04
あの日のことを忘れたくても、わたしは一生忘れられないだろう。
わたしは戻ってきてくれた両親の存在にいつになく浮かれ、母親の手を引き寒い中で遊んでいた。
「彩羽ちゃん、寒くないの?」
「平気です」
「ふふ、ほっぺたが真っ赤よ? もう少ししたら中へ戻りましょうね」
もう少し、という時間が後どのぐらいなのかと考えていたと思う。
久しぶりに会った母親との時間がうれしくて、たくさん遊びたくて仕方がなかった。冬の庭の独特な殺風景な光景が個人的には好きで、母の手を引きあっちに走ってはこっちに走ってはを繰り返していた。
そんな時だ。
バタバタ、と乱暴な足音が聞こえたのは。
屋敷には多くの人が暮らしているけれど、こんな風に物音を立てて移動する人間はひとりとしていない。違和感にいち早く気付いた母親がわたしの手を取った。
「彩羽、こっちにいらっしゃい」
庭遊びが意外にも好きなわたしのために作ってもらった平和な箱庭。
外からの直接の侵入を阻むため塀に囲まれた空間は、逆に言えば逃げ場所を失いやすい。
庭へと続く唯一の廊下には、男がふたり真っ赤に染めた姿で立っていた。
わたしたちの姿を確認し、ひとりの男があごを動かし指示を下す。
そこにどういう意味があるのかなんて考えたくはない。なまぐさい臭いが鼻につき、思わず顔をしかめていた。
「なぜ……」
母の疑問はわたしの疑問でもあった。
この屋敷には多くの警備とメイドがいる。たったふたりで侵入を果たせるはずがない。まして、目指す先が分かっていたかのような、手際の良さで庭へとやってきた。
「さあ、なんでだろうな。答えを知る前にあんたは死ぬことになるがな」
「……裏切り者がいたなんて、あの人を思いっきり叱らないといけないわね」
母の呟きの先に父が駆け寄ってくる姿が見えた。
けれど、母と暗殺者の間の距離のほうが近い。
間に合わないと思った時、救世主のように現われたのはオネエ執事だった。
彼は庭へ出てこようとする暗殺者の後ろ襟首を掴み、引き寄せる。
しかし、安堵したのは一瞬だった。
もうひとりの侵入者がオネエ執事の腕にナイフを切りつけた。
オネエ執事は痛みを感じないのか、侵入者を蹴り飛ばす。そして母に襲いかかろうとする侵入者の後を追う。
だが、蹴りに威力がなかったのだろう。蹴られた侵入者がオネエ執事めがけナイフを振りかざす。
そのナイフから父が庇った。
左首から背中へそして腰あたりまで一気にナイフが奔る。
じわり、と真っ白なシャツに赤い色が広がっていく。見たくなかったのか、父の無事を確認したかったのかわたしは視線を上げる。
まるで蛇口から水が溢れるように、首から鮮血が弧を描いて飛び散り次第に――勢いを失っていく。
自分の腕も斬り付けられたのに、オネエ執事が父を傷つけた男に向かって飛びかかる。
赤が広がる。
次々と鮮血がほとばしり、辺り一面を赤く染めていく。
鉄さびのような臭いが付属物かのように付随し、わたしに否応なく現実を突きつけ、琴線を震わせる。
激しく揺さぶられ、何かが今にも弾けそうになっていた。
「だ、だい……じょうぶ、よ」
揺れる視界がゆっくりと焦点があう。
ああ、と小さく声が零れ落ちる。
廊下のやり取りに目を奪われ、もうひとりの侵入者の存在を忘れていた。
頬に生ぬるいものが触れて、それが母の手だと気付く。力ない手を支えるようにわたしは添える。でも彼女はわたしを一目見たかっただけだったのだ。手を離し、抱えるように背に腕を回す。
母の胸元にもがく隙間がないほどきつく抱きかかえられる。
男が離すように命令するけれど、母は呻き声のような言葉を吐き出しわたしの体を強く握り締める。
「くそっ、まだ死なないのか」
吐き出す言葉と同時に衝撃がくる。何度も、何度も、どすっ、どすっと……何が起きているのか考えたくなくて、わたしは母の内側で小さく縮こまる。
耳元に聞こえていた母の吐息が気付けば聞こえなくて、不安にかられる。いや、頭ではわかっていたけれど、心が否定していた。
まだ、生きている、と。
気付いた時には葬式の場に立っていた。
繋いだ手がただ温かかったことをはっきりと覚えている。
無表情の娘相手だというのに、彼女の微笑みが冬の寒さの中差し込む日差しのようだったことを覚えている。
でも、この世界には必要な死であったと突きつけるように、わたしの記憶が戻っていて……――。
「……お嬢さま? 急に黙り込んでどうしたの?」
「い、いえ……」
駄目だ。あの日のことに繋がる欠片があると、すぐに引きずられてしまう。
今は彼のことに集中しないといけないのに。
ゲームの中では彼の目的はわたしから財産を奪うことだった。でも、守ろうとしてくれた。怪我をしてまでも。
もちろんそれが計算だと言われたらそれまでだけど、信じたい。あの日のあの凄惨な現場に一緒にいて、一緒に生き残った人だから。
だからこそ、彼にも幸せになって欲しい。お金が必要なら全部渡したっていい。桜空と恋人になる道が幸せだというのなら、協力だってする。……ただ、監禁は勘弁してもらいたいけど。
ここまで考えて別の考えに至る。
冷泉院彩羽はしょせん悪役。
だから過去をきちんと語られないし、オネエ執事にいたってはルートをクリアしても謎ばかり残っていた。
だから――彼は幼い頃に彩羽と知り合いで、かつ怪我を負った。この時の復讐をするために近づいたのでは、と。
彩羽は決してスペックの高い悪役ではなかった。だから幼い頃のことを覚えていなくてもおかしくはない。
分からないのだからここは平和的に解決をしましょうか。
交渉開始だ!!
