7話 見送る山手線
モップで床を拭きながら、そっと様子を窺う。お客さんは全員帰ってしまったのに、気持ちは完全によそへ飛んでいて、体も心も普段の倍は疲れていた。さっきの件で店長の機嫌を損ねてはいないだろうかと、内心心配だったからだ。いくら店長とはいえ、客に面と向かって文句を言われるのは、あまり愉快な経験ではないはずだった。
また嫌われてしまったのだろうか。その時は、あのお客さんとの時間が純粋に楽しかったのに、気持ちが落ち着いて振り返ってみると、なんとなくネガティブな考えが湧いてきた。でなくても店長に目の敵にされているというのに。気分は底なしに落ちていく。心が重い。
「店長さん、たまにちょっと怖いよね~。」
「え?」
誰かが近づいてきて、そっとささやく。厨房のユウキくんだった。
僕より一、二ヶ月遅く入った従業員だが、仕事にすぐ慣れて誰の助けも借りずに自分の役割をこなす人だ。すぐに研修を終えて厨房に配属された従業員だったため、僕とはあまり接点がなかった。つまり、こんなに親しげに話しかけるような理由がないということだ。だから突き放すこともなく、かといって親密に受け入れることもない。しかし、確かに少しの壁があった。
「僕の能力不足ですよ~。」
「いやいや、僕の目には、ジヌくんは十分努力してるように見えるけど。」
「......そう見えるなら良かった。」
「信じられないの?本当だよ。」
「......」
「ジヌくん、毎日15分前には来てるじゃん。服装もきちんと整えて。それって簡単なことじゃないよ。僕なんて今日も遅刻しそうになったのに。」
今日は本当にギリギリだったよ~到着してから10秒で12時1分になったんだから。ユウキが両手を大きく広げて見せながら言った。誰かが僕のつまらない努力を認めてくれたのは初めてだった。少し早く出勤したり、服装を整えたりするような些細な努力なんて、なおさらだ。
純真な褒め言葉に力なく笑ってしまうと、今度は両手で親指を立てて見せてくれた。なんだか妙な気分だ。
「ユウキくんは厨房担当じゃないの?」
「そう。でも客がいないから特にすることもないし......フロアの掃除くらいなら一緒にやれば、すぐ終わるから。」
疲れた様子も見せずに、ユウキは元気よくモップを動かした。これはユウキの仕事ではない。することがなければサボるのが普通だろうに、ほぼ丸投げ同然のフロア掃除を手伝ってくれることが、今更ながら有り難く感じられた。
その時初めて、余計な警戒心を持っていたことが少し恥ずかしくなった。みんなが避けている人に先に近づいてくれる人が悪い人のはずがないのに。
「ジヌくん、よかったら、この後一緒に帰らない?」
「あ、うん......いいよ。5時にあがり?」
そう答えながら、思わず厨房の方をちらりと見た。今にもカーテンが開いて、怒った顔の店長が歩いてくるような気がした。こうしておしゃべりをしているところを店長の目に留められでもしたら困る。でなくても無能な従業員として烙印を押されているところに、不真面目なイメージまで植え付けるわけにはいかなかった。
その恐れを見抜かれたのだろうか。人のいい笑顔を浮かべたユウキが肩を軽くたたきながら言葉を残してくれる。
「店長さん、もう帰ったから心配しないで。」
「本当に?出て行くの見なかったけど。」
「彼女から連絡きたらしくて、裏口から急いで出て行ったよ。」
「あ、そうなんだ......。」
「それにしても、僕、店長さんがあんな声出すの初めて見たよ。うーん、ハニー。すぐ行くからね~。」
ユウキは体をくねくねさせながら、自分が見た店長を真似る。大げさに誇張した声には、彼の癖が如実に表れていた。それがなぜそんなに面白いのか、次々とくすくすと意味のない笑いが漏れ出た。
あれほど怖かった店長が明日からは少し怖くなくなりそうだと漠然と思う。
「あ!1分だ」
「ん?」
「5時ちょうど」
まっすぐ伸びた腕をたどって視線を移すと、まっすぐ伸びた人差し指。まっすぐ伸びた人差し指をたどって視線を移すと、まっすぐ伸びた時計の針。時計はすでに5時1分を指していた。
つまり......
