二章 とどかない手紙
次の日、あの気むずかしいアコーディオン弾きのケルガンフがリントの元にやってきた。
「師匠!やっとぼくを公演にださせてくれ…」
リントが目をキラキラ輝かせながらそう言いかけたとき、ケルガンフはぶっきらぼうに一枚の封筒をリントに突き出した。困惑したままリントがそれを受け取ると、ケルガンフはただ一言「お前宛の手紙だ」といい放ち、去っていく。残されたリントは、手紙をもったままへなへなとその場に座りこんでしまった。
「そ、そんな!やっと公演に出られると思ったのに!」
「お前はまだまだ練習しなきゃダメってことさ」
「なんだと、このデカブツ!」
公演間近だというのに、またリントとダズの喧嘩が始まる。こんな調子ではまたエルファやミッフィーに怒鳴られてしまうだろうと、ララはあわててリントに話題をふった。
「手紙って、だれから?」
リントがダズとの言い合いをいったんやめ、手紙を裏返す。すると、ぱっとリントの顔が明るくなった。
「父さんからだ!」
さっそく、リントは封筒を開封して手紙を読み始めた。リントの母親は病気でなくなってしまったらしいが、父親はシイア王国の西の地域で楽器職人として有名らしい。リントは手紙を読み終わり、いそいそと封筒にもどしながら言った。
「あとで返事かかなきゃ」
「両親の手紙か…俺、最近書いてねぇや」
ダズのつぶやきに、ララは言った。
「心配してるんじゃない?早く書いたほうがいいよ」
「そうだな。次に行く町に、届け屋がいるとは限らないしな」
『届け屋』というのは、シイア王国の手紙や荷物を届ける仕事をしている機関のことだ。首かざりの一座はいつも国中を渡り歩いているが、届け屋は各地で情報をあつめて一座の場所を探し当て、いつもきちんと一座に手紙を届けてくれている。
「ララの両親からは―…まだ返事はこないのか?」
ふいにダズが、少し心配そうな口調でララにたずねた。隣のリントも、不安そうな顔をして彼の顔をうかがっている。ララはなんともないという風に、肩をすくめた。
「うん、もう何通も出しているんだけど、まだこないんだ」
「そうか…」
「きっと忙しいんだよ。そのうち返事くるさ」
リントがはげますように言う。ララはその言葉に明るくうなずいた。
ララはいつも定期的に両親に手紙を書いている。両親がどこに住んでいるのかは知らない。けれど、彼が手紙をかいてエルファにわたせば、彼女が住所を書いていつも送ってくれるのだ。
ララはエルファから、両親はお金がなくて赤ん坊だった自分を一座にあずけたのだと聞いていた。いまごろ、父と母はどうしているんだろう。連絡がつかないぶん、不安はつのるばかりだ。生活は苦しくないんだろうか。病気になっているんじゃないだろうか。顔も分からない両親を、ララはいつも思い続けていた。
『父さんと母さんに、はやく会いたいです』。両親への手紙の最後には、必ずこの言葉を書いて送った。けれど、いままでで返事がきたことはない。でも、きっといつか返事はくると信じている。それに、寂しいと思ったことはなかった。それはダズ、リント、エルファ師匠―…やさしい首かざりの一座のみんなに囲まれているからだろう。
けれど、どうして返事がこないのか、ララにはただそれだけが不思議でしかたがなかった。
その後、ララはエルファの馬車の中でいつも通り稽古をつけてもらっていた。座長であるエルファの馬車の中は広々としていて、ララ達の馬車とは違って豪華だ。美しい装飾がほどこされたベッドや机、ランプなどがしっかりと固定されていている。アーチ状になった窓には異国でつくられた繊細な作りのカーテンがかかり、うっかりするとここが馬車の中だということを忘れてしまいそうになるくらいだ。
しかし、ララは今日ばかりは稽古に集中ができなかった。リュートの弦をはじきながら、ぼんやりと歌を歌っていると、師匠がいらだったように「ララ!」と怒鳴った。
「何度言ったら覚えるの?もっと集中しなさい!」
ララはびくりと震えて仁王立ちしている師匠をみあげた。どうやら、歌詞をまた間違えたらしい。異国のものであるというこの歌は、微妙なアクセントがとてもむずかしい。
「す、すみません…」
しょげた声でララが言うと、エルファは眉をつりあげた。
「いつもより声に力強さがないわ。集中力もね。なにか、あったのかしら?」
「な、なんでもありません」
そう言って目をそらすララに、エルファはますますあやしいとばかりに茶色い目を細めた。