「今回の怪我で、わたしの傍に使えることがいかに危険か分かりましたよね?」
さっきまで黙っていたわたしが突然話始めたからだろう。オネエ執事は驚いた顔をして、何度か目を瞬かせる。
「わたしは冷泉院家を出る予定です。できれば“冷泉院”の名も捨てるつもりなのです」
「つまり、なんなのかしら?」
「もうわたしの傍で働く必要はありません。怪我をさせてしまった身で、このようなことを言うのは心苦しいですが……」
「いやよ」
小学生らしくない口調で遠くに追いやろうとしたわたしの言葉を、彼は端的に塞ぐ。
「絶対に嫌」
「で、でも! とても危険で」
「だから? 私は平気よ」
「駄目です! また怪我をして、今度は死んじゃうかもしれないんですよ?」
「それは無いわね。今度こそ私が守るから」
いえ、あなたが将来的にわたしを……。そう言いたいけれど、飲み込み別の言葉を告げる。
「幸せに……なってもらいたいんです」
もしかしたら彼が持つストーリーを書き換えてしまったのかもしれない。それでも、両親の死と引き換えに始まった物語で得ることのできた幸福な未来を手に入れてもらいたい。
でなければあまりに無意味だ。
「私にとっての幸せは私が決めるわ。こうしましょう? 私とふたりで暮らすの。素敵でしょ!」
「いえ、まったく……。それだけは遠慮させてください」
んもう、と思わず零したわたしの言葉に頬を膨らませながら、膝をつく。すると、メガネ越しの怜悧な瞳と視線が同じ高さになる。
「貴女の嫌悪する表情は大好きだけど、こんな時には見たくなかったわ~」
「すみません……」
「謝られるとさらにショックなのよ! まあ、いいけど……私は貴女から離れないわ。旦那様に助けられた命だからね。最後まで貴女の傍にいたいのよ」
ぐっ、と言葉が詰まる。
彼もあの事件に感じ抱くものがあるのだろう。
「お気持ちは大変ありがたいです。しかし、わたしにはあなたのお給料を支払う力はない子供です」
「あら、貴女が受けとる予定の遺産やら、冷泉院の相続株なんかをあわせれば簡単よ」
「…………いえ、それは全て放棄するつもりです。もちろん、あなたの慰謝料として必要な金額を除きますので言ってください!」
この部分が言いたかったわたしはやりきったように、大きく息を吐き出す。
なのに……なぜだ。
予想と違う反応に戸惑う。
オネエ執事は「そう」と呟きながらわたしの頬を優しく撫でる。驚くほど冷たいその指先が、わたしの体を凍らせようとしているのではと勘違いしそうになる。
「お嬢さまは理解されていると思うけど、冷泉院の当主の座を狙う彼らがお嬢さまの命を狙っていると思うのよね」
彼の問いに小さく頷く。
直系の中でも彩羽は特別扱いだった。
とてもくだらないけれど、冷泉院は“極彩色の瞳”と呼ばれる瞳のお陰で繁栄したと言われている。それを持つ者が生まれれば、その者が当主となる。
本当にくだらない。ただ、様々な血が混ざった結果だというのに……でも古い考えの祖父は譲らないだろう。
「だから、冷泉院を捨てちゃうってことには賛成。でもねえ。私から離れるのは反対よ。私のお嫁さんになりなさいよ!」
「…………無理です」
呆気にとられて即答できなかった。
早くてもあと十年必要だというのに。例え十六歳でもご免だけど! 正体不明の男の嫁とか絶対に嫌です。
ぷにぷに、と二十代の男が幼い子供の頬を指先で突っつくのはロリコンにしか見えない。が、イケメンというのは特だ。許される気がする。
「……早く大人になって。とっても美味しそうで、食べちゃいたくてウズウズしてるのよ。我慢出来なくなる前に早く」
食べちゃう=殺されちゃう。
駄目! 絶対に許しちゃ駄目!! ロリコン禁止!!!!
彼の幸せは願ってる。
でも、遠くの場所で幸せになってもらいたい!! やっぱりお金だけ渡してオサラバしよう。
「ふふ、まあこの話はまだ先でいいとして……。貴女から離れるつもりは私にはないの。だから諦めてちょうだい」
「で、でも、ですね。お金の面が……」
「あら、子供が気にするものじゃないわ」
オネエ執事はわたしの髪に指を絡めながら、優しく言い聞かせるように続ける。
「それに忘れちゃったの? 私は貴女のご両親からお給料をもらってるわけじゃないってコ・ト」
えっ、そんなの聞いたことがありませんが……。
「四歳の時、あなた正式に婚約したでしょう? 私はその方から命じられて冷泉院家に来たのよ?」
「…………はい?」