2章 転機 その1 宴の邂逅
二章 転機
1 宴の邂逅
ビジーレ・カンバニア産のワインで満たされた、一抱えほどの小さな樽を片手で抱きかかえながら、ジルドは領主の屋敷へと向かっていた。
隣には、帳簿を持ったジーナが歩いている。ワインの納品だけであればジルド一人で事足りるのだが、字が読めないために帳簿の確認ができないのだ。
二人で並んで歩いていると、不意にジーナがジルドの腕をつついた。
「やっぱり、荷物は置いてきたほうが良かったんじゃ」
「でもこれが終わったら、すぐにでも出発したいですし」
ジルドは旅の荷物を背負い、左手に杖を持っていた。今は杖にバーラをつけておらず、腰のベルトにぶら下げている。ワインさえ納品したら、すぐにでも旅立てる装いだ。
それに先ほどの答えは事実だが、それだけが理由ではない。ジルドには以上、連泊できる資金が無いのだ。今後の旅程を考えると、無駄遣いどころか節約が必須になっていた。
先ほどの会話を最後にしばらく歩いていると、領主の屋敷へと到着した。
裏手に回るとジーナが、裏門の門番にワインの納品であることを告げた。門番に待つように言われ、そのまま待っていると、昨日の使用人が表に出てきた。
「ご苦労。こっちまで運んでくれ」
言われるままにジルドとジーナは、裏門を通って屋敷へと入った。
裏口から廊下に出たところで、肉の焼ける匂いが漂ってきた。まだ昼までは時間があるが、料理の匂いを嗅いでいると食欲が沸いて仕方が無い。ジルドが空腹感に苛まれつつ廊下を進んでいると、使用人が調理場の中に入るよう促した。
中に入ったジルドは、熱気と匂いに顔を顰めた。
調理場の中央では牛か豚だろうか、串刺しになった大きな肉が火に炙られていた。大鍋ではシチューが煮込まれ、焼き上がったパンが、黒金のプレートの上に並んでいた。
数人の使用人と料理人が忙しく働いている中、ジルドは指示された場所へと向かった。
途中、シチューをかき混ぜながら、小さな瓶から大鍋に何かを入れている使用人の背後を通ったとき、いやに甘ったるい刺激臭がジルドの鼻孔をくすぐった。
(これ――虫取り草の臭いだ!)
虫や害獣退治に使われる、紫の花をつける雑草は、草全体に強い毒性を持つ。人間が少し囓っただけでも腹痛や下痢になるが、それを一定量以上食べたら――。
ジルドは樽を床に置くと、大鍋の前にいる使用人から、力任せに瓶を奪い取った。
「なにやってんですか!? これ毒ですよ!」
ジルドの声に、調理場の全員が振り返った。
大鍋の前の使用人は、最初何をされたのかわからない顔をした。しかし他の使用人たちよりも早く状況を理解したのか、いきなり駆けだした。
しかし、男の動きを読んだジーナが、廊下側に開いていた扉を閉じた。
「衛兵を呼んで下さい!」
「わ……わかった!」
頷いた使用人が、屋敷の奥へと駆けだした。
一人になったジーナはスカートの隠しポケットから、金属で補強された小さな木の板と釘を取り出した。そして電光石火の早業で釘を扉の前に打ち込み、一歩退いた。
直後、先ほどの使用人が扉を押したが、釘の所為で開けることができない。
まさに間一髪だった自らの早業に、ジーナは会心の笑みを浮かべた。
調理場ではジルドが、扉の前にいる使用人を捕らえるべく、力任せにぶつかった。
その途端、釘を折り曲げながら扉が開き、ジルドと使用人が廊下に雪崩れ込んだ。
ぶつかる寸前に横に飛び退いたジーナが、信じられない目でジルドを見た。あの釘は衛兵を閉じ込めるために、詰め所の扉に使うためのものだ。偶然や勢いがついた程度の体当たりでは、扉が開かない程度の強度がある。
(なんて馬鹿力)
呆れ顔のジーナの足下では、ジルドが必死の形相で使用人を押さえ込んでいた。
「離せ! 離してくれ!」
抱きかかえるように捕まっているジルドを、使用人は自由になっている左腕で押しのけようと必死になっていた。
そこへ二人の衛兵とともに、ジルドたちを案内した使用人が戻ってきた。
「あいつだ。捕まえてくれ!」
二人の衛兵が、ジルドが捕まえている使用人の腕を掴んだ。
「ま、待て! 俺は何もしていない。あれは毒じゃない!」
「じゃあ、これを嘗めてみて。毒じゃなければ、できるわよね」
ジルドの手からわずかに液体の残った瓶を取ると、ジーナは衛兵に使用人に瓶の口を向けた。ツンとする刺激臭が、まだ強く残っている。
「う……」
目を伏したことが、如実の証だ。男は項垂れたまま、衛兵たちに連れて行かれた。
