51 エマ(3)
どのくらい時間が経っただろうか。
いくら待てども廊下では何の音もせず、騒ぎが起こる様子もない。
今日イベントが起こるのは間違いがないはずなのだ。
1周目の時と同じ。エマの頭の奥に光のような物が明滅し、近くにそれに関わるキャラクターがいるほど、その明滅が激しくなる。
そのチカチカする光のせいもあってか、エマは次第にイライラしていき、ギリギリとスカートを握りしめた。時間がかかるだけ、スカートの皺が深く刻まれていき、エマの眉間の皺も深くなる。
なんでさっさと来ないのよ!!侯爵!
ずっと無駄にトイレの便座に座っていてとうとう嫌になり、しびれを切らして外の様子を見ようと立ち上がった時だった。
カツーン、カツーン。カツカツカツ。
遠くから誰かが喋っているような声と足音が聞こえ、それが段々と大きくなり、誰かが階段を登ってきたのがわかった。
廊下の喧騒は、トイレの中までよくよく響いた。
とうとう騒ぎを起こす侯爵が来たのかと音を立てないようにトイレから出て、廊下が見えるギリギリのところまで移動して外の様子を覗くと、エマはあり得ないものが見えた気がしてばっと隠れた。
店員に案内されたリアムとその従者、その2人に守られるように先を促され、エマが使用するはずだった特別室に入っていく女。その姿を見た瞬間、エマは自分の頭にカーッと血が昇っていくのを感じた。
自分がイベントの為に使用するはずだった特別室。そこにあろうことか、リアムと仲良く入っていくマリー。
手芸用品店でのイベントは、マリーが来たことでぶち壊しになった。今度は私が行くはずの特別室の権利まで奪った!どこまで邪魔するつもりなの!!
エマは自分が得るはずの物を易々と奪っていくマリーの銀髪を引っ張って、引きずり倒してやりたい気持ちを必死に抑えた。今飛び出して騒ぎを起こしたらますますリアムに嫌われるし、下手したらライアンとのイベントの障害にもなりかねないからだ。
このイライラは、モード侯爵をやり込めれば溜飲が下がるだろう。
そしてライアンに感謝されて、後の学院での出会いをドラマチックにするきっかけになるはず。
エマはイライラする心を静めることに集中した。
こんなところで、失態を犯すわけにはいかない。
頭の中で、マリーを叩いて爪で引っ掻く想像をすることで心の落ち着きをはかり、深呼吸した。
引っ掻き傷を負わせて痛みに狼狽えるマリーを想像するだけで胸がスッとした。
頭の中でマリーの頬を複数回ビンタしたところで気持ちが楽になり、もう一度隠れようとトイレの個室に戻る。
すると、誰かが喋りながらトイレの方に近づいてくる気配があり、エマは慌てて息を殺した。
トイレの個室にいる時点で誰かがいるのはバレバレなので息を殺す意味はないのだが。
エマが個室から耳をそばだてて外の様子を探っていると、誰かがトイレの中に入ってきたのがわかった。
個室のドアの隙間から、なんとか誰が来たのか確認しようとしたその時、トイレ外の廊下から何やら聞こえる野太い低い声。
その音に合わせてトイレに入ってきた人物の気配が消える。
その後のことは、エマは思い出したくもなかった。
消えた気配を追いかけて廊下近くまで出てみれば、目の前で繰り広げられる光景は、エマがするはずだったもの。
マリーがライアンの為に矢面に立ち、公爵家の令嬢という立場であっという間に侯爵を立ち退かせる。
侯爵がいなくなった瞬間、あんなにもイベントを知らせて激しく明滅していた光は、カメラのフラッシュのような光の像を僅かに残して、瞬く間に消えてしまった。
目と鼻の先にライアンがいるというのに、その目に自分の姿を映すこともできない。
なんで私がするはずのイベントを、あのマリーがしているの?
どこまで邪魔するの!!
エマは怒りのあまり、2人の会話の内容まではしっかりと聞いていなかった。
沸き上がる怒りが抑えきれず、せっかく侍女が整えてくれた髪型が崩れるのも構わず、髪の毛をかきむしる。
その時、エマは思った。
ここまで邪魔するマリーは、自分と同じ転生者なのではないかと。だから、わざと自分のイベントに割り込んで邪魔しているのではないかと。
ただはっきりとは確信が持てず、もう一度廊下を覗いた時には、その場にはライアンのみが残されていた。
ライアンは今しがたマリーが入っていった特別室のドアを見つめている。
これってチャンスじゃない?
