第3話「無作法な訪問者たち」
「ええと、この世界は天界と人間界があって、神様が住むのが天界で、人間が住むのが人間界。法律で神様が天界に住むことが義務化されてるのは、人間界のいざこざに神様が巻き込まれないようにするため、で合ってますか?」
無慚が顳顬に指を当てながら識に聞く。
「はい正解です。では次の問題、天雷の送りとはなんですか?」
「うんと、人間が正式に神になるときに落ちる雷が天雷で、天雷によりその人が天界へ送られるので天雷の送りと言われています!」
「正解です! 次の問題です。主と神官、配下とは何ですか?」
「主は多々ある神の系統の中で、一番古い神もしくは原初の神が務める役職のことです。神官と配下は主の部下の神のことで、神官には階級があって第一神官から第五神官まであります。神官の部下に当たるのが配下で、実績を積むと神官になります!」
「素晴らしい!」
識の質問に無慚が元気よく答えると、識は笑顔で褒める。
「最後の質問です。無慚様の系統と仕事内容は何ですか?」
「僕の系統は禍津日神で、僕が原初の神です! でも天主様が僕を主として認めていないので、実質配下みたいな感じです! 凶事や災厄を知らせる神様で、仕事は人間界で悪さをする鬼と、人を食べる羅刹、人間を地獄に落とそうとする妖を退治することです!」
「全問正解です! 一度の説明でしっかり理解できたようですね! 素晴らしいです!」
「えへへ」
パチパチと手を叩きながら無慚を褒める識。褒められた無慚はとても嬉しそうに笑っている。
2柱は今、理解度テストを終えたばかりである。
理解度テストとは、天界で過ごすにあたり必要なことを理解しているかを確認するためのテストである。
このテスト、本来であればしなくて良いテストなのだが、不招神である無慚が天界で無事過ごすために――他の神に変なイチャモンをつけられてもしっかり反撃できるように――急遽識が天界について説明した後に行ったのだ。
「これだけ理解できていれば問題ありません。他の神に何か言われてもしっかり言い返せます。けれど無慚様、油断はいけませんからね。無慚様のこれまでの生活環境を考えると、まだまだ学ぶべきことは多いです。これからも勉強頑張りましょうね」
「はい!」
「良いお返事です!」
小学校の先生と生徒のようなやりとりをする2柱を、焔と颪は微笑ましそうに見つめていた。
「何とか仲良くなれたみたいだな」
「そうだね。少し不安だったけど、これなら大丈夫そうだ」
安堵の息を漏らす焔達に、識が話しかけてきた。
「急ぎの案件がなければ、良ければ文神殿でお休みしていってください。積もる話もあるでしょう」
「良いのですか?」
「構いません。何かあった時は、報告していただければ助かります」
「ありがとうございます!」
識の言葉に甘えることにした焔と颪は、無慚を連れて庭園に出た。
庭園に植えられている木の中でも一際大きな木の下で、たまに寄って来る動物達と戯れながら久方振りの何でもない時間を楽しんだ。
「どうして僕はこんなに動物に噛まれるんだろう?」
寄って来る動物達全てに甘噛み程度に噛まれ舐められ、体全体が涎と噛み跡だらけの無慚が疲れ切った顔で言った。
「昔っからそうだよな」
「気づけばそうなってるもんね」
もうどうしようもないといったような顔で焔と颪は無慚の頭を撫でた。釈然としない無慚は頬を膨らませている。
「お風呂入ろうか。そのままじゃ気持ち悪いだろうし」
「おふろ?」
「汚れた体をきれいにするところだよ」
「俺も入る」
「じゃあ3人で入ろうか」
資料の散乱した部屋で仕事の続きをする識に断りを入れ、風呂場へ向かう。その道中では、風呂場に近づくにつれ香って来る檜の匂いに無慚が「ねぇ! 2人とも! 変な匂いがする! ん? 変な……へん……変わった匂いがする!」と過剰に反応していた。
