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ともかく今は、目の前のことに集中しよう。余計なことを考えるのは後回しだ。
「ありがとうございます。」
ちらりとリアムの方に流し目をし、小声でに謝辞を述べると、気のせいかリアムの口角が少し上がったように見えた。
回していた腕から手を離し、目の前にいる公爵夫妻と対峙する。手を前で軽く揃えてにこりと微笑むと、公爵がまず口を開いた。
「ようこそ、オーランド家へ。私はヘンリー、そして妻のダニエラだ。本当の両親のように思ってもらってかまわない。」
公爵の言葉に、妻であるダニエラは夫の言葉に同意するように頷いて微笑んだ。
それを合図に、私はリアムにも見せたように、片足を後ろに下げて腰を落とす礼をして練習した成果を私は発揮した。
「マリーと申します。」
転ばずできたことにほっとしたけれど、そこで気を抜いてはいけない。相手はマリーをここまで育つまで、公爵家の血を持つ人間だというのにまるでカッコウのように他人に育児を任せて放置した人達。
たとえリアムに少し優しくされたところで、絆されてはいけない。
1周目で公爵夫妻と兄に玄関で迎えられた時、母親が亡くなった寂しさをソフィアとグレッタとの関係では埋められなかったけれど、やっと寂しさから空いた心の穴を埋めてくれる存在ができたと喜んでいた。
けれど、それは最初だけ。
マリーの家庭教師やソフィアからの報告でマリーの実情を知っていた公爵夫妻は、マリーを腫れ物に触るように扱った。
マリーの自業自得とも言えるけれど、ならば家にいれずに見殺しにすればよかったのに、それをせずに引き取った。なら、受け入れた責任を公爵はとらなければならなかったはずだ。
私には、目の前で人好きのする笑顔を浮かべる公爵夫妻が、笑顔の仮面をつけているようにしか見えなかった。
疑心暗鬼になりすぎているのは否めないけれど、用心するに越したことはない。
「今日は落ち着かないだろうから、食事は部屋に運ばせよう。心と体を休めなさい。」
「お気遣いに感謝します。」
公爵の提案にのり、頷く。
正直、気を張りすぎて疲れていたので、ありがたい提案だった。
公爵が視線をどこかに移したので、その視線の先に私も視線をやると、スッと近づいてきた人がいた。
「マリー様、私は家令のエドワードと申します。建物の中をご案内させていただきます。」
公爵夫妻との挨拶の後、紹介されたのはメガネをかけた初老の男性だった。確か、公爵家の執事や侍女のトップで、あの侍女頭のジーナよりも立場は上の存在だ。
「ありがとう、エドワード。よろしくお願いするわ。」
初めて会う人が多すぎて、マリーの記憶の助けがなかったら、人の名前で頭の中がごちゃごちゃしていたと思う。
事実、1周目でマリーはいろんな執事と侍女の名前で頭が混乱して、しょっちゅう間違えていた。
「またゆっくりお話する機会を作りましょうね、マリー。」
ダニエラはそう言って私に近づいたかと思えば、手を伸ばした。何をするつもりなのかわからなくて、ギュッと目を閉じるとさらりと頭に触れる温もり。
撫でられている、そう思ったらなぜだか急に泣きたくなって、胸がきゅっと締め付けられるような気がした。
それは私ではなくて、マリー自身の胸の痛みのような気がした。
「右手が書庫、左手がリネン倉庫になります。扉が似ているのでお間違いにならないように注意願います。」
建物の内部はマリーの記憶でわかっているので、知らないふりをするのも楽じゃない。
公爵夫妻とリアムと別れた後、とりあえず生活圏内を軽く案内するとのことで、エドワードに2階につれていかれた。
「つまり、間違えたら何かあるってことかしら?」
ただ間違えただけなら閉めればいいだけだ。そこまで注意する必要があるとも思えない。ただ知っているだけに、なぜ注意する必要があるのかもわかっている。
私が頬に手を当てて質問すると、エドワードはご名答とばかりに微笑んだ。
「はい、リネン倉庫の扉のノブが壊れかけていまして、修理する予定が入っております。中に入って閉じてしまうと中からは開かなくなってしまうのです。ですから、中に入る場合は2人1組で、1人が扉を開けている状態で使うように指導しています。」
「なら、この部屋をリネン倉庫として使うのをしばらくやめたらどうかしら?しばらく使わないような重い荷物を入れる部屋にしてしまうとか。リネンなんて頻繁に変える物を入れる部屋にするから、壊れていても何度も入る必要がでてしまうのでしょう?閉じ込められたら、使用人がかわいそうだわ。」
1周目で、何度か間抜けな侍女が閉じ込められていたのを知っている。ただマリーは誰かが閉じ込められて泣いていたのに気づいていても、わかっていて放置するようなひどい性格だった。
私はそんなことはしたくないし、しない。
私の意見に、エドワードが賛同した。
「では、ご主人様にマリー様のご意見として申し上げてもかまいませんか?」
「かまわないわ。」
使用人が何かをするのに、誰か上の立場の人の意見とした方が受け入れられやすいだろう。
来たばかりの私の意見が取り入れられるかわからないけれど、何もしないよりましだ。
私が了承すると、エドワードは喜色満面といった様子だった。
「マリー様をオーランド家に迎え入れられたこと、改めて嬉しく思います。」
私が来たことを心から歓迎されたようで、胸がホコホコした。




