5話 倦怠感
ジヌ君、クレームだよ。
一瞬視界がぐらつき、心臓が震える。目の前の店長はやや神経質な顔つきでそう告げた。
あるいはやや諦めの表情にも見えた。
それもそのはず、もう今月に入ってこれが三回目のクレームだった。
積もり積もる自分宛てのクレームの多さに、もしかしたら解雇されるのでは、と思うのは当然のことだった。
接客だけでなく日本語すら十分ではない外国人を雇ってくれるところはそう多くない。
ここで解雇され、新たな職を見つけられなければ、残された道は帰国するのみ。
そこまで考えて、ぎゅっと唇をかみしめた。
「うちはただのファミリーレストランだし、接客なんて親切に明るくやってればいいのにさ、何がそんなに難しいかな。韓国でアルバイトとかしたことないの?」
「…本当に、申し訳ありません。」
こういう時にできることは限られている。プライドなんか捨てて頭を下げること。
自分を守るための弁明や釈明を流暢にできるほどの日本語の実力はない。
だからそんな自分は、こういう時ただ黙って悔しい思いのまま受け入れるしかない、仕方がないことだ。
そう言い聞かせながらタイトなスラックスにこすりつけるようにして手のひらの汗をぬぐった。
冷や汗が背中を濡らしていくのを感じる。
あのね、ジヌ君、つまりはね。
店長がもどかしさを隠しきれない様子でまくしたてる。僕のどこがどう間違っていたのかを力説してくれているようだったが、憤慨した様子で早口に吐き出される店長の日本語は半分も理解できなかった。
それでも忠告を謙虚に受け止めるふりをして何度も何度もうなずいた。おそらく僕はまた同じ間違いを犯すだろう。今されている指摘をほとんど理解できていないのだから。
こんな風に、説教すらまともに受けられないことも、僕をひどく苦しめた。
実はこれはある程度予想していたことでもあった。だから、まさに昨日。交代の時間を目前にしたあの出来事のせいだとしても。
見るからに酔っぱらった様子の中年男性の集団が入店してきた。
注文を受けようとするも酔いが回った彼らの発する日本語は、いつも以上に聞き取れない。
「申し訳ございません。もう一度お願いできますか。」を4回も繰り返すと、彼らの中の一人が突然興奮した様子で空中を指さしながら、店長を呼べと叫んだ。
瞬間、その場にいた全員の視線がこちらに向かうのを感じた。
「申し訳ありません。この子外国人なので…」
結局厨房から慌てて出てきた西田さんが、まだ水気の滴る手元をエプロンで拭いつついつものように状況をとりなした。
さっき声を荒げた男性がまだ赤い顔で何かをつぶやき、西田さんがその言葉に何かを返しながら使えない間抜けな店員を後ろ手に追いやる。
もう何度も繰り返された光景だった。
「とりあえず下がってて」
「あ、でも…」
「まったく、日本語もろくにできないのに一体何の仕事をするんだい。なんでこんな子を雇ったのさ。」
「中村君、ジヌ君をお願い。」
顔を上げると冷え切った西田さんの顔があった。言いたいことはたくさんあるのに、何を言えばいいのかわからない。
息がうまくできない。
だから、僕は中村君の後についてよろよろと厨房に身を隠した。結局、またその場から逃げることしかできなかったのだ。
僕のせいで起こったことを自ら処理することもできない。
今の僕はこんな感じだった。遠くから聞こえてくる怒声に怯えながら厨房の隅で身を震わせて時間が過ぎるのを待った。
習慣のように耳を触ると、少し詰まった耳たぶのくぼみに指が止まる。
韓国にいた頃は毎日のようにピアスを付け替えていたのにいつの間にかその小さな穴は詰まってしまって今はその痕をわずかに残すばかりだ。
昔は個性的に着飾った耳と同じくらい自由だったような気がするけど、今となってはそれもとても遠い時代の話だった。
確かにそれも僕と分かるけれど、もう僕ではない。
自分を取り囲む空気が冷え切っていた。目を合わせてくれる人はひとりもいない。
韓国でアルバイトをしていた頃なら、同僚たちが駆けつけて励ましてくれただろうが、ここは違った。
慰めの言葉どころか視線さえも僕を避けて通る。
まるでこの空間にパクジヌという人物は存在していないみたいに、最初からそうであったかのようにみんなが振舞っていた。
一人残らず。それがただ怖かった。
「ジヌ君ってなんでここで働いてるの?」
聞こえるか聞こえないか、それくらいとても小さな声だった。陰口かな?聞き違いかな?それとも、幻聴かな?疲れすぎて?頭の中が急に混乱を始める。
ホールと厨房を仕切るのれんがはためくとともに、西田さんが疲れ切った表情で厨房に入って来た。