そうこうして着いた風呂場は、やはりと言うべきか広い所だった。浴室の最新設備が搭載されているのは勿論のこと、浴槽も広く作られており、190センチを超える大柄な体格の焔が何百人も入れるほどの広さをほこっている。
「アツい! のに身体が休まる! 何コレ!」
風呂どころか温泉にも入ったことがない、体を清めると言えば水浴びしかしてこなかった無慚は、未知の感覚に興奮していた。
「天界に来てから無慚は驚くことばっかりだね」
「文神殿に来てからの間違いだろ」
細かなことを言えば、無慚が天界に降り立った直後に野次馬しにきた神々が血相変えて逃げていくのを見て無慚は驚いており、その後の焔と颪のドッキリにも驚いているため焔の言葉が正しいが、明らかに驚きに溢れているのは文神殿であるため颪の言葉も間違っているとは言えない。
「無慚、石鹸とかシャワーとかの使い方は分かった?」
「うん! 教えてくれてありがとう2人とも! これで次入るとき慌てずに済むよ」
風呂に入ったことがないと言うことは身体を洗う石鹸もシャワーも使ったことがない。初めて石鹸を見た無慚は、白い長方形の塊が何なのか分からず変に焦り、歩いていたわけでもないのに足を滑らせ転んだのだ。シャワーの時も同様である。文神殿の石鹸は、髪と身体両方に使えるものであったため、使い方を教えるのは簡単であった。シャワーは流水の設定を間違って弄らなければ問題なく扱えるようになった。
無慚は未知のものに焦る事はあるが、記憶力はそこそこに良いためしっかりと教えればすぐに覚えられるのだ。
「さて、そろそろ出ようか」
「えー、もう?」
「知ってるか無慚、風呂に長く入りすぎるとしわくちゃの爺さんになるんだぞ」
「おじいちゃんは嫌だ! もう出る!」
「颪、嘘はいけないよ」
「皮膚がふやけるて老人のようになるのはホントだろ?」
「まったく……あんまり意地悪しちゃダメだよ」
「ハーイ」
◇◇◇
風呂場から出ると、文神殿内が騒がしくなっていた。先ほどは姿の見えなかった識以外の文神達が、慌しく廊下を駆け回っている。
「ああ、お三方。ちょうど上がっていましたか」
識がパタパタと近寄って来る。その顔色は、仕事中よりも悪そうだ。
「いったい何があったのです?」
焔が訊いた。
「軍が有志の武神達を集めて文神殿を囲みました」
「え!」
「今第一神官が帰るように説得しているのですが、きっと聞く耳を持ちません。私が説得しますので、お三方は無慚様のお部屋で隠れていて下さい。認識阻害の結界を張っていますから、例え文神殿内に入られても気づかれません。あ、君! こちらの三方を新しい部屋へ案内して!」
「は、はい!」
嵐のように去っていった識の背中を、無慚は申し訳なさそうに見つめていた。
無慚の部屋だと案内された場所は、一見何の変哲もない壁だった。
寝殿造の屋敷は本来壁で空間を仕切る事はない。しかし、文神殿の資料室及びその近辺はわざと壁を作り空間を仕切っている。貴重な資料が紛失するのを防ぐためである。
寝殿造とは、本来蒸し暑い夏を快適に過ごすために造られた建築方法である。御簾で空間を自由に仕切る事で空気の入れ替えを行い、部屋の湿度を一定に保つことができる。天界の夏は人間界の夏よりも蒸し暑く、寝殿造で屋敷を建てるのが最適なのだ。しかし、風通しが良いと束にする前の資料が飛んでいってしまったり、補修中の資料が紛失してしまうことがある。そのため、資料を保管する資料室と、補修や纏め作業を行う部屋はわざと壁で空間を仕切っている。
