9話 いつもの帰り道
その後もユウキの画面には「既読」マークが付かなかったはずだ。
一人で家に帰った僕がユウキのメッセージを読むことはなかったからだ。帰ってから、服も着替えられず、すぐにベッドに頭を埋めた。
眠りに落ちるのは一瞬だった。普段なら、どんなに疲れていても、シャワーを浴びて服まで着替えてからベッドに潜り込んだはずだった。
そして仕事のない次の日、午後二時を過ぎた時間にようやく目を覚ました。
起きて水を一杯飲んでからまたベッドに戻り、今度は夜の十時に目が覚めた。
長く寝すぎたせいでズキズキする頭を抱えながらベッドに座っていて、ふと思った。
今、僕は眠りに逃げ込んでいる。それなら僕は何から逃げているのか。
僕は何から逃げたいのか。
それは明らかにこの瞬間だろう。店のドアを開け、出退勤簿を書き、ユニフォームに着替えてホールに出る。
そして黙々とやるべき仕事を始めると、僕の後ろにユウキがしつこくついてくる。
露骨なほど視線を合わせないのに、ぴったりとついてきて僕の顔を確認した。
「ジヌ!おとといなんで先に帰ったの?」
「......」
「メッセージも読まないで!」
「......」
「僕、六時まで店の前で待ってたんだよ。」
いつもの明るいユウキの言葉に、次第に感情が乗る。おそらく僕がすぐに謝ったなら、ユウキはちょっとふざけただけで済ませてくれただろう。
あの日ユウキに何の言葉も残さずに先に家に帰ってしまったのは間違いだと思うが、謝らなければならないとも思わない。
だから今は何を言えばいいのかわからない。ずっと何の反応もせずテーブルを拭いていると、ユウキがその場に立ち止まった。
そして怒りに満ちた声が飛び出した。
「ジヌ!」
声が高くなった。何度も無視されたのだから、感情がたかぶるのも無理はない。
でも、僕はあの日以来、感情が静まったことがない。つい怒りを押し殺してとげとげとした言葉を吐き出してしまいそうになる。
ピンと張り詰めた緊張感が漂う瞬間、僕が最初に言った言葉は暗黙の了解を破るものだった。
「なに?」
「僕、ジヌに何かした?」
「そんなことないよ。」
「じゃあ今日は一緒に帰ろう。」
「あ......今日は疲れてるから先に帰るよ。」
ユウキの目が細くなる。お粗末な言い訳だった。これまで疲れているという理由が僕たちにとって問題になったことはない。
それが問題だったのなら、僕はあの日何の理由もなくユウキを駅まで送るべきではなかった。
「他の理由があるんでしょ?」
「......なんでそう思うの?」
「元々こうじゃなかったじゃん。」
彼の言葉はいつも飾り気がない。その前ではどんなに堅固なバリケードを立てても無力だった。
ボーリングピンになった私の心がストライクに当たってガラガラとこぼれ落ちる。
ノックダウンされた心は長いこと横たわってもぞもぞしてから、やがてありきたりな偽悪を吐き出す。少しも面白くなかった。
「元々なんてないよ。」
僕の言葉はそこで終わりだった。ユウキの傷ついた様子は歴然としていた。八の字に曲がった眉には落ちた心の肉片がぶら下がっていた。
それを見たくなかった。見なければならなかったのに、見たくなくて私は結局存在しない注文を受けに走り去ってしまった。
ユウキをそこに残して。
***
締めの時間が近づくと、ホールの片隅が少し騒がしくなる。普段とは少し違うものだった。
厨房の作業が終わり余裕があるからホールを手伝いに来たという元気な声が聞こえてきた。
わざわざ振り返らなくてもその声の主は分かっていた。
それと同時に、彼の視線がこちらに集中しているということもはっきりと感じられた。
だからわざわざ振り返らなかった。
見たら負けと子供のように駄々をこねたのだ。
自分で幼稚だということを知っていた。
「ユウキ!大丈夫?」
