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征なる途  作者: 甲殻類
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オペレーション・ヴィクトリー・ナンバーワン

 

 オペレーション・ヴィクトリー・ナンバーワン


 1944年10月20日から25日まで続いたレイテ沖海戦は、日本海軍の戦略的勝利で終わった。

 日米の歴史家は声を揃えて、


神風(KAMIKAZE)が吹いた」


 と主張する奇跡的な勝利だった。

 マリアナ沖海戦(1944年6月19ー20日)で空母機動部隊が壊滅した日本海軍は、戦艦を中心とした水上部隊による事実上の艦隊特攻作戦を実施した。

 三方向から米軍が上陸したレイテ島を目指す一連の作戦は、捷号一号作戦と呼称された。

 捷号の捷とは、勝利の勝であり、字面は極めて勇ましい。

 逆にいえば、そうしたものにすがるしかないほど大日本帝国は追い詰められていた。

 絶対国防圏として1年は敵を足止めできるはずのサイパン島はあっけなく陥落し、海軍主力の空母機動部隊は既に壊滅していた。

 空母以外の艦隊戦力にしても、ソロモン海での消耗戦で在りし日の姿からはほど遠かった。

 戦艦大和を中心として、2番艦の武蔵、ビッグ7の一角を占めた長門、そして開戦以来の武勲艦金剛と榛名を擁する連合艦隊は未だに有力なものと言えたが、相手がそれ以上に強大化しておりどうにもならなかった。

 ビリー・ハルゼー大将率いる第3艦隊(第38任務部隊)は、4群に別れた空母機動部隊で、正規空母9隻、軽空母8という大兵力だった。

 空母航空戦力は総勢1,000機を超えており、在りし日の南雲機動部隊の3倍以上の兵力となっていた。

 空母以外にも新鋭のアイオワ級戦艦2隻(アイオワ、ニュージャージー)とサウスダコタ級戦艦4隻に加えて、巡洋艦や駆逐艦に至っては比較するのもバカバカしいレベルだった。

 そのため、日本海軍は敵主力との決戦を避けて、フィリピン防衛のため敵上陸船団に的を絞って攻撃することを計画した。

 これは卑怯や怯懦ではなく、現有兵力でも可能な最も合理性の高い作戦だった。

 そのためにできるだけの努力が払われた。

 具体的には、船団攻撃を行う艦隊を援護する強力な基地航空隊の建設で、陸海軍航空隊は1,000機規模の兵力が用意された。

 航空戦力の主力を担ったのは、2,000馬力級の誉発動を装備した陸上爆撃機『銀河』や陸軍の四式重爆撃機『飛竜』、さらに天山や彗星といった高性能艦上機も空母から下りて基地機として利用された。

