第54話 鏖殺
時折吹く乾いた小風が、荒れた大地の肌を掠めるように撫でている。
風を遮るものは何もない。薄暗く広い大地に唯一あるのは、この大陸全土に魔力を供給しているとされる魔力の大樹――それだけだ。
何十年、何百年……それだけの年数では遂げる事のない屹立したその姿。頂点は雲を突き抜け、極大な幹は天に登る為の大地と見間違えるほどだ。
そんな大樹も、人間からすれば畏怖の象徴。だが、魔族からすれば聖地。
静寂――いつもであれば、この聖地を表した時に最も相応しいであろう言葉。だが今は違う。
呻くような喧騒。それがこの魔境に鳴り響いている。
乾いた大地に大挙として脚を踏み鳴らしているのは、悪魔兵だ。茶褐色の肌に、筋肉質な体躯。武器などは持たず、己の肉体のみで戦うゴブリンの上位に位置する下級魔族である。
悪魔兵たちの息は荒く、士気は昂ぶっている。今か今かと、その時を待っているかのように、乾いた地面を踏みしめている。そんな彼らが見据える先はただ一つ。
曇天の下であっても眩い光を放つ白金の鎧を着た人間。腰には漆黒の鞘を携え、まるで我が家を闊歩するかのように悠々と歩んでいる。
撫でるような小風に銀髪をなびかせ、その前髪から覗かせる蒼碧の瞳は一切揺らぐ事なく、悪魔兵の大軍を捉えていた。
その人物こそ、魔族の仇敵であり、数いる人間の中でも最大の強敵。アルビオン帝国を守護する勇者ルクルース――――の姿を宿したテネブリス=ドゥクス=グラヴィオールである。
だが、それを知る者はこの場にはいない。
悪魔兵たちの目に映っているのは、紛れもなく勇者ルクルースだ。故に、悪魔兵たちは戦闘態勢を整える。
(勇者がここに来たって事は、アスタロト様は…………)
悪魔兵の一体は表情を暗くする。
彼はアスタロトの指示によりメンシス近くの荒野まで後退したが、その途中で周囲の悪魔兵たちに声をかけていた。
――敵襲だ! 勇者が来るぞ!!
緊迫した表情でそう声をかけると、ただ事ではないと察知した悪魔兵たちが次々に集結した。その結果、魔境に存在する殆どの悪魔兵が異様とも言える大軍を形成したのだった。
そして――それはここへ現れた。
(ふん……ざっと千体、といったところか)
テネブリスは悪魔兵の大軍を睨む。
今にも飛びかかってきそうなほど、悪魔兵たちが戦意高揚しているのが感じ取れる。勇者の姿を目の前にし、士気が下がらないのは誇るべき事だ。
だがそれは、テネブリスを前にしては愚行でしかない。
「貴様ら……大したやる気のようだが、何のつもりだ?」
テネブリスが静かに口を開く。
特定の誰かに問いかけた言葉ではない。独り言のつもりで言っているため、返答がなくても気にはしない。
しかし、テネブリスのその問いかけに悪魔兵は次々と声をあげた。
「メンシスへは行かせねぇぞ!!」
「勇者め! ぶっ殺してやる!!」
「そうだ!! やっちまえ!!」
「うおぉぉぉぉ!!!!」
怒声のような士気の昂り。千体にも及ぶ悪魔兵が一斉に声をあげれば怯まない者はいないだろう――ただ一人を除いて。
「よかろう。死ぬ覚悟は出来ている、という事だな」
テネブリスは再び、静かに口を開いた。
その言葉は悪魔兵たちの喧騒にかき消される。しかしテネブリスは気にも留めない。次に出る言葉で、全て終わる。それを確信しているからだ。
「闇に煌めき顕現せよ。因業たる凶星、彼の地を穿て。天位魔法――明星」
詠唱を終えると、テネブリスの足元から沼のような暗黒が広がっていく。それは瞬時に悪魔兵全てを捉えた。身動きの取れない悪魔兵たちは焦燥を隠すこともなく紛糾しだす。
そして、混沌たる場の中心にいるテネブリスは鷹揚にして右手を掲げた。それを合図に、中空に暗黒が波打つように広がっていく。天と地、暗黒に挟まれた悪魔兵たちはこれから何が起きるのか、と息を呑み静まり返っていった。
すると、頭上の暗闇から一粒の光が溢れ落ちた。
「あ、雨……!?」
だがすぐに、それは誤りだと理解する。その光の粒は悪魔兵の脳天を貫通していたからだ。雨粒のような小さな光に込められた極大の質量。それに当たれば無事では済まない。
そして――――その光の粒は豪雨のように降り注いだ。
「フフフ、フフハハハハハハハハ!!!!」
降りしきる光の雨の中、テネブリスは両手を上げて哄笑する。
久しく感じる内から溢れ出る魔力。とどまるところを知らない膨大な魔力を、その身に宿らせていく。
しばらくして光の雨が止み、暗闇が晴れると、テネブリスの周囲には微塵の原型もない千体の悪魔兵と、おびただしい量の血の海が広がっていた。
ものの一分――――鏖殺だった。
「人位魔法――飛行」
テネブリスの身体がゆっくりと浮かび上がる。
大量の血溜まりの上をゆらりと浮上し、遠くを見据える。その先にあるのは魔族の居住する都市、メンシス。
そして全身にぐっと力を込めると、急加速して目的地へと向かって飛行していく。
千もの魔族を屠り、テネブリスの魔力は溢れるほど滾っていた。その魔力総量は、もはや全盛期の頃と遜色ないまでに。
故に、使用する魔法もこれまでとは比べ物にならないほど効果が向上している。
並の魔法使いでは、飛行を発動しても空中を浮かんでゆらりと動くぐらいが関の山だ。
だが現在のテネブリスはそれを軽く凌駕する。まるで羽が生えたかのように空中を自在に、そして驚くべき速度で飛行している。
ほどなくして、テネブリスは騎馬の全速力をゆうに超す速度で、あっという間にメンシスへと到着した。




