冬 ~出会い~
雪を乗せた風が時雨の頬を掠め、通り過ぎた。
身体をぶるっと震わせて、通り過ぎた風を睥睨する。
そういえばこういう、冬の青く晴れている日に吹いて、尚且つ雪を運ぶ風の事を『風花』というんだっけ。風は冷たいけど綺麗な名前である。
(そういえば、風って二千以上の名前があるんだっけ)
昨日読んだ風の名前の辞典を思い出して、記憶を手繰ってみる。
春一番に野分、朔風、恵風、薫風、あいの風、葛の裏風…その他諸々。日本にはこんなにも沢山な風の名前がある。難しく奥深いとされる日本語が織り成した、美しい風の文化だ。
(あぁ、それにしても寒い…耳当てが欲しい)
昔、母親に「耳当てあってもなくてもそんなに変わらないでしょ」と言われた事がる。母よ、それは大きな間違いだ。耳が寒風に晒されると、キンキンとしてきて耳が遠くなる上に感覚がなくなるのだ。だからコートにマフラーに耳当て。これは冬には必須なのだ。それなのに今ないのは、去年まで使っていた耳当てが無くなっていたからだ。去年仕舞ったはずなのに、何故か無くなってしまった。何故だ。どうしてだ。家の中にあるはずなのに、見つからなかった。だから耳当て無しで登下校して現在、下校している最中で。
(新しいの買おうか…でも高い…普通の耳当てが欲しい。あぁ、どこに行ったんだ、おれの耳当て…)
女の子が使うようなふわふわもこもこで、キャラクターの形をした耳当てしかこの辺は置いていない。しかも高い。時雨が使っていた耳当ては去年の文化祭のフリーマーケットで売っていたものだった。値段、百円。消費税はもちろんない。だから余計に高いと思う。
(さすが田舎というべきか?)
時雨が住んでいる地域は過疎化が進んでいた。猪は過去二回見た事もあるし、何十年も熊の出現はしていないが、それでも出てきそうな不安に襲われるほど山に囲まれた町。否。合併されたことで町になっただけで、実際は村である。小学校は小さいながらあるが、中学も高校も山を越えなくてはいけない。だから通学も楽ではないし、遊びになると少し面倒くさくなる。一番近い中学と高校がある町でも若者には物足りないくらい店が無さ過ぎて、さらに遠い町(昔城下町だったからか、わりと店が揃っている)へ行かないといけない。バスで一時間かけていくか、バスから電車に乗り換えて三十分揺れるか。どちらかである。中学生の頃はスクールバスがあったから、楽だった。バスの運転手が誰かがいないと待ってくれたりしてくれた。だが、高校生になればバス通いか自転車(山を一つ越えてだ)しかない。バスといっても町内バスという小さいバスなのだが、ちょうどいい時間に運行していなかった。だからここからだと自転車通いの生徒が多い。時雨はただでさえない体力を通学に使い切るかもしれないので、少々不便だがバスを利用している。今日は帰りに本屋に寄り道したので、遅くなってしまった。
(まさかあの本屋にあの本があるとは…田舎ではマイナーだと思っていたけど意外にあるもんだな。でもこれ、三弾の内の二弾目なんだよな…注文して待つのって面倒くさいし、三弾を探しに城下町のほうに行こうか。いや、その前に耳当てだ。耳当て…母さんが間違って捨てたんなら軽く泣くぞ…)
人知れず盛大な溜息をつく。
その時、ある風が時雨の鼻の下を通った。
「ん?」
時雨は風が吹いた方向に目をみやり、怪訝そうに首を傾げる。
風花ではなかった。寒風と共に運んできたのは。
「桜の匂い…?」
はて、この季節ではありえない匂いだ。
(その前に桜って匂わないよな…?)
生の桜にも匂いはあるが、それは本当に微かで風に乗ってくるほどではない。桜の匂い袋を嗅いだことがあるから、これが桜の匂いだと思うだけで、実際に桜の匂いを嗅いだことなんてない。
(アロマか? いや、そういうものは、部屋でやるものだしな。だったらこの匂いはなんだ?)
きょろきょろと辺りを見渡す。閑散しすぎる狭い車道に何の店だったのか知らないくらい前に潰れたと思われる古臭い元・店に、『たばこ』と書かれた看板と今や機能を果たしていないたばこ自動販売機が置かれている、やはり潰れた店…だった崩れ落ちた建物。一本しかない車道に枝のように伸びる細い道の先には、これはまた葉のように小さくて古い木造建築の住宅がある。そこに住んでいるのは、大抵お年寄りだ。隣町まで行く人もそんなにいない。高いが近くのコンビニで必要最低限の物が買えるし、農協が品を運んできてくれるので、隣町まで行く必要性がない。コンビニにも農協にも、芳香剤は扱っていないはずだ。つまり、芳香がある製品が置いている可能性は低い、と思うのだ。あくまでこれは時雨の憶測であり、確固たる証拠はない。
(大体、桜の匂いの芳香剤って期間限定が多いよな? なら、今の時期で芳香剤はないよな)
また、ふわりと。
桜の匂いが風に乗って、鼻腔を掠めた。
(風向きからしてあそこから、か?)
