1章 その4 前夜
4 前夜
ジーナと共に宿へと戻ったジルドは、先ず最初にソフィアの姿を探した。
商店から帰る途中で、昼の鐘が鳴ったから、一階で食事を摂っているはずだ。しかしジルドの予想に反して、ソフィアの姿は何処にもなかった。
ジルドはあまり気は進まなかったが、カウンターにいる大男の元へと歩を進めた。
「あの、すいません。ソフィアさん――ええっと、僕らと一緒に泊まった女の人は、下に降りて来ましたか?」
「ああ。あんたらが出てってから、少ししてからかなぁ。ちょっと用事を済ませるって出て行ったよ」
「そうですか」
何か聞いていないかとジーナを振り返るが、彼女も何も聞かされていないらしく、静かに首を横に振っただけだ。
このまま突っ立っていても仕方が無いと、二人はとりあえず昼食を摂ることにした。
黒パンにチーズ、それにトマトの入ったスープを食べていると、ソフィアが宿に帰ってきた。
ソフィアは食事をしているジルドたちに気づくと、怪訝そうに首を傾げた。
「貴方達、商店の仕事はどうなさったの?」
「今日は午前まででいいそうです。納品も終わりましたし」
「それじゃあ、御領主の屋敷には行ったのかしら。ロレンツォ伯には会えまして?」
「それが……その」
ジルドが事情を説明すると、ソフィアは両拳を腰に当て、不服そうな顔をした。
「まったく不甲斐ない。無理矢理にでも屋敷に入って、ロレンツォ伯に会おうとなさりませんでしたの?」
「……そんな無茶を言わないで下さい」
貴族の屋敷に無理矢理入ったら、どんな理由があるにせよ、良くて牢屋行きだ。
「明日、ワインの納品にもう一度屋敷に行きますから、そのときに領主様に会えるか試してみます」
「そうおっしゃいますけど、祝宴は午前から――という噂を聞いておりましてよ。そんな悠長なことで、間に合うとお思いかしら?」
「……それならばソフィア様。他に良い手がおありなのでしょうか? 私たちのような普通の民草が無理矢理、御領主様の屋敷に入って無事で済むわけありません」
ジーナの反論に、ソフィアは不機嫌な顔で腕を組んだ。
「貴女には、何かしら方法があるのではなくて?」
「何をおっしゃっているか、わかりません。私にできるのは、知り合いに頼んで情報を得ることくらいです」
「そこまで言うのででしたら、貴女のお友達からは、何か情報が入ったのかしら?」
「はい。暗殺者と思われる者の隠れ家を見つけたみたいです。その中に、腕利きの者がいるとのことです。あと、暗殺の手段は毒殺だと」
ジーナがもたらした情報に、ソフィアはわずかに目を見広げた。
しかしすぐに表情を戻すと、今度は意味ありげな笑みを浮かべた。
「さすがは貴女のお友達、といったところかしら。たった一日で、そんなことまで調べるなんて」
「それは……どうも、ありがとうございます」
「ひとまず、隠れ家については私に任せていただきますわ。あなた方は、予定通りにお願い致します」
先ほどに比べ機嫌が良くなると、ソフィアはカウンターにいる大男に食事を注文し、ジーナの隣に座った。
とはいえ、何か会話を交わすでもなく、ジーナは黙々と食事をしているし、ソフィアは手入れをしたばかりなのか、手の爪を一つ一つ眺めていた。
別に気にする必要はないのだが、ジルドは何となくいたたまれなくなり、明日の行動についてソフィアに伺いを立てることにした。
「ところで、今後の予定なんですけど。明日は先ほどお話ししたとおり、商店の納品に行って、御領主様に例の件を伝えるってことでいいでしょうか?」
「よしなに取り計らって下さいまし。フォローについては、こちらでも考えますわ」
「貴女がフォローを?」
食べる手を止めて、ジーナが少し驚いた顔をソフィアに向けた。
「何をするつもりですか?」
「あなた方に、説明する必要があるのかしら。でもそうね……すべてが終わったら、お話してさしあげてもよろしくてよ」
優位な立場が見せる、尊大さを含んだ笑みを浮かべるソフィアに、ジーナは口を閉ざしたまま目を細めた。本人は睨み付けているのだろうが、顔の造りがそうさせているのか、ジルドには目を凝らしているように見えた。
ジーナからそれ以上の反応が引き出せないと察したソフィアが、笑みを消した。
「一つだけ、お伝えしておきます。私は今晩、外出致します。もしかしたら戻らないかもしれませんが、あなた方は先ほどの予定通りに行動して下さいな」
「あの、どちらへ行かれるのですか?」
ジルドの問いに、ソフィアは口元に微かな笑みを浮かべた。
「それは明日、あなた方が真面目にお仕事をしていれば、自然とわかりましてよ」
ソフィアの言葉の意味を考えたが、ジルドにはさっぱりわからなかった。一度は意味を訊ねようとしたものの、彼女に答える意思がない以上は無意味だと考えを改めた。
気を取り直して明日の行動を考え始めたジルドだったが、ソフィアの言葉が棘のように気になり、結局寝る直前まで堂々巡りを繰り返すだけだった。
*
伯爵の位を持つアニーオ・ロレンツォは執務室に呼び出した使用人から、客人の一人が未だ到着していないことを聞かされ、焦れるように執務机を指先で叩いていた。
年は五〇代。肩まであるダークブラウンの髪と同じ色の眼に湛える眼光は未だ鋭く、戦場を駆けていた若かりし頃の血気盛んさを残していた。
整えられた口ひげを一度撫でたアニーオが、視線を背後へと向けた。
日はとっくに落ち、国内でも貴重なガラスが填め込まれた窓からは、暗がりにうっすらと物見の塔の影が見えるだけだ。
