おかえりなさい
「おかえりなさい」
今日もまた、澄んだ声が私を迎え入れてくれる。
私は、中小企業に勤めるしがないサラリーマンだ。
毎日決まった時間に出社しては、決まった時間に退社する。
私のポストは、会社の中でも下の下という位置づけであり、残業などあるはずもない。かといって、早く上がれたからと飲みにいくような友人もいない。職場内での私は、かなり浮いていたことだろう。
言うなれば、私は会社のお荷物的存在であった。
思い返せば、私の人生はずっと冴えないものだった。
子供の頃は、何をしたわけでもないのによく周りからいじめられていた。
勉強もできなければスポーツもできない。受験戦争では早くも敗退。三流高校を経て、五流大学に辛くも引っかかったものの、そこでも散々な日々の連続だった。
そんな私の冴えない人生の中に、唯一、一筋の光明を投げかけてくれたものがあったとするならば、それは澪であった。
澪は、地元の氷川神社の巫女だ。
神主の娘である澪は、氷川神社の跡取り娘である。そして、私の幼馴染みでもあった。
澪は、子供の頃から目鼻立ちの整った美形であったが、年を追うごとにその美しさに磨きをかけるようになった。また、神職に就いているがゆえか、はたまた常日頃身に纏っている巫女装束が魅せる技か。後頭部の辺りにぼわっと、神々しいまでの輝きを放っているようにすら見えることもあった。
私は、ずっと澪のことが好きだった。澪も、私とともに暮らしてもいいと言ってくれた。そこで、私たちは結婚したのだ。
「おかえりなさい」
澪のこの言葉に、私はどれほど支えられていることだろう。この言葉を聞くと、どんな仕事でも、どんな人生でも頑張れそうな気がする。
明日を生き抜く糧となる……私は、心からそう思うのだった。
私は、ある企業に勤めるセールスマンだ。
朝から晩まで歩き続け、家を一軒一軒回っては電子辞書を販売する毎日だ。
「販売する」などと言ったところで、一度だって売れたためしなどありはしない。
理由は簡単だ。私は、まったくといっていいほど弁が立たない。人見知りであり、極度の上がり症なのだ。しかし、実績が伸びない理由はそればかりではない。客が、一人も出てこないのだ。
家の中に人がいることはわかっている。だが、私が門をくぐって庭に入っても、呼び鈴を鳴らしても、誰も出てきてはくれないのだ。
ある時などは、庭で草花の手入れをしている婦人に声をかけたのだが、まったく無視されてしまった。声は聞こえているはずなのに、こちらに見向きもしない。
――もしかして、私は影が限りなく薄いのだろうか。……いや、まさかな――
声をかけたのに振り向かなかったのだ。ただ、無視をされただけなのだろう。
足が棒のようになるまで歩き続け、一番星が昇った頃に家に帰り着く。
我が家は、地元では有名な氷川神社だ。そこの看板巫女が私の妻である。
私たちは幼馴染み同士だった。
「おかえりなさい」
神社の鳥居をくぐると、帰りを待っていたのか、妻の澪が巫女装束をたなびかせて私を迎え入れてくれる。
私は、家に向かう途中、澪と並んで歩きながら今日あったことを話して聞かせた。
澪は聞き上手で、私の言葉を遮ることなく、また適度に相槌を打ちながら聞いてくれる。今時の出しゃばりな女たちとはわけが違う。澪に話を聞いてもらうだけで、仕事の疲れもすっとどこかへ行ってしまうのだ。
澪は巫女だけに、癒しの力でも秘めているのではないかと思うほどだった。
そんな澪が、少しおかしなことを口にした。
「今日は外回りだったのね」
おかしなことだ。「外回り」というのは、室内勤務をしている者がたまに外に出る時に使う言葉だろう。私の仕事はセールス。夏であれ冬であれ、常に外を歩き回っているのだ。
澪の発言に首を傾げたものの、そのことには特に触れることはなかった。
私は、ある大手ゼネコンの会社に従事している。しかも社長である。
三千人もの従業員を抱え、時間に追われるように忙しない日々を送っている。
仕事が終わってからも、何かと付き合いで忙しい。
飲み歩いたり麻雀に行ったり、休日には釣りをしたりゴルフをしたり、いろいろと多忙なのだ。
だから、妻がある身でありながら、若い女性社員にほんの少し手を出したからと言って、咎められる筋合いなどはない。そうだろう? ほんのちょっとした息抜きじゃないか。
