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春 ~さようなら~

「あ、これかな」

 二階の押し入れの中を物色していると、茶色い箱の中に白いアルバムを見つけた。時雨が思っていたよりも新しいアルバムだったが、それでも黄ばんでいて表紙が少しべたついていた。ゆっくりとアルバムを開いてみるが、背表紙が軋む音に手が止まる。

 一旦閉じてから、一気に開く。一ページ目は、モノクロの写真が一枚収まっていた。家族写真のようで、若い夫婦と子供が四人…内女が三人で男が一人、カメラに視線を向けていた。時雨はこの六人が誰なのか分からず、ページを捲ってみる。次のページには、子供が少しだけ成長した三枚の写真があった。

 一ページ、また一ページと捲っていき、子供が成長する過程を見て時雨は男の子が誰なのか分かってきた。

 男の子が時雨の同い年くらいまで成長したところまで行き、手を止める。

(やっぱり、おじいちゃんだったか)

 男の子は、祖父の憲。写真を見て、時雨は心底驚いた。

「うわっ。おれと同じ顔だ」

 祖母が時雨の顔を見て懐かしむのも、あの老人が一目で時雨が孫だって分かったのも納得できるほど、写真の中の祖父は時雨と瓜二つだった。否、時雨が祖父に似たのだ。違うのは眼鏡があるか否か、ただそれだけだった。

(おれと同じ仏頂面)

 写真の祖父は全く笑ってなく、そんな所まで似ているところが可笑しくて小さく笑う。

 次のページに捲ると、挟んだだけの写真があって首を傾げる。手を取って見て、目を見開く。

 若かりし頃の祖父が桜の木の下で、佇んでいるだけの写真。微かだが祖父が笑っている写真。笑った写真を見たのは初めてだ。

(あれ、この写真…)

 祖父が一人だけ映っている写真。だが、祖父は何故か右側にいて、左側に不思議な空間がある。まるで、そこに人がいるようなスペースで。

 その時。

 ぶわっと、風が強く吹いた。

 同時に桜の花びらが、視界を覆い尽くすほどに流れてきた。

(桜? この辺には桜の木はないのにっ!?)

 一瞬だけ、視界が白くなる。

 そして、声が頭に響いてきた。

(え…?)

 風が止む。

 残されたのは、大量の桜の花びらだけ。

 何が起こったのか分からず、時雨は呆然とした。

 おそるおそる窓に視線を向くと、カーテンと窓が開いていた。

(たしか、両方閉めたはずなのに)

 辺りを見渡す。さっきの声はなんだったのだろう。

(声、というより残響か?)

 声というにはあまりにも音になっていなかったから、何と言ったのか分からなかった。

 気のせい、なのだろうか。

 そもそも、なんで声だと思ったのか。

(でも、すごく懐かしいような気がした)

 あの声を、昔聞いていたような気がする。誰の声なのか、思い出せないけど。

 部屋の中に散らばっている桜の花びらを、一つ掬う。

(桜…陽古の神社にも、いっぱい咲いていたな)

