて艦隊各艦には多数の八木アンテナが設置されていた。
アンテナの正体は妨害電波の発信器で、アメリカ海軍が使用する対水上レーダーを欺瞞することが可能だった。
戦闘開始前から、米艦の対水上レーダーはホワイトアウト状態になった。
周波数を変えても無駄だった。すぐに日本艦の放つ妨害電波が追従してレーダーを役に立たない状態にした。
使用する周波数が日本軍に漏れているとしか考えられなかった。
情報の出どころは不明である。
しかし、第1遊撃部隊は出撃直前に東京の海軍省から空輸された機密書類を受け取っていた。
その文書はキリル文字で書かれていた。
盲目になった米戦艦戦隊に対して、武蔵の32号電探は正確に闇夜を見透かして砲撃を行った。
最初に被弾したのは旗艦ニュージャージーで、46cm砲弾3発が命中した。
45,000tのアイオワ級戦艦ニュージャージーは、米戦艦の中では最も堅牢な装甲をもっていたが格上の46cm砲弾を防ぎきれるものではなかった。
艦内で爆発した砲弾で機関が破壊され、電路が途絶したニュージャージーはただ浮いているだけの状態となった。
さらに2発の46cm砲弾が命中し、CICにいたデヨを細切れ肉に変えた。
ソロモン海で、日本海軍が飲まされ続けた煮え湯をそのまま返す快勝だったと言える。
次に狙われたのはウィンシスコンで、武蔵のレーダー射撃で7発の46cm砲弾が次々と命中し、砲塔をたたき割った砲弾が弾薬庫で爆発した。
ニュージャージー大破からウィンシスコン轟沈まで僅か15分の出来事だった。
沖縄沖海戦の第1ラウンドは間違いなく日本側の完勝だったと言えるだろう。
しかし、2隻の被害にひるむことなく残る米戦艦4隻は突進して距離を詰めた。
結果、米艦のレーダーが妨害電波の出力を上回り、武蔵を闇夜から引きずりだした。
砲撃の応酬で武蔵に命中した16インチ砲弾は12発を数えた。艦上の砲弾爆発で32号電探や妨害電波発信器も破壊され、武蔵の3番砲塔も旋回不能になった。
しかし、反撃でミズーリとサウスダコタを爆沈させ、インディアナを叩き潰した。
最後まで残った戦艦マサチューセッツはもはや半狂乱だったが、彼女は幸運にも生き延びた。
日本の水雷戦隊を数の暴力ですり潰した米駆逐隊が、至近距離で魚雷を放ったのである。
武蔵には接近する米駆逐艦を迎撃すべき副砲や高角砲は一つも残っていなかった。
最終的に武蔵に命中した魚雷は9発になった。いずれも航空魚雷よりも炸薬量が多い艦艇用の重魚雷である。
多数の砲弾命中で艦内の応急システムが破壊され尽くしていた武蔵は、大量の浸水に耐えることができず、沖縄の海へと沈んだ。
米駆逐隊を指揮したアーイレ・バーク少将は、世界最大の戦艦を撃沈した提督として海戦史にその名を刻むことになったのである。
沖縄沖海戦の最終的な損失は、日本海軍が戦艦1隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻を喪失した。
それに対して米側の損害は、戦艦3隻沈没、2隻大破、1隻中破、重巡1隻沈没、ほかに駆逐艦3隻を喪失した。
損害だけ見ると、どちらが勝ったか分からない奇妙な戦い、栄光に満ちた敗北、第一遊撃部隊は伝説となったのである。
そして、この日を境に日米の戦いは終息へと向かっていった。
1945年5月22日、ソ連政府は日米に対して講和仲介の用意があることを発表した。
日本の鈴木菅太郎首相は歓迎の意を表し、アメリカに停戦交渉を求めた。
アメリカのデューイ大統領は無条件降伏以外は認めないとして交渉を拒否した。
ただし、アメリカの国内世論は複雑な反応を示した。
世論の多くは、パールハーバーの復讐はまだ終わっていないと考えていた。レイテ虐殺や沖縄沖海戦での大損害に何らかの報復を必要だと感じていた。
しかし、子弟を沖縄へと送ってる家庭では、一日でも早く戦争を終わらせるべきだと考えていた。
沖縄の次に予定されている日本本土決戦については、誰も語りたがらなかった。
デューイは無条件降伏を口にしたが、本人もすぐに誤りに気が付いた。
無条件の降伏とは何を意味するのか?
