2章 その2 岐路に立つ
2 岐路に立つ
混乱の中で宴が中断されたあと、ジルドとジーナは宛がわれた部屋で、それぞれぼんやりと腰を下ろしていた。
屋敷から逃走を図ったダイダーノブが二人の衛兵を殺したことが、ジルドの耳にも入ってきた。ジーナに手傷はなかったが、衛兵の返り血を浴びたため、今は着替えている。
ダイダーノブは結局取り逃した。しかし広間で暴れた大男と、料理に毒を入れようとした使用人、そしてダイダーノブや大男を屋敷に引き入れたらしい侍女が捕らえられた。
彼らは日を改めて尋問が行われる、という話を昼過ぎに聞いてから、なんの音沙汰も無い。ジルドが焦れてきた頃、使用人の一人が部屋を訪れた。
「ご領主様がお呼びです。こちらへ」
ベッドに腰掛けていたジーナと顔を見合わせて、ジルドは絨毯の敷かれた床から立ち上がった。
少しだけ廊下を進むと、階段で二階へと上がる。すべての窓に半透明の硝子が使われた廊下に目を奪われつつ、ジルドは使用人のすぐ後ろをついて歩いていく。
角を二つ曲がった先の突き当たりの部屋の前で、使用人は立ち止まるとジルドたちが追いつくのを待って、使用人はドアをノックした。
「アニーオ様、お連れ致しました」
「ご苦労。下がって良い」
最敬礼をすると、使用人はジルドとジーナを中に促した。
ジルドは開いたドアから中を覗き込んだ。壁のほとんどを埋め尽くした本棚に、窓の前には大きな執務机がある。執務机の前には背もたれのある椅子が二つ並べられていた。
執務机にはアニーオが座り、その傍らにはドレスに身を包んでいるソフィアが佇んでいた。ドレスはお伽噺などに出てくような大きく広がったものではなく、ゆったりと足下まで包んでいる。装飾品はネックレスと翡翠が填め込まれたサークレットくらいだが、それだけでも彼女の気品を引き立たせるには充分だった。
執務机に腰を凭れて片手をついた姿勢で、ソフィアはジルドとそのやや後ろにいるジーナを眺めていた。
ドアの前から動こうとしないジルドとジーナに、アニーオは鷹揚に微笑んだ。
「どうした? 入ってくるがいい」
「あ――はい。失礼……します」
ジルド、ジーナの順に部屋に入ると、アニーオは前にある椅子に座るよう促した。
ジルドは素直に、ジーナは躊躇いながら椅子に座ると、アニーオは執務机の上で手を組んだ。
「先ずは、君たちに礼を述べさせてくれ。おかげで、殺されずに済んだ」
「いえ、その、僕はそこ――そちらのソフィア、様に、えっと、頼まれただけですから」
「そちらのお嬢さんはどうなのかな?」
「わたしは――いえ、同じです」
溜息交じりともとれる返答のジーナに、アニーオは横にいるソフィアを一瞥した。
初めて面と向かった相手だが、ジルドとジーナの表情を見れば、どれだけソフィアに対して気を遣っているか理解できる程度には、アニーオは人を見る目があった。
組んでいた手を離して机に添え、穏やかな表情から一変、神妙さを増した表情でジルドたちに頭を下げた。
「姪が無理強いをしたようで、すまない」
「あら」
澄まし顔だったソフィアは、少し唇を尖らせた。
「そのおかげで助かったのは、どこのどなたかしら叔父様。もっと感謝して下さってもよろしいのではなくて?」
「それとこれとは、話しが異なるのだがな。さて、ジルド――で良かったかな。君にはこれを返しておこう。おい。あれを彼に」
「畏まりました」
扉の横に控えていた使用人が、ジルドにバーラを差し出した。ジルドが取り押さえられたときに、衛兵に取り上げられたものだ。
ジルドは使用人からバーラを受け取るのを待って、アニーオは質問を投げた。
「それは、君の村に伝わる道具ということだが?」
「は、はい。狼を追い払ったり、冬場に野兎や鹿なんかを狩るのに使ってます」
「なるほど……では、知らぬのであれば教えるが、それはスリングと呼ばれる、大昔の戦で使われていた武器の一つだ」
手元にある、使い込まれて薄汚れたバーラへと目を落としたジルドは、アニーオの言葉の意味を一瞬考え、最初は冗談かと思い顔を上げ、しかしこの街の領主の顔に笑みが浮かんでいないことに気づくと、驚いた顔で愛着のある道具を二度見した。
「あ、あの、これ石ころを投げたりするだけですし。武器っていうには頼りない気がしますけど。本当に戦で使われてたんですか?」
「その通りだ。石というが、当たり所が悪ければ致命傷になる。それに素手で投げるよりも強い打撃を与えられる。とはいえ戦で使われたのは、弓矢が広まる前までのことだ。
それで話しを戻すが、一つ気になるのは何故、君の村にはスリングの製法が伝わっているのかということだ」
「そう言われましても……」