そこで漸く起き上がったジルドに、ジーナはほとんど空になった瓶を振った。
「ところで、これって本当に毒なの?」
「うん……ええっと、紫の花をつける雑草だと思うんだけど、うちの村で虫除けや害虫退治に使ってて。燃やしたりしたときに、こんな臭いしてましたから……」
ジルドがジーナに答えると、衛兵を連れてきた使用人が「ああ」と声を出した。
「ベルーナ草のことだな。他の国ではグナイルなどと呼ばれている。少量なら虫除けなどに使えるが、絞って抽出した汁は毒になる。なるほど。故郷で使っていたから臭いに気づいたのか。ふむ……偶然とはいえ、君らには感謝しなくてはなんな。こちらに来たまえ」
使用人に促されるまま、ジルドとジーナは屋敷の中を進んだ。
調理場から真っ直ぐに伸びている廊下を進み、L字になった角を右に曲がると、建物の構造が一変した。壁は石造りで、松明では無くランプが吊されるようになっている。
板張りの床も穴や隙間がないだけでなく、綺麗に磨かれていた。
窓は雨戸だけでなく、貴重な半透明の硝子が填め込まれており、ランプに火が灯っておらず、さらに窓が閉じている状況でも廊下は明るかった。
ジルドがそんな品々を珍しそうに眺めながら歩いていると、廊下の奥から談笑の声が聞こえてきた。この状況から、まだ〝凄腕〟の襲撃は行われていないようだ。
扉の前で立ち止まった使用人が、ジルドとジーナを振り返った。
「しばし待たれよ」
ドアをノックして中に入った使用人は、ほんの十数秒で戻ってくると、二人を広間へと招き入れた。
ドアの中は広間になっていた。長いテーブルには豪奢なドレスを着た婦人や、貴族と思しき男性が思い思いに食事や談笑をしており、ジルドたちから近いテーブルの端には、ダークブラウンの髭を蓄えた男性――アニーオが座っていた。
ドアのすぐ近くには、ワインや果実酒などの樽が並び、給仕が忙しくテーブルとの間を往復していた。運ばれてきたばかりの鴨の丸焼きからは、香ばしい匂いが漂っていた。
使用人がジルドとジーナをアニーオの前へと連れて行くと、周囲から好奇の目が二人に注がれた。
なんとなく気恥ずかしくなったジルドは、それらの視線から目を逸らした。
二人が並んで最敬礼をすると、アニーオは広間の客人たちへ向けて高らかに告げた。
「皆様、ご紹介をしたい者たちがおります。彼と彼女が、本日、不埒にも暗殺を企んだ者たちから、私の命を救った者たちです。平民ではありますが恩義に報いるため、祝宴に同席させたい所存にございます」
芝居がかった仕草でアニーオがジルドたちを紹介すると、客人たちから笑いを含んだ了承の声が返ってきた。
唖然としているジルドとジーナに、アニーオは鷹揚に告げた。
「席は用意させよう。君らも楽しんでいってくれ」
「あ、その、まだそれどころじゃ――」
ジルドが暗殺のことを告げようとしたとき、背後のドアがノックされた。
広間に入ってきたのは、中年の侍女だった。恰幅のいい彼女は視線を彷徨わせていた。
「あの、失礼します。お、お客様がいらっしゃいましたが、いかがいたしましょうか?」
「客? はて、今日はもう約束なぞ無いはずだが」
急な来客に、アニーオが首を傾げた。ジルドはそれよりも、侍女の態度の方が気になった。客が来た報告をしているだけなのに、彼女は酷く怯えているように見えたのだ。
まるで背後に狼でもいるような、そんな表情だ。
村が狼に襲われてたときのような緊張感を、ジルドは侍女から感じとっていた。
ジルドは荒事に慣れていないし、得意では無い。しかしそれだけに、危険を忌避する本能にも似た感覚が、女性の背後にいる何かに反応したのだ。
ジルドの隣にいるジーナは警戒心を露わにしながら、侍女の一挙一動を注視していた。
しかし、ジルドの視線は女性の背後に向けられていた。視線を動かさないまま、バーラを右手に装着すると、杖を左手に持ち替えながら入り口に近い壁際に移動した。
主の反応を待っていた女性は、恐る恐るといった表情で再度尋ねた。
「アニーオ様、それで……その、如何いたしましょうか?」
アニーオは広間の端にいた衛兵を一人呼び寄せてから、侍女に指示を出す。
「お通ししろ。話しをしてみよう」
頭を下げた女性が廊下に出るのと入れ替わりに、二人の男が広間に入ってきた。
一人は痩身の青年、そしてもう一人は重そうな小振りの樽を両手に抱えた大男だ。
(あの人――!)