無慚の部屋は資料室の隣に作られている。壁で空間を仕切っている資料室近辺であれば、壁があっても何も違和感はない。また、資料室には貴重な資料が保管されてある。いくら禍津日神を排除するために気が立っている武神であっても、資料をぞんざいに扱うことはなく、資料室の近辺で暴れ回ることもしないのだ。
識は確実に無慚を守れるように部屋をそこに設置したのだ。
しかし、人と関わってこなかった無慚にそこまで察せることはできず、
「壁にめり込んで隠れてろってことかな」
「んな訳ねぇだろ」
真剣な顔をして見当違いなことを言っていた。しっかりと意図を察していた颪はつっこんだ。
「これは結界が見せる幻術だよ。触れようとすれば、ほら」
焔が壁に触れようとすると、手はすり抜け焔の腕が壁に突き刺さっているかのようになる。
「ホントだ。じゃあこれは、僕らには壁に見えるけど本当は部屋があるってこと?」
「そういうことだね。施されている結界も並の結界とは一線を画しているし、識様が言っていたように軍が入ってきても幻術の前に認識阻害が働くから気づかれることもないよ」
唐突に颪が部屋に向かって庭で拾った石を投げた。石は青い結界に阻まれ、部屋の中に入る事はなかった。
「部屋の主が認めた相手でないと入れないようにもなっているし、外から攻撃されても結界が弾くようになってる。守りは完璧だな。ほら、早く入るぞ。識様が説得するから絶対に帰るとは思うけど、安全な場所に居なきゃいけないのは変わりないんだから」
「う、うん」
颪に手を引かれ、無慚達は部屋の中へと入っていった。部屋はひとり部屋というには少し広く、三人部屋と言われた方が納得がいく。
「文神殿ってどこも広いの?」
天界で初めに覚えたのは文神殿が広いということな無慚が部屋の広さ程度で驚く事はもうなかった。疑問に思う事はあるが。
「基本広いけど、ひとり部屋まで広いのは知らなかったなぁ」
焔が頬を掻きながら答えた。
部屋の中は、壁際に本棚と机が3つ並べてあり、その反対側に上段に布団、下段に箪笥の入った押入れがある。箪笥は空だが、押入れには布団が3組入っている。
部屋の様子を見た焔が呟く。
「3人部屋なのかも」
並べられた机を軽く撫でながら颪が言った。
「机も布団も3組ずつあるしな」
いまいちよく分かっていない無慚は2柱に訊いた。
「3人部屋ならこの広さは普通なの?」
「そうだよ」
「そっか、良かった」
文神殿の規格外の広さしか見てこなかった無慚は、自分の部屋が標準であることに安堵の息を漏らした。
颪が押入れの襖を開けたまま、無慚に手招きした。
「識様が軍を説得している間暇だし、無慚、部屋の使い方教えるからこっち来い」
文神殿の現状を消極的に受け取っている焔は、楽観的な颪に苦言を呈した。
「識様が説得している最中とはいえ、何が起こるかわからないし大人しくしてた方がいいんじゃないかな?」
「あの識様だそ? 失敗するなんてありえないさ、焔。それに、いざとなったら俺たちがいる」
覚悟の決まった目つきの颪を見て、焔は静かに「そうだね」と笑った。
穏やかな顔の焔の目にも、命をかけて無慚を守るという覚悟の炎が宿っている。
その炎が、2柱を動かす原動力となっている。
◇◇◇
「禍津日神を出してください」
「帰れ」
「兄上そこを何とか」
「帰れ」
「よし撤収!」
「「「「「ちょっと待てぇ!!!!!!」」」」」
形ばかりの懇願と、食い気味の拒否。そのどれもが棒読みで行われていたら、つっこんでしまっても致し方のないことである。
文神殿正門で行われているそれは、本来であれば緊張感漂うものであるはずだった。
天界を危機に陥れる存在である禍津日神を匿う文神殿の主と、天主の命により禍津日神を捕らえ処刑することを目論む軍と有志軍を率いる将軍の睨み合い。主と将軍が醸し出す一触即発の雰囲気に、全員がその場を動けなくなる。売り言葉に買い言葉を重ね、どちらも引かない戦いは決着がつくまで誰にも止められない。