バーラの謂われなど知らぬジルドが困った顔をしていると、アニーオは片手を小さく挙げた。
「ああ、答えなくてもよい。君に答えを求めたわけではない。さて……今回の君らの奮闘に対して、私は感謝をしてもし尽くせぬほどの借りができた。そこで、だ。今回の一件が片付くまで、この街での生活の保障、そして資金を援助しよう。君たちが住む家は、すでに用意がある」
「あの、待って下さい」
困り顔のジルドが、僅かに身を乗り出した。
「アルベリーニョ山脈へ行かなくてはなりませんので、その、この街で暮らすというのはお断りさせて下さい」
「山へ? 何故だね」
アニーオの問いに、ジルドはなんと答えればいいか悩んだ。そのまま答えて信じてもらえるか判らないし、こんな古臭い風習を話すのは気恥ずかしかった。とはいえ、他に良い理由も見つかるわけもなく、ジルドは恥ずかしそうに顔を赤らめながら、言いにくそうに答えた。
「それは、うちの村の風習で……一度は山頂に登らないといけなくて、ですね」
「山に登る風習……なんと古風な。だが、今は危険だ。やめておきたまえ」
何が危険なのか、ジルドにはすぐに理解できなかった。ソフィアの頼みごとは、暗殺のことを領主に伝えることであり、それは暗殺自体を阻止するためのものだ。それが終わった今、もう危険なことに首を突っ込まなくて良いはずだと思っていた。
それに暗殺が失敗した今、よほどの愚か者で無い限り、目だった行動を控えて潜伏するか、街から逃げ出しているはずだ。
これから街を出て山に向かおうとするだけなのに、なにが危険なのかわからない。
二日間も拘束されたおかげで、日数や資金が無駄に費やされている。ジルドはこれ以上、ギイナスに滞在を続けるわけにはいかないのだ。
「どうしてですか?」
と訊いたのは、疑問というより街から出たいという気持ちから出たものだ。
それをジルドの表情から察したアニーオが、右手を顎に添えた。
「君は、暗殺者共の顔を知っている。今日の騒動で彼らの邪魔をした以上、次の標的は間違いなく君だ。それは、そちらのお嬢さんも同じだ。それは理解しているかね?」
「……はい」
ジーナが頷くと、アニーオの表情に安堵の色が浮かんだ。
「それならば、奴等の討伐が終わるまでこの街に」
「ですが、わたしも明日発とうと思います」
言葉を遮るようにジーナが静かに街の滞在を断ると、アニーオは一瞬呆気にとられ、溜息を吐いて深く椅子に座り直した。
「まったく……しかし私とて、恩人を無下に扱う気は無い。今宵一晩、屋敷でよく考えるが良い。ああそれと、帳簿はおまえたちを雇っていた店に返しておいた。店の主人からは賃金と荷物を預かっているから、あとで使用人に持って行かせよう。二人を部屋へ」
「畏まりました。お二人とも、こちらへ」
仰々しい仕草で部屋の外へと促す使用人に従って、ジルドとジーナは廊下へと出た。
*
ジルドとジーナが退室したあと、アニーオは椅子の背もたれに体を預け、まだ傍らにいるソフィアの澄まし顔を見上げた。
「……中々に強情な若者たちだ。一体、どんな手を使って雇ったことやら」
「あら。まるで私が、脅迫でもしたとでも言いたげですわね」
「近いことはしたのだろう。それで、彼らの出自は、どこまで把握してるのだ?」
「さあ、まったく存じ上げませんわ」
澄まし顔で宣うソフィアに、アニーオは眉を顰めた。ジルドとジーナには命を助けられた恩義は感じているが、素性も判らぬ者を屋敷に迎え入れることは控えたいのが本心だ。
口をへの字に曲げたアニーオに、ソフィアは忍び笑いを漏らした。
「そこまで心配なさる必要はございませんわ。ジルドがただの村人なのは間違いないでしょうし、ジーナもただのこそ泥だと思いますもの。一日二日泊めたところで、なんの被害もございませんわ」
「おい。こそ泥とは――」
前触れも無く飛び出てきた言葉に、アニーオは険しい顔で立ち上がった。いくら命の恩人とは言え、盗人を家に上げるなどまっとうな貴族ならやりはしない。少々の調度品や金品に未練はないが、いいようのない不安が残る。
顔を引きつらせたアニーオに、ソフィアは微笑んだまま人差し指を立てた。
「心配はいらないと申し上げましたわよ、叔父様。今この場で悪さをするほど、ジーナは悪党ではありませんわ」
「そうはいうがな……そんな確証が何処にある?」
「今ここに、私が居ることが証しですわ。隊商に便乗した私は彼女と何日も共に旅をしておりますし、ギイナスに着いてからも同じ宿に泊まりましたけど、何も盗まれもしなければ、死んでもおりませんわ」
