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花浜匙  作者: 遠華鏡
蓬初慕編
7/8

第6話「一難去ってはまた一難」

初任務③を描き直しました。

 それから数刻後。太陽は姿を隠し、月が主役の時間となった。

 無慚と篝は、通信所の露天風呂に入っていた。

「喉すぐに治ってよかったね」

「今日ほど神の再生能力に感謝したことないわ」

「それは言い過ぎでしょ」

「いやほんとに」

 首を摩りながらほっと息をつく篝。その様子を見つめる無慚は篝が吐いた大量の血を思い出し、普段からあれぐらいの量を出しているわけではないのだと察した。

 篝の喉は、文字通りすぐに治った。

 無慚が篝を部屋に運んだ頃にはすっかり治っていた。声も普段通り出せるようになっており、一気に大量の血を失ったことで貧血を起こしていたが、それ以外は何も問題はなかった。

 篝の喉がすぐに治ったのは神の特徴の一つ、再生能力のおかげである。傷が癒えるのに時間のかかる人間とは違い、軽傷なら数秒、中傷程度なら1分ほど、重傷なら1日で傷が癒える。四肢欠損をした場合でも1週間で失った手足が生えてくる。

 高い再生能力のおかげで、篝の喉は無事治ったのだ。

 この再生能力は神となった瞬間に備わるものであり例外は存在しない、はずだった。

「イテテ、お湯が傷に染みる……」

 無慚の体には無数の傷がある。それは蓬初慕に着くまでのひと月の間についたものであり、本来であればすでに治っているはずのものだった。しかし、ひと月前についた傷は未だ治りかけの状態で、他の傷も同様もしくは治っていない状態だ。

 なぜ無慚に再生能力が付与されていないのか。それは本神(ほんにん)でもわからなかった。

「大丈夫か? 入る前にも言ったけど、傷だらけの体で長湯するもんじゃない。そろそろ出よう」

 傷に湯が染みたのを痛がる無慚に、篝は風呂から上がることを促した。

 無慚は文神殿で初めて風呂というものに入り、湯に入っただけで体が休まる感覚を覚えた。シャワーを浴びてその日の汚れを綺麗さっぱり落とし、湯に入って体を休ませる。その時の心まで暖かくなっていくかのような不思議な感覚に、無慚はすっかり虜になってしまった。

 要するに風呂好きになったのだ。

 そんな無慚が自らの不幸のせいでひと月も風呂に入れなかった。それは言い方を変えればひと月風呂を我慢したということになる。

 我慢に我慢を重ねた先で、待ち望んだものが現れればたとえ傷だらけだとしても入るのが風呂好きの性というものだろう。

 しかし、傷だらけの体で長湯は良くないことを入浴前に篝からこんこんと説かれ、長湯はしないことを約束したのも記憶に新しい。

 無慚は少し不満そうにしながら、篝の言葉に従うことにした。

「はぁい……」

 不貞腐れながらも湯から出る無慚の頬を突きながら、篝は慰めるように言った。

「不満そうにするな。傷が治れば好きなだけ入れる」

「えー、傷が治るのってどのくらいかかるの?」

「これ以上怪我をしないのなら、あと1、2週間ぐらいだな」

 篝の言ったことは、無慚にとって到底無理なことだった。

「無理だよ、これ以上怪我しないなんて。明日から任務もあるのに。何が起こるかわからないよ? 主に僕が引き寄せる不幸関連で」

「どれだけ周りに気をつけても斜め上の方向で不幸な目に遭うからなぁ……」

 篝は遠い目をしながら、ひと月の間に会った不幸を思い出した。奇妙かつ唐突な不幸は無慚と篝に激しい雨のように降り注いだ。

 どれだけ警戒しても必ずやってくる不幸で怪我をするなと言うのは無理な話だ。

 だけど、と篝は言葉を紡いだ。

「結果はそうだったとしても、軽減できたものはあっただろ?」

 はっと無慚が目を見開く。

 確かにそうだった。

 無慚が動物用の罠にかかり足を切断しそうになった時、咄嗟に篝が素手で罠を破壊したことで無慚はかすり傷で済んだ。篝が沼地にはまりそうになった時は無慚が助け出した。一緒に落とし穴に落ちた時、森の主に追いかけられた時、迷子になった時、様々な不幸に襲われたがその度に無慚と篝は助け合ってきた。その結果、本来負うはずだった怪我はかすり傷や切り傷程度で済んだ。