「退勤時間だよ」
早く行こう。ユウキが急かすように腕を引っ張りながら、急いで荷物を用意するよう促す。気がついたら他の従業員に挨拶も済ませ、店の外に出ていた。服は裾のボタンが留められておらず、バッグは雑に片腕に掛けられたままだった。普段なら他の人の分まで締めくくりをして、決められた退勤時間より30分から1時間ほど遅く出ていたはずなのに、今日は違った。
何気なく確認した携帯の画面には、今が5時10分だと大きく表示されていた。もしかして僕が締めくくりを一人で引き受けて毎回遅く退勤していることを知って......。
「僕は山手線で行くけど、ジヌくんは?」
「僕もそっちで」
「良かった!一緒に行けるね。」
実は完全に反対方向だった。でも久しぶりに人とまともな会話を交わすことが嬉しくて、疲れた体で随分と遠回りして家に帰ることくらいは大したことに感じられなかった。
すぐにばれる嘘だろうけど、今はそうしたかった。
「もう少し寒くなってきたね。」
「そうだね。秋なのかな......。」
その話を聞いて気づくと、少し息が白くなっているようだった。寒くなってきたということは、僕が東京に来てからもう結構経つという証拠だった。もちろん、あの時と変わったことは何もないけれど、時間は猛烈に流れる。それが何とも惜しくても仕方がない。
「実は、前から話しかけてみたかったんだ。」
「僕に?」
「うん。いつも一人で静かに働いてるじゃん。」
「......」
「仕事も頑張りながら。ちょっと神秘主義?」
こんな風に見てくれる人もいるということを初めて知った。どんなに良く解釈しても、僕の沈黙は無能さに起因するものだった。仕事がもう少し上手くできていれば、こんなに萎縮してはいなかっただろう。
仕事を頑張っている。神秘主義。一つ一つがネガティブではない評価。それが何とも嬉しくて何も答えられなかった。言い訳になるかもしれないけど。
「あ!僕、今失言しちゃった?」
「ううん、全然。大丈夫。嬉しいよ。」
慌てて言葉を吐き出して、しまった、と思った。嬉しいという表現は少し大げさだったかな。
小さな静寂が流れた。電車の駅に降りて、改札を通過するまで。ちょうどそれくらいの静寂。
ふと、ユウキの言葉は理解しやすいということに気づく。他の人の言葉を聞くときは半分は分かって半分は分からなくて、分かった部分を継ぎ足して残りを推測しなければならなかった。でもユウキと話すときはほとんど全部を理解することができた。ちょっと会話を振り返りながら、思わず何の意味もない言葉を不意に口にする。
「ユウキくんの話す言葉は速いのに分かりやすいね。」
「あ、他の人より一語一語はっきり話す癖があるからかな。僕、地方から来たんだ。」
「地方?どこ?」
「東北。外国人だから分からないかな?」
首を横に振った。東北について詳しくはないけれど、東京に来る前に急いで読み漁った本でちらっと見たのが少し記憶に残っていた。
東北は方言がきついことで有名な地域だと記憶しているのに、ユウキの言葉からは方言の痕跡が全く感じられなかった。むしろ東京で生まれ育った人々より正確で分かりやすい発音を使っていた。
「でも話すとき、なまりが全然......。」
「努力したからね。」
ユウキは一片の迷いもなく即答した。自分の努力に自信がある人はいつも輝いている。
瞬間、頭がぼーっとする感じがした。もう東京に来てしまって、もう失敗したからと何の変化も生み出そうとしなかった自分。そんな自分の姿を自分でよく知っているから、ユウキの言葉がより一層キラキラと輝いて見えた。
「僕は自分の出身地が恥ずかしくないけど、仕事のとき方言を使うと良く思わない人もいるからね。」
「......」
「仕方ないなら変えるしかないでしょ。」
そう言うユウキの目つきが凛としている。ふざけるように近づいてきた姿とは少し違って見えた。大人になってから言語習慣を変えるのはとても難しいことだから。
こんな風に変わるまでユウキの時間と努力がどれくらいかかったのか、彼の声の後ろにおぼろげに見えるようだった。
「東京にはどうして来たの?」
「やりたいことがあって。」
「やりたいこと?」
「自分の店を持ちたいんだ。子供の頃からの夢だよ。」
