第30話 蠢く影
テネブリスは、地面に仰向けで横たわるグラシャラボラスを見下す。
その双眸に宿した瞳は、勇者が持つ澄んだ蒼に戻っている。
まだ完全に魔力を取り戻していないせいか、霊位魔法を一つ放っただけで、職業スキルの発動限界を迎えてしまったのだ。
そして、配下に向けた冷酷な眼差しは崩さずに、心の中で己を戒める。
(キンダーバルクを殺して得た魔力がなければ今頃…………ふん、私も堕ちたものだ)
名有りであるキンダーバルクを殺して得た魔力は、これまでの魔力に比べて格段に潤沢だった。
そのお陰で、テネブリスは勇者の姿でありながら、職業スキル――凄惨たる魔王を発動できるまでに、魔王としての威光を取り戻しつつあった。
「グラシャラボラス、いつまでそうしているつもりだ」
深刻なダメージを負った配下に対して、テネブリスは辛辣な言葉を投げかけた。
七魔臣たるもの、魔王の言葉は絶対である。
テネブリスに向けていた先程までの激しい敵意はすっかり身を潜め、グラシャラボラスは満身創痍の身体を起こす。
そして、恭しくテネブリスの足元で跪いた。
「も、申し訳ありませン……テネブリス様!! 御身に対して大変失礼な――」
「よい。貴様の心情もわからんでもない、が……二度はないと思え」
「……はっ!!」
「ところで、私がこうなった原因……何か思う所はあるか?」
グラシャラボラスは返答に詰まる。
しばしの沈黙が二人の間に流れた後、獣じみた口を開いた。
「も、申し訳ありませン、テネブリス様。俺……私には何も、思い当たるものが御座いませン」
「ふん……だと思ったが念の為だ、気にせずともよい。ところで、現在のメンシスの状況はどうなっている?」
「そ、それが……」
グラシャラボラスは再び言葉に詰まった。
魔族の軍勢が拠点を置く都市――メンシス。
勇者との一騎打ちの後、行方知れずとなった魔王。その一報を耳に入れたグラシャラボラスは、即座にメンシスから身を引いた。
魔王のいない魔族の軍勢など、グラシャラボラスにとっては何の意味も持たないからだ。その為、現在のメンシスの状況など知る由もない。
テネブリスは配下の沈黙で、事態をおおよそ察する。
(メンシスの状況もわからぬとなると…………ちっ、やはりメンシスに足を運ぶべきか。この姿に関しては、グラシャラボラスを供回りにしておけば説明がつくだろう)
顎の先を指でなぞりながら、テネブリスは思案した。
そして、未だ沈黙を続ける配下に対して、質問の中身を変える。
「もうよい。では、メンシスには誰が残っている?」
「はっ……。私がメンシスから出る時を同じくして、ベルフェゴールとマルバスが御身の捜索の為、都市を離れました。それ以外の奴……者に関しては恐らく健在かと……」
「ほう、第三魔臣と第五魔臣が……。奴らの事だ、今頃、勇者という勇者を皆殺しにしているやも知れぬな。フフフ……」
テネブリスは冷笑を浮かべる。
グラシャラボラスはただ俯いて、無言の肯定を示している。
だがその後、黙っていた配下が恐る恐る尋ねた。
「一つ……よろしいでしょうか?」
「何だ? 申せ」
「第一魔臣と、第七……いえ、ビフロンスの事です…………」
唐突に、グラシャラボラスの口から出た配下の名にテネブリスは眉をひそめる。
第一魔臣――ベリアル。
七魔臣の中で最高位の序列に位置している、テネブリスの右腕的存在だ。
単純な戦闘能力だけで言うと、テネブリスにも引けを取らないと称されており、次期魔王としてその呼び声は高い。
次に第七魔臣。七魔臣の中では一番序列が低く新参者ではあるが、その実力は確かなものだ。唯一、気になる点を挙げるとすれば、他の魔族とは一線を画す不気味な容姿を持っている事ぐらいである。
跪く配下に対し、テネブリスは発言の意図を問い質す。
「ベリアルとビフロンスが……どうかしたか?」
「いえ……確たる証拠はないのですが、その……奴らからは、どこか良くない匂いが致します」
「匂い? 狼らしく鼻が利くとでも言いたいのか?」
「……いえ、そういう事ではなく――単なる予感、のような…………」
「漠然とした話だ。で、私にどうしろと?」
グラシャラボラスはその問いに、しばし間を開けて答える。
俯いたままだった顔は、いつしかテネブリスに向けられている。
「僭越なのは重々承知ですが…………奴らにはお気をつけ下さ――――うっ!!!」
突然、グラシャラボラスが苦しみだした。強靭な腕で、心臓の辺りを押さえている。
その様子を、テネブリスは怪訝な顔つきで様子を伺う。
(私との戦闘で受けたダメージか? いや――――この魔力は……)
グラシャラボラスを攻撃している魔力の正体。それに気付いたテネブリスは周囲を警戒する。しかし、その存在を確認する事ができない。
(どういう事だ……!? 何故、私ではなくグラシャラボラスを攻撃する!?)
グラシャラボラスを襲っている魔力は、その強靭な体躯の内側のみを攻撃しているようだった。
やがて、獣のような大きな口から鮮血が溢れ出る。内側から内蔵が潰されたのだろう。
そして――心臓を中心にして黒く禍々しい無数の棘が、身体中から飛び出した。
「ぐっ……はぁっ………………テネ、ブリ……ス………………さ…………」
グラシャラボラスは全身を内部から飛び出した棘に貫かれ、静かにその生命を終わらせた。
全身から血を吹き出し、動かなくなった《《かつての》》配下をテネブリスはただ見つめる。
やや俯いた顔からは、その表情を読み取る事はできない。
すると、もう動く事のない巨体から、湧き出るように暗澹たる影が出現した。
その影はやがて、形と大きさを目まぐるしく変化させ、二本の細い手と先端が尖った尾の生えた粘液魔物のような姿となる。
全身には無数の小さな眼が覆い尽くし、光も通さぬ暗黒をその身に宿していた。
ゆらゆらと揺らめかせた尾には、七個の黒い輪――魔鎖輪が連なるように身に着けられている。
そして、粘液魔物は甲高い声でどこからともなく声を発した。
「七魔臣ともあろう者が、事もあろうに勇者に跪くとは……とんだ愚か者ですねぇ」
テネブリスは視線を粘液魔物に向ける。
蒼く澄んだ瞳の奥には憤怒の色が込もっていた。
静かに、そして力強く、凄惨たる畏怖を込めて、テネブリスはゆっくりと口を開く。
「どういうつもりだ? 第七魔臣……!!」