脱いだエプロンをやや苛立たしげに棚の上に放り投げた彼は、続けてこちらに視線を投げ、一喝した。
口調に反して優しい言い回しが余計に彼の発する言葉を恐ろしくさせた。
「ジヌ君。この仕事、難しいかな?」
怒りを押し殺した声。答えがわからなくて聞いているのではないということは、僕にもわかった。
そして今僕が任されている仕事が、最も簡単な業務であるということもよくわかっていた。そんな簡単な仕事もろくにこなせず、そしてこの環境にもなじめていない。
僕は一人前からは程遠い人間だった。
「申し訳ありません。」
「その言葉も、もう聞き飽きたよ。」
「もっと…頑張ります。」
「お願いね。」
言い終えると、西田さんはすぐに背を向け去った。周りを見回しても誰かと視線が交わることはなかった。この厨房で完全に孤立していることは明らかだった。
呆れ混じりのため息とともに「ジヌ君」と降ってくる声。僕はやっと昨日から抜け出してはっと顔を上げる。余計な考え事をしていたことがばれないように頭を掻いてごまかした。
店長の声がワントーン下がったような気がするが気のせいだろうか。
「今日はこの辺で先に帰って。」
彼の言葉に特段気を落としはしなかった。しかし、このままクビになるのではという考えがよぎり途端に恐ろしくなった。今ならこの言葉を遠回しの解雇予告ととれなくもない。
でも疲労に満ちた面持ちの店長を前に、もっと働きます、とは言えなかった。
ただ、本当にすみません、出直してきます、と深く頭を下げながら店を去るしか僕に残された選択肢は無いようだった。
こんなに早く店を出るのは久しぶりだった。いつもなら、一緒に働く人に申し訳ないという気持ちで、後片付けを全て引き受けて遅くまで残っていたけれど、今日はそれもできなかった。
家まで続く道はあまりにも長く、靴底をアスファルトにずるずる引きずって歩いた。
本来なら嬉しいはずの早退も、今日はちっとも楽しくない。
足の向くままに歩いていると、家の近くの公園にたどり着いた。中途半端な時間帯の公園は閑散としていて人気がなく、僕はこれと言って行く当てもなかった。
だから適当にその辺のベンチに腰掛けることにした。これ以上歩けそうになかった。
体がしんどいんじゃない。心がもう無理だと言っていた。
ベンチの背もたれに寄り掛かった途端、長い溜息を口をついて出た。
ワーキングホリデーとは名ばかりで、休みの日だからと言って予定があるわけでもない。かといって、仕事をうまくこなしているわけでもない。
ただの抜け殻のような日々。良好と呼べる対人関係は特にないどころか、唯一の居場所である職場では厄介者扱い。
先が真っ暗で何も見えなくても、僕が望んだワーキングホリデーの姿ではないことは明白だった。
僕はなぜ日本に来たのだろう。そんな根本的な疑問がふと浮かぶ。
韓国を発つ前に周囲に伝えた「経験を積むため」というのは耳触りの良い建前に過ぎなかった。
心の奥底を覗くと、僕が隠し去ろうとしていた本心が顔を出す。
そう。ただ現実から逃げ出すように日本に来たのだった。
日本まで来れば何か目標の一つや二つできると思っていた。そんな軽い気持ちだった。
卒業を目前にして進路が何も決まっていないという計画のなさと、だからと言って名の知れた企業以外の場所に勤めることを許さないプライドの高さを同時に持ち合わせていた。
そうしている間にずいぶんと後れを取っていることにだいぶ遅れて気が付いた。
周りがインターンをしたり資格取得に励んだりしながら方向性を定めていく中、ただ一人いつまでも何もない道をさまよっていた。
最終的には就活生という肩書きすら負担になり、経験を積む、という中身のない名目でも掲げて何としてでも逃げたくなった。
そうして一夜漬けのようにしてJLPTをとり“ワーホリ”ビザを取得した。その資格だって留学や就職のために必要なN2ではなく、日常的な読解や会話だけが可能とされるN3をぎりぎりで取得したのだった。
自分が一体どうやってN3を取得できたのだろうかと疑うほどに、ろくな準備をしていなかった。
つまり今僕がこうやって会話ができずに苦労しているのは当然の結果だった。この状況は自ら招いたものに過ぎない。
僕の挑戦なんてとてもじゃないけど誰かに自慢できるようなものではなかった。
「僕には本当に何にもないな…」
ただただ虚しかった。特別が求められる世界で、特別ではない自分。
もしかすると僕はその事実から一番目を背けたかったのかもしれない。僕はいたって平凡で取るに足りない人間だ。
みんな言うじゃないか。海外で暮らすことは、見聞を広げてくれ、その後の人生の基盤になってくれるって。
しかしそうではないと今ではわかる。