「おかえりなさい」
すっかり酔いが回った状態で帰宅した時には、月は西の空に傾いていた。
巫女装束に身を包んだ妻の澪が私を出迎える。
澪は清楚で美しい。そして、地元でも有名な氷川神社の看板巫女であるということが私の心に火をつけ、私の猛アプローチの末に一年前に籍を入れたのだった。
しかし、私の心はすでに冷めきっていた。
当初は、従順かつ清楚なところがいいと思っていたが、それに段々と飽き飽きしてくるようになった。
――なんてつまらない女だ――
最近では、そう思うようになってきた。
「ねえ、電子辞書は売れたの?」
そう尋ねる澪を、私は不快感も露わに睨みつけた。
「電子辞書? そんなもの、このご時世にいったい誰が買うと言うんだ。インターネットでこと足りる。しかも私は社長だぞ。販売などするものか!」
そう怒鳴りつけると、境内を家の方に向かい、私はひとりでゆらりゆらりと歩いて行ったのだった。
私は、ある大店の番頭だ。
扱う品は反物。老舗である。
番頭として、女将さんにどやされ、こき使われ、丁稚どもの面倒を見る毎日。
女将さんと丁稚や使用人らからの板挟みに疲れ切っていた。
そんな私を救ってくれたのが、氷川神社の看板巫女であるお澪だった。
艶のあるしなやかな黒髪。雪のように白い肌。頬にはほんのりと赤みがさし、まさにお澪は私の理想の女だった。
私は、忙しい合間を縫って神社に通い詰めた挙句、ようやくお澪と夫婦になることができた。
その時の私の心情は、とても言葉などでは言い表せるものではない。まさに、天にも昇るような夢心地であったのだ。
それからというもの、私は家に帰るのが楽しみで仕方がない。仕事にも張りが出るようになった。
「おかえりなさい」
神社の鳥居をくぐると、お澪が巫女装束をたなびかせながら私を迎え入れる。私は嬉しさのあまり、お澪のもとへと駆け寄った。
普段は白衣に緋袴を身に着けていることが多いが、この日は千早を着ている。
私は、境内を歩きながら、今日一日あったことをあれやこれやとお澪に話して聞かせた。お澪はただ黙ってそれを聞いている。
一通り話し終えたところで、お澪が桃色に色づいたその形のよい唇を開いた。
「今回は大店の番頭さん? あなたはサラリーマンではなかったのかしら」
「さらりいまん?」
「違うの? なら、セールスマンかしら。電子辞書を売り歩いていたのでしょう?」
「……電子辞書?」
「それも違うのね。それじゃあ、大手ゼネコンの社長さん?」
「お澪……いったい、何を言っているんだい」
「本当のあなたは、いったい何者なの? ねえ、よく思い出してごらんなさい」
「……何を……お澪。……私は……」
「ずっと言っていたじゃない。私は、あなたにずっと」
「私に? ……何を?」
「おかえりなさい、と」
「澪」
突如上がった声に振り向くと、そこには氷川神社の神主の姿があった。
「お義父さん」
私のつぶやきに、神主は目を細めると俄かに項垂れて言う。
「もういい加減にしなさい」
「……どういう……?」
「澪は、あなたの妻ではない」
「何を、言っているんだ」
「澪はあなたを好いてなどいないのだ」
「……それは、まさか、お澪が浮気を……?」
「そうではない」
そう話しながらも、神主は澪に何やら札を手渡す。
「澪。使い方はわかるな」
「はい。でも、お父さん。もう少しだけ、待ってもらうことはできないの?」
「これ以上、長引かせるのはよくない」
「でも、あの人……悪い人じゃないの」
「今はな。けれど、これ以上長引いたらどうなるかはわからない」
「どうなるかわからないって……。それは、悪霊になるかもしれないということ?」
――悪霊……――
澪は、確かにそう言った。
――悪霊? 誰が? 私が? ……澪。お前は、いったい何を言い出すんだ――
澪……。
どうして私が悪霊だなどと……。なぜ、そんなことを言うんだ。
澪。お前は私の妻だ。そして、私はお前の夫だ。
あんなに仲がよかったではないか。なあ、そうだろう?
お前は私の幼馴染みで、いつも私を助けてくれた。
会社では出世コースから外れ、いつも窓際に追いやられていた。
電子辞書が売れないと嘆いていた時も、澪が私の支えとなってくれた。
そして、……大企業の社長に昇りつめたんだ。
いや、待て……そうだったかな?