「あら、私に言えないことでもあるの?」
「うそなんて、ぼくは師匠には絶対つきません」
ララはむっとして、師に言い返した。「うそ」という言葉をきいた瞬間、エルファはふいに表情を強ばらせた。形のいい唇が、少しだけ震えている。
あまり見たことのない師のうろたえた顔に、ララは不安になった。
「師匠?」
「…いいえ、なんでもないの」
そう言うと、エルファはララから目をそらす。彼はなんだかばつが悪くなって、うつむいた。別に、なにかがあったから集中力がなくなったわけじゃない。少しばかり、今朝リントたちと話した両親への手紙の事が、頭の中から離れないだけだ。
「ごめんなさい、少し、気になる事があって…でも、別にたいしたことじゃなくて、ただ、手紙が…」
「…手紙?」
「ぼくの両親の手紙…リントやダズには返事がくるのに、どうしてぼくのところにこないのかなって」
ララはうつむきがちになりながら言った。エルファは未だに机の方に顔をむけていて、どんな表情をしているのか彼には分からない。
「もしかして、なにか事故があったんじゃないかって…ひっこしをして住所が変わったとか、病気にかかって返事がかけないのかもしれないし…」
「ララ」
彼の言葉をさえぎり、エルファが言った。彼女は、机にある引き出しをじっと見つめたまま、ララの方を見ずに問いかけた。
「…あなた、今年で十三歳になるのよね」
「そうですが…?」
ララは師の質問に、きょとんとした。急に年を聞いてくるなんて、一体どうしたんだろう?しかしララの疑問には答えるそぶりもなく、エルファはひとり言のように「そう…」とつぶやいたまま黙っている。その時、馬車のドアが控えめにノックされた。ドアが開き、一座の料理人ミッフィーが顔をだす。
「おや、稽古中に失礼」
ララの姿をみて、ミッフィーが笑いかける。
「そろそろ公演準備の時間じゃないのかい?エルファ」
「…ええ、そうね」
そう言ってエルファはくちびるを結んで、ララの顔を見ずに言った。
「ララ、今日の練習はここまでよ」
そう言って、やっとエルファはララの顔をみた。やはり、いつもの師とどこかちがう。けれどララが何かを言う前に、エルファは今日の公演にそなえて馬車の外へと出て行ってしまった。
その日の公園が終わった夜。疲れきった体を横たえ、馬車の中でうとうとしていると、コンコンとドアがノックされた。扉をあけると、そこにはエルファが立っていた。
「話があるの。一緒に来てくれる?」
そう言って呼び出されて、ララとエルファは並んでリフティールの町を歩いていた。夜のリフティールは昼間とちがう活気がみちている。暗いレンガ造りの町並みには人通りは少ないが、ところどころ店からもれるランプの明かりが優しく町を彩っていた。酒場からだろうか、どこからか楽しそうな笑い声や陽気な歌声がきこえてくる。
「師匠、今日の公演も、大成功でしたね」
「…そうね」
エルファはララの言葉に、遠い目のままそう答えた。なんだか様子がおかしいことに、いくらなんでも気がつく。こんな夜に呼び出されること自体がおかしいのだ。
エルファのつややかな髪の毛がさわさわと、潮風になびいていた。いつも美しい髪飾りをつけて一つに結わえてある彼女の長い漆黒の髪は、いまは下ろされている。
「どこにむかっているのですか?」
「もうすぐわかるわ。ほら」
すう、とエルファ師匠が指をさす。その先をみて、ララは声をあげた。
そこは、美しい夜の砂浜だった。活気ある港とはうってかわって、そこはとても静かでおだやかな海だった。よせてはひく海水が、さらさらとした浜の砂を洗っている。波の音が心地いい。にぎやかな港ばかり見ていたララは、こんなに美しい海岸があることに気がついていなかった。
やわらかな砂浜の上に、ララとエルファはならんで腰かけた。静かにひびく波の音が、ふたりの沈黙の間をまるで音楽のように流れる。
「…いまから私は」
ふいにぽつりと、エルファが口をひらいた。その声は、波の音にさらわれてしまいそうになるくらい静かだった。
「あなたにとって、とても、とってもつらい話をします。だから、せめてあなたの大好きな…海でこの話をすることにした」
「つらい話?」
かすれた声が、ララの口からもれる。エルファは小さくうなずいて、ララの瞳をまっすぐに見つめた。
「あなたの、両親の話よ」
