プロローグ その3
3 そして再会
蛇行しながら、街道は西へ向かっていた。
ジルドがサドリエンド村を発って、六日目。田園や低木のある草原は、三日前から見なくなった。目の前に広がっているのは石畳の敷かれた古い街道と、乾燥に強い雑草がまばらに生えた荒れ野だけだ。
荒涼とした風景は、まるで生ける者が立ち入るのを拒んでいるかのようだ。所々岩肌が露出している荒れ野には、目立って動くものは見当たらない。小動物すら見当たらず、辛うじて時々、羽虫や蠅などの小さな虫を見るくらいだ。集落もなければ、旅人にすら遭遇しない。ジルドはこのとき、半径約七ソル(約一キロ)以内は、自分の他に誰もいないのではないか、という気分になっていた。
ジルドが今の状況を理解できたのは、つい三日前のことだ。
杖にしがみつくようにして歩いていたジルドは、ふと足を止めて空を仰いだ。
薄い雲が、まるで薄い布のように、青空を覆っていた。しかし日差しが弱まるほどではなく、冬季が近づいているにも関わらず、ジルドは額にうっすらと汗を浮かべていた。
無精髭を生やした顔で、乾ききった唇が微かに動いた。
「は……腹減った」
ここ二日ばかり、何も口にしていなかった。持ってきた食料は、三日前の晩に無くなった。最後に口にしたのは、干し肉一片だけだ。
隊商と分かれた村で、ジルドは食料を仕入れるのを忘れた。
持ってきた食料の少なさに気づいたのが、四日前のことである。それから食事を切り詰めてみたが、不慣れな一人旅で、加減もわからない。寧ろ、残り一日分に満たない食料を二日持たせただけ、成果としては充分だ。
街道沿いなら、二日も歩けば村や集落があると思っていたのだが、それが甘かった。六日も歩いているのに、集落どころか旅人一人見かけない。
荒れ地に生えた雑草は、どれも食用には適さないものばかりだ。特に一番多く自生しているのは、煙に害虫や鼠などの小型の害獣を退治する効果のある、紫の花を付ける雑草だ。
少量でも食べれば、嘔吐と下痢で数日は苦しむことになる。
(この国は小国だって言うけど、歩くとかなり、広いよね……)
ジルドは数年振りに味わっている飢えに耐えながら、街道を歩き続けた。
ジルドが住むトリステナ王国は、シンリエムルという大陸の片隅にある、山脈と南に広がる海に囲まれた小国である。
山脈から流れる河が合流してできたフェルム大河沿いに造られた王都を中心に、七つの要塞を兼ねた城塞都市を中心とした都市国家だ。
産業は主に農業と畜産、鉄と銅を中心とした鉱山だが、どれも産出量は多くない。
豊かではないが、飢えるほどではない。大きな特徴が無いと思われがちだが、実は多くの傭兵たちが戦場へ向かうための中継地として利用している。
ジルドの住んでいるカニス村は、王都から徒歩で二日ばかりの距離である。国の中心に近いだけあって、徒歩で半日から一日の距離に、他の集落や村が点在していた。
それに野兎などの小動物や鹿などが生息する林もあり、その気になれば半日で家族が一日賄えるだけの食材が採れた。ジルドや村人たちは時折、バーラで野兎や迷い込んだ山羊を狩っては、村で肉や毛皮を分け合ったものだ。
そんな恵まれた環境に慣れてしまったがために、ジルドは手持ちの食料の把握がおろそかになっていた。
もう歩きたくない。休みたい――ジルドの頭の中は、そのことで一杯だった。しかし食料がない今、座っていても腹が減るだけだ。ならばできるだけ歩いて、村か集落にたどり着くのを期待したほうがいい。
唯一の救いは、狼などの肉食の獣や、野盗の類いに出くわしていないことだ。体力に余裕があるときでも自らの身を護れそうもないのに、今襲われたら一溜まりもない。
体を預けている杖が、とてつもなく重く感じていた。ジルドは何度も捨てようかと思ったが、なぜかできなかった。
(こんなの、余計な体力を使うだけなのに)
染み付いた貧乏性は、極限状態でもなかなか抜けない。杖で体を支えるのは楽だが、一歩一歩で余計な体力を使っている。杖を握る手の握力もずいぶんと無くなってきた。
昨日から頭の芯が痺れたように、思考が定まらなくなっていた。ほとんど何も考えられないまま歩いていると、街道の脇に焚き火の痕跡を見つけた。
最近のものかどうかは、見た目でははわからなかった。ただ、この街道は自分以外の誰かも通るのだと、ジルドは改めて思い出した。
久しぶりに人間の存在を感じたジルドは、どこか緊張の糸が緩んだのか、足から力が抜けていった。
(だ、駄目だ……す、少し休もう)
焚き火の跡の近くに座り込むと、背嚢から火口箱を取り出した。
燃え残った薪は乾いており、近くの枯れ草を加えればすぐに火が点きそうだ。さらに幸運なことに、革でできた水袋が捨てられていた。
飲み終えたものらしいが、栓を抜いて口を下にすると、僅かだが水滴が垂れてきた。
(ビールだ!)