そういったものであるはずだが、実際に行われたものはそうではなかった。
「将軍! 何ですかその適当さ! 我々は邪害神、もとい禍津日神を捕らえなければならないのですよ?! こんなところで油を売っている暇はありません!」
有志軍の1柱が批難気味に言った。それに呼応するように、周りの武神達も口々に「そうだそうだ」と言い始めた。
将軍は深いため息をついた。
「私は元々それには乗り気じゃないんだ。ここに来たのだって天主様と副将がうるさいからだし、軍に属してない武神達は勝手に着いてきただけだろう。文神殿囲って、第一神官脅して兄上を引き摺り出して、自分達じゃ兄上を説得できなかったから私を前に出して、随分と躍起になっているがそんなに禍津日神が恐ろしいか?」
将軍の一言に、騒いでいた武神達は何も言えなくなっていた。
恐ろしいかと問われれば恐ろしい。それは文神殿を囲む有志の武神達と軍の武神達の総意であり、世界に存在する神と人の総意であった。
禍津日神。初代天主が生み出した厄災。人間界や天界で起こる災厄は、全てこの神によって引き起こされているものだという。天界ができたばかりの頃、世界は混沌と化していた。神と人の線引きが明確になり、それまで人間と神の間で築かれていた絆は強制的に断ち切られた。そこから起こった人間同士、神同士の不和は争いを生み、多くの魂が輪廻の輪へと還っていった。
それまで、世界に不和はなかった。恐怖も悲しみも争いも、全て存在すらしていなかった。しかしある時、唐突にそれは顔を出した。禍津日神が誕生したからだ。恐怖や悲しみ、憎しみといった負の感情が神と人の中に生まれ、世界は混沌と化した。惜しくも禍津日神が生まれたタイミングで神と人との線引きは行われた。感じたことのない感情と変わりゆく世界に人間も神も動揺を隠せないでいた。そうして不和が生じ、争いへと発展していった。
世界が混沌と化したのは禍津日神が生まれたから。負の感情があるのも、世界から一向に争いが無くならないのも全て、元凶である禍津日神が生きているから。一生消えることのない欠陥を、禍津日神は生み出した。だからこそ、捕らえ処刑しなければならない。そうしなければ、どんな災いが起こるかわからない。分からないということがどれほど恐ろしいか。いつ爆発するか分からない爆弾が隣にあるということが、どれほど恐ろしいか。
武神達は恐ろしいと言いたかった。しかし、これまで何百年と積み上げてきた武功と自尊心がそれを許さない。
「私は禍津日神を恐ろしいと思ったことはない。お前達が禍津日神をどう思っているかなど知らんが、私はあの神に恐怖心を抱かない。それに、もうあの方を斬りたくない。もういいだろう。これ以上ここにいては迷惑になる。さっさと帰るぞ」
そう言い終わるないなや、将軍は識に一礼すると文神殿に背を向けて歩き始めた。
「お、お待ちください将軍!」
今度は軍の武神が将軍の歩みを止めた。
「将軍がたとえ恐れずとも、他の神々が禍津日神に恐怖を抱いているのは事実! 天界の秩序を乱し、要らぬ争いを起こす可能性があります! そうなる前に捕らえ処刑しなければならないと天主様も仰っていたではありませんか! 我らの最優先任務は天界の秩序を保つことです! 秩序を乱す存在を許してはなりません!」
一息に言ったのだろうか、武神は言い終わると深呼吸を繰り返した。
武神の言葉はもっともだった。軍は天界の秩序を保つために存在しており、秩序を乱す存在を許してはならない。たとえそれが寝食を共にした友であろうと、誰かにとっての大切な存在だったとしても、捕らえ神位を剥奪するか、事と次第によっては処刑も行なってきた。
