九章 あたらしい旅立ち
さわやかな風が額をなで、ララはゆっくりと目をさました。最初に目にはいったのは、どこまでも続く青空。雲一つない水色に、白い海鳥がすうっと視界を横切っていった。
「目、さめた?」
隣から鈴のなるような声がして顔をむけると、リイがじっとこちらを見下ろしていた。ララはゆっくりと体をおこす。そこは、美しい砂浜だった。ぽつぽつと生える木に、遠くでは色とりどりの花が咲いているのが見える。背後には青々とした森がひろがり、優しいそよ風にさわさわとその葉がゆれ、どこからか甘い花の香りが運ばれてきた。少し離れたところに、アンデル号が浮かんでいるのも見える。メインマストの一部は欠け、船体に穴があいているが、致命傷にはならなかったようだ。その証拠に、船員たちが船を修理する姿が見え、板を運ぶかけ声やハンマーをふるう音がここまで聞こえてきた。
「…ここは?」
「『のろわれた島』、だったところよ。今は『生き返った島』と呼べばいいかな」
リイがルリーの首をかいてやりながら、うすく笑った。
「信じられないわよね。オルゴールを破壊して、洞窟から出たら、死んだような島が生き返っていたんだもの。ほら、動物の声もきこえる」
リイが言うように、森からはきいたことのない鳴き声や翼のはためきがきこえた。呪いがとけ、生命がこの島にかえってきた、なによりの証拠だろう。
「あなたはギルーガスと一緒に、洞窟でたおれたのよ。ギルーガスはアンデル号に運び込んで、グルーガスが見張りについてるけど、まだ目覚めてないわ。デルーセン号の海賊たちは、キャプテンを見捨ててみんな降参して逃げていった。意気地のないやつらばかり」
「…あの声、なんだったんだろう」
「声?」
ララのつぶやきに、リイが首をかしげて顔をしかめた。
「ほら、オルゴールを壊した時にきこえただろ?ゆるさない、って…」
その言葉に、リイはしばらく彼の顔をみつめていたが、小さく首を横にふった。
「わたしには、なにもきこえなかったよ」
ララはおどろいて、気づかれないように息をのんだ。あの時きいた声は、ぼくにしか聞こえていなかったのだろうか?いや、そもそも気のせいだったのだろうか。
ぼんやりする頭で考えていると、リイが海の向こうを見つめながらぽつりと言った。
「…呪いにかかっていたアンデル号の船員は二人とも目をさましたわ。これで、すべての呪いはとけたはずよね。兄さんも、島のみんなも…あなたの師匠の呪いも」
リイの瞳の先には、ここからは見えない故郷の島の風景がひろがっているに違いない。ララはそっと、胸でかがやく青い首飾りをにぎりしめた。
「…おわったんだ、すべて…」
その時、砂浜を踏む音がして顔をあげると、グルーガスがこちらにやってくるのが見えた。ララの姿をみると、目がさめたか、と嬉しそうにわらった。
「ギルーガスは?」
リイが問うと、グルーガスは小さく首をふった。
「まだ目覚めていない。どうしてあんな風になっちまったのか…ききたいことが、山ほどあるのにな」
そう言うと、グルーガスはふいにポケットからひとつの首飾りをとりだした。ララはそれを見て、息をのんだ。はちみつ色に輝く宝石が埋め込まれた、一座のしるし。
「ギルーガスのポケットに入っていたんだ。お前がつけている首かざりと、そっくりだから、なにかあるんじゃないかと思って」
「…師匠の首かざりだ」
ララはそれを、そっと受け取った。
『生き返った島』には、三日滞在した。アンデル号は元通りとは言えないものの、出航するにはなんの問題もない程度に回復をした。グルーガスのかけ声とともに、すべるように沖へと進む。アンデル号での船旅はこれで最後だと思うと、なんだか名残惜しくなってしまって、ララは一日のほとんどを甲板ですごした。『生き返った島』から一番近い場所はリイの故郷だったが、リイはララがリフティールで船を降りるのを見届けてから帰ると言った。彼女はグルーガスと共にこの船で三年も生活をしていたのだ、アンデル号が名残おしいのだろう。