これは実は不明確で、ルーズベルト時代の条件を踏襲しただけだったのである。
そのため、講和の条件を明確にする必要があった。
デューイは日本民族や文化を抹殺する意思など持ちあわせていなかったが、日本のファシズム勢力は解体され、自由・民主主義国家に再生されるべきだと考えていた。
日本帝国が水面下で示してきた講和条件、領土の一体性の確保や国体の護持は許可できたとしても、軍事占領の回避や軍備解体拒否はありえなかった。
国土の全面占領と軍備解体、そのうえで占領軍司令部を通じて日本の平和・民主化を図るのがデューイの戦後対日構想で、同じ処置は朝鮮半島にも適用されるべきだった。
満州国は解体して中華民国に合流すべきで、ソ連には何も与えないことが肝要だった。
これを本土決戦なしで日本に受け入れさせるには、ルーズベルトの置き土産を使用するしかないという結論になった。
1945年6月の時点で、完成していた原子爆弾は濃縮ウランを使用するガン・バレル式の起爆装置を持つ『リトルボーイ』の1発だけだった。
プルトニウムとインプロージョン方式の起爆装置を使用する『ファッツマン』は未完成で、動作を確認するため、最低1回は起爆実験が必要とされた。
ガン・バレル方式は単純な構造で、確実な動作が保障されていたが、そうであるがゆえに安全装置の設置が不可能という欠陥がある。
そのため、現代の核兵器に使用される起爆方式はインプロージョン式のみとなっている。
投下地点は京都になった。
理由は人口100万人以上の大都市で、盆地であるため爆風の破壊効果が高まること、原爆投下までに爆撃を受けていないため、原爆の効果検証に適すると考えられた。
千年つづいた古都を核兵器で焼き尽くすことが、日本の世論にどのような影響を与えるのかについてはあまり真剣に検討されなかった。
とにかく、圧倒的な破壊を日本人とロシア人に見せつけることが重視された。
そして、1945年6月6日、午前8時15分。
世界初の核兵器実戦使用によって京都は一瞬で壊滅した。
77万人が投下から7日以内に死亡し、爆心地となった二条城は消滅、金閣寺や伏見稲荷、八坂神社や清水寺といった国宝も全て爆風と熱線によって消えてなくなった。
即死を免れた人々の上には放射性物質を含んだ黒い雨が降り注いだ。
放射能汚染された水が河川を通じて大阪にも流れ、さらに多くの人々を死に追いやった。
京都の惨状はただちに大本営、政府へと報告され、非常手段を採らせることになった。
非常手段とは、停戦クーデタとソ連軍の進駐受け入れだった。
停戦クーデタとは、満鉄譲渡とソ連軍進駐を拒否する陸海軍強硬派を武力で排除するため、停戦派が準備した武装蜂起だった。
ただし、クーデタは予備計画であり、昭和帝の聖断による調停が本命視されていた。
しかし、昭和帝がソ連軍進駐に難色を示したため、クーデタ止む無しとなった。
ソ連軍の進駐は日ソ交渉の初期段階から議論されており、ソ連のモロトフ外相は南樺太や、満州・朝鮮半島への進駐を求めていた。
これらは講和仲介の手数料を確実に徴収するためのものだった。
しかし、B-29の戦略爆撃が地方都市にまで及び沖縄戦が始まると攻撃停止・停戦協議のために、本土へのソ連軍進駐が議論されることになった。
ソ連軍が進駐し、平和維持軍として日米の間に割って入り、停戦を確保するという構図である。
スターリンは交渉を有利に進めるため、スパイ活動で入手した原子爆弾の情報をリークして、日本政府の危機感を煽った。
そして、危機が現実のものとなったことで、進駐受け入れも止む無しとなった。
クーデタ政権によって日ソ進駐協定が6月10日に締結され、満州・朝鮮半島へソ連軍が展開した。南樺太、千島列島や北海道にもソ連軍が上陸した。