 戦闘機部隊の主力は零戦のままだったが、2,000馬力級の局地戦闘機『紫電』や『雷電』も少数であるが準備され、陸軍は大東亜戦争決戦として『疾風』を投入した。

 1944年にピークに達した日本の戦時生産は、マリアナ沖海戦の痛手から速やかに兵力を回復させたのである。

 これは第38任務部隊とほぼ互角の兵力だった。

 絶望的なのは、それだけの兵力を用意して、ぶつけたところ(台湾沖航空戦)返り討ちに遭い回復したはずの兵力の大部分を短期間で消耗していたことだった。

 確かに日本陸海軍が用意した航空戦力は、額面上は強大なものと言えた。

 しかし、その内実は寒々しいものだった。

 新しく補充されたパイロットの平均技量は水平飛行も怪しい程度だった。機材も戦時の粗製乱造、燃料・潤滑油の質低下で設計上の性能を発揮できなかった。

 また、それらを運用する下級将校もソロモン海の消耗戦で払底しており、経験不足が目立ち指揮下の兵力を有効活用できなくなっていた。

 そのうえに立つべき上級将校は軒並みサイパン島で玉砕しており、作戦・指揮は残念ながら粗製としか言えないレベルだった。

 フィリピンで航空戦の指揮を執った大西瀧治朗中将が、


「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」


 として零戦特攻を採用したのは、絶望と戦術的合理性の奇妙な一致だったと言える。

 結果、上空直掩を欠く裸の連合艦隊を守ったのは熱帯性低気圧となった。

 人の手による神風が零戦特攻ならば、自然の手による神風が熱帯性低気圧(台風21号)の発生と言えた。

 台風21号は、フィリピン東方の暖かい海で発生する水蒸気を糧に急速に発達し、日米双方の思惑を飲み込んで930ヘクトパスカルの大型台風に成長した。

 瞬間最大風速は秒速50mを超える暴風である。

 これは木造家屋が倒壊するレベルの風力であり、屋外で人間が活動する限界を遥かに超えるものだった。

 アメリカ軍はレイテ島上陸に際して、多数の船舶、航空機を動員して入念な気象観測を行って万全(と思われる)の天気予報を実施していた。

 しかし、1940年代の気象観測技術には限界があった。

 観測機器の性能限界もさることながら、予報精度をあげるためのデータの蓄積が圧倒的に不足していた。

 アメリカ軍には(日本軍もだが)、このような場所フィリピンで上陸作戦を行うという事前の研究がなかった。

 研究がないところに知識の集積もない。

 少なくとも対日戦争を指導してきたアメリカ海軍太平洋艦隊司令部にとって、フィリピンへの上陸作戦は想定外の事態だった。

 戦前の研究では、日本海軍との決戦に勝利してマリアナ諸島を制圧した場合、次の進路は小笠原諸島か沖縄にとって、日本近海の制海権を確保。海上封鎖によって日本に降伏を迫るというのが事前の想定だった。

