第42話 獅子と魔女
その者達は、闊歩するようにゆっくりとテネブリスに近づいていく。
その一体は、先ほど妖艶な声を発した女。艶めく黒髪に深碧が混ざった長髪。魔女のような黒い衣服を纏ってはいるが、目もあやな肌をふんだんに露出したその姿は、まさに絶世の美女という言葉が相応しい。
しかし、頭部から生えている二本の白い小さな角。そして臀部から伸びる細長い二本の尖った尾が、この女が人間ではない事を証明している。
絶美を宿すその表情とは裏腹に、煌めく黄金色の瞳には激しい怒りが込められていた。
一方、その魔女のような女の隣に歩く者。一言で言うなら、歩く百獣の王。
雄々しい鬣をなびかせた獅子の頭部に、黄金色の体毛に覆われた鍛え抜かれた鋼のような肉体。おおよそ獣人だと思われるその者は、凄まじい気迫を漲らせながら近寄ってくる。
そして、今にも唸り声が聞こえてきそうな獣の口から、重く低い声を発した。
「ベル。お主の勘が当たったな」
「まぁね。あぁ~、これでやっっっとテネブリス様の仇が討てるわ……!!」
「では、勇者はお主に譲るとして……他の者は儂がもらうが、異論ないな?」
「えぇ、好きにしたら?」
「感謝する。さて、あの恰幅の良い男……少しは手応えがあれば良いが」
「じゃ、後でね。マルバス」
「うむ」
マルバスと呼ばれた獣人は、岩のような拳をパキパキと鳴らす。その左手には五つの暗澹たる指輪を嵌めている。魔鎖輪と呼ばれる七魔臣のみが持つ事を許された魔装具だ。
「では人間よ、推して参る!」
意気込んだように言うと、マルバスは強靭な脚力をバネのように使い、フェルムに向かって一気に踏み込む。獅子の姿に相応しい凄まじい威圧感。
それを全身に感じ取ったフェルムは、クラルスとアルキュミーを庇うように一歩前に出て防御姿勢を取る。
(何なんだ、コイツは……!?)
フェルムは両腕を胸の前で合わせるように防御する。そこへマルバスの岩のような拳が、風を切る音と共に近づく。直後、鍛え抜かれた肉体と肉体が衝突した。
だが、その衝突に負けたのは人間の方だった。フェルムは大きく後方へ吹き飛ばされる。
やがて古い民家の壁に衝突し、ようやくその勢いが殺された。
フェルムは顔を歪ませる。
岩のような――否、これは岩だ。殴られたとは思えないこれまで経験したことのない衝撃。
しかし思ったよりもダメージはない。フェルムはすぐに立ち上がり、体についた砂埃を払う。
(くそっ、ただの魔族……じゃねぇな。ちっ、剣は馬車に置いたままだ。何か手はねぇか……)
聖殿で治癒をする為に、いつも肌身離さず装備している大剣を馬車に置いていた。いくら鍛え抜かれた肉体を持つフェルムであっても、素手で魔族と戦闘するのは分が悪い。ましてや、相手はおそらく肉弾戦主体の相手。一刻も早く大剣を取りに行かねばならない。
焦るフェルムをよそに、マルバスはゆっくりと近づいてくる。
「良き良き。まだやれそうだ。では、次はもう少し力を入れるとしよう」
そう言ってマルバスは拳を構える。全身に気迫を滾らせて。
* * *
「せっかちねぇ、マルバスは。さっ、こっちはこっちで楽しみましょう。っと、その前に勇者ルクルース。あなたに質問よ」
妖艶な女は、悩めかしい指付きで顎先に手を触れる。
普通の男なら、この魅惑的な仕草だけで心を鷲掴みにされる事だろう。しかし相手は普通の男ではない。凄惨たる魔王、テネブリスだ。
「貴様、誰に対して物を言っている?」
「……ふぅん、そういう感じ? 嫌いじゃないけど……ワタシに向かってそういう態度を取っていいのは、世界でたった一人だけなのよ……!! いいから質問に答えなさい!」
妖艶な女は金色の瞳を震わせ、怒りを露わにする。そして片側の髪を掻き上げると、耳に飾られたピアスが揺らめいた。光すらも反射しない暗澹たる黒に染まる三つのピアス――魔鎖輪だ。
「本当にあなたが……あの御方を――テネブリス様を倒したのかしら?」
「どういう意味だ?」
「あの御方が人間相手に負けるはずがない。勇者のくせに、一体どんな姑息な手を使ったの……!?」
そういう事か、とテネブリスは鼻で笑う。
妖艶な女――ベルフェゴールの怒りはもっともだ。人間相手に負ける訳がない。それはテネブリス自身が一番よく知っている。だからこそ、自身に起きているこの状況が謎なのだ。
それを知らぬ配下達の心情は尚の事だろう。だからこそ、七魔臣に伝えなければならない。
――凄惨たる魔王は健在であると。
「そう、私は負けてはおらぬ、ベルフェゴールよ」
「なっ……!? どういう―――」
――何故、ワタシの名を!? と、ベルフェゴールは驚愕する。
勇者の姿は知ってはいるが、面識はないはずだ。なのにこの勇者は自身の名を呼んだ。まるで――敬愛するあの御方のように。
だが、この人間はあの御方ではない。この男こそが勇者であり魔族の敵。そんな人間に対して、ベルフェゴールは激しい憎悪を湧き上がらせる。
絶対的な愛情を注ぐ主であり、魔の王。かの御方に名付けられた尊き名を穢されたと感じて。
「……もういいわ。あなたを嬲らないとワタシの気が済まない。泣いて許しを乞うまでね!! 来なさい! 首刈の戦乙女鎌!」
彼女の呼ぶ声に応じるように、地面に濃緑の輝きを放つ魔法陣が出現した。その魔法陣の中心から、漆黒の大鎌が生み出される。
そしてベルフェゴールは、華奢な細い腕に似つかわしくない大鎌を手にすると、不敵に笑みを浮かべる。その表情でさえも美しいのは言うまでもない。
配下に向けられた敵意に、テネブリスは深く溜め息をつく。
全く、どいつもこいつも――今にもそんな言葉が聞こえるような表情だ。
だが配下に大人しくやられる訳にはいかない。頭に血が昇った仕方のない配下を窘めるのは、言葉よりも圧倒的な力を見せつける方が手っ取り早いのだ。
そう考えたテネブリスは、澄んだ蒼い瞳を宿す双眸をベルフェゴールに向ける。その眼差しは凍てつくように冷たく、刃のように鋭い。
「ふん、喜ぶがいい。私が健在である事を、その身に刻んでやろう」
その言葉と共に、テネブリスは鷹揚に右手を前方に掲げた。




