8話 脱力、脱落
うーん、どうかな。というより、 僕は、カメラを持つ ようになって、道端の花とか、雨上がりの空とか、今まで 見過ごしていたようなちょっとしたことにも目を向けるようになったの。うん、カメラのおかげで、なんだか……。
耳に差し込んだイヤホンから例文を唱える音声が流れる。以前なら1/3くらいしか聞き取れなかった例文が、今ではほとんど理解できた。聴解はたくさん聞かなければ上達しないと聞いたので、仕事時間を除けば一刻も休むことなくイヤホンをつけたままにしていた。
問題集の日本語の例文やNHKラジオ、ポッドキャスト、さらには本を読んでくれるASMR映像まで、片っ端から保存しておいた。驚いたのは、これが思った以上に役に立ったことだ。会話の時と違って、よく聞こえない場合は戻って再生したり、スクリプトを確認したりすることができた。いざ始めてみると、こんな簡単なことなのになにをこんなにためらっていたのだろう。
まだまだ東京は難しいが、スタートが肝心だと確信した。
店のドアを開けた瞬間、イヤホンの片側がグイッと引っ張られた。反射的に首を回すと....... ああ、ユウキだ。ユウキはおどけた顔で、釣り上げた片方のイヤホンを僕の耳に押し込んだ。それと同時に、ユウキは片方の眉をくいっとあげ、耳を傾けるような仕草をとる。いたずらっぽいお得意の表情だ。
「あ、ユウキ。」
「なんの曲を聴いて…るわけじゃないね?!」
ユウキは、涼しげな顔でイヤホンの片側を返してくれた。興味本位で取ってみても、聞こえてくるのは整然とした口調の日本語の文章だけだ。虚ろな独り言に答えるかのように軽く微笑んで渡した。その時、ようやくユウキもぼんやりとした顔からいつもの顔に戻った。
「なーんだ、つまんないの。ジヌがどんな歌聴くのか知りたかったのに。」
「そんなの普通に聞けばいいじゃん。」
遊び半分に肩をポンポン叩くと、ユウキは失笑を浮かべる。それとはまた違うでしょ、元々、隠れて聴く歌は誰にでも一曲くらいはあるものだという。聞き取りやすいユウキの言葉はよくわからなかったが、その日本語は不思議と聞いていて心地よかった。
すべてはユウキの親しみやすさと社交性のおかげだったろう。本来であれば、短期間で誰かとここまで親しくなるのは難しいだろうが、ユウキは軽々と垣根を越え、あっという間に「呼び捨て」し合う関係まで発展した。もう東京生活は孤独ではなかった。一ヶ月前までは想像もできなかったことだ。
イヤホンを片付けながらバッグを置いた。ふと見ると、バッグに押し付けられたシャツにややしわが寄っているのが目に入った。鞄を開ける前に、肩の部分をポンポンと叩いて身だしなみを整える。
少なくとも店内では常に身だしなみを整えたかった。 一種の強迫観念かもしれない。
「ジヌ!」
「うん?」
「ジヌもまかない食べてからやりなよ。今お客さんもいないしさ。」
店長まだ来てないよ。口パクで告げながらユウキが腕を引っ張った。思わず彼についていくと、テーブルではすでに他のスタッフが食事をしていた。これがユウキが自分のために用意してくれた席であることに気づくことはそれほど難しくはなかった。少し躊躇いながら席に着くと、一瞬集まった視線が散らばるのを感じた。
多少居心地が悪かったが、座らないわけにもいかなかった。待っていたかのように、目の前に置かれた皿をじっと見つめたのち、スプーンを持った。テーブルに妙な静けさが流れていた。 習慣的に目頭付近をぐっと押さえる。目玉をぐるぐると回すたびに、じんわりとした不快感を感じた。
睡眠を削って勉強したせいだろう。
「あんまり寝てない?なんか疲れて見えるけど。」
「いや、まあちょっと。勉強してて。」
「すごいね~アルバイトもしながら。」
「でもそれで言ったらユウキくんもじゃない?」
「あっそうそう、ユウキくんもアルバイト掛け持ちしてるんだって?」
その一言で発言権は一気に中村君に渡る。別に特に言いたいことがあったわけではないけれど、この流れが少し気まずいのは事実だ。
決してユウキに関心があってあの言葉を発したわけではないであろう、という意図的な無礼を感じた。
それを感じたのか、ユウキも一瞬僕の表情を窺いながらおずおずと言葉を返す。
「まあ僕は、そんなに辛くないけど。」