 米領フィリピンが一度失われることはほとんど不可避であった。

 一応、政治的な事情によりできるだけ早期に救援することになっていたが、失陥した場合に奪還するという計画はなかった。

 それよりも、小笠原諸島か沖縄を占領して、日本帝国の喉元を締め上げる方が遥かに効果的であることは明らかである。

 兵士の犠牲も少なくて済む。

 良いことしかない。

 しかし、米軍は不必要な回り道をした。

 これはもうダダラス・マッカーサー大将のエゴとしか言いようがなかった。

 開戦緒戦でフィリピンを追われたマッカーサーは、


「I shall return」


 と言い残して、部下や兵士をコレヒドール要塞に残してオーストラリアへ逃亡した。

 これは敵前逃亡だった。正式な脱出命令があったとしても、逃げたことに変わりはない。

 しかし、不意の開戦とその後の連戦連敗で消沈した米国世論はコレヒドール要塞を現代のアラモ砦とみなしていた。

 圧倒的な大軍に包囲されて孤軍奮闘の後、陥落したアラモ砦は、アメリカ人にとっては抵抗の象徴である。 

 まずい戦争指導でフィリピンを失ったマッカーサーが、英雄として扱われたのも世論の支持があればこそだった。

 マッカーサー自身もそうした世論を意識して、メディアへの露出を増やし、日本の侵略に立ち向かう理想的な抵抗者としてふるまった。

 創られた理想像マッカーサーは、太平洋戦争の最も苦しい時期にアメリカ軍の士気と世論を支える重要な役割を果たした。

 しかし、戦争後半になると肥大化したマッカーサーの政治力にアメリカの戦争戦略が振り回されるという副作用をもたらした。

 戦略的に意味のないフィリピン奪還が、アメリカの戦争スケジュールに組み込まれたのは、マッカーサーの個人的な恥辱を晴らすというエゴでしかなかった。

 日本の南方航路の切断という意義はあるかもしれないが、それなら沖縄を抑える方が遥かに効果的である。

 米海軍は不必要な回り道に抵抗したが、1944年の大統領選挙を控えたフランクリン・C・ルーズベルト大統領は英雄・マッカーサーの支持を必要としていた。

 かくして、アメリカ軍は戦争動機に不純なものを含んだまま1944年10月20日にレイテ島に上陸することになる。

 上陸に際して、マッカーサーは、


「I have returned」


 と後に歴史的なジョークとなる演説を発した。

 しかし、既に不純の報いはその兆候をあらわにしており、熱帯性低気圧の発達で海象は上陸作戦が困難なほど荒れ始めていた。

 米軍の上陸が成功したのは、日本軍の守備隊がサイパン島での戦訓を踏まえて水際作戦を放棄して内陸の抵抗線に籠っていたためだった。

 揚陸作業が悪天候で大きく遅延する中、リンガ泊地を出撃した栗田艦隊(第1遊撃部隊)が潜水艦、偵察機によって発見され、第38任務部隊の阻止攻撃が始まった。

 この時、栗田武夫中将率いる第1遊撃部隊は潜水艦の待ち伏せなどで第4戦隊の重巡愛宕、摩耶を喪失、高雄が大破するなど出鼻をくじかれたものの、戦艦大和と武蔵を中心に長門、金剛、榛名を含む有力な戦艦戦力は健在だった。

 なお、艦隊を上空から守るエアカバーはお天気任せという状況だった。

 栗田艦隊が浴びた空襲は9回に及んだ。

 これはハルゼー大将の想定した航空攻撃の半分以下の数字だった。

 理由は悪天候で、飛行甲板の作業が激しいスコールで度々中止されたためである。

 また、放った攻撃隊も分厚い積乱雲の下に隠れる日本艦隊を攻撃できず帰投した。

 度重なる空襲を悪天候で凌いだ栗田艦隊の司令部は、


「天祐我にあり」


 と異様な興奮状態に包まれたとされる。

 この時、栗田艦隊は戦艦武蔵を防空輪形陣の外縁に配置して、被害担当艦として攻撃誘引を図るなど戦術的極限状態にあった。

 友軍の1艦を生贄に捧げるまさに極限の選択であったが、悪天候によって武蔵への攻撃は悉く失敗に終わっていた。

 戦艦武蔵艦長の猪口敏兵は海軍砲術の大家と知られていたが、操艦に不安があり、上空を覆う分厚い積乱雲の発生に愁眉を開くことになった。

 それでも危うい局面があったものの僚艦の戦艦大和による三式弾砲撃によって急場を凌ぐことに成功し、武蔵はシブヤン海の空襲を生き延びた。

 ただし、空襲に遭うたびスコールの下へ退避を繰り返したため、艦隊陣形が大きく乱れた。

 そのため、一度艦隊全艦が反転し、再編成を行うことになった。

 これは米軍の偵察機によって監視されており、


「クリタ艦隊は臆病風に吹かれて撤退した」


 という誤解を招くことになった。

 第1遊撃部隊の反転が、艦隊再編のための一時的なものか否かは米第5艦隊司令部でも判断が割れるところだった。

 クリタ艦隊が致命的なダメージを負ったという確証はなかったからである。

 しかし、艦隊司令長官のハルゼーの下した結論は、有無を言わせないものだった。

 ハルゼーはクリタが空襲で怖じ気づき、逃げ出したと判断した。

 根拠はなかったが、ハルゼーはそう信じた。信じたかったとも言える。

 そう信じられるのなら、第38任務部隊は呪われているとしか思えないこの海から離れられるからだ。

 夜に向けてフィリピン東方海上は急速に天候が悪化し、分単位で時化が強まっていた。

 対空火器の増強でトップヘビーになっていた駆逐艦や巡洋艦は荒れる海で危険なほど傾き、30,000tを超える戦艦でさえ艦内は船酔いによる吐しゃ物地獄となっていた。

 ハルゼー自身も船酔いで極度に体調が悪化し、持病の皮膚炎の症状が出て血がにじむほど頭を搔きむしる羽目になっていた。

 昼間はクリタ部隊への阻止攻撃と孤軍奮闘する日本陸軍第4航空軍の五月雨式の空襲への対応に追われており、平行して陸軍支援も行わねばならず、将兵の疲労も蓄積していた。

 さらに薄暮を狙って行われた小沢艦隊の空襲が、レイテ沖海戦の行方を決定づけた。

 栗田艦隊から1日遅れて作戦海域に入った日本海軍最後の機動部隊は、真珠湾以来の武勲艦空母瑞鶴を中心に、軽空母3隻(瑞鳳、千代田、千歳)に加えて新鋭の装甲空母信濃と航空戦艦伊勢、日向を擁する有力な艦隊だった。

