第50話 敵襲
アルボス魔境――――マグヌス平野を東に抜けた先にある辺境地帯の事を指す。そこは枯れた荒野が延々と広がっており、その中央部には天まで届くほどの高さに屹立する大樹が存在している。
その樹の名は、魔力の大樹。別名――――禁忌の世界樹。
小さな湖ほどの直径を持つ極太の幹、雲を貫く高さまで伸びた全長、色褪せた灰色の葉。
そのどれもが、人間にとっては恐怖の象徴として伝わり、忌むべき存在として長年恐れられた。
だが、魔族にとっては真逆だ。
大陸全土に魔力を供給している大樹を魔の聖地と崇め、大樹の周辺には多種多様な魔族が群れをなし住みついた。長い年月を経て、やがて都市を作り、王を作った。
その都市こそがメンシスであり、それを統べるのが魔王――現在でいうテネブリスである。
人々は、そんな魔族が蔓延る魔力の大樹の周囲一帯を魔境と呼び、近づく事すらも忌むべき行いとした。
中には、魔力の大樹――ひいては、魔族の住処であるメンシスへと赴く命知らずな者も現れたが、誰一人としてその無事を確認できた者はいない。
そんな魔境のとある場所に、数体の魔族が眠そうな目を擦りながら地面で足を組んでいた。
悪魔兵――アルボス魔境に無数に存在する下級魔族だ。ゴブリンよりも背丈も骨格も大きいがその分、宿している魔力量は微々たるものである。
悪魔兵に限らず、あらゆる下級魔族はメンシスへと足を踏み入れる事は許されない。その逆も然り、あらゆる上級魔族はメンシスでの居住を強制される。全ては凄惨たる魔王、テネブリスの護衛の為だ。
しかしそれも、先日までの話。
数日前、突如としてこの荒れた大地に第六魔臣――アスタロトが拠点を移した。
拠点、といっても簡易的なものだ。枯れた大木と大小の石を適当に組み合わせただけの最低限の雨風を凌げる造り。
しかし、アスタロトにとっては特に問題はない。
人間でいう子供くらいの背丈である彼女は、あらゆる面において怠惰だった。
隙間だらけの屋根から滴る雨に濡れようが、大きく空いた壁から隙間風に吹かれようが、何も気にする事もなく全てを許容した。
そんな見窄らしい七魔臣に、悪魔兵たちは当初ビクビクしながらも機嫌を取ろうと躍起になっていたが、全く相手にされなかった。それどころか、みんな適当にしてていい、と放任されていた為にこの荒れた大地一帯に住まう悪魔兵たちはいつしか緊張感なく堕落した一日を過ごすようになっていた。
「ところで、どうしてまたアスタロト様は突然、こんな所に拠点を移したんだろうな?」
「聞いたところによると、ビフロンス様の計らいだそうだぜ」
「ビフロンス様が……? 言っちゃ悪いが俺、あの御方はどうも苦手だ」
「あぁ、わかるぜ。何を考えてるのか不気味でしょうがない感じだよな」
「あぁ、それにしても…………」
そこまで言った悪魔兵たちは、同じ場所を揃って見やる。
崩れ落ちかけた大木の屋根、ところどころ欠けた石の壁。その中央に寝そべっている幼い外見の魔族を。
「あの御方も……なかなかに何を考えてるのかわからねぇよなぁ……」
「あぁ、全くだ」
アスタロトがここに来てからというものの、あの拠点と言い張る場所から離れる事はほとんどない。今のように寝そべってぐうたらしているか、ぼーっと座っているか、寝ているか、そのどれかだ。
七魔臣ともあろう魔族があのような自堕落な態度を見せては士気にかかわる、とも考えた悪魔兵もいたが、僕のことは気にするな、と一蹴されたのを見てからこの場にいる誰もが彼女を見て見ぬ振りをしている。
まるで何かを待っているようにも見えるアスタロトだが、彼女の思うところはただの下級魔族である悪魔兵には到底計り知ることは出来ない。
「ま、俺たちはいつも通りのんびりと――――」
「……? おい、急に固まってどうした?」
「あ、あれは…………何だ…………!?」
悪魔兵が口を大きく開けて見つめていた場所。方角でいえばマグヌス平野に向かう方向だ。
荒れた地平線に、ぽつりと小さく土煙が立っている。