 もしこの任務を任されたのが無慚だけであれば、まず5体満足ではなかっただろう、今頃蓬初慕についていたかも怪しい。しかし、無慚には篝が居た。だからこそ軽減できたこと、解決できたことが多くある。

「確かにそうだね。篝が居てくれたおかげで、怪我をしないわけではないけど、酷い怪我はしていない」

「俺も色々助けられたし、無慚の傷をかすり傷程度に留められれば風呂には入れる」

「おお! ありがとう篝! きみのおかげで新しいことに気づけたよ!」

 先程までの不満そうな顔はすっかり姿を消し、喜色満面の笑みで無慚は礼を言った。

「ははは、どういたしまして」

 礼を言われた篝は少し照れくさそうにしながらも嬉しそうに笑った。



      ◇◇◇



「あれ、僕の服がない」

 服を入れていたはずの籠を見て無慚が呟いた。

「え?」

 隣で着替えていた篝は驚いて無慚の籠を覗き込んだ。無慚の言う通り、そこには本来入っているはずの黒の長袍がなかった。あるのは、普段から無慚が顔に掛けている狛犬の面だけだった。

 素っ裸の無慚は近くの籠の中を探すが、服は見つからない。

「ヘクション!」

 季節が秋なこともあり、夜はとても冷える。寒さに耐えきれず、無慚がくしゃみをした。

 篝はすぐに自分の上着を無慚に掛けた。この上着は蓬初慕についた時着ていた篝の上着ではない。予備の上着だ。蓬初慕に着いた時着ていた上着も服も、汚れと破れている箇所が多々あったため洗濯に出している。任務では何が起こるかわからない、故に篝は予備の服を何着か持ってきていたのだ。

 しかし無慚はそうではない。

「あの服って確か予備ないんだよな」

「うん。僕服はあれしか持ってないよ」

 無慚は寒さに体を震わせながら篝の上着に包まった。

 篝は無慚よりも体格が良く上背もあるため、無慚は篝の服にすっぽりと包まれてしまった。

「俺の予備を貸そう。部屋まで取りに行ってくるから、ちょっと待っててくれ」

 そう言うと篝は急いで着替え、走って脱衣所を出ていった。

「持ってきたぞ」

 1秒にも満たずに帰ってきたが。

「ありがとう! でもはやいよ! 1秒もかかってないじゃん!」

「こうしてる間にも無慚は寒さに震えているんだなと思ったら、早く帰らないとって」

「その心遣いはありがたいけど、こうしてる間にって何?! 1秒にも満たない時間で何をしていたって言うんだよ!」

「ちょっと時空の狭間を迷子になってて……」

「足速すぎて時空の狭間に行っちゃってたの?! 無事に戻ってきてくれて良かったよ! 僕のためにありがとう!」

 篝の足の速さは異常だ。しかし、時空の狭間に行けてしまうほどの速さを出せてしまうことに、篝の足の速さを知っている無慚は驚いた。篝曰く足の速さは生まれつきらしいが、何がどうなればそんなに早く走れる子供が生まれると言うのだろうか。亡き篝の両親にそう訊きたくなった無慚だった。

 受け取った服を広げれば、着たことがない形状の服だった。そもそも篝の服自体が特殊な構造かつ形状をしているため、初見で着れないのは当たり前のことだ。

「ねぇ篝、僕この形状の服着たことないから着方教えて」

「いいぞ」

「ありがとう」

 篝が教えてくれたことで無慚はなんとか着れたが、服が大きすぎて不恰好な姿になってしまった。しかし、それに気づかない無慚は、服がなくなってしまったことを残念がりながら篝に感謝を述べて脱衣所を出て行った。