「あ、大丈夫!絶対大丈夫!大したことない!」
突然ホールに悲鳴が響き、思わずちらりと視線を向ける。そこではユウキが鼻を押さえながらティッシュを探して手を伸ばしていた。
鼻を押さえた手の隙間から黒ずんだ血がだらだらと漏れ出ている。それを呆然と見つめた。
ふと頭の中にさっきのユウキの言葉が浮かぶ。僕を六時まで待っていたという言葉。ただでさえ彼は忙しいのに六時まで待ったとなると、睡眠は.......。
「ちょっと中に入ってて。無理しすぎたみたいね。」
「そうだよ、ユウキ。手伝わなくていいって。」
「え?うん......。」
背中を押されてユウキが再び厨房に押し込まれる。
そんな瞬間でも視線はこちらを向いていた。僕の反応を窺っているのだった。
この状況で、ユウキが僕にどんな反応を期待しているのかわからないと思った。
結局僕はまた顔を背けてテーブルに視線を固定する。
だからユウキがその瞬間どんな顔をしていたのかわからなかった。おそらく一生知ることはないだろう。
あの日以来、ユウキとは何の会話もなかった。実はユウキが先に話しかけてきたことは何度かあったが、僕が応じなかった。
毎回無反応で通すと、ユウキもある時からは口を固く閉ざした。
目の端をぐっと押しながら仕事に専念した。注文を受け、料理を運び、テーブルを片付けた。
それなのに時間はすぐには過ぎなかった。もう叱られなくなったせいだろうか。
退勤時間があまりにも遠かった。猛烈に走っているのに、どんどん逃げていった。
24時間ずっと働いているような錯覚に苦しめられた。
退勤時間が来ても、嬉しくなかった。変わるものは何もないと認めてしまうと、世界は真っ白と真っ黒ばかりで出来ているようだった。
こわばった目を押さえながらカーテンを開ける前に、ふと立ち止まった。
もう嫌になっていた。
「ジヌさんのことだけど」
あ、まただ。更衣室は厨房を通らなければならず、結局服を着替えるにはどうしてもあの現場を通らなければならなかった。
いっそ何か始まってしまう前に知らないふりをして入ってしまおうかと迷う。しかし迷うのを待ってはくれず、彼らは続けて口を動かした。
「この前ユウキにジヌくんと働くの疲れないかって聞いたら、すごく味方してさ~。」
「味方するって?何て言ったの?」
自然と眉間にしわが寄った。主題は僕ではなかった。
ユウキ。僕について話したユウキが主題だった。
「いや、すごく上達したし努力もしてるのに、そんな風に裏で話すなって。俺たちが卑怯だって。何て言ったっけな、助けてもらうだけ助けてもらって、なんで悪く言うんだって。」
「なに......俺たちいつジヌくんに助けてもらったの?そっちが俺たちの助けを借りたんじゃん。」
彼らを仲間として考え、仲間としてできる最大限の助けを差し出したことが無視された。
でも僕の心を動揺させたのはそのためではない。
その助けを認めてくれたユウキの言葉だ。
僕が聞こうとしなかったから、ついに聞けなかった言葉、ユウキが言った言葉。
君たちは卑怯だ。ジヌは努力している。
狂ったように蠢いていた心がやがて土の天井を突き破って頭を出した。
カーテンを開けて入った。少し衝動的な行動だった。視線が集まる。
今度は本当に何か言葉を投げつけようと思った。
確かにそう思ったのに。
「え、ジヌさん......。」
予期せぬ登場が歓迎されるはずはない。不思議なことにそのバカみたいな顔を見ると、何か抗議しようという心まで消え去ってしまう。
だから何の反応も見せずに彼らを通り過ぎて出退勤簿のある机へ直進した。
出退勤簿に名前を書く手に過度に力が入る。ペンの下の紙がぎゅっと押されて裏のページに跡を残していた。
人は何も言わなくても話すことができる。
「大丈夫だよ。イヤホンしてるし。」