一般的な貴族としては信じがたい内容を、事も無げに言ってのけたソフィアに、アニーオは頭を振った。荷物を運んできた使用人がいたにせよ、騎士や衛兵の護衛もなしに旅をするなど、貴族としては正気を疑う行為だ。
怒鳴りたい衝動を堪えながら、アニーオは眉を吊り上げた。
「おまえは――無事かどうかなど問題では無いぞ。おまえに何かあったら、兄上になんと申し開きをすれば良いのだ」
「……そうですわね。少し調子に乗りすぎましたわ。それで? 私の意見や言葉はともかくとして、ジルドやジーナと話してみて、叔父様自身の見立てはどうですの?」
楽しそうな笑みを浮かべるソフィアに、アニーオは二人のことを思い返した。
ジルドは典型的な村人のように、ほどほどに真面目で純朴そうだ。性格的には問題はないだろう。気になる点は彼の人柄や外見ではなく、筋骨逞しい大男にも負けない力と、スリングで狩りが出来るだけの俊敏さを兼ね備えた体だ。それに簡単な指示だけで、大男を取り押さえるだけの理解力もある。
(最も、指示を出したのが私だとは気づかなかったようだが)
彼の身体能力は、ただの村人に備わるものではないし、故郷に大昔の投擲道具が伝わっていることは謎である。
一方のジーナだが、アニーオはこの短時間で彼女を見極めることができなかった。
容姿はどことなく可憐で、服装は少々小銭を持っている町娘といった印象たが、アニーオが刺客に襲われたときに見せた判断力と行動力は、その辺にいる一兵卒以上だ。
かなりの荒事をこなさねば、身につかぬ類いのものだ。
こそ泥だとソフィアが言うまで素性は想像もできなかったが、盗賊稼業であれば、あの身のこなしもある程度は納得がいく。
気を抜くと目を惹かれそうな顔立ちだが、どことなく陰のある少女の顔を脳裏から消すと、ジーナとは違う美しさを備えたソフィアに、若干砕けた顔を見せた。
「そうだな。十五年早く――俺がまだ傭兵部隊の長をしていた頃に出会っていたら、間違いなく誘っていたな。ジーナの判断力に、ジルドの力を生かしながら鍛えれば、小競り合い程度なら負けなしだ」
「一瞬、あちらの趣味がおありなのかと焦りましたけれど。そういう、戦力補充の意味であれば納得ですわ。けれど、あの二人は間違いなく、その誘いを断りますわよ」
先ほどの会話から、アニーオにはその光景が容易に想像できた。
この街で身を潜めさせたかったが、ジルドとジーナは間違いなく断るに違いない。謝礼の形も変えねばならぬだろうが、ただの金品では彼らの身を護ることは叶わない。
どうするか悩み出したアニーオに気づいたソフィアは、彼の顔を覗き込んだ。
「叔父様、何を考えておりますの? 彼らへの報奨でしたら、私に良い考えがございましてよ。彼らの身を護り、かつ役に立ちそうなものなら、妙案がございますわ。私にお任せ下さいませ」
微笑むソフィアに、アニーオは少し考えてから、諦めたように渋々頷いた。
*
領主の屋敷から通りを一つ挟んだ場所にある酒場で、一人の男が酒を呑んでいた。
こぢんまりとしたテーブル席には、十を超える木製のジョッキが転がっている。ほどよく顔を真っ赤にさせているのは、齢五〇を越えた初老の男だ。髪は半分以上白髪で、顎から頬にかけてブラウンと白が入り交じった無精髭を生やしていた。
傭兵らしく簡素な胴鎧と籠手を身につけ、腰には長剣を下げていた。
テーブルの上にはジョッキの他に、十数枚の銅貨が積まれていた。テーブルからジョッキを持ち上げてエール酒を飲み干すと、男は近くの店員を手招きした。
「おい、エールをもう一杯!」
「ドメニコ、いい加減飲み過ぎじゃないか? ……ったく、昼間っから入り浸りやがってからに。たまには仕事でもしたらどうだい」
「……戦でもなけりゃ、仕事なんざねぇだろ。それにご領主様から、ここで待機しろって言われてるんだ。晩飯を食うまでは、此処にいるさ」
ドメニコはジョッキを揺らしてお代わりを急かすと、椅子に深く腰掛けた。
そんな彼に、店員は肩を竦めながらカウンターで代わりのエール酒を受け取った。ジョッキをドメニコの前に置くと、テーブルの上の銅貨を二枚だけ抜き取った。
「ほどほどにな。こんな場所で倒れられても困る」
「へいへい。わかったよ」
ドメニコが新しいジョッキに口をつけたとき、酒場に見知った顔が入って来たことに気づいた。屋敷の使用人らしい中年の男は、ドメニコに近寄ると小さな革袋を差し出した。
「ドメニコ殿。ご領主様から仕事の依頼です。すぐに、屋敷へおいで下さい」
「……承知した。少し酒を抜いたら向かうと、アニーオの旦那に伝えてくれ」
答えながら、ドメニコはテーブル上にある銅貨を半分だけ残すと、店員を呼んだ。
「おい! 少し早いが、これで飯とビールをくれ」