もしそうなら、いったいどうなってそうなったんだったか……。
あと、それから、私は大店の番頭で……。
番頭……? おかしい。ゼネコンのある時代に番頭だと……?
ああ。記憶が混濁としている。何が何やら、私にもよくわからない。
いったい、どうなっているんだ……。
ふと見ると、澪は左手に札と右手に十字の形をした短刀を握り締めている。
澪は悲しそうな表情で、札と短刀をこちらにかざして呪文を唱えた。
その言葉に呼応するかのように、私の足元に金糸で描いたような五芒星が現れた。
それが徐々に上へ上へとくるにつれ、何とも言えない恐怖に襲われる。
――これは何だ? 私は、いったいどうなるんだ……!――
恐怖が絶望へと変わり、それが最高潮に達した時……あの声が聞こえたのだ。
「おかえりなさい」
声を辿ると、澪が悲しそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。澄んだ声がなおも言葉を紡ぐ。
「おかえりなさい。幾年月、誰にも気づかれることなく彷徨い続け、苦しかったでしょう? だから、もうおかえりなさい。あなたの還るべきところへ」
それを聞くと、途端に私は苦しみから解放されるのを感じた。
そして、恐怖と絶望の代わりに、大きな感謝の念が溢れ出てくる。
だから私は、もうじき消えゆく身でありながら、最後の力を振り絞って澪に精一杯の言葉を投げかけたのだ。
「澪。大好きな澪。どうか、笑っておくれ……」
桃色の唇の端が上を向く。目尻がわずかに下がる。
――ああ。澪は、やはり美しい……――
私は一枚の札に封じ込められながら、その心持ちは実に満たされていた。
足元にはらりと落ちた札を拾い上げながら、澪は神主である父に尋ねる。
「この人は、どうなってしまうの?」
「黄泉の国にお還り頂くのだよ」
「どうやって?」
「封印により、この世に影響を及ぼすことを一時的に制限したのだ。魂は無事だよ。還るべき場所がわかったなら、封印を解いて還してあげるだけさ」
「そう。……ちゃんと、還れるかしら」
「おそらく、大丈夫だろうね。お前の力だよ。お前が、この魂が悪霊になることを阻止したのだ」
かつて、父が澪に話してくれたことがある。それは、悪霊と悪霊の違いについてだ。
悪霊とは、積極的に生きている人々に干渉し、その人を迷わせ堕落させようとする者のことをいう。それに対し悪霊とは、死んだことに気づけず、どこに向かうべきなのかわからずに彷徨い続け、その過程でただ周りの人々に気づいて欲しくてこの世に干渉してしまう者のことをいうのである。
そして悪霊は、長くこの世にとどまり続けることで悪霊となる危険性を孕んでいる。
「次に生まれてきた時に、また私と出会うことがあったなら……その時には本当の夫婦になれたらいいわね」
澪がそう言うと、まるでそれに答えるかのように、澪の手の中で札がひとつ震えたのだった。
お知らせが2点。
まず、ひとつ。
夢学無岳様主催の企画に参加しておりましたが、2018年7月28日に結果が発表されました。
なんと!!
私、読者賞なるものを頂いてしまいました!!
まさかまさかの事態に、かなりあわあわとしております。(伝わるかしら)
夢学様より、早速プレゼントを頂きましたので、ここに掲載させて頂きます。
本作が一応ホラーであるので、その作風を考慮して描いて下さったようです。
嬉しいですね!
夢学様、ありがとうございます(⋈◍>◡<◍)。✧♡
本文中の挿絵は明るいままに致しました。
その方が、なんか報われる気がします。
でも、こちらの挿絵も大好き♪
なので、あとがきに掲載させて頂きました。
みなさん、夢学無岳様の『しろうと絵師による 「なろう小説」挿絵 製作日記 プラス 「お絵かき教室」 読んで練習するだけで、誰でも絵が、みるみる、上手くなる!』を読みに行かれることをお勧め致します。
いろんな、素晴らしい作家様&作品に出会えますよ♪♪
そして、ふたつめ。
2018年10月2日。
「ヤミツキ×なろうコン」の結果が発表されました。
本作、なんと大賞を受賞致しました!
怪談朗読で大人気のYouTuberヤミツキテレビ様に、YouTube内にて朗読をして頂いております。
短編映画のような仕上がり……。
ハイクオリティな動画となっています。
YouTubeにアクセスして、「ヤミツキテレビ おかえりなさい」で検索すれば出てくるかと。
そちらも、ぜひご覧下さいませ♪