その言葉に、ララは息をのんで師の顔をみつめた。エルファはただ悲しげに微笑みながら、言葉を続ける。
「この日がくるのが、私はずっと怖かった。あなたから両親宛の手紙を受け取るたびに、本当のことを言わなければと思っていたわ。けれど、私は、ずっとそれを先のばしにしていたの。どうしても…隠したかったのよ」
「隠す、って一体…」
ララの言葉をさえぎるように、エルファは懐から分厚い紙の束をとりだした。色とりどりの封筒、見慣れた文字が目に入ってきて、ララは息をのむ。それは、彼が今まで両親に宛て書いた手紙だった。どれもこれも、見覚えがある。そして、すべてが未開封だった。宛名に、住所は書かれてない。
師匠にわたせば、住所を書いて両親の元へと送ってくれると言っていたのに。その手紙が、どうしてここに?師を問いつめたかったが、のどがしめつけられたように、声がでなかった。
「あなたの両親は、お金がなくて、この一座にあなたをあずけた。それは、嘘よ。わたしは、あなたの両親から子供なんてあずかってない。あなたの両親の顔すら、しらない。あなたが今まで一生懸命書いた両親への手紙は、全部わたしの部屋に隠してあった。一通目から、最近書いた手紙まで全部、あなたの両親には届いてないの」
師の口が、たんたんと真実をつげている。これ以上ききたくない。けれど、まるで魔法にかけられたかのように、体がうごかない。
「本当のことを話すわ。わたしはあなたを拾ったの。ゴミ捨て場で」
ララは最初、彼女が何を言っているのか、理解できなかった。考えることを脳がこばんでる。受け入れたくないと、あがいている。
拾った?ぼくを?
「わたしがまだ歌い手見習いだったとき…わたしはある町で、チラシ配りをしていた。その帰り、わたしはあなたをゴミ捨て場で拾ったの。あなたをくるんだ布に、これがはさまっていた」
エルファはポケットから一枚の紙を取り出した。小さくたたまれた、ぼろぼろの羊皮紙。ララはそれを受け取り、破れないようにそっと紙を開いた。
そこにはただ二文字、細いペンで、『ララ』という文字が書かれていた。
「だからわたしは、あなたをララと名づけたの。そして、首かざりの団員みんなで、あなたを育てたのよ」
ララは乾いた瞳で、その羊皮紙を見つめた。
ララ、という二文字。これは、ぼくの両親が書いた文字―…。
「いつかは本当のことを言おうと思っていた。けれど、あなたがもう少し大きくなってから、また今度、今度と…あなたの心を守るためだと、そう自分に言い聞かせては、真実を告げるのを先のばしにしてきた。あなたのことを守ってきたつもりだったけれど、私はけっきょく、あなたを深く傷つけてしまった」
静かに、波の音が響いている。捨てられた。噛み締めるように、その言葉をララは頭の中でくりかえす。
捨てられた。捨てられたんだ。ぼくは、本当の両親に。そして、師匠はずっとぼくに…。
「…うそ、ついてたんだ」
「ララ…」
「裏切っていたんだ、ずっと!師匠も…みんな、ぼくのことを!」
思わず声があらくなった。いつもだったら、エルファは弟子がこんな言葉遣いをすればかんかんに怒るだろう。しかし、今回は違った。エルファはララが見たことのないつらそうな表情で「ちがうわ、ちがう…」と言葉をしぼりだした。そしてその声はどんどん小さくなり、ついにうつむいて首を振った。
「いいえ、違わない。わたしはあなたを裏切っていた」
「どうして、本当のことを、言ってくれなかったの…どうして…」
「怖かったのよ、あなたを傷つけてしまうことが。でも、これは私の身勝手な気持ちだった。わたしは…」
ララの顔を見て、ふたたび師匠は口をとざす。彼の大きな瞳から、はらはらと涙がこぼれおちていた。
「ララ…」
「ごめん、なさい…。今は、ひとりに…ひとりにしてください…」
エルファは流れ落ちるララの涙に手をのばしかけたが、悲しそうにその手をひいた。そして、静かに立ち上がる。
「ごめんなさい、ララ。わたしはあなたに嘘をついていた。でも、これだけは信じてほしいの。わたしは、あなたのことを一番大切に思ってる。あなたは、私の一番大切な宝物なのよ」
エルファはそう言って、静かに立ち去っていった。エルファの言葉に、ララの胸がぎゅっとしめつけられるように痛んだ。けれど、この感情をどこにぶつければいいのかわからなかった。吐き出すところがほしかった。