「......外国から一人で仕事と勉強の両立は大変でしょう。」
西田さんだった。視線すら向けずに乾いた口調で投げられた言葉だったが、それは明らかに僕に向けられたものだった。
僕のミスを叱責する時とは全く違った。僕に投げかけられた不器用な言葉に温もりが溢れていた。
彼から温かい言葉を聞いたのは初めてだった。他の人の前で僕を立ててくれたのも。
「体調管理はしっかりとね。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
「困ったことがあったらいつでも聞いてくださいよ。」
今度は視線まで合わせてくれる。以前よりずっと穏やかな口調だった。
西田さんを煩わせるような事が著しく減ったことも、彼が心を開いてくれた一因だろう。
気分が向上するのを感じる。なんだかお腹のあたりがくすぐったいような気がした。認めてもらえた。
ユウキが僕に幸運を運んでくれたような気がした。日本語を勉強する気になったことも、それなりに一人前になれたことも、東京に心を寄せる場所ができたことも、そして......僕がここで笑う機会ができたことも。
スプーンを口に運ぼうとして、ふと顔を上げる。
ユウキが僕を見ていた。待っていたかのようにユウキは口角を動かしながらテーブルの下でそっと親指を立ててくれる。
やっと「やり遂げた」と思えた。僕はその親指を胸に受け止めて、そっと笑い返してしまった。
***
明け方の五時。客が全て帰り、ホールに座っていた僕の口に不意に何かが差し出された。
温かいワッフル。振り向くとユウキが得意げな顔で立っていた。
「なに?」
「ワッフル。賞味期限切れたやつ焼いてきた。」
「いいの?」
「本当は廃棄なんだけど.......店長には内緒だよ。」
ユウキが笑う。またあのいたずらっぽい表情だ。
なんだかその顔が僕の勝負根性を刺激して、つい受けて立ってやりたくなった。普段なら決してしないような冗談だ。
「バレたら君の名前言うからね、ユウキ。」
「えー......。」
ユウキが語尾を曖昧に切るのを初めて見た。
それが面白くて、言葉に詰まった彼の顔にニヤッと舌を出してさらに追い打ちをかけた。
ユウキは何がそんなに悔しいのか、ワッフルを吐き出せと言いながら空中で腕を乱暴に振り回した。
僕は見せつけるように目を閉じて首を振るだけだ。
そのとき厨房のカーテンの間から中村くんが不意に顔を出し、ユウキを呼んだ。
「ユウキくん!」
「あ、僕厨房の締めだけちょっと手伝って来る!食べてて。」
僕は黙ってうなずいた。締めが全部終わって出てきたわけではなかったのか。
僕に向かって一度ウィンクをして見せたユウキは急いで厨房のカーテンの後ろに消える。
忙しい中で時間を作って店長に内緒でワッフルを焼いたユウキが目に浮かんで笑みがこぼれた。
実はあの日以来、いつもユウキと一緒に退勤していた。
お互いが送っていくよと言いあいながら、交互に送り合うという変な習慣まで生まれた。帰り道の15分ほどの時間が言いようのないほど楽しくて、どんなに疲れていてもそれを諦めることはできなかった。
ユウキもそうなのだろうか。仕事が遅く終わり、一足遅れて着替えて出てくると、ユウキは当たり前のように僕を待っていてくれた。
先に仕事が終わった方がもう一人を待つというのが、一つの暗黙のルールのように定着していた。
だから今日は僕の番だった。
ホールの片隅でワッフルを噛みながら携帯をいじっているとき、ふとユウキが20分経っても出てこないという事実に気付いた。厨房の締めなら一緒にやれば直ぐ終わるはずなので、そっとカーテンを少し開けてみた。どれくらい忙しいのか、状況を見るためだった。
すると、カーテンの向こうで他の従業員たちの間で楽しそうに話し込んでいるユウキが見える。
あ、仕事は終わったんだろうな。ちょっとした会話くらいすぐに切り上げて出てくるだろうと思いながら、再びホールに戻ろうとした矢先。
「でもさあ、ジヌくんと働くの、みんな大丈夫そう?」
「え、何、ジヌくん?全然。」
僕の名前にはたと足を止める。他人の口から出た、僕の名前。それを聞いて未練なくその場を離れられる人はいないだろう。本能的に体が固まってしまった。
「いや、一緒に働くにはちょっと疲れるタイプじゃない?やることがめちゃくちゃだからっていちいち指摘しちゃうと、何か自分が悪者になったみたいで。」