数日の航海を経て、アンデル号は静かにリフティールの港についた。ちょうど夕暮れ時で、港は美しい朱色に染まっている。
「これ、やるよ。砲撃戦で吹っ飛ばされた、アンデル号のマストの木っ端から作ったんだ」
ロブーとバルーが差し出したのは、出会ったときにもらったものと同じ、伝説の青い鳥の彫刻だった。ララはせっかくもらったあの彫像を、洞窟での戦いで落としてしまっていたのだ。そのことをララが嘆いていたのを、二人は知っていた。彫る時間が足りなかったのか、木彫りの鳥は前もらったものより少しだけ荒かったが、美しいことに変わりはなく、何よりアンデル号の木の温もりを感じさせた。ララは大切にそれを受けとって礼を言った。
「元気でな、ララ」
グルーガスが力一杯ララをだきしめて言った。大きな丸めがねにバンダナといった、いつものへんてこな変装をしていたが、笑った顔はまぎれもなく彼のものだ。グルーガスは、これからもアンデル号で気ままに旅を続けるという。もちろん、人を襲わない『海賊』としてだ。
「あの、悪かったな、あの時…」
ふいにグルーガスが言葉を濁すように言った。
「あの時?」
「はじめて会ったときだよ。ほら、お前のこと、いきなりぶん殴っただろ?」
その言葉に、ララはグルーガスに出会った日の夜のことを思い出した。
「たしかに、あれはちょっと乱暴だった」
笑って答えると、それまで黙っていたリイがぷっと吹き出した。
「しょうがないじゃない、わたしたち、海賊なんだから。わたしも、グルーガスも、あなたも」
リイが深い緑色の瞳で、まっすぐにララを見つめて笑った。夕日に染められたその笑顔は、いつもの彼女らしくない、すこし切なそうなものだった。
「さよなら、ララ」
そしてアンデル号は、ララの海賊の仲間たちは、オレンジ色の夕日に向かって出航していった。輝く水平線の向こうにその姿が溶けるように消えて見えなくなるまで、ララは手をふり続けた。
リフティールの大通りを歩く。いつかの夜が嘘のように、そこは人々で賑わっている。あちらこちらから陽気な歌声が響き、市場からは刺激的な香辛料の香りや焼きたてのパンの香ばしいにおいがただよっていた。最初、ララは首かざりの一座が馬車をならべていた空き地にむかっていたが、ふいに思い立って行き先を変えることにした。目をさましたエルファと話をする前に、あの美しい砂浜をもう一度みたいと思ったのだ。
大通りを抜けて、港の反対側へと進む。中央街をぬけると、そこは静かな住宅地になっていた。夕方なだけあって、家からはおいしそうな料理の香りがただよってくる。しばらく進むと石畳の地面はだんだんと砂まじりになり、潮風がララの頬をくすぐった。そして住宅街をぬけると、そこは静かな砂浜がひろがっていた。
その時、美しい歌声がきこえた。すっかり聴き慣れた、やさしく深い声。眠れない時や、ひとりで泣いていた時に…よく師匠が歌ってくれていた歌。
砂浜に、一人の女が立っていた。黒くつややかな髪が風になびき、美しい歌声がながれてゆく。ララはしばらく、彼女が歌う姿をながめていた。最後の歌詞が風にのってながれ、消えてゆくのを感じながら、ララは静かにその後ろ姿に声をかけた。
「…師匠」
すると女は…エルファははじかれたように振り返った。ララの姿を見つめ、呆然と立ち尽くしている。
「…ララ?」
ララがうなずくと、師匠はゆっくり彼に近づいた。そして幻ではないと確かめるように、そうっと頭や頬をなでる。
「いままで、一体どこに…」
しぼりだすように、かすれた声でエルファはただそれだけ言った。ララはポケットからはちみつ色の首かざりを取り出して、エルファにさしだした。
「これを取り戻しに行っていたんです」
エルファがそっと首かざりを受けとる。ララは、師の瞳をまっすぐに見つめた。あのとき言葉にできなかった思いは、今ではすとんと、彼の心におさまっている。