 装甲空母信濃は、大和型戦艦3番艦として建造中だったものをミッドウェー海戦の敗退を受けて空母へと改装した船で、海軍機動部隊再建の切り札と目されていた。

 信濃(基準排水量64,000t)は、原子力空母の実用化まで世界最大空母だった。

 ただし、米軍の侵攻に間に合わせるために突貫工事を行ったうえで、レイテ沖海戦時点では未完成状態での参戦となった。

 海戦時にも艦内で工事が続いているという状況だった。

 信濃以外の空母も艦載機は定数を割り込んでおり、全体としては116機(内訳:零戦52機・零戦爆装28機・天山艦攻25機・九七式艦攻4機・彗星艦爆7機)だった。

 空母部隊としては本来なら戦闘不能というべき状態である。

 それでも出撃を強行したのは米空母機動部隊をひきつける囮になるためだった。

 艦隊司令長官の小沢寺三郎中将は、錬成未了のパイロットでは天候悪化もあってまともな戦果はあげられないことを承知し、薄暮攻撃に一縷の望みを賭けた。

 全艦載機を投入した日本海軍機動部隊最後の攻撃は、ピケット艦のレーダーによって察知され、大量のF6Fによる迎撃によって艦隊外周にたどり着くことなく終わった。

 特に雷撃のため低空に下りた天山艦上攻撃機と護衛の零戦隊は上空からの奇襲によって、殆ど一瞬で全滅することになった。

 成す術もなしと表現するしかない一方的な戦いだった。

 1944年になるとアメリカ海軍の艦隊防空システムは第二次世界大戦時のそれとしては完成の域に達していた。

 レーダーによる早期警戒と無線による直掩戦闘機の迎撃誘導、さらにレーダー連動の高角砲と近接信管付きの対空砲弾、ボフォース40mm機関砲とエリコン20mm機関砲の弾幕射撃は鉄壁というしかなかった。

 しかし、それでも完璧ではなかった。

 3機の彗星艦上爆撃機が奇跡的に迎撃をすり抜けて、艦隊上空に達していた。

 恐ろしいF6Fは低空の雷撃機を攻撃するため低空に下りており、迎撃網にわずかな隙間が生じていたためである。

 彗星艦爆の小隊を率いたのは、真珠湾攻撃にも参加した経験豊富なベテランパイロットの数すくない生き残りだった。

 彼は発達した積乱雲に紛れることで、F6Fの迎撃をやりすごし、対空砲火を回避することに成功していた。 

 また、冷静に状況を観察し、米空母が発艦作業のためにスコールの下から出てくるのを辛抱強く待つことができた。

 敵艦隊上空で攻撃待機するという大胆な選択である。

 しかし、彼には勝算があった。

 発達した雨雲によって隠れ場所は無数にあった。

 さらに彼は気づいていなかったが、降雨によってレーダーの効力が低下していた。電波が降雨に反射し、多数のゴーストを作り出していたのである。また、同士討ちを恐れて対空砲火は無暗な発砲を禁じられていた。

 米艦の防空指揮所はIFFに応答しない機影が艦隊上空に紛れ込んでいることに気づいていたが、降雨による電波状況の悪さもあって直掩のF6Fが迷子になったのだと判断した。