ララは首から胸にさがっている、小ぶりの青い宝石のついた首かざりをにぎりしめた。ずっと昔にもらった、一座の一員だと示す首かざりだ。あなたの瞳にそっくりだから―…そう言って、この深い青色の石を師匠は選び、ララに与えてくれた。物心つくころから、彼はエルファと一緒にいた。彼女はララにとって、きびしい師であると同時に、母親のような存在だ。しかし、あの時からずっと…師はずっと、真実を知っていたのだ。
口の中にしみこんできた涙はとてもしょっぱくて、なにが悲しいのか分からない。親が憎いわけじゃない。エルファが憎いわけじゃない。なのに。
あふれる何かをとめるすべを、ララは知らなかった。
『いい、ララ』
ふいに、小さい頃エルファに言われた言葉を思い出した。
『歌は、なんでもできるの。悲しいとき、つらいとき、さみしいとき―…そんなときには歌をうたいなさい』
すう、と息をすいこむ。そしてララは、幼い頃から大好きだった歌をうたった。
歌詞の意味は知らない。なぜならこれは、ララが幼い頃から繰り返し見る『夢』の中で聴こえてくる歌だからだ。深い深い海の底、美しい海底の風景の中で、誰かが歌っている透き通った歌声。不思議な夢の中で聴く、この美しい旋律が、いつもララの心の支えとなっていた。
潮風にのせて、静かな歌声が海岸に響いた。悲しみも、あふれでるなにかも、すべて連れ去っていってしまうようにさらさらと流れて―…どこにいるのかさえ、忘れてしまいそうだった。
―…ララ。
ふいに呼ばれたような気がして、ララははっとして目をあけた。歌声がふっとぎれ、メロディーは波の音に連れ去られる。そこはさっきと変わらない、静かな夜の砂浜だった。あたりを見回しても、誰もいない。気のせいだったんだろうか。
―…ララ、ララ。
ちがう。空耳なんかじゃない。それは耳から聞こえる声ではない。
頭の中?いや、心の中に、響いている。
―…たすけて、ララ…。
「だれ?だれなの?」
―…た…けて…。
しかし、その不思議な声はどんどん、小さくかすれていく。
「まって!だれなの?いったい…」
ララは必死に呼びかけた。しかし、いくら待っても、もう返事がくることはなかった。ザア、ザアと、ただ波の音が、静かに響くだけ。ララはひとり、呆然と海岸に立ちつくした。
陽気なベルの音とともに酒場の扉をあけると、タバコと酒の臭いがむっと鼻をつく。
ララは痛む頭を押さえながら、その場から一番近いカウンターの席について金をだし、マスターに一杯の果実のジュースを注文した。イスに座ったまま、深くため息をつく。頭はクラクラだし、めまいがした。とりあえず意識をはっきりさせようと、海岸から馬車へ帰る途中、一番近いこの酒場へよることにしたのだ。
酒場のマスターが出してくれた果実ジュースをララは一気に飲み干した。冷たいジュースが乾いたのどを潤し、脳にまでキンキンと冷たさがにじむようだ。
海岸で聞いたあの声は、なんだったのだろう?幻聴ではないと、あのときはっきり思った。けれど…自分は両親に捨てられた。その事実を知ってしまい、たしかにララは心がまいってしまっている。だから、あんなありえない声を聞いてしまったのかもしれない。
「どうしたんだい、不思議な青い髪のおちびさん」
おまけだと言ってコップにもう一杯ジュースをついでくれた酒場のマスターが、ケタケタ笑いながら言った。感じのよい、陽気な男だ。
「その首かざり…あんた今ここに来ている一座の人間だろ?髪の毛、染めたのかい?似合ってるぜ」
「どうも…」
「それにしても、ため息なんてついて、恋わずらいかな?」
にやにやと笑いながら、マスターはつづけた。
「ま、なにに悩んでいるのか知らないが、そんなシケた顔してるとこいつに殺されちまうぜ」
そう言って、マスターは酒場の壁に貼ってある紙を、コップでトンと叩く。ぼんやりしながら、ララはその紙を見た。大きな賞金首のポスターだ。いかにも「悪者」という顔の男の似顔絵が描かれている。きつい目つきをして、カールした赤髪は肩までのび、ひげは短く刈り込まれていた。顔にはキズやツギハギの跡だらけ、耳にはたくさんのイヤリングがジャラジャラついている。
名前は「グルーガス」、と書かれていた。
「海賊さ」
コップをボロ布でふきながら、マスターは言った。
「最近、ここらへんで目撃情報があったんだ。俺の知り合いでも数人、賞金目当てでこの海賊の首を落とすために、毎日さがしまわってる奴がいるよ、まったく」
「ああ!?そりゃぁ、俺のことかぁ?」
