春 ~君を想う~
『陽古って、あまり多くを望まないな』
変わらぬ風景、褪せた光景。陽古は青年と並んで桜を眺めていた。
手には桜餅とお茶。どちらとも青年の家で作ったという。
『そうか?』
『謙虚すぎるというか何というか…もっと我儘言ってもいいんじゃないか?』
『我儘…?』
我儘、というのが分からなくて言葉が詰まった。意味は分かる。だけど、その仕方が分からなかったのだ。
生まれすぐ失敗作だと川に捨てられ、それからは独りで生きてきた。いや、独りというには助けられた事が山ほどある。泥に近かった自分が人に似た形になれたのは、自分を信仰してくれた人たちのおかげだ。片手でしかないが、父親に捨てられた失敗作だというのに偏見はせずそれなりに親しくしてくれる神もいた。
でも、甘えられる存在がいなかった事に変わりはない。だから我儘の仕方が全く分からないのだ。
そう言うと、青年は珍しく大笑いして声を上げた。
『馬鹿だなぁ! 我儘に方法なんてないよ』
『そうなのか?』
『でも、敢えて言うのなら』
笑声を抑え、彼は優しく微笑みながら教えてくれた。
『自分がどうしても叶えたい願いを、声を張り上げて主張すればいいんじゃないか? その願いを折らず最後まで意地張っていれば、我儘言うんじゃないって言われるから』
眠りの淵に落ちていた陽古は、突然目が覚めた。
随分と懐かしい夢を視た。まだあの人が若かった頃。
あの人は、いつの間にか来なくなった。老いていたから死んだのだろう、と思った時悲しかった。虚しかった。楽しかった日々が、泡のように消えて無くなってしまった、あの時の感情をどう表現したらいいのだろう。
けど、時雨が来てくれた。再び、時間が動き出したのだ。
時雨はあの人に良く似ていたけど、中身が違っていて。それが面白かったし、同時にあの人ではないのだな、と少しがっかりしたけど。
よいしょ、と頭を動かして、空を見る。
闇が、迫っていた。霞んでいる視界に月光が淡く差し込んでくる。
身体が鉛のように重い。身体の芯がやけに冷たい。
陽古は悟った。視線を砂時計に目を向ける。砂は完全に零れ落ち、無情にもただ佇んでいるだけ。当然だ。最後にひっくり返したのは、まだ明るい内だったのだから。それなのに無情とは、と自嘲する。
重たい身体を懸命に起こして、社から降り立つ。
だが、既に力が残っていない体では、足に地を着くことすら叶わず、そのまま地面に膝をついた。
それでも陽古は、匍匐前進で階段に向かおうとする。
(会いたい、時雨に、今すぐ)
前へ、前へ進む度に思いが強くなる。
思いを糧に、這いずった。狩衣が汚れようが構わなかった。どうせもうすぐ意味を失くすのだから。
『その内我儘言ってくれよ…絶対に叶えさせてみせるから』
亡くなった友人の声が、鼓膜に響く。
「…っら」
友の名を呼んでも、意味がないと知っている。それでも、今はあの言葉にただただ縋りたかった。
結局言えなかった我儘。叶えてくれないと分かっているけど、最期になって強く思う。
たとえ声を張り上げられなくても、心の中でなら叫べる。
(最初で最後の我儘だ、 )
懐かしい友の笑顔が脳裏に蘇る。
(もし、時雨まで辿り着けなかったら、この想いを時雨に届けておくれ…そして連れて来てくれ)
少しずつ進んでいたが、途中で止まってしまった。動けなくなってしまった。
「し、ぐ…れ…」
振り絞って、彼の者の名を呼ぶがそれが音になっていたのか、陽古には分からなかった。
ぎゅっと拳を握り締めるが、それすらもままならない。
瞼が重くなっていく。
嗚呼、閉じないでくれ。
私の中に残る命の砂よ。どうか少しの間だけ、止まっておくれ。夜で、しかも独りで逝くのは嫌だ。せめて時雨の瞳に抱かれながら、眠りにつきたい。
耐え切れず、瞼を閉じる。
最後に見たのは、闇の中でも優美に輝く、満開の桜だった。