「でもちょっとは聞こえるんじゃない?」
「つけてる時は音聞こえてなさそうだったよ?この前も。」
「あ......。」
「ほら見て。聞こえないじゃん。」
安堵しながらも二人の声は著しく低くなる。
しかし僕の耳には気になるものは何一つなかった。
イヤホンからは何の音も出ていなかった。一体いつ話しかけられて無視されたのかはわからない。
「中村くん、松井くん。」
西田さんだった。のれんを半分押し開けた西田さんは明らかに疲れた様子だった。
その瞬間ものれんの向こうから賑やかなホールの騒音がはっきりと伝わってきていた。
中村くんと松井くんが息を少し荒く飲み込む。限りなく緊張したまま。
「それから......ジヌくん。」
西田さんの方に顔を向ける。二人が小さくため息をつく声が微かに聞こえてきた。
心の中で何かが解放される。こんなにも取るに足らない、ろくでもない人たちのせいで、僕が.......。
「注文溜まってるよ。」
ジヌくんは気をつけて入って。その言葉を最後に、西田さんは再びホールに戻る。
イヤホンを外して服を着替えに入った。ユニフォームのボタンを最後まで留めると、抑えていた息が漏れ出る。
しわくちゃになったユニフォームをパンパンと叩いて、また綺麗に整えた。
パンパンと叩けばいい。あの人たちの軽い言葉まで。
カバンを持って出ると、ユウキが店の扉を開けて出て行く後ろ姿が見えた。
僕でなければユウキが店の従業員たちに嫌な言葉を言わなければならない事もなかっただろう。そうすればずっと誰からも好感を持たれる従業員として残っただろう。
もちろん僕が過剰に意味を持たせているのかもしれないが。胸が騒いだ。
彼を引き止めよう。その考えだけが頭の中いっぱいだった。何を言えばいいのかもわからなかった。
引き止めなければならなかった。
「ユウキ!」
逃してしまうかもしれないという焦る気持ちからだった。ユウキは反射的に振り向いて目を大きく見開く。自分に話しかけられたという事実を信じられないかのように、とても大きく目を見開く。
しばらく言葉が詰まって時間だけが過ぎた。
「一緒に帰る?」
ぎこちない。
「えっと、一人だと寂しくて……。」
ぎこちなくて仕方がなかった。
「もちろんだよ!」
でも、ユウキは優しかった。
駅に向かう道中、僕は何も言えなかった。最初から衝動的に引き止めた。言いたいことを考えても、何がユウキに本当に届くのかはわからなかった。
貴重な時間をどんどん無駄にしてしまった。
今回も手を差し出してくれたのはユウキだった。
「それで?」
「……。」
「何が不満だったの?」
ユウキは温かい声で質問して、僕はゆっくり話し始めた。
その日のことだけを話せばよかったのに、愚かにも、なぜここに来たのかから話し始めてしまった。
目的もなく逃げてきたここで、何度も失敗して挫折していた僕にとって、ユウキが僕にとってどれほど大きい存在だったのか。
それを最初に話した。余計なことだとわかっていたけれど、なぜか言わずにはいられなかった。
いつもおしゃべりだったユウキは、その間、何も言わなかった。
僕が心の内を打ち明けている間、言葉がだんだんとぎこちなくなっても、ユウキは聞きづらいような素振りを少しも見せることはなかった。
ただ、時々うなずいてくれるだけだった。最終的には、震える声で言っても、動揺は見せなかった。
「だから、ユウキが僕の味方になってくれるって知らなくて、ただあの人たちに同調したのだろうと思ったんだ……。」
「……。」
「勝手に結論を出して無視してごめん。」
簡潔にしようと思ったのに謝罪が長くなった。僕は世界一長くて意味不明な謝罪をしてしまった。
全部言ってしまった後で、余計に胸がもっと苦しくなった。もしユウキが僕を許してくれなかったら。
「うーん……。」
