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私はこの場からすぐさま逃げ出したい気持ちを抑え、考えた末に掴んでいたリアムの腕を引いた。
なるべく小声でリアムに告げる。
「お兄様、髪飾りが揺れて取れそうな気がするので、鏡が見たいのですが。」
「しっかりとついているから大丈夫だ。」
リアムは私の髪飾りを一瞥すると、首を振った。
「取れそうな気がするのです!」
そのまま懇願するようにリアムの顔を見上げていると、リアムは何かに気づいたように頷き、こそこそと近くにいた店員を呼んで、私を鏡がある場所に案内するように告げた。
少し耳が赤いところを見るにつけ、恐らく私がトイレに行きたいという意味を含ませているのだと思ったようだ。
ただこの場から離れられるなら、勘違いされようがかまわない。
エマに会いたくないのだ。
「こちらでございます。」
店員は私を奥まった場所にあるトイレに案内すると、商品のある場所の方に戻っていく。
私の目的は鏡でもトイレでもない。私はこっそりと来た順路を戻り、影から店内を観察した。
リアムが店内の隅の方で、他の客の邪魔にならないように佇んでいるのが見える。
少し離れてはいるが、今いる場所からはエマの横顔もしっかり見える。
私が観察していると、店内のざわつきでリアムがいるのに気づいた様子のエマが目を輝かせ、
「きゃっ!」
わざとらしい大きな声と共に、目の前の棚の糸を、他の人に見えないようにしながらも自ら払いのけて落とすのが見えた。
イベントが起こるのを心待ちにしているのか、口角がニヤリとあがるのすら、私の位置から見える。
その様子がはたから見ても異様すぎて、ゾッとした。イベントを起こすためには手段を選ぶつもりはないらしい。
リアムは手伝うんだろうか。
ゲームでは、エマが落とした糸を拾い上げて彼女に差し出すリアムのイベントスチルが存在していた。
私が固唾を飲んで見守っていると、リアムはエマが糸を落としたことに気づいたようだが、近くにいた店員を呼んだかと思えば、エマの方を指差して何かを言っているのが見えた。
そのまま店員がエマに声をかけ、彼女が落とした糸を拾い集めていく。
エマは店員と糸、そしてリアムの方にそれぞれ視線をやり、起こるはずのイベントが起こらないことに首をかしげているように見えた。
そのまま影から顔だけ覗かせていると、リアムと目があってしまった。
やば!
リアムは私の方に存在を知らせるように手をあげ、こちらに向かってくる。
エマにバレるからこっちにこないで!
必死に来ないように口パクするが、リアムに通じるはずもなく、彼は私の方に近寄ってきた。リアムの動きに合わせてエマの視線も動き、私が視界に入ると目を見開いたかと思えば、鬼のような形相になったのが私の視界の端でみてとれた。
いや、怖い!怖い!
あまりの変わりように言葉もなく、エマの視界に入らないようにリアムの体でエマの視線を避ける。
「もう大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。し、刺繍箱を選びたいです。」
リアムの声かけにぶんぶんと激しく頷く。
リアムの影に隠れて何とか刺繍箱が置かれているコーナーに移動しようとしたが、
「あの、すみません。」
少しうわずったような可愛らしい声で、誰かがリアムの背後から声をかけてきた。
私からはリアムの体が邪魔で見えないが、声は幼いけれど聞き覚えのある声に背筋が凍りそうになった。
エマ・スペンサーで間違いない。
リアムが体の位置をずらして振り向くと、ニコニコと頬を上気させて、万人が好みそうな笑顔を浮かべたエマが、そこに立っているのが見えた。
先程のエマの形相が頭に浮かび、たとえ笑顔でもそこに立っているだけで怖くて、思わずリアムの服の袖を掴んでいた。
「さっき、貴方が店員さんを呼んでくれたって聞きました。ありがとうございます。」
語尾にハートがつきそうな勢いの台詞。
エマの声かけは、まるでその場にリアムとエマしかいないような、2人だけの世界を作ろうとしているようだった。もちろん、エマの視線は完全に私を無視してリアムにしか向いていない。
「別に。他の客に迷惑だからしたまでだ。」
リアムの台詞には覚えがある。
ゲームで糸を拾うのを手伝ったリアムに、エマが感謝を述べた後に彼が返す台詞だ。
ただゲームだと、手伝ったことを感謝されて、リアムが照れ隠しに言った風だったが、今の状況では明確に温度差がある。ただただ騒ぎを起こされたら迷惑だからという、そのままの意味にしかとれない。
それにエマも気づいたようで、一瞬、困惑したように片眉を下げたが、すぐに気を取り直して続けた。
「あの、お名前を教えていただけませんか?助けてくれた方の名前を知りたいんです。」
エマはまさにイベントが起こった前提で事を進めたいようで、甘えるような声でリアムに告げた。
本来、ゲーム中ならこう返事が返ってくる。
『リアム。リアム・オーランドだ。』
素直にリアムが名前を教えてくれ、エマが自己紹介して知り合いとなる。
だがリアムはゲームの流れに反して、冷めた目でエマをねめつけた。
「悪いが、たいしたことはしていないし、教えるつもりもない。では。」
リアムはそのまま、袖を掴んでいた私の手を離させると、私の背中を押して刺繍箱のコーナーへと促した。
チラリと背後に視線をやれば、そんなリアムを狼狽した様子で見ているエマの姿がそこにあった。