声を荒げた武神は、100年と少し前に友の頸を切っている。友がそうなった時、誰も助けなかった。誰も救いの手など差し伸べず、捕まえるのを止めようとはしなかった。当事者でさえ、処刑されるのを受け入れた。実際友が起こした事件は相当なものであったため、斬首は当然だった。しかしそれでも、武神にとって友は友なのだ。将軍のように乗り気ではないと斬りたくないと言いたかった。識のように匿いたかった。けれどできなかった。将軍のように軍の一存を決められるほどの立ち位置にはおらず、識のように強力な結界を操れるほどの力はない。当然武神にコネなどないため、主の職に就く知り合いもいない。武神は無力だった。
だからこそ、禍津日神が許せないのだ。
友は問答無用で捕えられたのに、なぜお前だけ守られる。お前が存在すること以上の罪が、この世にあるはずがない。この世から一刻も早く消えてくれ。
それが、武神の願いなのだ。
「では、天界の秩序を乱すような事をしなければ良いのですね?」
唐突に、それまで黙っていた識が話し始めた。
「え?」
突然の識の言葉に、武神は虚をつかれ間抜けな声を出した。
「貴方達の仕事は天界の秩序を保つこと。秩序を乱す存在には容赦しないのは有名です。逆に言えば秩序さえ乱さなければ、つまり普通に仕事をして平穏に暮らしていれば、貴方達の刃はあの方に向くことはない、そうですね?」
識の言葉に武神は怒りを覚え、感情のままに叫ぶ。
「アイツが天界にいることが問題なのです!」
「いいえ、何も問題ではありません」
「はぁ?!」
識はさも当然と言った顔で言った。
「神が天界にいることの何が問題なのです? それに、あの方は天界に昇ってから一度たりとも自分の意思で事件を起こしていません。騒ぎ立てているのは貴方達のほうです。わかりますか? 貴方達が心底大切にしている秩序を今乱しているのは貴方達なのです。私が禍津日神に誓わせます。この天界で普通に暮らすと。それでいいでしょう?」
識はニコリと笑う。その笑みは無慚に向けたような不器用な笑みでは無く、恐ろしいほどに完美な笑みだった。梅のように愛らしく、桜のように儚い、しかし薔薇のように目を見張る美しさがあった。そして、圧もあった。
「もしも、それでもダメだ、連れて行くと言うのなら此方にも考えがあります」
識の圧に押されて武神達はおろか将軍でさえ何も言えない。そんな状況の中、圧をかけている識は笑顔を絶やさず懐から一冊の本を取り出した。
薄緑の表紙のそれは、よく手入れの行き届いた傷一つない綺麗なものだった。しかし、それは天界に住む全ての神にとって視界に入れたくない物ランキング第一位の本だった。
「タラリラッタラー! 私の神器、想起書冊ぅ!」
「兄上それだけはやめてあげて!!!!!!!!!!」
神器とは、各々の神が持つ宝器の事である。神の力を遺憾無く発揮する道具であり、神器の効果はそれぞれ違う。幻を見せるもの、使用者の体を変化させるもの、相手に物理攻撃を与えるものなど、用途は様々だ。普段は神器としての力を押さえているため、神器の力を解放している時と見た目が違う。
神は神器を最後の切り札として使うことが多く、基本は所属する神殿が配布する武器を扱う。これは非戦闘の神殿も同じ事であり、文神殿の文神達は懐に短刀を所持している。
駆け寄る将軍をデコピンで沈め、識は本を開いた。
武神達の間にどよめきが走る。怒りのままに叫んでいた武神も顔を真っ青にしている。
「ご存知の通り、想起書冊はこの世界で起こった全てのことを記録しています。私が神器の力を解放すれば、貴方達のあんな所やこんな所を事細かに指定して映像として他者に見せることもできます。もしも、貴方達が無理矢理あの方を連れて行くのでしたら、大広場にそれ映すので1柱10時間ずつ自分の黒歴史を観てからにしてください」