 陽古の顔を思い浮かべた瞬間。

 異様な胸騒ぎがした。

 それはどんどんと大きくなり、時雨を侵食する。

 この胸騒ぎはなんだ。

 どうして、陽古を想っただけでこんな。

「ひ、こ…」

 もう陽古のことしか頭になかった。

 いつの間にか、時雨は裸足のまま家を飛び出していた。祖母が何か叫んでいた気がするが、それに構ってはいられなかった。

 心臓が不規則に波立つ。

 走っているからじゃない。嫌な予感が、黒い靄が、胸を占めていたからだ。

 心臓の嫌な音が鼓膜に響き渡る。急がなくては。

 通い慣れた神社の石の階段が眼前に現れる。

 そのまま一気に駆け上がった。

 階段に落ちていた桜の花びらが舞う。

 階段を登り切って、目に入った光景に思わず目を奪われた。

 月光に浴びた桜は、儚げな光を帯びて仄かに煌めいていた。その中で、地に横たわっている、人影。

 背中に冷や水を掛けられたような、心臓を氷の手で掴まれたような、そんな錯覚がした。

「陽古!」

 名を叫び、駆け寄って、陽古を抱いて驚いた。

 昨日までたしかにあった、温もりが消えている。

完全に消えたわけでもない。ただ、冷たいだけ。突き刺すような冷たさではない。体温を奪っていく、そんな冷たさだった。

陽古の顔を見やる。瞼が閉ざされたその風貌は、まるで周りに咲き誇っている桜のようだった。

「陽古、陽古!」

 懸命に名を呼ぶと、瞼が震えゆっくりと開かれる。虚ろな目が時雨を捉えた。

「し…ぐれ…?」

「どうしたんだよ…こんなに冷たくなって…」

 息が詰まって、言葉が続かない。どういうことなのか、どうして地面で寝ていたのか。言葉が喉に詰まって出てこない。

 陽古は口元に僅かな弧を描く。

 その時、ある日の陽古の言葉を思い出した。

『信仰心によって、神の力…神通力が研ぎ澄まされ強くなる。神にとって人の信じる心と祈りが力になり、それで命を繋いでいるのだ』

 つまり、それは信仰心が神の栄養源となっているということで。

 だったら、信仰してくれる人がいない、陽古はどうなってしまうのか? 考えてみれば簡単なことだった。

 だんだんと弱っていく陽古。高揚して赤くなっていた頬が、雪のように白くなって。

 気付かない振りをしていた。忘れていた振りをした。陽古が吐露するのを恐れていたようだったから、見て知らぬ素振りをし続けた。

認めたくなかった。陽古がいなくなるなんて。現実を受け止められずにいた。

何も出来ないからと、逃げていた。その結果がこれだ。

「ごめん、ごめん、陽古」

 気付けば、謝罪の言葉を口にしていた。

「おれが、気付かない振りをしていたから…視えるのに、信仰心を集めなかったせいで」

 腕の中の陽古が微かに動く。頭を左右に動かしているようだ。まるで、それは違うぞ、と言っているみたいだ。

その仕草に、胸の奥の熱いものが一気に溢れてきた。

「陽古…頼む、まだ生きてくれよ…っ!」

陽古は喋らない。ただ、力無く微笑んでいるだけ。

「出会ってから一年しか、経っていないんだぞっ! 早すぎるだろ…まだ、読んでもらいたい本がたくさんあるのに、話したいことだって、まだこれから…っ!」

 陽古を力強く抱きしめながら、懇願した。

 目頭が熱い。陽古の顔を焼きつけようと目を凝らしても、霞んでしまって溢れ来る滴を零さないようにするのが精一杯だった。

 陽古がくすくすと小さく笑う。

 ああ、こういう時、なんて言えばいいんだろう。

 言葉が出てこない。つっかえて出てこない。

 言いたいこと、伝えたいことがあるはずなのに、激情がそれを邪魔する。

 我慢しきれず、涙が零れた。それは陽古の頬を濡らす。

「暖かい…」

 陽古が掠れた声を出す。

 滴を慌てて拭い、陽古の顔を凝視した。虚ろな目は完全に閉じていて、ただ穏やかな笑みを浮かべている。

「雨…でも、降って、いるのか?」

「あぁ、大雨だよ…」

「そうか…暖かい、雨だ…桜が全部、散ら、なければ、いい、の、だが…」

 声がだんだん、か細くなっていく。

 陽古は身体を強く揺すった。

「寝るな、まだ寝るな! 陽古!」

 陽古の唇から、ひゅーひゅーと峡谷のような風が吹く。

 息を吐きながら、陽古は言った。

「ありがとう、時雨」

 やけにはっきりした口調だった。

 そして、陽古は最後に残った息を全て吐き捨てて。

「陽古…?」

 言葉を発しなくなったそれを、おもむろに揺らす。

 瞼を閉じて、力無く抱えられている陽古。

 何度も呼びかけるが、返事がない。

「陽古、嘘だろ…? 陽古、陽古! 目を開けてくれよ!」

 うんともすんとも言わないに懇願する。

 次の瞬間、陽古の体が光帯び、そして。

 光の粒子になって、天へと流れていった。

 慌てて立ち上がってその粒子を掴もうとするが、それはすり抜けていき、掴むことは出来なかった。

 桜の花びらと一緒に、光の粒子は螺旋を描きながら天へと還っていく。

 月の光を受ける夜桜に見送られているそれは、とても幻想的で。

 そこで時雨はやっと認めた。

陽古の死を。

認めた途端、膝が崩れ、天を仰いだまま涙を流して嘆く。

「陽古…陽古っ…ひこ、ひ、こ…っ!」

 彼を求め嘆くその声は、桜の花びらたちに撫でられながら、散り散りになった。



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