どこに行ったって、人の住むところであることに変わりはない。同じように辛く、同じように不安定で、同じように苦しい。
その時ポケットの中で形態が振動した。
もたもたと携帯を取り出して画面を見ると、見慣れた4文字が浮かんでいた。
お母さん。
今声を聞いたら泣いてしまうかもしれないと、一瞬躊躇したが、しばらく連絡を取っていなかったことを思い出した。
気は進まないが着信がそろそろ途切れそうだというところでようやく受信ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、今仕事中?』
「いや、まあ、大丈夫です。」
久しぶりの電話だからか、どこかぎこちない。
母はいつだろうと優しい声で迎えてくれるのに、僕はそうはできない。
温かい言葉を並べたくてもうまくできなかった。
「なんで電話したんですか。」
『ただうちの子が元気にしてるかなって気になってかけたのよ。』
良心がチクリと痛んだ。忙しいからと言い訳ばかりして母への連絡を怠っていたことへの罪悪感が今になって顔を出す。
母はきっとたくさん心配をしただろう。だからこそ余計に申し訳なかった。
僕は何一つうまくいっていないんです、という言葉が何度も頭の中を行ったり来たりする。
『仕事はどう?大丈夫?』
「…まあまあ、大丈夫です。」
『まあまあってなによ?うまくやっているの?』
「はい、うまくやってますよ。周りの人とも仲良くやれているし、仕事も僕に合っているようで店長さんに褒められることもあります。」
一度口を開くと、自分でも驚くくらいすらすらと嘘が飛び出してくる。
母を安心させるため、とは言えど咄嗟についた嘘とは思えないほど完璧な虚構の僕に吐き気がする。
一体いつからこんなに嘘つきになってしまったのだろう。
『それならよかったわね。言葉の通じない異国の地で、人間関係で苦労したりしたらどうしようかと心配してたのよ。』
「僕の性格をよくご存じじゃないですか。大丈夫ですよ。」
必死に冗談で取り繕う自分の声がかすかに震えるのを感じる。
電波が邪魔をして乱れるカカオトークの音質が、僕のみじめさをうまく隠してくれることを切に願った。
韓国では、どこでもすぐに溶け込める人間だった。流行に敏感で、常に全身を着飾り、一日でも人に合わないと体がむずむずして耐えられなかった。
しかし今はまるで違う。
流行に疎く、クローゼットの中に掛けられた服はすべて無味無臭で、休日に合うような友達もいなかった。
今の僕が韓国にいた頃の僕とはまるで違う人物であるという事を母に知られたくなかった。
『そうね、あなたはどこに行ってもうまくやる子だから。』
余計な心配だったわね…。電波越しに、母の声が和らぐのを感じた。声に乗って母の愛情と信頼が溢れてきた。
「はい。僕…ここに来てよかったです。」
自分で言っておきながら、なんで今この一言を付け加えたのか自分でもよくわからなかった。
すでに十分すぎるほどの嘘で母を安心させたのに、なぜ僕はこんなことを言ったのだろう。
実は毎日後悔していた。
もう少し日本語の準備をして来ればよかった、もっと前に交換留学生として来ておけばよかった、何でもいいから他の資格も取得してから来るべきだった、なんとかなるだろうという漠然とした自信だけで、むやみに日本に来るんじゃなかった…。
眠りにつこうと目を閉じるたび、そんな自責の念にうなされて苦しかった。
日本に来てしまった以上、今更後悔してももうどうしようもないと分かっていながら、思考を止めるすべはなかった。
『でもね、ジヌ。』
「はい。」
『万が一とても辛くなったら、いつでも戻ってきていいんだからね。』
「心配しなくても平気ですってば…。」
終盤に行くにつれ、声から力が抜けていく。不思議な気持ちになった。
脱力感のようでもあり、罪悪感のようでもある。
些細だけれど確かに、何かが心の中を満たしていくのを感じる。
だから、そのあとは「はい、はい」と答えるだけで、気づいたら母との通話は終わっていた。
どうやって電話を切ったのかもわからないが、電話を切って、床に伏せてしばらく泣いた。
どんなに振り返ってみても僕の嘘は余りにも現実からかけ離れていて、だから余計に僕は泣くしかなかった。
日本に来てから、初めてちゃんとできたこと。
思い切り泣くこと。だからこれは勝利の涙だった。
腫れぼったい目で家に帰り、真っ先に強く感じたことは、明日が出勤日ではないということへの安堵だった。
休みの日とはいえ、特別な予定はない。
ただ、一日を終えて再び訪れる出勤が怖いだけだ。
明日の僕は明後日を恐れ、明後日の僕は逃げ出したいと思うだろう。
ふと、帰りたいと思った。