ソ連軍の本州上陸は6月17日で、新潟港に3,000名が上陸した。
なお、この進駐は平和・協定進駐であり、日ソの軍事衝突はなく、平和裏に行われた。
もちろん、行儀が悪いものは一人もいなかったというわけではないが、満州においては関東軍や朝鮮軍が邦人保護を徹底し、内地においても陸軍部隊が出動して警護活動を実施した。
当初こそ、日本国民は初めて見るソ連軍に慄いたものの、京都の惨状が伝わると止む無しという雰囲気となった。
また、ソ連軍が進駐した地点は、米軍が米ソ開戦を避けるために爆撃を中止した。
そのため、ソ連兵は次第に歓迎されるようになった。
人々は、ソ連兵が誇らしげに掲げる赤旗、日本では禁じられた思想の象徴が翻るたびに降ってくる焼夷弾の量が減ることに気が付き、官憲の制止を無視して戸口に赤旗を掲げるようになっていた。
進駐したソ連軍は基本的にエリート部隊で、トラブルを起こすことが少なかったから
「礼儀正しい人々」
と新聞やラジオも好意的に報道した。
まさに北風と太陽の寓話だった。
スターリンの対日融和政策は、想定以上の成功を納めたと言えるだろう。
1945年7月に開催されたポツダム会談では、ドイツの分割統治、ポーランド問題が協議された。
対日政策として改めてスターリンが講和仲介を申し入れ、デューイはそれを受け入れた。
冷戦第1ラウンドの駆け引きはソ連に軍配があがった。
大規模国際会議が終われば、何らかの共同発表、ステートメントが行われるのが常だったが、ポツダム会談ではそうした発表はなかった。
スターリンとデューイは、同じ写真の枠内に収まることさえ拒否した。
そのため、歴史の教科書にはポツダム不宣言と書かれることがある。
しかし、この会談こそ冷戦対立の始まりであり、手を取り合うための話し合いではなく、別れるための話し合いだったのだから、共同声明がないのは当然と言えば当然だった。
イギリスのキーストン・チャーチル首相は合衆国の犯した誤りについて、
「しかし、物が手に入るからといって、全てを独り占めしようとするのはいただけない」
と表現している。
また、京都への原爆投下については、
「原子爆弾はまだ人類には早すぎる」
と嫌味たっぷりにこき下ろした。
日米の停戦発効は、1945年7月15日である。
戦いは終わり、本土決戦は回避された。
しかし、全員が停戦に納得したわけではなかった。
講和仲介の条件、朝鮮独立や満鉄譲渡、南樺太の領土割譲への反発は大きなものだった。
また、国土に外国軍を招き入れるという非常手段は、売国の誹りを免れなかった。
特にそれを非合法手段によって実現したことは、極めて悪印象を残すことになった。
クーデタ政権内部でも、ソ連軍進駐を進めた海軍大臣の米内光正を阿楠陸軍大臣が射殺するなど大混乱となった。
結果、停戦に従わず、政府の指揮下から離脱する部隊が生じた。
その中でも最大の反乱が1945年7月17日に発生した皇太子某重大事件である。
海軍の厚木航空隊と陸軍近衛師団の一部が結託し、軽井沢に疎開していた皇太子を拉致して、海軍の二式大艇で上海へ誘拐・逃亡したのである。
皇太子を摂政に据えた救国軍事委員会の設置が宣言され、委員長には支那派遣軍総司令官の岡村寧二大将が就任した。
フィリピン・ルソン島の第14方面軍の山下奉史大将もこれに同調し、外地に残された日本軍が次々に参加していくことになる。
彼らはソ連の進駐について何も知らされておらず、売国謀議があったと信じた。
日本の伝統と独立を重んじる立場から、彼らはクーデタ売国政権打倒を訴え、支持を拡大していったのである。
戦争は終わったが、太陽の帝国は二つに分裂した。