時雨は川沿いにある山に視線を向けた。寺がある山。確かにそこには桜の木が植えられているが、やはり桜は咲いておらず、葉もついていない。
(なら、さらに向こう側の山か?)
寺の向こうで悠然としている山々。桜は咲いていないようだ。
(山奥に狂い咲きした桜でも…いやだから、桜は匂わないんだって)
気になりだしたら止められないもので。恐怖より好奇心が勝るように、時雨もまた好奇心が恐怖に勝ってしまった。
時間を確認する。四時半ジャスト。後約一時間で日が暮れてしまうが、少し急げば行ける。
時雨は鞄を持ち直して、土手に足を踏み入れた。向かいの土手は比較的新しい団地も近い事があって整備はされているが、こっちは元々プールだったというすっかり寂れた施設跡を横に、草が腰のあたりまで伸びきっている。それを足で潰して道を作って、コンクリートになっているところまで行った。ここまで来て気付いた。そういえば、団地に続く道をずっと行くとここに辿り着くんだった。損した。
時雨は後悔から切り替えて、駆け足で先に進む。
その数分後。山間の間に開いた小さな広場があった。鬱蒼と伸びている竹林に囲まれた、薄暗くて湿っぽくて本当に小さな広場だった。
中心の地面には大きな石段、そして時雨側からすれば左側の山の傍らに石造りの鳥居が鎮座されていた。その鳥居の前に立つ。特に変わったところがない鳥居だ。その向こうには、至る所が欠けていて、苔も生えている。わりと急なのに手すりがない、いかにも昔々に作られた危なっかしい石造りの階段が続いていた。続いた先に光が射していることから、あそこに本殿があるのだろう。
(そういえば、鳥居の種類って結構あるんだっけ)
そんなことは置いといて。額束に彫られている文字を見ている。
(山神天神社…? 山の神様を祀っているのか?)
まぁ、それはこの危なっかしい階段を登っていけば分かるだろう。何の神を祀っているかなんて、石碑か看板に書いてあるものだ。
またふわり、と風が舞い桜の匂いが漂った。
(この上から、か?)
石造りの階段を登る。破損しているところはなるべく踏まないように上へ行く。頂上に辿り着くと、古びた本殿らしき木造建築が目に入った。本当に小さな神社にはよくある、こじんまりとした本殿だった。ただ違うのは、開放的な作りで本殿の中が丸見えという所だ。集会所のような、踊り場のような本殿。お賽銭箱もない。昔は綺麗に並べられたのであろう本殿に続く石畳は、階段と同様、破損してしまった箇所が多々あり、剥がれてしまった石の板も転がっている。板の間から雑草も生えていた。そしてその傍らに狛犬が見守っているかのように佇んでいたが、二匹とも長年風や雨に曝されていたせいか、すっかり風化していて顔や体の紋様がはっきりと見えなかった。それ以外にももう二匹いて、それは本殿に登る階の両側に佇んでいる。
一見すれば、人の手も施されていない、寂れた古い神社。しかし、一つだけ異常なものがあった。
それは、本殿の扉に続く階に座っている、一人の男だ。
「……」
時雨は呆気に取られて、その男を凝視する。
いや、見惚れていたと表現したらいいだろうか。その男を見た瞬間、時雨の時は止まってしまっていた。
その男は見た所、十代後半から二十代前半の若い男性だ。赤茶色の髪に赤い瞳。髪は後ろに緩く括っているようだった。目が垂れており、その上を長い眉が走っている。髪の色と同じ色だから地毛だろうか。均整のとれた顔をしている。
そしてその男の着衣だが、これがまた変わったものだった。
(狩衣…?)
深い緑の色をした着物。それは平安時代の貴族が普段着として着ていた狩衣と酷似していた。異様だ。時雨は思う。だって、祭りの時期でもないし、今は平成の世。そんな当たり前のように、普段着のように着ているのはおかしい。
けど、異様と認識してもそれが薄れていってしまうくらい、時雨は男に見惚れていた。
綺麗だったのだ。古びた神社も裸になった木も、彼と一体化していた。背景も道具も頼らない、浮きながらも輝いて見える美の骨頂をその男は持っているように感じた。
見惚れるなど経験したことのない時雨は、頭が真っ白になり思考が停止していた。彼にとってこれが初めて主観側になった瞬間でもある。
男の周りだけ、額に縁取られた絵画のようだった。ただ。そう、ただ彼が持っている物が絵画を減点させた。
持っていたのは、タッパーだった。そこから桃色の何かを口に運んで、もしゃもしゃと食べている。少し俯いているからか、こっちにまだ気づいていないようだった。
時雨は半眼になって、男を凝視する。すっかり夢から覚めた。
(なに、食べているんだ…?)
