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私が顔をあげると、公爵夫人が困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいね、ナイフを落としたみたいだわ。」
まるでタイミングを見計らうように落とされたナイフ。侍女2人がスッと私と公爵夫人に近づき各々がしゃがみこんでナイフを拾い上げるのを見て、慌てて私も声をあげた。
「ごめんなさい、ナイフを落としました。」
私が謝ると、
「2人とも、食事のマナーが悪いぞ。」
公爵は口元をナフキンで拭き、明らかにわざと落とした公爵夫人と、手を滑らせて落とした私を2人まとめて嗜めながらも、口元を笑ませる。
「ふふ、お互い気を付けましょうね。」
そこにいるのは、愛するこどもの失敗をカバーしようとする優しい母親の姿に見えた。
そしてそれに気づいて指摘せず、見守る優しい父親。暖かい家族の団らんに見えるソレ。
公爵夫人の行動がマリーの記憶とあまりに違うので、私は戸惑いが隠せなかった。
記憶の中の公爵夫人は、マリーが何をしても少し距離を置いていて、笑顔を浮かべていても目の奥が冷たくて。失敗しても軽く注意するだけで、さっきみたいな包容力なんて微塵も感じないそっけない態度。
目の前にいる、優しい母親然とする公爵夫人とは似ても似つかない。
そして公爵も同様に、マリーの記憶とは違う。
妹の娘でかつ、異性ということもあり、関わり方がよくわからないのか腫れ物を触るように扱われた。マリーの欲しいものは何でも与えるのが愛情とでもいうかのように、要求するものは与えるが、マリーが一番欲しがった親からの温かい愛情というのは皆無。
結果、卒業パーティーで突き放すのだ。
あまりにも想定していたものとかけ離れていて、どうすればいいのかわからない。
かつてのマリーが喉から手が出るほど欲した物が、目の前にあった。
ただ、それは脆いガラスでできているような気がして、確実に手にはいるものだと確信できず、手を伸ばしてよいのかわからない。
なんとか動揺を押し隠し、
「はい。」
努めて笑顔を浮かべたけれど、とてもぎこちない笑みになっていただろう。
侍女が新しいナイフを持ってきたので受けとると、そのまま何事もなかったように食事が再開された。
先程の戸惑いを引きずりながら食事をとっていると、公爵夫人がきっかけで欲しいものの話題になった。
「リアム、何かしたいことや欲しいものはあるかしら。」
公爵夫人に問われたリアムの方を見れば、リアムは即座に首を振るのが見えた。
「いや、今は特には思い付きません。」
リアムがそう言うと、公爵夫人の視線が今度は私へと移った。答えを促すような視線に、リアムと同じ様に首を左右に振ろうとしたけれど、思い付いたことがあってその動きを止めた。
「刺繍が習いたいです。」
私の言葉に、公爵夫人は大きく頷いた。
刺繍は、貴族の女性にとって必須だ。
デビュタントに参加する10歳前後で習い始めるのが普通で、刺繍の力を競うコンテストがゲーム内でもあった。ゲームでは器用さのゲージをあげることでそのコンテストで優勝することも可能だったけれど、ゲームとしてではなくリアルで貴族生活を体感している今は、少しでも早く習ってその技能を身に付けたい。
隠れ家で家庭教師に必須技能だとは教えられたけれど、習うのは10歳くらいだからと、いくら頼んでも教えてはくれなかった。
「少し習うのは早いと思うのだけど、マリーがそれを望んでいるのなら刺繍の先生を探してあげるわ。」
マリーは今は7歳。
現実世界で7歳なら、小学校1年生。針を持たせるのは危ない歳なのは頷ける。けれど今その身体を動かしている中身は、その年齢から遥か上なので心配はご無用である。
「刺繍の道具も良いものを用意した方がいいな。」
公爵もその話に乗ってくる。
確か一周目では、やたらゴテゴテと金飾りのついた豪勢な刺繍箱をマリーは持っていた。
ただ私としてはシンプルな物が欲しいので、そんな華美な刺繍箱なんて正直いらない。
「できたら、刺繍箱は自分で選びたいです。」
華美な刺繍箱は、公爵が与えたものだったはずだ。公爵に用意させたら同じものが持ってこられそうで嫌だ。
私の言葉に、公爵夫妻は顔を見合わせた。
「ダニエラ、今日の予定は?私は昼から城に行かねばならない。マリーの買い物に付き合えるか?」
「私は招待されているお茶会に参加する予定があるのよ。」
まるで2人の会話は、今日買わないといけない口振りだけれど、刺繍箱は今すぐ欲しいものでも、今すぐ必要なものでもない。
私が2人を止めようと口を開こうとすると、黙っていたリアムが口を開いた。
「僕は暇ですから、マリーの買い物に付き合います。家庭教師から出された課題も終わりましたし、予定が空いています。」
リアムが買い物に付き合う???
一周目ではあり得なかったイベントの可能性が浮上したので、私は目を白黒させた。