「…………まぁ薬塗る時にまた脱がせるし、そん時調整しよう」

 無慚の姿が不恰好であることに気づいた篝だったが、どうせまた脱がせるからと指摘しないことにした。



      ◇◇◇



「あ、神器忘れた」

「これが、僕らを襲う不幸の始まりでした……」

「不吉なこと言うな」

「不吉の象徴に何言ってんのさ」

「そういえばそうだった……多分脱衣所だと思う、先帰っててくれ」

「はーい、行ってらっしゃーい」

 軽口を叩き合っているが、緊急事態である。神器は持ち主以外は扱えないという特性があり、主人以外が扱おうとすれば怪我どころでは済まないことが多い。力を抑えている状態でも危険な神器もある。ちなみに篝の神器がそれだ。故に肌身離さず持っておくのが暗黙のルールとなっている。

 疲れ切っている篝はすっかりそのことを忘れている。しかし、頭は覚えていなくとも体は覚えているのか、早歩きで脱衣所に向かって行った。

 篝を見送った無慚は、丈の長い服に足を取られながらも部屋についた。

 外は既に暗く、夕陽によって照らされていた部屋の中は外と同じくらい暗くなっていた。

 部屋に戻ったら情報の整理と明日の予定を決めると話していたため、無慚は暗闇に目を慣らさせ、識から預かった資料を畳の上に置いて読みながら篝の帰りを待った。ひと月の迷子生活の間に、篝に文字の読み方を教えてもらった無慚は、資料に記載されている文字をわかるところだけ読んでいく。

「を、かれた、の、体? だめだ、多分大事なところなんだろうけど読めない。なんて読むんだっけ、この字」

 世界各地から昇る神々が正確に意思疎通を図れるように、天界には共通言語というものがある。貧困で学舎に通えなかった者や無慚のような特殊な環境で育った者以外、つまりは学のある者達であれば少し教わればすぐに扱えるような言語が共通言語だ。開錠門ができるよりももっと大昔に天界で作られた共通言語は、いつの間にか人間界でも使われており文字を知らない無慚でも話せている。

 そんな共通言語で資料は書かれてはいるものの、文字に触れたことのない無慚には角張った形の変なものにしか見えなかった。篝に教えてもらったとはいえ、常に降りかかる不幸が穏やかな時間を許さず簡単なものしか覚えられなかったのだ。

 うんうんと蹲りながら考え込んでいると、部屋の襖が開いた音がした。そちらに顔を向ければ、神器である赤いチェーンを腰に下げ、煤だらけの手を握りしめる篝がいた。

「おかえり篝、その手はどうしたの?」

「……ただいま」

 帰ってきた篝は、暗闇でもわかるほどにどこか苦しそうで悔しそうな顔をしていた。返事も力がなく、無慚の問いにも答えない。

 出会った時から見ることがなかった影が差した篝の表情を、無慚はこのとき初めて見た。

 開きっぱなしの資料はそのままに、無慚は篝に駆け寄った。

「何があったの」

 普段の朗らかな気配は身を隠し、触れれば忽ち肉が腐り落ちるかのようなドロドロとした黒い気配が無慚を支配した。

 その気配に当てられたのか、ビクリと篝が肩を揺らした。

 怖がらせてしまった、と内心反省をする無慚だが、どうしても今の態度を改められる気にはなれなかった。

 無慚は他者の機敏がよくわからない。しかしそれは、親しい人物以外のという条件がつく。

 ひと月の迷子生活の間に親しくなった篝は、無慚にとってもはや他者ではない。焔や颪に比べれば優先順位は低いものの、100万人の命と篝のどちらかしか助けられない状況でどちらを助けるかと訊かれれば、迷うことなく篝と答える自信がある。

 無慚にとってそれだけ大切な人となった篝が、なぜか暗い顔をして帰ってきた。冷静でいられるわけがないのだ。

「篝、僕はきみに怒ってるんじゃない。きみにそんな顔をさせた奴に怒っているんだ。教えて、何があったの」

 優しい声で話しかけようと努力はするものの、喉から出た声は威圧とも呼べる重く暗いものだった。口調は普段通りであるはずなのに、威圧感ある声がまるで無慚が篝に怒っているかのような印象にする。