 艦隊上空は対空砲火による同士討ちを避けるため戦闘機は進入禁止エリアとなっていたが、視界不良などで禁止エリアに入ってしまうことはよくあることだった。

 最終局面で、彗星3機が狙ったのは空母フランクリンとなった。

 発艦作業のため風上に向かって直進するフランクリンは理想的な標的で、雲間から飛び出した彗星3機の奇襲を受けた。

 ちなみにフランクリンのフランクリンは、アメリカ独立戦争の立役者であるベンジャミン・フランクリンであって、現職大統領ではない。

 しかし、フランクリンを襲った悲劇は、その後に発生した歴史的な大事件を連想させるものとなった。

 フランクリンを狙った彗星3機は、


「悪魔のような恐るべき練度で」


 という修辞詞をつけて語られることになる完璧な攻撃で、50番通常爆弾をフランクリンの前後中央の3箇所に命中させた。

 この間に対空砲火は全くなかったことから、攻撃が完全な奇襲だったと分かる。

 爆弾命中から1秒以内に、熱と衝撃波に変わった炸薬が周囲の全てを破壊しながら、連鎖的な誘爆を発生させた。

 誘爆したのは格納庫内に収容されていた艦載機だった。

 安全規則では、格納庫内の艦載機は全ての燃料ガソリンを抜いた状態で保管されていなければならなかった。

 被弾した際に破滅的な火災を回避するためである。

 しかし、この時は多くの機が燃料タンクにガソリンを残した状態で収容されていた。

 理由は単純で、朝から続く第一遊撃部隊への阻止攻撃や日本陸軍航空隊の五月雨式の攻撃への対応、さらに上陸部隊の支援など、デッキオペレーションが多忙を極めていたためである。

 着艦した機体から燃料を抜き取って収容している暇がなかった。

 さらに燃料をいちいち抜き取って収容するよりも、いれっぱなしにしておいた方が、新しく燃料を搭載する際にも時間短縮になるとして安全規則が意図的に無視されていた。

 油断したと言えば、それまでである。

 あるいは経験不足とも言える。

 フランクリンが艦隊に加わってから、まだ半年かそこらだった。

 開戦時から戦ってきた空母エンタープライズやサラトガの乗員なら絶対に許さない愚かな未熟さとしか言いようがなかった。

 格納庫内で発生した大火災によって、灼熱のオーブンと化したフランクリンは、急速に行き足を失って洋上に停止した。

 総員退艦が発せられたのは、爆撃から僅か15分後のことだった。

 誰がどう見ても彼女を救う術はなかった。

 最終的にフランクリンは、消火不能の火災が弾薬庫に回り、大爆発を起こしてフィリピン海に沈んだ。

 新鋭空母ルーキーのあっけない最後だった。

 その仇は、何がなくともとらねばならなかった。

 しかも下手人はパールハーバー以来の仇敵ズイカクと、さらに信じられないほど巨大な未知の新型空母(信濃)というのならば、相手にとって不足はない。

 ハルゼーが固めた復讐の決意は、意固地なまで強固で、怖気が走るほど強迫的だった。

 雄牛の突進ブルズランとして、合衆国海軍史上最悪の判断ミスの事例としてアナポリスの教科書に載ることになるハルゼーの暴走はこうして始まった。

 そして、それを上陸船団を護衛する米第7艦隊は全く知らされていなかった。

 一応、小沢艦隊迎撃のため第5艦隊が北上することは知られていたが、ある程度の兵力は残しているだろうと考えていた。

 それが常識的な対応だからだ。

 まさか第5艦隊の全部が、上陸船団を放り出してハルゼーの個人的な復讐のために彼方へと走り去っていこうとしているなどとは思いもしなかった。

 特にサンベルナルジノ海峡はチョークポイントで、ここに戦艦を含む迎撃部隊を配置されていれば、海峡通過は絶望的だった。

 サンベルナルジノ海峡は狭い海峡で水深も浅いことから、海峡入口に迎撃陣を敷かれていたら一たまりもなかった。

 海峡封鎖が効果的なことは、スリガオ海峡海戦で証明された。

 戦艦扶桑と山城を基幹とする第2遊撃部隊(西村艦隊:7隻)は、海峡を封鎖して待ち伏せていたオルデンドルフ中将が指揮する戦艦戦隊(ウェストバージニア・メリーランド・テネシー・カリフォルニア・ミシシッピ・ペンシルヴェニア)及び重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻の猛攻を受けて壊滅した。