それは、地獄の宣言だった。
想起書冊はその優秀過ぎる性能から、はじめ天界では世界の監視者と呼ばれていた。しかし、神器の主人である識の堪忍袋の尾が切れたとき、相手の黒歴史とそれに対する当時の周囲の反応を年代順に、しかも巨大スクリーンに映し出していくため、いつしか想起書冊は世界の監視者ではなく黒歴史貯蔵庫と呼ばれるようになった。また、誰かしらの黒歴史が映画のように流されるのは黒歴史鑑賞会と呼ばれている。
神は頸を斬られなければ何百、何千年と生きることができる。その長い神生の中で黒歴史はほんの一瞬の出来事だが、精神に掛かる羞恥はほんの一瞬ではない。忘れた頃に「殺してくれ!」と叫んでしまいたくなる事をふっと思い出させるのだ。恋慕する相手へ向けた自作の曲、自作のポエム、カッコいいと思って使い回していた決め台詞、調子に乗っていたあの頃など、人によって黒歴史は長さも種類も違う。長く神をしている者達からすれば、遠い過去ほど思い出したくないものだ。
武神なんてものはその最たる例だ。惜しくも周りより強くなったがため、天界に来た時には「自分は誰よりも強い」と天狗になっている者も多く、時が経ち自分の力量をしっかりと認識できている頃には天狗時代は完璧な黒歴史となっている。
沈められた将軍以外の武神達は天狗時代の所業を思い出し顔は青ざめ震えている。
「おやおや、震えていらっしゃる。小動物みたいでお可愛らしいですねぇ」
「あの、ナマ言ってすんませんでした」
軍の敗北が決定した瞬間である。
◇◇◇
「と、いうことですので力尽くで連れ去られることはありませんよ。安心してください」
「あまりにも惨い」
「武神達に同情する」
「将軍が一番可哀想」
上から順に、識、無慚、颪、焔である。
軍が去った後、事の経緯を聞いた無慚達はその凄惨さを知った。語る識が未だ朗らかに笑っているからか、余計に恐怖を感じてしまう。
「それにしても、ショウグンさんって識様の家族なんですね」
将軍を名前だと思っているのか、無慚が役職名に敬称をつけている。
「ええ、ウチは兄妹が多くて、アレは末っ子です。私も兄妹の中では下の方なんですよ」
訂正する気がないのか、識はそのまま会話を続けた。
流石に焔が指摘した。
「無慚、将軍は名前じゃなくて役職名だよ。主とか配下とか、そういった役職の一つなんだよ。将軍にはスサノオという名前がちゃんとあるんだよ」
「え、そうなの?」
「そうだよ。識様、面白がらないでちゃんと教えてあげてください」
焔が呆れ気味に言うと、識は変わらず笑顔で毒を吐いた。
「そういえばそんな名前でしたねアイツ」
「さっきから思ってたけど弟に対して扱い雑すぎない?! もしかして本気で名前を忘れてたなんてことありませんよね?! 冗談ですよね?!」
「あはは、もちろん冗談ですよ〜」
兄妹というものを正確に理解していない無慚ですらつっこんでしまうほど、識のスサノオに対する扱いは雑だ。名前を忘れてはいないと言っているが、それも本当かどうか怪しい。
「兄妹なんてそんなもんですよ」
あっけらかんと言って笑う識に、無慚達は揃って溜息をついた。
「ああ、そうだ。無慚様、何か目標はありますか?」
唐突に話の腰を折った識に、無慚はすっ転んでしまいそうになるものギリギリで踏ん張った。
「も、目標ですか?」
「ええ、天界で成し遂げたいことなどありますか?」
「うーん、天界で成し遂げたいこと? 神様にはなったし、焔と颪には会えたし、その他で成し遂げたいこと、うーん」
徐に逆立ちしながら無慚は識の質問に答えようと必死に頭を回転させる。
無慚にとって神になり焔と颪に再会することが500年間の目標であり、それ以外を考えたことはないため識の質問は難しいもののように感じたのだ。