ライアンに話しかけるなら、誰にも邪魔されない今しかない!
エマは喜び勇んで一歩廊下に踏み出そうとした瞬間、どこからか刺すような視線を感じ、背筋が一気に震え上がるのを感じた。
今そこに出たら、首と胴が離れる。
そう思わせるような絶対的恐怖。
怖さで歯の根が合わず、足がすくんで息がつまる。
怖い怖い怖い。
手で押さえて息が漏れるのすら堪え、震える足をゆっくりゆっくり、亀よりも遅い速度で動かして。トイレの個室に逃げ込んで鍵をかけた瞬間、やっと落ちついて呼吸ができた。
あまりの恐ろしさに個室からなかなか出ることができず、でもいつまでもそこにいることもできない。
どうしようかとエマが悩んでいると、誰かが階段を登る足音。勇気を振り絞って個室から出て廊下近くまで来ると、そこにライアンの姿はなく、店員がマリーが入っていった特別室のドアをノックして中に入って行く。
今だ!
エマは廊下の壁にへばりつくようにして歩き、慌てて階段を駆け降りて命からがらケーキ店から逃げ出した。
辿り着いたのは、ケーキ店の裏手の路地裏。
そこに座り込むと、思い出すたびにわきあがる恐怖から神に祈るように両手を合わせて、小さくなって震えた。
エマは気づいていなかった。
ライアンが利用する特別室の中に護衛がおり、中の護衛に、様子を伺うエマの存在がバレていたことに。鋭い視線はエマを監視する護衛からのモノであったことを。
次第に恐怖が落ち着き、周囲を確認し、身の安全を理解すると、エマはようやく立ち上がった。
どうして私がこんな目に遭わないといけないの?イベントは全部マリーに奪われて、殺されるかもしれない恐怖に晒されて。
恐怖が落ち着くと、次第にそれはマリーへの怒りへと転じた。完全な八つ当たりだったが、こうなったらなんとか一言、言ってやらないと気が済まなかった。
何とかしてマリーとマンツーマンで話すタイミングを得る為、特別室がある階へと通じる出入口が見える位置、かつ入口から少し離れたところにある植込みの陰に隠れて様子を見る。
ほどなくして入口から、リアムとマリーと従者の3人が出てくるのが見えた。従者が2人を置いてエマのいる植込みの近くを通りすぎた時は、流石に肝が冷えた。けれどエマには気づかなかったようで、しばらく通りを歩いた後、右折して姿が見えなくなった。
近くにいるのはリアムとマリーの2人だけ。
でも、まだその時ではない。
リアムを押し退けてマリーだけを連れ出すのは、難しい。
エマから2人の様子はなぜかぎこちなく見えた。目を合わせず、会話する様子もない。
手芸用品店でも仲良さげな様子だったのに、特別室で何があったのか。
下衆な勘繰りだったけれど、エマにとってリアムとマリーの仲が悪くなることは喜ばしいことだった。
もっと仲が悪くなれば良い。もっと亀裂ができて、離れれば良い。
エマがほくそ笑む最中、リアムが下を向くマリーの腕を引き何事か話しかけるのが見えた。何を言っているのか聞こえず歯がゆいが、顔を上げたマリーの表情は最初こそ硬かったが、2人で会話をするうちにそれが柔らかいものになっていく。
エマの願いは叶わず、2人の仲の良い様子を見せつけられる形になり、エマのイライラが増す結果になった。
エマが己の手をギリギリと握りしめると、従者が御者の隣に座った状態で、御者が御する一台の馬車と共に帰ってきた。
ダメ!行ってしまう!
御者台から降りた従者の差配でマリーが馬車に乗り込むと、リアムが従者に何か言いつけているのが見えた。そのままリアムだけがマリーに続いて馬車に乗り込むが、従者は馬車に乗らず、平民も利用するケーキ店の1階の店内に入っていく。
エマは不思議に思って植込みの陰から立ちあがり、そっと馬車に近づけば、そのタイミングで馬車からなぜかマリーが降りてくる。
エマが待ちわびていたチャンスが訪れた。
「あんたに話があるのよ!」
エマに気づいたマリーはギョッとしたように後退りしかけたが、それにかまわずエマはその細い腕をつかむと、無理やり馬車から降りかけの彼女を引きずるように降ろし、先程までエマがいた路地裏まで引っ張っていった。