 西村中将は戦死。爆沈した戦艦山城の生存者は僅か10名だった。

 辛くも生き延びたのは駆逐艦時雨1隻のみである。

 しかし、サンベルナルジノ海峡は全くの無防備だった。

 あまりにもあっさりと突破に成功したたため、逆に栗田中将は罠ではないかと疑心暗鬼になったほどである。

 それは第7艦隊を率いるトーマト・キンケイド中将にとっても同じだった。

 哨戒中の駆逐艦が、接近する栗田艦隊を発見して報告を上げたとき、


「何かの間違いだろう・・・」


 と返事をした。

 逃げたはずのクリタ艦隊が、あまりにも忽然と目の前に現れたのである。

 さらに悪天候をついて飛来した人工の神風、爆装零戦による特攻によって護衛空母サンティーとセント・ローが撃沈された。

 報告を受けたキンケイドは、


「何かの間違いだろう・・・」


 ともう一度言う羽目になった。

 日本陸海軍の航空攻撃は、アメリカの対空防衛網によって自殺と同義語となりつつあったが、本物の自殺攻撃は想像の埒外だった。

 既に台風による悪天候で小型の護衛空母では発艦作業が困難になっており、特攻隊の攻撃は最後のダメ押しとなった。

 悪天候と特攻隊から退避を図ったクリフートン・スプレイグ少将指揮の護衛空母群は、予期せず栗田艦隊の目の前に飛び出してしまい全滅した。

 悪天候で艦載機を飛ばせない空母などただの水上標的にしかならなかった。

 この時、戦艦武蔵艦長の創意工夫で対空攻撃用の3式弾による砲撃が実施され、紙装甲の護衛空母は一瞬で火だるまになって沈んだ。

 追い詰められたキンケイドは、ありとあらゆる罵詈雑言をぶつけてハルゼーの機動部隊を呼び戻そうと試みたが、成功しなかった。

 第7艦隊はマッカーサーの南西太平洋方面軍の指揮下にあり、キャスター・ニミッツ大将の米太平洋艦隊司令部の指揮下にあるハルゼーの第5艦隊への指揮権がなかったからである。

 コマンドラインが異なるキンケイドにできるのは要請(お願い)だけであり、お願いごときでブル・ハルゼーが動くタマではないことは米海軍軍人にとって常識だった。

 ハルゼーは小沢艦隊を轢殺ミンチにするのに忙しく、キンケイドの要請を完全に無視した。

 フランクリン撃沈という最後の栄光と引き換えに、小沢艦隊は囮役を全うし、歴史上の存在へと姿を変えた。

 ハワイの太平洋艦隊司令部でニミッツが漸く事態を把握してハルゼーを呼び戻そうとして発しのたが、


「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す」


 という海戦史に残る一文である。

 しかし、これは逆にハルゼーの意固地を刺激するだけで逆効果だった。

 特に最後の一文は、ハルゼーが好んだテニスンの詞を引用したもので、ハルゼーはこれを侮辱と捉えた。

 第7艦隊が陥った陥没は、マッカーサーとニミッツという二人の指揮官による巨大な戦争指導の隙間だった。

 その隙間は、物事が上手く転がっているうちは無視された。

 しかし、運命の輪フォーチュン・リングが悪い方向へ転がったときは、致命的となった。

 レイテ湾最後の防衛線となったオルデンドルフの戦艦戦隊と第1遊撃部隊が激突したのは、1944年10月25日午後1時ごろだった。

 オルデンドルフの戦艦6隻(ウェストバージニア・メリーランド・テネシー・カリフォルニア・ミシシッピ・ペンシルヴェニア)は、真珠湾攻撃で撃破された戦艦を浮揚・回収・修理したものだった。

