第二十一章 内証の姫君(2)
「……うわ、山岡さん」
山岡栄治。
どちらかというと、瑠璃以上に今一番顔を合わせづらい相手であった。
促しもしないうちに、栄治は勝手知ったる体で道場に踏み入る。
擦れて薄くなった袴の裾は雨に濡れ、脚に纏い付いて煩わしそうだ。
「銃太郎。おまえに断っておくことがある」
「な、何ですか」
表情の変化に乏しい栄治が真顔で迫ると、上背で勝る銃太郎でもたじろぐ凄味が漂う。
「試合に出るって話なら、私に断る必要はないですよ。瑠璃が望んで山岡さんを推挙するんですから」
どうせその話だろうと見当をつけ、銃太郎は言いながら顔を背ける。
「何だ、姫はもう白状していたか」
筒抜けかと呆れながら、栄治は拍子抜けしたように肩を窄めた。
「まあいい。では銃太郎、姫が先代の末姫だというのは知っているか」
「……え?」
「殿の養女ではあるが、元は先代の末の姫君だ」
瑠璃自身が現藩主を父と呼ぶのを、素直に受け取っていた。
瑠璃の奔放ぶりを噂する者はあっても、その生立ちについて語る者はない。
江戸に遊学中の藩邸内においても、それは同様であったし、特に気にしたことすらなかった。
ぽかんとする銃太郎を尻目に、栄治は淡々と語り出す。
「姫の生みの母は、先代の御側室だ。姫を産んですぐに亡くなったらしいが、元は大野屋の芸妓だそうだ」
「え……、何です急に。そんな話、一体誰から──」
「随分前に、姫から直に聞いた」
付き合いはそれなりに長いから、と言い添えて、栄治は胡坐をかく。
俄かには信じ難い話を受け止めかねて、銃太郎は思わず眉根を寄せる。
全くない話ではないが、単純に側へ召上げることも出来ないはずである。
街道から城下町へ入ると、遊郭がある。
自ら出向いたことはないが、店は二十軒以上もあり、中でも大野屋は大身の家中も出入りしているという話だ。
恐らくどこかの家の養女となり、それから城へ上がったものだろう。
「家老座上の丹羽丹波がいるだろう。あの方が家督を継ぐ以前のことだ」
即ち、先代丹波の頃の話である。
「姫の母は、丹羽丹波家の養女を経て城へ上がった。これも姫から聞いただけで、真相は俺も知らん」
「!?」
今度こそ、銃太郎は瞠目した。
この話が事実なら、当代の丹波と瑠璃は、形式上叔父と姪の関係になる。
「では何故、丹波様は瑠璃を降嫁させようなどと──」
「別に姫を疎んじているわけではないと思うぞ」
「しかしそういう繋がりなら、瑠璃を若君と娶すほうが、丹波様には都合が良いのではありませんか」
「権威だけを考えればな。だが、今は情勢が違う。大垣との繋がりを重視しただけかもしれんぞ」
栄治はそう続け、真正面からじっと窺う。
「そこで例の試合だがな。俺は正直、青山が勝ち抜けばそれで良いと思っている」
端的に述べられた意見に、銃太郎はぴくりと頬が引き攣るのを感じた。
「──御家老方の考えに賛同する、ということですか」
「いや、重臣連中への賛否はこの際関係ない。姫の今後を思えば、青山が適任だろうと思ったまでだ」
さらりと述べられた意見に、銃太郎は内心でむっとした。
青山が適任だ、という一言には、他の誰も青山には敵うまい、という意味合いが込められている気がしたのである。
「姫は阿呆だが、阿呆ではない」
「……いや、どっちですか」
「ろくに考えもせず跳ね回っているように見えるが、あれは今でこその姿だ」
「………」
一体、何が言いたいのか。
道場の高窓からは、雨天の暗がりが覗き、時折霧を含んだ風が吹き込む。
風も幾分強まってきたのか、庭の灌木がざわざわと鳴っていた。
湿った木の匂いが漂い、銃太郎の胸中に掛かる霧までも一層濃くなっていく。
「姫の弱み辛みを側で見てきた青山が、勝ちを取りに行くと言った意味は、でかいぞ」
「瑠璃の弱み、ですか」
瑠璃の過去に何があったかは、当然知る由もない。
だが、目の前の山岡栄治、青山助之丞の二人はそれを具に見てきたという口振りである。
一見して、両者の間には特段の深い関わりはないらしいのに、偶々瑠璃という存在を介して、間接的に謎の信頼関係があるようにも見えた。