夢。僕にはないもの。ゆっくりとユウキを振り返った。ユウキは笑っていた。
僕は料理するのが好きなんだ。他の人が僕の作った料理を食べて美味しいって言ってくれるのも好き。だから絶対に自分の店を持ちたいんだ。そう言いながら、ユウキが夢に膨らんだ顔で明るく、笑っていた。
夢を語る人の顔は初めて見るような気がした。それは鏡の中でも見つけることのできないものだった。
「実は、いつもギリギリに出勤するのもそのせいなんだ。」
「......」
「お昼からは別の店で働いてるんだ。でもここまで来る時間には余裕がないんだよね。シフトを間違えて組んじゃったんだ。」
ユウキが照れくさそうに笑いながら頭を掻いた。本人は未熟なスケジュール管理で恥ずかしがっているが、実際遅刻したことは一度もなかった。それは誰が何と言おうと素晴らしいことだった。
「でもこっちの店でも働くの?疲れそうだけど。」
「店を開くお金も貯めなきゃいけないし、資格の学校にも通わなきゃいけないから、どうしても生活費が少しきついんだ。」
返ってくる答えが元気だった。週末は資格の学校に通って、お昼からは別の店で働いて、夜から明け方まで僕らの店で働きもする。過酷なスケジュールをこなしながらも、ユウキはこれまで目立って疲れた様子を見せなかった。
むしろ他の人がやりたがらないことまで自ら引き受けることが多かった。
ふと顔が赤くなるのを感じる。これまであまりにも多くのものから逃げてきた。慣れない日本語のせいで、会話が途切れるのが嫌で、誰とも親しくなりたくなかった。
仕事がうまくいかないせいで、誰からも好かれないから、いっそのこと嫌な仕事を引き受ける雑用係になってしまう。そんなふうに、あらゆる言い訳をしていた。
恥ずかしかった。でも、変わりたかった。嘘をつかずに、韓国で僕を待っている人たちに堂々と自分の近況を伝えたくなった。それだけが、頭の中に浮かんでいた。
「ジヌくん、乗らないの?」
その時、ユウキが明るく笑いながら急かしてきた。彼はすでに電車の中に体を半分ほど突っ込んでいた。あまり多くの言葉は必要ないと思い、ユウキの肩を軽く押して電車の中に体を入れた。
慌てて電車に乗り込んだユウキが少し首をかしげていた。
「僕は電車乗らないよ。歩いて帰るから。」
「え? あ、じゃあ……。」
ちょうどその時、発車の案内音と共にドアが閉まり始める。ユウキはまだ驚いた顔をしていた。最初の電車を一緒に待ってくれるのは理解できるとしても、改札で交通カードをタッチしてから一緒に乗ってきて、隣にいてくれるなんて考えもしなかったからだろう。僕だって、自分が不思議だ。
「気をつけて行ってね。」
霞んだ電車の窓の向こうで彼に手を振った。そのまま電車が発車するまでその場に立って、山手線の緑の後ろ姿を見送った。
駅はまだ静かだった。しかし、急いで出て行かなければ、早朝に出勤する人たちと会うことになるかもしれなかった。改札前でしばらく周囲を見渡し、立っている駅員と目が合った。駅員は、僕が困っていることに気づき、すぐにこちらに歩み寄ってきた。
「すみません、駅を間違えて入ってしまいました。」
「はい、こちらへどうぞ。」
面倒に思われたかもしれないが、駅員は親切に対応し、駅の一角へと導いてくれた。韓国とは異なり、日本では改札でカードをタッチした後に電車に乗らずに外に出ることができない。もし無理に出られたとしても規則違反となるため、駅に間違って入ってしまった場合は駅員の助けを借りる必要があった。迷惑をかけたようで申し訳なかったが、仕方のない状況だった。
駅の外に出て、再び商店街の方へ歩き出す。面倒に感じることは一切なかった。今回も息がふわりと白く出ていた。今は一人なのに、寒さは感じなかった。
- ジヌくんも気をつけてね!今日はありがとう!!
携帯電話が振動し、連絡先に保存されていない相手からのメッセージが届いた。その相手が誰かはすでに分かっていたが、わざわざ名前を確認するためにプロフィールを開いてみる。
裕貴。
見慣れた顔が丸い枠の中に収まり、明るく笑っていた。僕のメッセンジャーアプリの友達リストに初めて加わった「ともだち」だった。
家に帰ったら、以前目を通しただけだった会話の勉強本をもう一度開こうと思った。