「師匠に、伝えたいことがあって」
言葉は自然に、口からこぼれていった。
「ぼくは、生まれてから一度も、寂しいと思ったことはないんです。それは首かざりの一座のみんなや、師匠がそばにいてくれたから…師匠が、ぼくのことを拾ってくれたからなんだ」
「ララ…」
「あなたは、ぼくのお母さんなんです」
ララの言葉に、エルファの顔はくしゃりとゆがんだ。その美しい瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。師が泣くのを、ララははじめて見た。それを隠すように、エルファは体をかがめて、ララの体をぎゅっとだきしめた。
「ララ。あなたは、私の大切な宝物よ。私の大切な、大切な息子…」
あたたかい体温に、ララは安心して目を閉じた。心地のいい波の音と、やさしい潮風が、静かに二人を見守っていた。
ガラガラと陽気な音をたて、首かざりの一座は次の町へと続く街道を進む。御者台の上はいつも通りにリントが座り、ララとダズはのんびりと外の風景を窓からながめていた。いつも通りの昼下がり。少し前まで船の上で生活していたなんて、夢の出来事のようだ。
ララが姿を消してからの話は、すっかり一座中に広まっていた。座長の呪いを解いたことで、数日の間は英雄視までされてしまった。ミッフィーはララのために豪華なごちそうを用意してくれたほどだ。
「それにしても、ララが海賊船に乗ってただなんて…」
にやにや笑いながらダズが言い、ララはむくれてそっぽをむく。たしかに、旅回りの一座のひ弱な歌い手見習いが凶悪な海賊船にいたなんて、滑稽以外のなにものでもないだろう。
「なんだよ、似合わないって言いたいんだろ?」
「そんなことないさ、すごいと思うぜ。か弱き歌い手さんが今じゃいっぱしの海賊だとは」
真面目そうな顔でダズはそう言ってから、我慢できずに吹き出した。ララも思わず笑ってしまう。たしかに男であるはずの自分なんかより、小柄な少女のリイのほうがよっぽど海賊としての貫禄があった。今頃どうしているのだろう。兄とは、仲直りができただろうか?
最後に港でみた、リイの顔を思い出す。すこし寂しそうに、オレンジ色の光の中で手をふっていた。グルーガスは再び世界中の海をめぐり、自分は地上で世界中を旅している。そしてリイは故郷へと帰ってしまった。もうこのまま、二度と会うことはないのだろうか?
その時だった。ふいに馬車が止まり、ララとダズは顔を見合わせる。窓から顔をだして御者台のリントを見上げ、ララは声をはりあげた。
「リント、どうしたの?」
「いや、列の先頭が止まっているんだ」
リントは困惑したように言った。
「道の中央に…だれかいるみたい」
「だれかって?」
リントは御者台から身をのりだし、手を望遠鏡の形にして目を細めた。
「…女の子だ。肩に派手な鳥がのってる」
その言葉に、ララは息をのんだ。馬車からとびだし走り出すと、後ろからリントとダズが彼を呼ぶ声がした。連なる馬車の横をかけながら、彼の心臓はどきどきと鳴った。
そんなはずはない。まさか、彼女であるわけがない。そう思っているのに、体はララの意志と反してひとりでに動く。
そしてついにララは、先頭の馬車の前に立つ、小柄な少女の姿をみつけた。
「こんにちは。首かざりの一座のかたですか?」
いたずらっぽい笑みをうかべ、少女はララに言った。緑色の瞳が楽しそうに光っている。
「…兄と、話をつけてきたんです。世界中を旅する夢を叶えたい、って。兄は喜んで島から私を見送ってくれました」
ララは息を切らしながら、ただ目の前にいる彼女を見つめていることしかできなかった。言葉につまりながらも、うれしさに自然に笑みがこぼれる。そんな彼に、少女は首をかしげながら笑い返した。
「だから、どうか、この一座で一緒に旅をさせてくれませんか?」
そう言うリイの肩の上で、ルリーが楽しそうにギイと鳴いた。