「元には戻れないけど。」
「でも正直、僕でもジヌみたいに行動したと思うよ?」
「えっ?」
思いもよらぬ言葉だった。口からはバカみたいな音が出てしまった。
それはまだフィルターを通していない不純物だった。
何がそんなに面白いのか、ユウキはしばらく腰をかがめて大笑いした。
目尻に溜まった涙を拭って、ユウキははっきりと言い始めた。
「実はその時、何も言えなかったのは本当。思わず怖くなったから。少なくとも何ヶ月かはもっと働かなきゃいけない職場で、そこで人間関係が悪かったら面倒だし。店長に嫌われたら、顔を見る度に気まずくなっちゃうし。」
「……。」
「でも、その時、言わなきゃいけない気がしたんだ。」
「言わなきゃいけない?」
「うん。僕ほんとうに怒ってたから。」
今度は眉がピクっと上がっている。ユウキは表情ですべてを語る。
ユウキの言葉がわかりやすいように、ユウキの表情もまた読みやすい。聞きやすく、読みやすい。
だからユウキは僕にいつも優しい。変わらない。
「僕はそんなに空気を読める方じゃないよ。ちょっとおっちょこちょいだから。自慢じゃないけど、他の人の気分や状況はあんまり察せないんだ。実際、時々不適切なタイミングで勝手に言ったり行動したりして、嫌われたことも多いし。だから……あれ、ジヌにもそういうことあったかな?」
「ううん、そんなことないよ。気にしなくていいよ。」
この時もユウキは話が逸れていく。
続きを話して、と手で合図すると、ユウキは息を整えて再び話し始めた。
こうして適当に話を切り替えていかなければ、肝心のことは頭に入らないのがわかっていたから。
「それならよかった!とにかく。だけど、そんな鈍感な僕にも見えたんだよ。ジヌがすごく頑張っているってこと。」
「……。」
「今までジヌが僕にしてくれたこと、全部受け取っておいて……。」
「僕が今まで何を気遣っていたの?」
純粋に気になって聞いたことだった。この店で最も役立たずなスタッフを選ぶなら、僕が満票を受け取るだろう。しかしユウキはいつも僕がスタッフを助けていると言っていた。その理由が知りたかっただけだ。
「毎回ジヌだけが後片付けしてるじゃん。締め作業が一番大変なのに。自分が休んだ時にはジヌが代わりにやってくれてた。あれ、あの人たちから手当ももらってないよね?労働時間制限があるから記録にも残ってなかったみたいだし。」
「ただ一緒に働く仲間として手伝ってるだけだよ。」
「だからさ。自分は全部助けてもらっておいて、ジヌにはどうしてそんなこと言うの?それが納得できないよ。僕が怒らないと思う?」
ユウキは声を荒げながら、怒りをぶちまけた。
僕が空席を埋めたところで、それと同じだけの効率が出るわけでもないから、無理に手当を欲しがるつもりもなかった。
それに、実際その当事者は何の不満も持っていなかった。しかし、ユウキはずっと気にしていたようだった。
しばらくの沈黙。怒りが収まると、頭が冷静になったユウキは恥ずかしそうに口を閉じ、慎重に言い出した。
「……それで、明日も一緒に帰る?」
「うん。」
慎重な質問に、僕は即答した。最初から間違っていたのは僕だったから、決めるのはユウキに任せるべきだった。でも、ユウキはその一言でぱっと顔を明るくさせた。
それが僕の良心をチクリと刺した。
「わー、やっと和解だ!」
ユウキは両手を空に掲げて喜んだ。その様子がまるでアニメの一シーンのようで、思わず笑ってしまった。喜びを存分に味わったユウキは手のひらを広げ、僕の顔の前まで突き出してきた。今度は僕の番だ。
「そうだね。やっと和解だ。」
僕の返事とともに手のひらがぴったりと重なった音が響いた。満足そうにユウキが頷く。だから僕もただユウキに合わせて頷いた。
わー、やっと和解だ。心の中でそう叫びながら。