その時、不意に男の顔が上がって、時雨と視線を交える。
時雨は目を見開いた。男の方も目を丸くしている。
どれくらい見つめ合ったのだろうか。先に口を開いていたのは、狩衣の男だった。
「君…私が視えるのか?」
「…?」
何を言っているのだろうか、この男は。
「見えるかって…そこにいるんだから、見えるに決まっているでしょう?」
「そうか…うん、私が視えるのか…」
男は嬉しそうに破顔して、何度も頷く。
「私が視える人間が此処に来たのは、一体いつぶりだろう…」
「…」
どうしよう、この人。綺麗な顔をしているけど、頭がどうかしている。まるで、自分は人間じゃないような言い方。
「あぁ、私ばかり話してすまない。人間とこうして喋るのは久方ぶりすぎて、話し方を忘れているのだ」
「は、はぁ…」
「そうそう。名を聞く時は、まずは自分から名乗ってから相手の名前を聞け、だったな。私の名は陽古だ。君は?」
「…知らない人には名乗るな、と言われているので」
ただでさえ変わった苗字だ。調べられたら、すぐに見つかってしまう。
そう言うと男は目を瞬かせた後、「うむ、人間の世も随分と変わったようだな」と納得したようにしきりに頭を縦に振った。
「ところで、あなたは何を食べているんですか」
「あぁ、これか? 桜の花びらの塩漬けらしいのだ。甘い香りがするだろう?」
「え、桜ってほとんど無香ですよね?」
「たしかに生の桜はほとんど匂わない。けど塩漬けにすると、こういう甘い香りになるらしいのだ」
「そうなんですか?」
「これを奉納してくれた、お爺さんが孫らしき人にそう教えていた」
なるほど。なら芳香剤の香りは、想像の匂いではなくてちゃんとした桜の匂いだったのか。そして桜の匂いの正体は、男が持っている桜の塩漬けということなのか。
(いやいや。だからといって香りが風に乗って届くか?)
初めて匂いがした場所からここまで、それなりの距離があるはずだ。考え過ぎ、なのだろうか。
「そ、それでそれ、美味いですか?」
「いや、塩辛い」
「でしょうね…」
それでも食べ続けるのは何故だろうか。
桜の塩漬けって初めて聞いたけど、そういうのってそのまま食さないものだと思う。
「君も食べてみるか?」
「いや、いいです」
「そうか。それにしても、人間という生き物は不思議だ。桜の花びらを食べるとは。いや、こんなにも綺麗なのだ。食べたらどんな味がするのか、興味があったのだろうな」
「……」
「私には人間のように食欲というものはないから、いまいち頭に来ないから想像でしかないのだが…人間は塩辛いものを好んで食べるのか?」
「それは、人それぞれ…」
「そうなのか? あぁ、そうか。あの人は辛いもの持ってこなかったな。君は塩辛いものは嫌いか?」
「あまり、好きじゃないです」
自分は何をやっているのだろうか。見ず知らずの人の質問に受け答えするなんて。こんなの、俺らしくない。いつもなら受け流しながら立ち去るとういのに、この陽古という男から目を逸らすことも、立ち去る事も出来ない。足が地面に引っ付いているかのように、身動きが取れなかった。
「ところで君は、どうして此処に?」
「え」
「此処に人が来ることなんて、滅多にないから珍しいのだ。来るのは一人のお爺さんくらいだ。私がまだこの神社にいても、人間がそれを認識できるわけでもない。私がいようがいなかろうと、人間にとって此処は価値がなくなった…意味を成さない場所となってしまった。それなのに、何故君は此処に来てくれたのだ?」
無垢な瞳が時雨を優しく突き立てる。
やばい。この人のペースに飲まれこまれている。それにこの人、怪しい。怪しすぎる。この人にこれ以上関わったら駄目だ。うっかり身元がバレそうな情報を漏らしてしまうかもしれない。逃げなくちゃ。
小さく深呼吸して、足を微動させる。動いた。後は隙を見て、そして勇気を振り絞って振り向いて全力で走った。
後ろから呼び止める声はしなかった。いや、していたのかもしれない。けどそんなのはどうでもよくて、時雨は只々、高校男子の平均的なタイムよりもやや遅めの足で懸命に地面を蹴った。