「私逆立ちしながら考え事する人初めて見ました」
「絶対に考え事に向いていない体勢で考え事をするのが昔からのクセなんです」
「ええ……」
逆立ちをして考え始めた無慚に静かに驚いている識へ、颪は無慚のクセであることを教えた。
無慚のこのクセは幼い頃からのものであり、矯正のしようもないためそのままにされていた。
「ないです……」
逆立ちをやめた無慚が識にそう言った。
「ならば、私から提案があります。主を目指してみませんか?」
「主を?」
「そうです」
識の表情は先ほどのように笑ってはいなかった。疲れで虚な目をしているわけでもなかった。黒曜石の瞳には、確かな決意が宿っていた。その決意が何なのかは、無慚にはわからない。けれども、この提案を冗談で言っているわけではないことはわかった。
「主は原初や古き神がそれに就きますが、そもそも天主様が任命しなければその職に就くことはできません。今のままでは一生、貴方が主になることはないでしょう。実績を積み、天主様が認めざるを得ない状況にするのです。貴方が主になれば、まず殆どの神が貴方においそれと近寄れなくなります。主は敬われ、失礼な態度を取る者には罰を与えられるからです。何より他の主との繋がりもできます。この天界には私やお二方以外にも貴方が神となるのを待っていた者達がいるんです。その中には主の職についている神もおります。その方達と主として正式な友好関係を結べば、有事の際に貴方の、貴方達の味方となっても何もおかしいことではありません。無慚様、主の役職は貴方と大切な人を守る盾となるのです。どうです、主になることを目標にしてみませんか?」
無慚は俯いた。喜びと懐疑が鬩ぎ合っているからだ。
自分を待っているのは颪と焔だけだと思っていた、しかしいざ天界に来れば識という地位の高い神も自分の味方であった。理由はよくわからない。けれども識の無慚に向ける眼差しが、殺意を隠す偽りの優しげな眼差しではないことを無慚は知っていた。識の眼差しに、無慚は文神殿が纏う墨の匂いを嗅いだ時に感じたものと同じ感覚を思い出す。それは嫌な感覚ではなかった。そんな眼を向ける神がいることが驚きだった。そして、そんな神がまだ存在することも。無慚が主になれば、その神達との繋がりができ、要らぬ争いを避けることが出来る。無慚を守る為に颪と焔が傷だらけになる事が無くなる。
これは喜んでいい事なのかもしれない。
けれど、本当にその神達を信じてもいいのだろうかという疑いが、無慚の喜びを阻害する。いつだって無慚達の平穏を脅かすのは神だった。人間もそれに付随して危害を加えてきたが、神が人間界にいない時は何もしてこなかった。先陣切って刃を向けてきたのはいつだって神だった。無慚が15歳の時、颪と焔を天界に連れて行ったのも神だった。無慚に500年の孤独を与えたのも神だった。
ある日突然大切な者を奪われた時の絶望感と二度と会えないかもしれないという恐怖が懐疑となり、前に進もうとする無慚の足にしがみついて離そうとしない。
今無慚はおかしな体勢で悩んではいない。無慚にとってこの時間は、決意の時間だ。識の提案に乗るか乗らないかではない。差し出された道が茨の道であろうとも歩き続ける覚悟を決める瞬間だ。
「なります、主に。それが僕らを守る最強の盾なら、たとえそこに行き着く道が険しくとも、歩みを止めることはしません」
顔を上げた無慚の瞳には、決意の炎が宿っていた。
識は薄く笑うと、美しく礼をした。
「無慚様の決意、しかと聞き届けました。文主として最大の敬意を払うとともに、文神殿が総力を上げて無慚様に協力することを誓いましょう」
この日から、無慚は主への道を歩み始めたのである。
誤字脱字がありましたら教えてください。