ダイダーノブの姿を見て、ジルドは思わず声をあげそうになった。
ジルドに気づいていないダイダーノブは、アニーオに最敬礼をした。
「突然の訪問に寛大なお心遣いをしていただき、感謝の極みにございます。私は旅の商人をしております、ダイダーノブと申します。ご領主様の誕生を祝う宴が開かれていると聞き、ご挨拶を兼ねて贈り物を致したく、御拝見を願った次第にございます」
ダイダーノブは大男が抱えている小振りの樽を、手で示した。
「ビジーレ・カンバニアの赤ワインにございます」
腕が痺れてきたのか、大男が樽を持ち直すと、中から液体が撥ねる音がした。
中に入ってるワインを想像してか、アニーオの口元がわずかに綻んだ。
「わざわざのご厚意、ありがたく頂戴致しましょう」
右手を左胸に当てたアニーオが、軽く会釈をした。少し気を許してしまったのか、一歩だけダイダーノブに近づいた。この場で、それが必殺の間合いだということに気づいたのは、ジーナだけだった。
ダイダーノブが素早く手を背中に回すと同時に、ジーナは駆けていた。
「あの人を止めて!」
ジーナがジルドに告げたときには、もうすでにダイダーノブは短剣を抜いていた。
(――!?)
ショックを受けながらも、ジルドの体は反射的に動いていた。
二つ折りにしたバーラの袋状になった部分に、杖の先端を押し込んだジルドは、そのまま水平にしてダイダーノブ目掛けて放った。
鋭利さがない故に致命傷にはなり得ないが、それでも肩に杖を受けたダイダーノブの動きがわずかに遅れた。
その瞬間の隙を、ジーナは見逃さなかった。素早い動きでアニーオとダイダーノブの間に入り込むと、握りしめた拳の底面で、振り下ろされる直前の短剣を弾いた。
「貴様!」
ジーナをダイダーノブが睨んだとき、駆け寄ったジルドが叫んだ。
「ダイダーノブさん、なにをやってるんですか!」
「な――やはり貴様か!」
ジルドの存在に驚きつつも、ダイダーノブはジーナから距離をとった。
同時に、衛兵の横まで引いたアニーオが、広間にいる衛兵たちへ号令を発した。
「賊だ! 全員捕らえよ!」
衛兵たちがダイダーノブたちに群がろうとしたが、大男が近くにあった樫の木で造られた椅子を振り回したため、迂闊に近寄れない。果敢に向かっていった一人の衛兵が、兜の上から椅子で殴られ、そのまま昏倒した。
(しばらく起きそうにないわね)
倒れた衛兵からジーナが視線を戻すと、目前で大男が椅子を振り下ろすところだった。
(しまった――)
躱そうとしたが、間に合わない。両腕で頭部を護ろうとしたとき、横から伸びた手が振り下ろされた椅子を受け止めた。
「この人は、任せて。ダイダーノブさんを追って」
「あ――うん。わかったわ」
頷くと、ジーナは広間から逃げ出したダイダーノブを追った。それに僅かばかり遅れて衛兵たちが、ばらばらと駆けだした。
その間にも、大男とジルドの力比べは続いていた。
「この野郎、離しやがれ!」
大男が力ずくで椅子を引っ張るが、ジルドも負けてはいない。それどころか腕と腰に力を込め、力尽くで大男から椅子を奪い取ると、誰もいない壁際に放り投げた。
「なに!? この……くそ!」
一度は驚いた大男だったが、すぐに思考を切り替え、今度は両手でジルドに掴みかかろうとした。彼の手をジルドが両手で受け止めたことで、そのまま力比べに突入した。
最初こそ、ジルドは自分より一回りも大きな相手に怯みかけていたが、両腕に余裕があることに気づくと、少し気が楽になった。
(この程度なら――!)
ジルドは全身の力を振り絞り、裂帛の気合いとともに大男を強引にねじ伏せた。背中から床に倒れた大男が、ジルドから手を離して顔を顰めた。
「まだだ、ジルド君! 奴の右腕を掴め!」
突如、背後から飛んできた指示に、ジルドは何故、相手が自分の名前を知っているのかという疑問を抱く前に、行動に移していた。
「掴んだ腕に君の右腕を絡ませ、捻り上げろ!」
言われるがまま、ジルドは大男の右腕に自らの腕を絡ませて力を込めた。束縛から逃れようと大男が身を捩るが、ジルドはそのまま彼の体を床へと押しつけた。
無我夢中だったが、生まれて初めてに等しい取っ組み合いで、刺客の一人を捕らえることができた。どこか本能的な部分で全身の産毛が逆立つ程の歓喜を覚え、背筋が振るえたジルドが顔を上げたとき、使用人が衛兵を連れて駆け寄った。
「領主様の屋敷に、武器を持ち込むなど!」
(へっ?)
使用人は刺客ではなく、ジルドを睨み付けていた。
衛兵は大男に剣を向けているが、使用人はジルドの肩を掴んだ。
訳がわからず、半ば呆然としていると、若い女性――それも聞き覚えのある声がした。
「その者は私の従者です。危険はございませんから、どうぞお手をお離し下さい」
栗色の髪を軽く結い上げ、豪奢ではないが、品の良い深い緑の刺繍が施された群青色のドレスに身を包んだソフィアが、ジルドに微笑みかけた。
「よくやりましたわ。少し見直しましてよ、行き倒れさん」




