秋 ~祖父~
この地域だからなのか、はたまた日本中そうなのか。
少なくてもこの地域は、昔からある家には小さな茶畑がある。いや、茶畑というには規模が小さすぎる。各家には大体五本くらいのお茶の木があって、そこから摘んでお茶を淹れる習慣がある。この地域は、野菜もお茶もだいたいが自給自足なのだ。
雪乃のお茶の木は、家より少し離れた山にある。山道を登ってすぐの所だ。
雪乃に頼まれて時雨は、お茶の葉を摘まんでいた。ある程度の葉を収穫して、ふと前を見る。
祖母の家と敷地が見渡せるそこは、時雨にとってお気に入りの場所でもあった。
近くで見ると分からないが、祖母の敷地は広い。母屋の他にも蔵と曾祖母が使っていたという仕事場、そして農具を置くための倉庫に祖父が手作りしたという鯉の池。その前にも畑が広がっている。母が小さい頃、そこには沢山の野菜が植えられたという。少し奥に行った所には、柚子の木が六本並んでいた。
(そういえば、あそこは昔トウモロコシ畑だったな)
祖父が生きていた頃の話だ。夏になると従兄弟達が集まって、よくトウモロコシを収穫していたものだ。あの頃はまだ小学高学年もいっていなくて、祖父と祖母に手伝ってもらって、やっと収穫できた。
毎年大収穫で、祖父と祖母はよく近所に配っていたものだ。祖父は役所の人で顔も広かったためか、わりと遠くまで配っていた記憶がちらつく。
祖父が死んでから、それもめっきりなくなった。
「そういえば、じいちゃんはどこを見ていたんだろう…」
癌に侵された祖父は入退院を繰り返していた。家に帰っても、怠そうに家のソファに座っていた。家からあまり出ていなかった。出ても家の敷地内から出ず、ただ静かに佇むだけ。一度だけ、佇んでいる時の顔を見上げた事がある。祖父は何かを見据えていた。その先を見ても、あるのは山だけ。けど、祖父の目は確実に何かを捉えていた。
視線の先を問う事は出来なかった。とても入り込めない壁があった気がしたからだ。
(疑問に思っても、答えを知る事はできないけど)
ただ、瞼に焼き付いて離れない。祖父の佇む背中を。昔は逞しかった背中が頼りなさそうに揺れ、憂いを纏ったその背中が。
どうしても、忘れなれない。
(生きてきて、もう十六年…いや。まだ十六年、か)
祖父が三歳の時に建てられたという家を眺める。あの家や祖母や亡くなった祖父だとしても、その年齢と歩んだ物語の長さが圧倒的にある。
(それでも、景色は変わる。たとえ一年であっても、あっという間に景色がなくなって、その場所に少し措いていかれてしまう。新しいものもいずれは古いものになり、壊れていく)
燦々と照らす太陽の光を浴びて輝いていた、あのトウモロコシ畑だって。
昔は母が祖父の遣いでよく訪れていたという、人がいなくなり倒壊したタバコ屋だって。
近所にいた犬や野良猫、そして人も。
いずれは新しい景色の下に埋もれてしまう。
まるで、失敗した絵の上に重ね塗りするかのように、簡単に、そしてあっという間に上書きされてしまう。
(陽古もこんな気持ちだったのか…)
考えて、頭を振る。
(いや、こんな気持ちじゃなかったのかも)
彼は神代から生きている神様だ。時雨や雪乃の年齢を合わせても、彼が生きてきた時の一割にも満たない。その分、彼はそれこそ数えきれない程の景色を見送ってきたのだ。この虚しさよりも計り知れない虚無感があるのかもしれない。
もう一度、トウモロコシ畑があった場所に目を向く。昔はそこら辺、トウモロコシ畑があった。でもここでは売れないから、と皆植えるのを止めたという。
(トウモロコシ、どんな味だったけ…)
美味しかったような気がする。けど、どんな美味しさだったのか全く覚えていない。
(今は旬じゃないけど…トウモロコシ、食べたくなった)
あの頃と同じ味じゃないけど、無性にトウモロコシが恋しくなった。
