ふたりっきり
こんなにも、充実感に満たされることなんて無かった。今まで生きてきて一度も。
自分の体全部、もちろん頭の先から足の先までも、温かくてじんじんして、ふと涙が込み上げてくる。私は幸せだ。本当に。
私が居て、彼が居る。この狭い部屋に、私と彼だけ。
なんて、満たされているのだろう。何も欠けることのない完全な空間。
彼の自宅のすぐ前のアパートに引っ越した。
6畳一間のワンルーム。そこに大きいベッドを置いた。彼と寝る為に。彼に抱かれる為だけの部屋。毎日ではないけれど会いに来るよ、と彼は言った。
自分の生活なんてどうでも良かった。彼と居る時だけ私は生きていると思えるの。だから、彼が居ない時の私は死んでいるのと変わらない。新しく買ったベッドを、大きな贅沢なものにしたのもそのためだ。ベッドで部屋が埋まる。他の物なんて必要ない。テーブルも化粧台も、家具と呼ばれるものは全部置いてきた。前の部屋に。
彼は今、その美しく広いベッドに寝転んでいる。
私はその足下の壁にもたれて、暮れていく空を眺めている。なんてきれいな夕日なの。圧倒的な橙色。全てを片手で埋め尽くしてしまうような偉大な力。そこへぼんやりと顔を出した三日月。
この窓から切り取られた空は、絵画のように美しく、今だけ全て独り占めしているような気になる。独り占め、したかったずっと。
彼が「帰る」という言葉を口にする度、満たされていた心が急激に冷めていくのを感じた。本当に体温が下がったかと思うくらい、冷たくなる。
部屋の窓からは、彼の家の玄関も、庭も見えた。彼の奥さんと息子の顔がはっきりと見え、そこに帰って行くというのがあまりに現実的で、あまりにも安易に想像出来た。それがどんなに苦しい事なのか、ちゃんと分かっていなかった。
「今日は帰らないで」
そう言った。初めてのわがままだった。
彼は「帰らないといけないよ。それは初めからの約束だろう?」と諭すように微笑む。少しも考えてない。どうしようかな、と迷ってもくれない。
「そうだよね」
そう言うと、ベッドの横の引き出しから用意していた包丁を取り出した。
「何だ?」
彼は驚いて上半身を起こす。無防備で心の底から愛している彼の裸体。
何だと問われても答えはない。
私にだって、よく分からない。
ただ、ずっとここに居てほしいだけ。すごく、そう願っているだけ。
包丁を両手で握りしめ、彼の胸に突き刺す。全身の力を込めると、柄の近くまで刺さった。同時に、柄を伝って血が溢れ出す。
温かい。
彼は苦痛に顔をゆがめ、口をぱくぱく動かす。でも何の言葉も出て来ず、呼吸が乱れていくだけだった。目を大きく開いて、血に濡れた私の手首を掴まれた。ぐっと強く。最期の力を振り絞るって、こういう事かしら。あぁ、痛い。でもそれに比例して心の奥底から悦びが込み上げる。
彼は目を充血させて、声にならないうめき声を上げる。
あぁ今、本当に幸せだ。もうこれで彼はここから動けなくなった。ずっとここに居る。
手首を掴む握力が、だんだんと無くなっていく。
「ねえ、死ぬの? 死んじゃうの?」
ずりずりとまた寝そべっていく彼に問う。でももう白目を向いていて、何にも答えてくれない。
「ねえ、もうずっと私のそばに居てくれるよね?」
彼は、答えない。生暖かいだけの人形になったようだ。
とりあえず包丁を刺したまま手を離し、シーツで体を包んだ。顔だけ出して、余っていたシーツも使ってぐるぐる巻きにした。全裸だと寒いもの。
見開いていた目と、口を閉じたら、何だか眠っているように見えなくもない。
ここに居るのは、彼と私だけ。
窓から見える空も、彼も、私だけのもの。
ここから一歩も外に出なかったら。
このままずっと、ここに居たら。
… ばれない。ばれるはずがない。だって彼は内緒でこの部屋に来ているんだから。奥さんにも息子にも、仕事だと嘘をついているのだから。秘密の、私達だけの空間。
こんなにも充実感に満たされることなんて、今まで無かった。
体全部、手の平も足の先までもじんじんして、ふと涙が込み上げる。
幸せだ。本当に。
私が居て、彼が居る。明日も明後日も、何度太陽が訪れても、この狭い部屋に私と彼の死体だけ。なんて満たされているのだろう。
こんなにも簡単に手に入るなんて思わなかった。こんなにも簡単に、彼が側に居るなんて。
もっと早く、こうすべきだった。
手首に、彼が握った痕が青い痣となって、くっきりと残っている。それを見て、私は微笑む。眠っているような彼の顔を眺めながら、タオルを温めて顔を拭いてあげる。髪の毛もよくとかして、整える。何度も撫でた頬、何度も指を絡ませた髪。もう、冷たい愛おしい彼の顔。
今日の夕飯は、温かいスープを作ろう、そう思った。
サイコホラーというのか、サイコサスペンスというのか。なんと言って良いのか分からない私の作品ですが、これからも同じようなテイストが続くと思います。お好きな方のみ読んでいただければ充分です。笑
よろしくお願いします。