 篝が何かを言おうと口を開いたり閉じたりを繰り返す。目はキョロキョロと忙しなく動き、冷や汗をかいている。ついには顔を伏せてしまった。

 どうにも言いづらい事のようだが、無慚は構わず篝の言葉を待った。言いづらいなら言わなくてもいい、なんて言える余裕が無慚にはなかった。

 数分の時間が、何時間も経っているような心地に無慚はなったが、それでも構わず待ち続けた。そうしてひとつ、深呼吸をした篝が意を決したように顔を上げた。

「……無慚の、服が、見つかっ、た……でも、その、また、着れるような、状態じゃ、なくて」

 弱々しく話し始めた篝の顔は、部屋に帰ってきた時よりも暗いものだった。



      ◇◇◇



「良かった、あった」

 赤色のチェーンを握り、篝は安堵の息をこぼした。チェーンを腰につけながら、忘れ物がないか、つまりは無慚の服がないか探しながら脱衣所を一周する。()()()()()()もう忘れ物は見当たらず、篝は肩を落として脱衣所を出た。

 廊下を歩きながら、篝はなぜ無慚の服がなくなったかを考えた。

「うーん、やっぱり()()()に間違えて持ってかれたか?」

 あの時というのは、無慚と篝が大浴場に入ってきた時のことだ。

 あの時間帯はあまり大浴場を使う神がいないため、落ち着いて入れると思い脱衣所で服を脱いだ後、大浴場の扉を開けたのだ。久しぶりに風呂に入れることを知り、喜んでいた無慚の顔が篝の脳内に浮かび上がった。

 しかしさすがは凶事の神と言ったところか、扉を開けた先には大勢の神の姿があった。無慚達の任務とは別の任務で来ている神々は、ちらりと無慚を瞳に映した途端、風呂に入って血色が良くなった顔を青ざめさせて我先にと大浴場から出ていったのだ。その際、大群を避けきれなかった篝は何度も足を踏まれ、無慚は筋肉の塊とも思えるような体格をした男神――どこかの神殿の武神だろう――に吹き飛ばされ背中を壁に強打し、痛みに悶えている中、「邪魔だ!」と別の男神に言われ腹を蹴られていた。

 一瞬にして脱衣所は混沌と化し、嵐が去ったのは無慚達が大浴場に足を踏み入れて十数分ほど経った後だった。

 ()()()()無慚達が服を入れる籠の棚の近くに、他の神々の服の入っている籠がなかったことで今は空いているのだと誤解し災難に見舞われたあの時、脱衣所は押し寄せた神々で満足に着替えることもできないほどになっていた。中には自分の服を掴んで、ほぼ全裸の状態で部屋まで駆けていった神もいるほどだ。その際に間違えて無慚の服を持っていってしまった神がいてもおかしくはない。

「あの人数だ、通信所も広いし探し出すのは大変だな。でも返してもらいたいし、とりあえず無慚に説明して任務と並行して探すしか……」

「あら、そこにいらっしゃるのは焔第一神官が寵愛する篝殿ではありませんか?」

 水飴のような声が、篝の足を止めた。

 振り返ると、赤いサリーに身を包んだ美しい女性神官が立っている。彼女の姿を視界に入れた途端、篝から全ての表情が消えた。

 彼女の名前は、デェア・フェアファル。世界の東側の地域から昇った繁栄を司る神殿の女神である。階級は第一神官だ。

 細くしなやかな体に、宝石の如き輝きを放つ黄金の瞳、褐色の肌に傷はなく、濡羽色の髪は艶があり美しい。すっと通る鼻筋、女性的な美しさの中に赤子のような愛らしさを持つ顔立ち。声はまるで水飴のように甘く耳に残り、もう一度聞きたくなるような中毒性を持っている。

 美の結晶と天界で呼ばれているデェアの呼びかけに、篝は無表情で応えた。

「……焔様は私を寵愛などしていません。ただひとりの部下として気にかけてくださっているだけで御座います。それで、一体何の御用でしょうか。デェア・フェアファル第一神官」

 デェアを捉える篝の瞳は、燃え盛る炎の色を持つ瞳とは反対に、凍てつく冬のような冷たさを持っている。

「うふふ、言葉のあやというものですよ。そんなに怒らないでください」

 口元を手で隠し、上品に笑うデェアの姿ははさながらどこかの貴族令嬢のようだ。しかし、篝はその態度が気に入らない。眉間に皺を寄せながら、再度訊いた。

「それは失礼しました。それで、何の御用でしょうか」

「そんなに急かさないでください。私は貴方とお話がしたいだけなのです」

「お誘い大変嬉しく思いますが、私は今急いでおりますのでまたの機会に」

 そう言って階段を登ろうとする篝を、デェアは腕を引いて引き留めた。細腕に似合わず、随分と怪力だ。

 ミシリ、と骨の軋む音がする。

 篝は痛みに顔を歪めるが、デェアは構わず耳元で囁いた。

「今日は、通信所にいる()()()()のせいで、みんな部屋で息を潜めています。いつもは五月蝿いくらいの場所なのに、足音ひとつ聞こえない。私、静かなの苦手なんです。何か出るんじゃないかと思って、胸がざわめいて、とても怖い。このざわめきを、貴方に消して欲しいのです。お願いしてもよろしいでしょうか?」