湯がいたトウモロコシも捨てがたいが、やっぱりこんがり焼いたトウモロコシの方がいい。
(明日、買ってこようか。多分、スーパーに行ったらあるだろう)
時期外れだが、ないことはない。ギリギリあるだろう。
もしあったら買ってきて焼こう。そして、獲れたお茶の葉を沸かして水筒と紙コップを持って陽古の所に行こう。
時雨は言われていた数より、少し多めに葉を収穫した後、ゆっくりと山を下りた。
翌日。時雨はさっそく、今年最後だというスイートコーンを買ってコンロで焼いき、採った茶葉を乾燥させたものを茶にし、水筒に入れて神社に向かった。
陽古はいつものように時雨を歓迎すると、トウモロコシが入った包みに興味を示す。
「この匂い…トウモロコシか?」
「当たり。食べた事あるか?」
「昔、何度か。懐かしい匂いだ」
目を細めて笑んだ陽古に、思わず訊いてしまった。
「視えていた人に食べさせてもらったのか?」
しまった、と口を噤む。出来るだけ、その人の話題は出さないようにしていたのに。
「ああ」
あっさりと陽古は肯定した。
「あの人もこうしてトウモロコシとお茶を持って来てくれた」
「…そうか」
「家でとれたトウモロコシだと言って、わざわざここで焼いて食べさせてくれたものだ」
「…食べようか」
「うむ」
隣に座ってトウモロコシを陽古に渡す。いただきます、と呟いて齧りついた。時期遅れということもあり、甘みはなかったが香ばしい匂いが鼻腔を掠める。
「昔食べたものと味は違うが、これはこれで美味いな」
「それはよかった」
「茶もいいか?」
「どうぞ」
「ありがとう」
水筒を手に取り、茶を一口含むと陽古は少し目を見開いた。
「どうした? 変な味でもしたか?」
「そうじゃないよ。ただ…」
「ただ?」
陽古は水筒の中の茶を覗き込む。
「昔飲んだ茶と同じ味だったのだ…この茶は時雨の家の茶か?」
「正確にはばあちゃんの家の茶だな」
「ばあちゃん? 祖父は?」
「おれが小四の夏休みの時に亡くなったよ」
「……そうか」
少し間を置いてから呟き、陽古は茶を啜った。
「時雨の祖父は、どのような最期を迎えたのだ?」
「さあ。おれは立ち会っていなかったから知らない」
その時、時雨は家にいた。珍しく家にいた母が鳴り響いた電話の受話器を手に取り、少し話して受話器を戻したと思ったら、鼻を綴って。どうかしたの、と訊いたが母の口から出るのは嗚咽混じりの言葉で聞き取れなかった。だから、ふーん、としか返せなかった。祖父が死んだと知ったのは、翌日。お通夜の時だった。
「隣町の病院で死んだんだ。大腸癌だった。発覚した時はもう手遅れで、入退院の繰り返しだった」
「退院しても、出かける身体ではなかった?」
「ああ。家の敷地から出なかったな。本人は行きたそうにしていたけど」
「…幸せだっただろうか?」
「分からない。病気は苦しかったし辛かったっていうのは分かるけど。少なくても不幸せじゃなかったと思う」
厳しい人だった、と母から聞いた事がある。祖父が幼い母を叱る際、鯉の池に放り込んだことがあってその時に出来た傷がまだある、と母が苦笑しながら薄らとした傷痕を自分に見せたことがある。だが、時雨には厳しかった祖父の記憶はない。従妹には玩具とランドセル、自分にもランドセルと勉強机や本を買ってくれた。従妹を膝の上に乗せては、デレデレした顔で「お前は将来、立派になれる」と根拠がない自信を口にしていた事を覚えている。孫には甘かったのに、不幸せだったとは到底思えなかった。
「そうか…うん、そうだな」
「どうして、そんな事を訊いたんだ?」
「なんとなくだよ。それにしても、茶が美味い」
茶を飲んで溜息をつく陽古を訝しんだが、それで納得する事にした。
視界の隅で、赤いものがひらりと落ちていく。
こうしている間にも、季節は移ろいでいた。




