秋 ~砂時計~
夏休みに入ると、体育祭の練習が始まる。体育祭は二学期が始まって七日後…つまり、九月七日に行われる。
そのせいで時雨は夏休みの間、陽古にあまり会えなかった。
全然会ってなかったわけではない。僅かに空いた時間を使って、時雨は陽古の許に訪れていた。その時に本を渡して、次に会う時にその本の感想を聞いて、また本を貸す。その繰り返しだった。
出会った当初は、人間の文字が読めなかった陽古だったが、夏休みに入る前まで時雨から文字を教わったおかげで、今ではすらすらと読めるようになった。
「どうだった? その本は」
「最後が少し悲しかったよ。洋介はこれでよかったのか、と思った」
今回は悲恋ものだった。最後にヒロインが死んで、ヒーローが嘆き悲しみながらも生きていく。そこで終わる小説。
そんな内容だから、好き嫌いが分かれるだろう。時雨はどっちでもなかった。だが、良い作品だと思う。
「そうだな。あと、これ」
そう言って、時雨が鞄から取り出したのは。
「それはなんだ?」
「砂時計だよ。百均で買ったものだけど」
青い砂が入った、砂時計だった。
「これが砂時計か…わざわざこれを買ってきてくれたのか?」
「前に買ったものを持ってきただけだ。その本、やけに砂時計が出てくるだろ? 実物見たことないのなら、想像しにくいだろうなって」
砂時計を渡すと、陽古はまじまじと観察した。
ひっくり返してみて、流れていく様子を眺める。最後の砂が下に落ちたところで、納得した風情で頷いた。
「なるほど。たしかに全部の砂が下に落ちると、切ない気持ちになるな。けど、なんでだろう。目を離せない」
「気に入ったか?」
「あぁ」
「なら、あげるよ」
「いいのか?」
「どうせ百円だし、いいよ」
「ありがとう、時雨!」
すっかり砂時計を気に入ってくれたのか、何度もひっくり返しては砂が落ちる様子を見ていた。
時計を確認する。もう時間だった。
「そろそろ帰らないと、ばあちゃんが待っている。今回の本だが」
「時雨」
「? なんだ?」
「また、この本を借りてもいいだろうか?」
陽古は悲恋ものの小説を手に取って、上目遣いで時雨を窺う。
「別にいいけど、なんでだ?」
「砂時計を知った今、もう一度読み返して意味を理解したいのだ」
なるほど、と時雨は納得した。
「分かった。一応、今回分も置いておくよ」
「いつもありがとう、時雨」
「こっちこそ、あまり来れなくてごめんな」
「時雨には学校がある。それに、私はこうして時雨が来てくれるだけで満足だ」
「…あっそ」
じゃあな、と早口に言って、時雨は帰ってしまった。陽古はそれを可笑しそうに笑った。
「照れなくてもいいのに」
時雨は照れ屋だ。そう気付くと、時雨の素気なさも愛おしく感じてしまう事が不思議だ。
手に持っていた小説を開いて、とある一文が目に入る。
「命っていうのは、まるで砂時計ね。ただ、下に落ちて減っていくところがとくに。ただ違うことがあるとすれば、ひっくり返しても砂を戻すことが出来ないことね。私の砂は一体どれくらい残っているのかしら……」
読み上げて、溜息をつく。
そこは、ヒロインが自らの命を砂時計に例えているシーンだった。
ただ氷だけが残っているグラスを掻き混ぜながら、余命が迫っている彼女が洋介に零した言の葉。
陽古は空を仰ぐ。
夕焼け空が藍色の衣へと、纏いはじめている。夕闇から闇へと変えていく瞬間。
昔はその瞬間が綺麗だと思っていなかった。けど今は、とてつもなく恐ろしく感じる。
「私の中に流れている砂は、どれくらい残っているのだろうか…」
一体、後どれくらい生きられるのだろう。どれくらい、時雨の傍にいられるだろう。
知らなかった。こんな気持ち。相手のことを知るたびに嬉しくなって、笑ってくれると心が暖かくなって、笑顔以外の表情も知りたいと欲張りになって。全部を胸に焼き付けたいだなんて。けど、この物語のように烈しい感情ではなかった。気性は穏やかで、いつまでも見守っていきたい、傍にいて笑ってやりたい。それでもいろんな顔を見たいと、思ってくるのは。
「なるほど。これが、愛おしい、ということか」
前までは、この感情の名前が分からなかっただろう。けど、本を読んで知ってしまった。
胸元を押えて、ぎゅっと衣を握り締める。
「ごめん、時雨…もう少し、嘘をつかせてくれ」
その呟きは、夏の風が攫っていき、虚空で掻き消された。