 いずれの船も修理と同時に徹底的な近代化改装を受け、レーダーなどの電波兵器、さらに射撃管制装置や増設された対空砲は開戦後に就役したアイオワ級戦艦と比べても遜色ないものに仕上がっていた。

 レーダーを使った夜間砲撃によって、スリガオ海峡海戦では一方的な勝利を納めた。

 ただし、基本形は1920年代に就役した20年前の戦艦で、1942年に就役した大和型戦艦と昼間に真正面から撃ち合って勝てる要素はどこにもなかった。

 会敵時の天候は最悪で、海は大時化となっており、戦闘能力を発揮できたのは戦艦だけだったから、ホモンホン島沖海戦は太平洋戦争における戦艦のみが対決した唯一海戦となった。

 海戦は先頭艦同士の砲撃から始まった。

 大和の放った第一撃は全て外れた。

 しかし、そのうち3発が水中弾となってウェストバージニアの右舷に命中した。

 水中弾とは、海面に落ちた外れ弾が角度を変えて魚雷のように水中を走る現象である。

 そうした現象があることは各国海軍にも認識されていたが、日本海軍はそこから一歩進めて水中弾を発生し易い砲弾の開発を着手した。

 その成果は九一式徹甲弾となって、1944年のホモンホン島沖海戦にて結実した。

 水中を走った46cm砲弾が水線下に命中したウエストバージニアには水柱が上がり、大量の浸水で速力が急速に低下して戦列から脱落した。

 当時の海象は、駆逐艦が戦闘不能になるほど荒れたものだったから、状況から考えて戦艦大和の水中弾によるものが確実とされている。

 2番艦武蔵の砲撃はよりテクニカルで、3斉射でメリーランドを捉えると46cm砲弾3発の暴力で、これを戦闘不能とした。

 ウエストヴァージニアとメリーランドは火力(16インチ砲9門)だけならアイオワ級と遜色ないものだったが、この場合は相手が悪すぎた。

 大和と武蔵の46cm砲弾は、どこに命中しても相手のバイタルパートを貫通するのに対して、ウエストヴァージニアとメリーランドの16インチ砲弾は、どこに命中して大和型のアーマーを貫通することができなかった。

 もちろん、多数の砲弾を命中させることで戦闘能力を徐々に削いで撃沈することは可能だが、そうなる前に大和と武蔵は致命的な攻撃を放ってくる。

 旗艦と僚艦が瞬く間に葬られたことを知った残りの戦艦は、大和と武蔵に砲撃を集中したが、ウエストバージニアの16インチ砲弾が通用しない相手にさらに格下の14インチ砲弾をどれだけぶつけたところで何もできなかった。