すっかり気が抜けていたが、ビールの水滴を舐めるようにして飲み干すと、ジルドは周囲を見回した。新鮮な食料を期待した訳ではないが、パンの切れ端か食べ残しでもあればと思ったが、さすがに見当たらなかった。
周囲の雑草から比較的安全そうなものを抜くと、ジルドは薪に火を点した。
こんな天気の良い日に焚き火をしても熱いだけだが、煙が虫除けになってくれる。煙を避けながら、ジルドは抜いたばかりの雑草をまだ小さい炎にかざした。
こんなものでも、何も口にしないよりはマシだろう。
少し萎れたところで、一口だけ雑草を噛み千切った。
「……不味い」
口にした分だけ飲み込んで残りを捨てたジルドは、そのまま寝転んだ。
地面はごつごつとしていたが、それでも寝転がるとずいぶんと体が楽になった。
(なんか……すごく眠い)
両足は痺れを通り越して痛む上に、空腹が酷い。普通なら眠るどころではないが、溜まっていた疲労感が、徐々に全身を蝕んでいった。
瞼をゆっくりと閉じたジルドは、そのまま意識を失った。
*
激しい揺れで、ジルドは目を覚ました。
地震がまず起こらないトリステナで暮らすジルドは、まず最初に隊商たちの馬車で寝泊まりをしていたときを思い出していた。
霞がかかった思考のまま、ジルドは焦った。
(しまった……移動中に寝ちゃったのか)
お世話になっているのに、図々しい奴だと思われたかもと、ジルドは慌てて起きようとしたが、体が鉛になったかのように重く、指先すらピクリとも動かせなかった。
とにかく瞼を開けようと努力するのだが、その体力がない。
どうして全身が疲労しているか、ジルドはすぐに思い出せなかった。麦刈りをした翌日でさえ、ここまで疲れない。
(あ、これ疲れじゃ……ないや)
数年前の凶作だったときに、似たような状態になったことがある。あのとき、村の薬師は『衰弱』という言葉を使っていた気がする。
徐々に体の感覚が戻ってくると、まず口の中に甘い味覚が残っているのに気づいた。
自分の置かれた状況の変化に気づいたジルドは、数十秒ほどかけて、重い瞼をうっすらと開けた。
先ず見えたのは、薄く太陽の日を透かしている幌だ。次に、毛布を掛けられて荷馬車の上に寝かされている自分自信を認識したとき、よこから野太い声がした。
「お嬢さん、目が覚めたようですよ」
聞き覚えの無い声に瞼を開けたジルドは、見覚えのある少女が自分の顔を覗き込んでいるのが目に入った。ジーナは少しだけ微笑みながら、ジルドの額に置かれていた濡れた布を取り除いた。
「大丈夫?」
「あ……れ? ここ、は……どこで、すか?」
たったこれだけ喋るだけで全身が疲れて力が抜け、喉が酷く痛んだ。
ひび割れた唇を濡らそうとしたが、舌も乾ききっていた。一息吐くように息を吐くのを待っていたかのように、ジーナが水で濡らした布を軽く絞ってジルドの額にのせた。
「ギイナスの街へ向かう隊商の荷馬車です。貴方、街道の端で倒れてたんですよ。覚えていませんか?」
――倒れてた?
