日常
僕が彼女に初めて会った時には、もう既に彼女は壊れていた。
「光希くん。光希くん。私、あなたの名前がとっても素敵だと思うの。」
笹原いのりはそう無邪気に笑って、僕の頬に触れる。その姿はとっても幸福そうで、ありがとうと微笑めばいいのに、彼女の指先があまりにも冷たくて、僕はその冷たさに麻痺したように何も動けなかった。
「どうしてだろうねぇ。ねぇ、どうしてだと思う?」
ふふふと現実でも笑う人いるんだと頭の片隅で思いながら、何を聞かれているかうまく頭に入らなくて、彼女の離れた指先を今すぐ温めてあげないといけない気がして、結局、いつものように僕は彼女の答えを待つしか能がないのだ。
「そうねぇ。そう、やっぱり教えない。」
いのりはつまらなそうに呟く。何が不服なのか、口を小さく尖らせて、飲みかけのオレンジジュースを手に取り、ストローでチューチューと啜る。
「僕も...いのりという名前、とっても素敵だと思う...」
やっと絞りだした答えはなんとも陳腐だった。いのりは、一瞬きょとんとした顔をして、クスクスと楽しそうに笑いだした。
「そうね、そう...。光希くんの言うように素敵な意味だったら良かったのにね...」
コップを丸テーブルに置くと、いのりはポツリと呟いた。
「ねぇ、良いこと教えてあげようか。ノロイなのよ。私、ノロイなの」
彼女は、口角をぎゅっとあげて楽しそうに嘯く。しかし、その目には一切の感情がのっていなかった。それでも、僕にはそんな彼女の表情がとても美しく見える。
「ノロイ...呪い...?それは...呪われてると言うこと?呪っているってこと?それとも...両方?」
「さあ?呪われてるのかもしれないし、呪っているのかもしれない。その両方だってあるのかも」
ストローでオレンジジュースをぐるぐるとかき混ぜながら、いのりは僕をじっと見つめる。その真っ黒な瞳に映る僕は、とても困惑した表情をしていた。どこかで、冷静な自分が言う。
何て滑稽だろう
「やっぱり、光希くんは光希くんだね」
それはそれは楽しそうに笑う。そんないのりの体には、何箇所もの痣ができていることを僕は知っている。僕だけが知っている。いのりの母親なのか、父親なのか、どちらもなのか、僕にはわからないけど、どれにしても助けないのだから同罪だ。
「ねぇ、分かってるのかな?私には光希くんだけなのを」
いのりはうっそりと笑って、隣に移動してきた。そして、僕の手に自分の手を重ねて、僕の右肩に自分の頭を乗せる。僕もその上にコツンと自分の頭を軽くのせる。
「分かってるさ。だって、僕たちは共犯だ。君には僕だけで、僕には君だけだ」
僕たちは真っ赤だった。他人の血で真っ赤に染まっていた。隣の部屋で転がっている2つの血塊に、その血で一面に染まった部屋。僕たちが染めた。気持ちよく眠っていた彼らは、僕らのおかげで永遠の眠りにつくことができた。
ああ、僕たちはいつまでこうしていられるかな...