「あ、わかる。自分なりに何か頑張ってるようには見えるけど、正直進歩ないよね?」
そう言いながら僕の努力を存分に嘲笑う。進歩がない。この一ヶ月間、懸命に努力して慢性的な問題点だった日本語の実力を飛躍的に向上させてきた。
その甲斐あって今では少なくともお客さんのクレームを招くことはないくらいには成長したと思っていた。しかし他の従業員から見ると、それでも物足りなかったようだ。
おそらく彼らを満足させるのは不可能なことかもしれないと、ふと思った。
日本語が上達して、もう彼らが僕について何を言っているのか全て理解できるようになってしまった。これを利点と呼べるだろうか。口元に苦い笑みが浮かぶ。
「あんな風に働いて、なんでクビにならないのかわからない。」
「仕事は一体いつ上手くなるの?本当にイライラするよね。」
憤慨するような口ぶりだが、彼らはそう言いながら笑みをこぼしていた。彼らの口角からは血の匂いがした。彼らは血の滲む場所を振り返る必要もないはずだった。
人々は時として誰かを憎むために憎む。目に見えて接客能力が良くなったとしても、彼らには受け入れられない。そうなると僕の努力は無意味になる。変化が重要なのではなく、文字通り意味が揮発してしまうのだ。時として。
時に努力は裏切られ、その前で僕たちにできることは何もない。力が抜けていくのを感じた。
「ユウキは少し仲良くなったみたいだけど、どう思う?」
すぐにその場を去らなかったのは、正直この瞬間のためだった。
ユウキの口からはまだ何の言葉も出ていなかったし、もしかしたら僕を呆れさせるかもしれないと思ったからだ。もはや自分がユウキに何を期待しているのかもわからなかった。
ユウキはしばらく困った様子で口ごもったが、やがて言葉を発した。
「まあ、ジヌが不器用なのは事実だ。」
そう言って、ユウキはぎこちなく笑った。
雰囲気を壊したくないような、彼らの言葉をあまり否定しないように気を遣う様子でそう口にして、うっすらと口角を上げた。
ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
まぶたが下がったかと思うと、また上がって、世界がひっくり返る。
自覚する前に体が先に飛び出す。彼らに向かってではなく、店の外に向かっていた。僕は何を考えるもなく逃げ出した。
冷たい夜明けの空気が鼻と口に突き刺さる。
寒さと無情に当たった肺が裂けそうだが、それでも僕は止まることなく走った。
僕が日本語が苦手で、日本人と会話するときによく間違えたり、誤解したりすることはすでに知っていた。
でも、なぜそれをユウキに当てはめようと思わなかったのだろう。冷静に考えてみると、ユウキだからといって、僕を無条件に肯定的に見てくれるとは限らない。ユウキだからといって、僕を無条件に肯定的に見てくれるという保証はない。仲の良い関係であればあるほど、仕事においては冷静であるべきなのに、僕はこの世界をあまりにも楽観的に見ていたようだ。
路地に足を踏み入れるとすぐに腰をかがめて息を吸い込む。太もも付近に添えられた手に乗って、激動する心臓を感じる。呼吸はすぐに安定したが、体を起こすことができなかった。涙は一滴も出なかった。ただ、しばらくの間、そこに止まっていた。
自分の人生が徐々に変化している最中だと思っていた。 今になって振り返ってみると、実はそのまま退化していたのかもしれない。走っていなくても息が休まることはなかった。
携帯電話が鳴った。ポケットの中で何度も鳴り響き、自分がここにいると叫ぶ。
ずっと何かを無視し続けるのも気が疲れる。そして僕はそれを放置し続ける自信をなくし、しぶしぶ携帯を手に取った。
『ジヌ~どこにいるの?』
『まさかもう帰った?』
『え、ガチで帰っちゃった?泣』
しばらく通知画面を見つめたあと、すぐに画面を消してしまった。
ユウキの一言が僕を攻撃したとは思わない。ユウキも僕を内心よく思っていなかったたのだと結論づけるのは性急だ。僕もよくわかっている。
しかし、僕を誹謗中傷する言葉が飛び交う空気の中で、ユウキは何も言わなかった。それだけだ。それは誤解しようのない事実だった。
お腹の辺りがむかむかとして、落ち着かなかった。