店の奥で数人のグループで飲んで騒いでいた中の一人が、ジョッキをもったまま叫んだ。
「首切り落として金をもらえんなら、儲けもんじゃねえか!なぁ、マスター?」
「その代償に自分の首も取られちまったらたまったもんじゃない」
肩をすくめながら「かんべんだ」とつぶやき、マスターは言う。しかし酔っ払った男はジョッキを掲げながら、高らかに宣言した。
「別にとられたってかまいやしねーよ!こっちだって本気なんだからよ。グルーガス、首を洗って待ってろ!」
ゲラゲラと酒場中に笑い声が響いた。マスターはララに向けて「たいした勇気だな」と目配せしながら言った。
「俺にゃ命が何個あっても足りないな。あんたも気をつけな」
マスターがため息まじりに、しかしどこか楽しそうにそう言った時だった。
ララは再び、かすかな視線を感じた。はっとして振り返る。しかし、そこはさっきと変わらない、にぎやかな酒場の風景だった。数人のグループでお酒を飲み、楽しそうに笑う人々。自分を見ている人間はいない。
昨日、チラシ配りをしている時に感じた視線と同じだ。また、気のせい?頭がおかしくなってきたララに、さらに追い討ちがかけられる。はやく馬車に帰って休もうと、彼がイスから立ち上がった、その時だった。
「やめて!」
少女の叫び声が、酒場に響いた。
見れば、小柄で短い髪をした少女が、一人の男に腕をつかまれて引きずられている。
「やめて!はなして!」
「うるせえ、だまってついてこい!」
体格があまりにも違いすぎる。少女は男の子っぽい身なりをしていたが、やはり女の子だった。細身の体の少女が力でかなうはずもなく、体格の良い男のなすがままになって引きずられていく。男の顔は、ララのいる角度からはしっかりと見えない。
酒場の人間が唖然とする中、男は少女をひきずって店を出て行った。扉につけられたベルのカランコロンという音だけが、悲しげにその場に残る。そこで、ララはやっと我にかえって叫んだ。
「た、助けないと…!」
「だめだ、ありゃ…おそらく、助からねぇ…」
「な、なんだって?」
ララは酒場中を見回した。しかし、誰一人として動こうとするものはいない。皆なぜか恐怖に満ちた顔で固まっている。そろいもそろって酔っ払った赤ら顔は、真っ青になっていた。どうしてだれも助けにいかないんだ?
ララはいてもたってもいられず、ひとりで酒場から飛び出した。
「無理だよ、ぼうや…」
残されたマスターは、ぽつりとつぶやいた。
「だって、あいつは…」
急に潮風が強くなった気がするのは気のせいだろうか。ララは夜のリフティールの町を風のように駆け抜けた。しかし、さっきの少女と男は、どこを探してもみつからない。
なんで、あの状況で誰も少女のことを助けなかったんだろう。酒場にいるものみんなで寄ってたかれば、あの男だって取り押さえることができたはずだ。あんな小柄な女の子だ―…男に取り押さえられたらひとたまりもない。そう思って足をはやめたとき、近くの路地から声がした。
「やめてってば!」
「おとなしくしろ、クソガキ!」
間違いない、さっきの酒場の少女と男の声だ。ララは声のするほうに駆け出し、路地に飛び込んだ。
「やめ…!」
そして、そう叫んだところで言葉を失った。
「おとなしくしロ、くそがキ!」
『さっきの男の声』で叫んでいたのは、大きく色鮮やかな「インコ」だった。インコは嬉しそうに、美しい青と赤の羽をばたつかせながら、高らかに叫んでいる。
そして、そのインコはあの小柄な少女の肩に止まっていた。少女は、ニヤリとした笑みを浮かべて、勝ちほこったように立っている。
かすり傷ひとつ負っていない少女は、細くすらりとした手でララを指差した。
「つかまえた」
少女の、ひどく美しい声が、彼をつらぬいたその瞬間だった。
ぐいっと後ろから強く腕を引かれて、腹にドスンという衝撃がはしる。殴られたとわかった時にはもう遅かった。
かすむ意識の中、石畳に顔をぶつける。口の端が切れて血の味がした。どんどんと暗くなっていく視界に、自分を殴った人間の顔が、ぼんやりと映った。どこかで、見たことのある顔。そのときになってようやくララは、なぜ酒場の連中が少女を助けなかったのか…助けられなかったのかを理解した。
酒場で少女を連れ去った男。そして、彼を殴った男は、海賊「グルーガス」。
完全に意識がなくなるその瞬間、少女と、海賊と、そしてインコの笑い声が、頭の向こうでぼんやり聞こえた。