よく聞けば、ドドドといった足音のような音も遠くに聞こえる。
それらから導き出された推測――――敵襲だ。
悪魔兵たちは、すぐに立ち上がりアスタロトの眠る拠点と言い張る建物に駆けつけた。
その中には、だらしない姿ですやすやと寝息をかくアスタロトの姿があった。
全身を薄汚れたボロボロの布切れで覆い、か細い両腕には黒い腕輪のようなもの――魔鎖輪を左右三つずつ身に着けている。
「アスタロト様っ!! な、なな何者かが近づいてきています!!」
「早く起きて下さい!!」
「んん~………………?」
小さな身体をぶんぶんと揺さぶられ眠りから起こされたアスタロトは、紫黒の瞳を宿す目を擦りながらのんびりと身体を起き上がらせた。
ボサボサになった瞳と同じ色の紫黒の髪は、寝癖なのか元々なのか激しくうねっている。女性型の魔族であると言われなければ、彼女の性別は瞬時に判別できないだろう。
「ア、アスタロト様っ!!」
「もう、うるさいなぁ…………一体なに……?」
寝起きの機嫌の悪さも相まって、アスタロトの気だるさは頂点に達している。
しかし悪魔兵は、そんな事に構っていられない。この魔境に何者かが近づいてきているのだ。由々しき事態である。
「そ、それがマグヌス平野の方向からこちらに向かって近づいてくる姿が……!」
「えぇ…………誰が?」
「誰……と言われましても…………」
悪魔兵は口ごもる。姿をはっきりと視認できた訳ではないが、この魔境に近づく者など普通はいない為、警戒するに越したことはない。その判断は決して間違っていない。ただ、報告する相手が悪かっただけだ。
「どうせなら誰だかわかってから起こしてよ…………敵じゃなかったら無駄じゃん……」
「た、確かにそうですが……それでは遅いかと思いまして」
「――遅いかどうかは僕が決める事」
冷たく、そしてぼそっと口にした言葉に、悪魔兵たちは背筋が凍る。彼女の持つ冷酷な部分が垣間見え、そして七魔臣の一体だという事を改めて気付かされた。
「で、その姿ってのは……あれの事かな?」
視線の先には遠くに見える土煙。さきほど悪魔兵が見た時よりも近づいてきている。そして足音のようなものも確かに地面から伝わってきていた。
アスタロトは人差し指と親指の先端を合わせて輪っかのようなものを作り、そこから土煙の立っている方向を覗き込んだ。そして、しばらくしてから呆れたような口調でポツリと呟いた。
「…………何あれ?」
見えない、という意味ではない。
理解できない、という意味だ。
その意味を理解した悪魔兵たちは思わず息を呑む。七魔臣ともあろう方ですら、即時に判断が出来ない状況。そんな事態がこの魔境に訪れようとしている。
どうすればよいか狼狽えて身動きの取れない悪魔兵たちに向かって、アスタロトはいつもの気だるい口調で短く指示した。
「君たち、下がってていいよ」
「……はっ!」
悪魔兵は素早くこの場から走り去る。これから起こるかもしれない予期せぬ事態に備え、この荒野に多数いる悪魔兵たちに情報を共有するために。
勝手な判断かもしれない、後で叱責されるかもしれない。しかし本能が告げている――――アルボス魔境の危機だと。
走り去った悪魔兵たちを横目に、アスタロトは深く溜め息をつく。
「――あ、僕だけど。アレが来たよ、オマケつきでね……うん、そう……じゃ」
意思伝達でベリアルに短く報告を終えると、アスタロトは不機嫌そうに両手を腰においた。背中に生えた小さな黒い二枚の羽はピンと張っている。
(あぁ、めんどくさい。本当にめんどくさい。こんな事の為に七魔臣になった訳じゃないのに……好きな時に寝て、好きな時に殺して、好きな時に死ぬ。どいつもこいつも……僕の自由を奪わないでよね…………!!)
苛立つアスタロトの前に、いつしかそれは姿を現していた。
輝く鬣をなびかせた雄々しい獅子に跨る、白金の鎧を身に着けた男。
アスタロトはその姿を紫黒の瞳を宿す双眸で捉えながら、その名を口にする。
「待ってたよ…………勇者ルクルース…………!」