 篝の大きな手にデェアの小さな手が重なる。逃がさないとでも言うように掴まれた腕には、態とらしくデェアの豊満な胸が押しつけられている。

 デェアの瑞々しい肌が腕に触れた瞬間、篝の全身に鳥肌が立った。

「っ! ()()()()相手をお探しでしたら、他をお当たりください。先ほども申し上げた通り、急いでいますので。失礼します」

 力の限りに掴まれた腕を振ると、素直にも小さな手はすぐに離れた。その事実に、篝は心の底から安堵した。

 篝はデェアに何の興味もない。豊満な胸も、美しい顔もきめ細やかで瑞々しい褐色の肌も、何の興味もないものだ。むしろ嫌悪している。視界にも入れたくない存在だ。

 無遠慮に触られた腕が気持ち悪い。

 デェアと話すだけで、精神が削がれる感覚がする。

 篝はデェアが嫌いだ。

 初めて会った時、篝はデェアに性的な意味で食われかけたからだ。

 繁栄を司るからなのかどうかは分からないが、デェアは性欲が強い神として天界では有名だ。天界の秩序を乱す者として一度は軍に危険視され監視期間を設けられたが、その欠点以外は完璧であり人望もあったため早々に監視は外された。その話は、逆境を持ち前の性格の良さで生き抜いた美談として天界と人間界で長く語られている。

 しかし実際は、軍の武神達や手籠にしやすそうな神々を体を使って籠絡し自分の味方につけ、後は持ち前の器用さで完璧な女神に化けていた、というだけだ。

 その事実を知っているのは、想起書冊の持ち主である識と軍を率いる将軍、そして風神殿と炎神殿の者達だけだ。

 事実を知った識が行動に移すよりも早くデェアが動いていたため、識が天主に事実を報告した時には既に監視は外されてしまっていた。天主も識の話を信じることはなかった。

 そういった経緯もあり、決してひとりでデェアと会っては駄目だと焔から篝は言われていた。

 誰よりも敬愛する焔からの忠告に従わないと言う選択肢は篝にはなく、天界に昇って半世紀ほどはデェアという女神がいると言うのは知っているものの会ったことはない、と言うごく普通の距離感を保っていた。

 しかし平穏は突然崩された。

 250年前のある日、篝は任務帰りにデェアの配下達に拉致された。筋弛緩剤で体の自由を奪われ、神気(しんき)封じの札で炎を出すことも出来なくされた。そうして連れてこられた場所はデェアの住まう神殿だった。

 抵抗できないなか、無遠慮に体を弄るデェアの手の感触を覚え込まされたあの時間。地獄とはまさにこのことか、と何度思ったことだろう。

 幸か不幸か、帰還の連絡を入れたにも関わらず帰りの遅い篝を心配した焔が、第六感で篝の危険を察知し術で強制帰還させたため()()()()されることはなかったが、篝の心には永遠に消えることのない傷がついた。

 傷は今も癒えることはなく、真新しい血を垂れ流している。

「それは残念です」

 水飴のような声が耳に触れた。

 篝は自分がいつの間にか過去に意識を飛ばしていたことに気づいた。嫌なことを思い出して、気分は最悪だ。

「でも、貴方は怖くないのですか?」

 デェアはそんな篝の様子に気づいていないのか、それとも興味がないのか分からないが、よくわからないことを訊いてくる。

「何がでしょう」

 ウンザリした様子を隠すことなく訊き返す。

 この場から早く立ち去りたいと強く願うが、デェアはひと通り会話をしないと粘着質な蛇のようにいつまでも追いかけてくる。そのため、もう暫くはこの場にいなければならない。