溜息と共に向き直ると、執務机の上で無造作に置かれていた報告書の束には目もくれず、アニーオは執務机の脇に置いてあったランプに、火を点した。
来ない待ち人を待っているだけでは、何も終わらない。彼には日々の執務があり、今は明日の祝宴の準備も進めている。苛々は募るばかりだが、投げ出すことができない性分が故に、すべて自分の目で管理していた。
ランプを手に執務室を出たアニーオは、階段を降りて一階の広間へと入った。
清潔なクロスがかけられたテーブルが並び、燭台や花が飾られている。
食器を並べている使用人たちをアニーオが見回していると、その中の一人が彼に駆け寄った。納品に来たジルドたちの相手をしていた、あの使用人だ。
「これはアニーオ様。明日の準備は滞りなく進んでおります」
「そうか。今日、商人たちから仕入れた食材は足りたか?」
「はい。ビジーレ・カンバニアの赤ワインが少々足りておりませんが、明日の昼前までには届くよう、手配をしております」
「ほお! この時期、中々に手に入らぬものだが」
口元に笑みを綻ばせながら、アニーオは顎髭を手で撫でた。ビジーレ・カンバニア酒造所産のワインは、彼が好んで呑むワインだ。話しを聞いただけで明日が待ちきれぬとばかりに、頬が緩んだ。
これで少し機嫌が良くなったのか、アニーオは使用人を引き連れて広間を出た。ランプを手に廊下を進んだ二人の元に、牛の乳を使ったスープの匂いが漂ってきた。
屋敷の調理場は、屋敷の西北側にある。納品された食材を倉庫から運んでいる者たちの姿が、この時間でも見られた。
アニーオが開かれたままの調理場を覗くと、そこは戦場だった。
普段は三人の料理人しか入らないその場所で、一〇名を越える使用人たちが働いていた。
主に皮むきや鍋をかき混ぜる程度の作業だが、二人ほど料理をしている者がいた。
料理人を含めた十人弱が、アニーオの姿に気づくと一斉に頭を下げた。
「よい。気にせず作業を続けよ」
アニーオが告げると、調理場にいる者たちは料理を再開した。今晩の食事らしい肉を焼いている料理人の他は、明日の準備に取りかかっているようだ。
料理をしている使用人の中で、パン生地を練っている男が、アニーオを何度も見返していた。
「ふむ……私がいては気になって仕事にならぬか」
「いえ、そのようなことはないと存じておりますが。おい、おまえ」
使用人が男の元へ駆け寄ると、二言三言何かを告げた。男が頭を下げながら何かを答えると、使用人は呆れた顔をしてアニーオの元へ戻った。
「申し訳ありません。滅多にない状況で、緊張していたようです。アニーオ様の前でへまをしでかしたら、辞めさせられるのではと」
「そんなことまではせぬと、伝えてやれ。それと、気張るのは良いが、皆に休憩時間は与えよ。疲れで失敗や事故を起こされては困る」
「はい。伝えましょう」
使用人が一礼すると、アニーオは調理場をあとにした。
自室に戻る途中、少女を連れた別の使用人が駆け寄ってきた。
「アニーオ様、お客様がお着きですが、どちらへお通し致しましょう」
「客……ああ、執務室へ――いや、ここまででいい。私が連れて行こう」
「畏まりました」
使用人が下がると、アニーオは到着の遅れに焦れていたはずの相手へ渋面を向けた。
「遅れて来ただけではなく、なんという格好だ」
「開口一番がそれですの? お久しぶりですわ、叔父様。今回はお招きに預かり、ありがとうございます」
「……ああ。兄上は息災か?」
「ええ。若手の騎士たちを毎日しごいている程度には、元気ですわ」
「兄上も相変わらずで何よりだ。だが娘の教育もそれくらい熱心ならな。よくもまあ、そんな格好を許しているのか」
アニーオは、渋面で目の前にいる少女の全身を見回す。足首までも無いスカートにはスリットがあり、その下からゆったりとしたズボンを履いた脚が見えている。腰には細身の剣を下げ、生地は上質のものを使っているが、上着も簡素なものだ。
溜息を吐くアニーオに、少女は得意げに微笑んだ。
「王都では流行っておりましてよ。といっても、貴族や大商人の娘たちにですけれど」
「ああ……最近流行っているという、戯曲が元なのだろう。まったく、兄上はさぞ嘆いていることであろう」
「いいえ? 寧ろ、剣の鍛錬相手になって戴いておりましたわ」
微笑む少女の顔を見て、アニーオは兄が重度の親ばかであることを思いだし、堪えきれずに、こめかみを押さえた。
「明日の祝宴、その格好で出るつもりではあるまいな」
「まさか。明日の朝になってしまいますが、仕立屋からドレスが届きます」
「それを聞いて、少し安心した。祝宴には、この街の役職も多く出席する。ロレンツォ家として恥ずかしくない言動を頼む」
「……ええ。時に叔父様。一つだけ助言を申し上げて戴きます。明日、ワインを納品に来た者たちの言うことは、素直にお聞きになったほうがよろしいですわ」
意味ありげな少女の言葉に、アニーオは怪訝な顔をした。何を言わんとしているのか、これだけでは理解できない。だが戦場を駆けていた時代に培った勘が、これは自分の命に関わると告げた。
「……詳しい話しは、部屋で聞こう。いいな?」
「はい、叔父様」
アニーオは、少女を連れて執務室へと向かった。
今は使われていないはずの部屋から、立ち去る二人を覗く人影があった。猛禽類を思わせる眼で、ダイダーノブは二人を見送ると、静かに扉を閉めた。




