8 夢に沈む
「それが、怖い……?」
目を丸くして体を固くしたままシャンタルが答える。
「いいえ、これだけではございません。確かに水に溺れるのは苦しい、怖い。ですがそれでも助けられ、終わってしまえばやがてそれはなくなります。この苦しさが続いたままで命を失う、死ぬ、私どもがシャンタルを失うのです。それが怖いのです。どうぞ、どうぞご理解ください!」
まだ横で咳き込み続けるミーヤの背をさすりながらキリエが訴える。
しばらくの間部屋にはミーヤが激しく咳き込む音だけが響いていた。
シャンタルはその様子をじっと見つめる。
「ミーヤ……」
ミーヤにゆっくりと近付く。
「…………」
ミーヤは返事をしようとするがまだ声が出ない。声を出そうとしたことで却って咳がひどくなり、ヒューヒューと肺からか気管からか空気が漏れるような音が出た。
「ミーヤ、まだ話さずともよいのです、ゆっくりと息を整えなさい」
キリエがそう言いながらゆっくりと背中をさする。
「ミーヤ……」
シャンタルにはまだ怖いという気持ちは理解できなかったが、これほどの思いをしてまでミーヤが自分に何かを教えようとしてくれたことは分かった。
「ミーヤ……」
まだぜいぜいと息をしかねているミーヤが、聞こえているということを知らせるように軽く首を上下に動かした。
「ミーヤが苦しい状態にある、ということはお分かりでしょうか」
「苦しい……」
「今、ミーヤがなっているこの状態は苦しいの一つです」
「苦しいの一つ?」
「はい。苦しいにも色々とございます。今、ミーヤは体が苦しい、そして心も苦しいのです」
「心も? どうして?」
「シャンタルが、お身の上に降りかかる怖さをお知りにならないからです」
「降りかかる怖さ?」
「はい。このままではシャンタルはお命を落とされることに、死ぬことになります。その怖さをご存知なく、湖に沈むことを是となさっておられます。そのことが恐ろしく辛く苦しいのでございます。それをお知らせするためにミーヤはこのような無茶なことを……」
シャンタルはじっと考えているようだったが、
「分かりました。では死ぬ道は選びません。それでいいのですか?」
「シャンタル……」
キリエが今度はシャンタルがそう言ってくれたことに涙を浮かべる。ようやく分かってくださったのだと。
「ミーヤ、ミーヤ、おまえのおかげです、シャンタルが分かってくださいました。おまえという子は本当に……」
そう言いながら、まだ肩で息をしているミーヤのびしょ濡れになった背中を擦り続ける。
シャンタルもさらに近付き、恐る恐るミーヤに手を伸ばす。
背後からミーヤのまだ大きく息をする肩に手を伸ばし、水に濡れたその体に触れたその途端!
「ああああっ!」
シャンタルが雷に打たれたように大きくびくりと動くと数歩後ずさり、声を震わせ目を大きく見開く。
「あ、あ……あ……」
「シャンタル?」
シャンタルが両手で自分の喉を掴み、まさにさっきミーヤがそうなりかけたように、溺れるようにもがき始めた。
「息が……」
「シャンタル!」
息が整いつつあるミーヤから離れ、キリエがシャンタルに駆け寄る。
「あ、あ、あ、息、息が……」
「シャンタル!」
シャンタルの肩に両手をかけるが何をどうすればいいのかが分からない。一体何が起こっているのか。
ミーヤはシャンタルに駆け寄りたい気持ちはあるものの、まだ思ったように動けない。
這いずるように体の向きを何とか後ろに向け、そして見た、シャンタルが苦しげに崩れ落ちるのを。
シャンタルは応接の床の上で溺れていた。
左手で喉を押さえ、右手が絨毯の毛を掻きむしる。
かはっ
空気を吸えない口が苦しげにそんな音を立てた。
「シャンタル!!!」
キリエが抱き起こして揺さぶるが溺れるのをやめない。
「シャン、タ、ル……」
ミーヤが必死に手を伸ばしてシャンタルの足先にやっと触れた瞬間、
「あ、あふ、う、あ、あ、はあ……」
そんな声にならない声を出しながら、ようやくはあっと息を一つ吸ったのが分かった。
キリエは今度はシャンタルの背をさする。
「一体何が……」
キリエはシャンタルに触れながら不思議なことに気付く。
「どうしてこんなに……」
シャンタルは全身がびしょ濡れであった。さっき自分から水に頭を沈めたミーヤより一層。そして全身が冷え切っていた、まさに今湖から助け出されたように。
「水が……」
シャンタルが寒さと恐怖にガタガタ震えながら言う。
「水が、水がシャンタルを……怖い……」
初めてシャンタルが「怖い」と口にした。
「何があったのですか……」
キリエが聞いても震えるばかりで何も答えようとしない。
「……シャンタル……」
ミーヤがやっとのように上半身を起こし、シャンタルにずるようにして近付く。
シャンタルはミーヤと同じようにはあはあと息をしながら、
「怖い……水、水で息が」
真っ青な顔でそう繰り返す。
褐色の美しい肌が色をなくしているのが分かり、銀色の輝く髪はびっしょりと濡れて顔に張り付いている。
「夢の中から、水が……」
そうつぶやくと意識を失ってしまった。