 面倒で嫌なやつに捕まった、と篝は心の中で愚痴た。

「あの邪害神のことですよ」

 わかりきっているでしょう、とでも言いたそうにデェアの黄金の瞳が篝を捉える。

 篝は顔を顰め、眼差しは更に冷酷になっている。

「私はあの方を怖いと思ったことはありません。今までも、これからもです」

 篝は湧いてくる怒りを抑えるように、手を握りしめた。力を込めすぎて拳が震えている。

「そんな無理をしなくても大丈夫ですよ? 手が震えていますね、可哀想に」

 手が震えているのは恐怖からではなく怒りからなのだが、デェアはそんなこと知る由もない。

 離された腕をデェアはまた掴んできた。

「焔様と颪様のように洗脳されているのですね。その様子から見るに、かかったばかりでしょうか。ぼんやりと自覚はしてるみたいですね。でもそのせいで疑心暗鬼になってる。可哀想に、本当に可哀想。私は貴方を助けたいだけなのです。私の言葉をどうか信じてください」

 つい先ほどまで閨の相手をさせようとしてきた女の何を信じろと言うのか。抑え込んでいた怒りが、また沸々と湧いてきた。

 篝は力の限り手を振り払うと、青筋を立てデェアを睨んだ。

「お言葉ですが、デェア・フェアファル第一神官。私も焔様も颪様も洗脳など受けておりません。貴方の勘違いです。あの方は、無慚はそんな事しません。言いがかりはやめてください」

 明らかに激怒している篝の表情を、まるでハッピーエンドの物語でも読んでいるかのような顔でデェアは見つめた。

「……そうですか。貴方がそちらを選ぶなら、私はもう何も言いません」

 デェアは篝の腕を離し一歩引いた。会話終了の合図だ。癖なのか、デェアは会話を終わらせる時いつも一歩引く。

 篝はそれを確認すると、登りかけていた階段を今度こそ登っていく。

「そういえば、今日お風呂から急いで上がってきた方達が、大きな真っ黒い()()を脱衣所で拾ったって言っていまして、あまりにも汚かったから燃やしたんです」

 その言葉に、篝は足を止めざるを得なかった。

「…………………………は?」

「黒い布って、不吉でしょう? あの邪害神が着ている服と同じ色ですし、そんな物があったら何があるかわかりません。それに、随分とボロボロでしたからいらない物だと思って、中庭で燃やしたんです。布ですからよく燃えました」

 デェアの横を、炎の風が吹き抜けていった。階段に篝の姿はない。

 デェアは変わらぬ笑顔で、熱い吐息を吐いて呟いた。

()()を見て、どんな顔をするのかしら。確認できないのが残念だわ」



      ◇◇◇



「それで、中庭に行ったら焚き火の跡があって、灰の中探したんだけど、布残ってなかった……ごめん、ごめん無慚。俺がもっとちゃんとしてれば、こんな事には…」

 責任感の強い性格をしている篝は、自分の不甲斐なさを実感していた。

 神々が無慚を恐れていることを知っていた。だからこそ、軍以外の神が干渉してくることはあまりないと考えていたのだ。

 基本的に神というのは、信者や同じ神殿の者以外、つまりは身内以外に興味を示さない。自尊心は高いが、それゆえの無謀な行動をすることはなく保守的で、他神殿のことには無関心だ。原初の神が主を務める神殿はまた違うが、基本的に神というのはそういうものだ。

 だからこそ、直接干渉してくることなどないと考えていた。いや、油断していた。そして忘れていた。神というのが、とても陰湿なことをするものだというのを。

 自分の油断が無慚への被害に繋がった。その事実が、篝の心に重くのしかかっている。

 悔しさで涙が出そうだ。

「なるほど」

 篝の話を聞いていた無慚が相槌を打った。

 篝は無慚が今どんな顔をしているのか分からない。

 怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。()()()()()()を予想できないで、よくもまあ任務前の自分は先輩だから色々教えてあげようなどと思ったものだ。

 何が先輩だ。烏滸がましい。

 篝が自責の念に駆られていると、話は終わっているというのにうんうんと頷いていた無慚がとんでもないことを言った。

「つまり、名前は忘れたけどその女性神官を200発ぐらい殴れば万事解決ってことだね」

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