 また、装甲を破るための徹甲弾が途中で尽きてしまった。

 前夜の西村艦隊との戦いから無補給で連戦を強いられたことが原因だった。

 洋上補給を受けるには海象が険しく、弾薬不足のまま挑むしかなかったのである。

 諦めることを知らない米海軍は徹甲弾がなくなると榴弾を発射したが、徹甲弾が通じない大和や武蔵に榴弾をどれだけ命中させたところで無意味だった。

 最後まで抵抗した戦艦ミシシッピが爆沈したのは、砲戦開始から35分後のことである。

 鎧袖一触とは、まさにこのことだった。

 戦艦大和と武蔵は、このような戦争を行うために造られた船と言える。

 そこから日没までに起きたことは、殆ど一方的な虐殺劇となった。

 レイテ湾の奥でひしめき合って上陸船団は、多くの船が陸兵を満載したままだった。

 そこに戦艦が3式弾を放り込めば、何が起きるのかは明白である。

 さらに海は台風によって大しけとなっていた。生き延びるために海に飛び込んだところで、浮いていられる時間は30秒以下だった。

 戦艦の砲撃で死亡した兵士よりも、悪天候の海に放り出されて溺死した兵士の方が圧倒的に多かった。

 マッカーサーの死もそうした多数の名もない死の一つとなった。

 しばらくは生死不明の扱いとなったが、彼が再び人前に姿を表すことはなかった。

 一連の海戦で、米軍は上陸船団を含む80万tの艦艇、船舶を喪失し、15万の兵員が死傷するという大敗を喫した。

 レイテ島の橋頭保は残ったが、内陸への侵攻は完全に不可能になった。

 日本海軍も西村艦隊と小沢艦隊は主要艦艇の全てを喪失して壊滅。台風に助けられて辛くも生還した栗田艦隊も損傷艦多数で、戦闘不能だった。

 事実上、連合艦隊は壊滅したと言える。

 それでも日本の戦争指導者達が望んで止まなかった”一撃”を米軍に与えたことは間違いなかった。


「これで講和の道筋がついた。やはり日本は神州だ。神風が吹いた」


 と小磯国明首相が狂喜したのも頷ける話である。

 問題は、その”一撃”で撃ちぬかれたのが米軍だけではなかったことである。

 レイテ沖海戦の敗報がホワイトハウスに届けられたのは、1944年10月25日の夜半過ぎだった。

 続報がまとめられ、合衆国史上最悪の敗北のディテールが明らかになるとルーズベルト大統領は、執務室からスタッフを退室させた。

 彼は一人になりたかったのである。

 こうした反応は、これまでに何度かあったことだった。

 1944年末になると連合国の勝利はもはや時間の問題となっていたが、それまでの道のりは平坦なものでなかった。

 敗北に塗れることも多々あり、そうしたタイミングでしばしばルーズベルトは精神を落ち着けるために孤独になることを望んだ。

 国家最高指導者として人前で激情を露わにすることをルーズベルトは恥ずべきことだと考えていたのである。

 そのため、退室から暫くしてルーズベルトの唸るよう叫び声や物が倒れるような音が聞こえても、補佐官や閣僚達は反応しなかった。

 気の利いた補佐官が、掃除夫を待機させておくことを思いついたぐらいだった。

 結果、異変に気が付いたルーズベルト夫人が執務室に駆け込んだときには、全てが手遅れとなっていた。

 大統領選挙を目前にして倒れたルーズベルトの死因は、大動脈瘤の破裂だった。

 ルーズベルトは長年の大統領職と戦争指導のストレスから高血圧症を患っており、血圧が200を超える日が続いていた。

 慢性的な高血圧で動脈硬化が進行し、レイテ沖の敗報が最後の”一撃”となった。

 ただちに、アメリカ合衆国憲法修正25条第1節の規定に基づき、副大統領のベンリー・ウォレスが大統領へ昇格した。

 同時に、ウォレスが1944年の大統領選挙の民主党候補となった。

 大統領となったウォレスの最初の仕事は、レイテ沖海戦の無惨な敗北とマッカーサーの戦死を合衆国国民に伝えることだった。

 ピンチヒッター・ウォレスは最初から瀕死の政治的重傷を負うことになった。

 1944年のアメリカ合衆国大統領選挙は、ルーズベルトの4選がほぼ確定した選挙だった。

 アメリカの大統領職は初代ワシントン以来の慣例により2選までとされていた。

 既に3選しているルーズベルトは世界大戦を理由とした例外扱いだった。

 しかし、3選が認められた以上は4選を阻むものは、ルーズベルト自身の病以外には存在しなかった。

 共和党候補のトーマシュ・デューイは、負け戦が決まった戦いでも精力的に選挙活動に取り組み、意思と能力のある人物が諦めを拒絶した時に何が起きるかを体現してみせた。

 1944年11月7日、デューイは大統領選挙を制し、共和党は12年ぶりに政権奪還を果たした。




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― 新着の感想 ―
請う次回!
今回の時間犯罪もワクワクします。
新作、お待ちしておりました…(感涙
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