まだ霞がかかったように芯が重い頭の中から、ジルドは記憶を探った。
空腹で行き倒れそうだったのは確かだ。しかし最後の記憶は、焚き火の跡で横になったところだ。そのまま眠ってしまったために、行き倒れと勘違いされたようだ――ジルドは経緯を説明をしようとしたが、その前にジーナが口を開いた。
「二日間も意識が戻らなかったのよ? 隊商の方々から蜂蜜を分けて戴いて、少しずつ口に含ませていたけれど、効果はあったみたい」
「蜂蜜を……?」
口の中に残っていた甘い感触の正体に、ジルドは僅かに目を広げた。
蜂蜜は高価な贅沢品というわけではないが、カニス村では年に二、三度しか口にできない。それも不純物が多い代物だけだ。
医学には疎いジルドだが、もしあのまま寝ていたら、衰弱死していたことくらいは想像ができた。もしこの隊商が通りかからず、あのまま放置されていたらと思うと、背筋に冷たいものが走った。
「お嬢さん方、少しいいかね?」
バレットという円形の帽子を被った商人の一人が、御者台から荷台へ顔を向けた。
「我々は予定通りにギイナスの街へ向かうが、それで構わないのかな?」
「……えっと、どうしますか?」
ギイナスの街へ行かないと話をしたことを覚えていたのか、ジーナがジルドに問いかけた。予定が変わることに抵抗を感じたジルドだったが、この状態で隊商と別れたら、自力で次の村まで辿り着くことは不可能だ。
「……それで、お願い、します」
「わかった。それじゃあ、街までご一緒して貰おう。色々話をせにゃならんのだが、今はゆっくり休んでくれ」
「……はい」
改めて目を閉じたジルドは商人の言葉に従い、体を休めることにした。眠いわけではないが、目を閉じているだけで少し楽になる。
ジルドは商人が馬を停め、野営の準備をし始めるまでそのまま横になっていた。
次にジルドが目が覚めたのは、夕暮れどきだった。暗くなった荷馬車の中で、ジルドは幌の隙間から商人や護衛の傭兵たちが野営の準備をしている光景を眺めていた。金具で焚き火の上に吊した鍋で、商人が何かを煮込み始めると、ジルドのところにも食欲をそそる匂いが漂ってきた。
忘れようとしていた空腹感を思い出し、ジルドは溜息をついた。
食器の音と笑い声が横になっているジルドまで聞こえる中、ランタンと木の器を手にしたジーナが、荷馬車の中を覗き込んだ。
「起きてますか?」
「……はい」
掠れた声のまま、ジルドは返事をした。荷馬車の中に入ったジーナは、横たわるジルドの横に座ると、控えめに木の器を差し出した。
「お食事を持って来ましたけれど、食べますか?」
「――はい。ありがとうございます」
ジルドは体を起こそうとしたが、力が入らない。ジーナの助けを借りて何とか上半身を起こすと、スープで満たされた器を受け取った。
「ありがとう」
微笑みながら頷くジーナに微笑み返すと、ジルドは木製のスプーンで掬ったスープを口に運ぶ。ほどよく温められたスープは、肉汁の旨味が染みこんでいて旨かった。具は少しだが、急いで食べる体力が無い分、ゆっくりと味わうことができた。
ジルドが時間をかけてスープを食べ終えると、ジーナは器を渡すよう手を差し出した。
「お代わりはいりますか?」
「あ、いえ……急に色々胃に入れると、腹が痛くなりそうで。とりあえずはこれで、大丈夫です。ありがとうございました」
ジルドが微笑みながら答えると、ジーナは「それじゃあ、食器を返してきますね」と告げて荷馬車から降りていった。
商人に食器を返したジーナは、弧を描くように停められた五台の荷馬車から、少し離れた。周囲を見回して誰も居ないことを確認しると、盛大な溜息をついた。
街や村への移動に隊商を利用するのは、常套手段ではある。しかし昼夜問わず、猫を被り続けなくてはならないのが苦痛だった。
だから他人の目がないところでする息抜きは、大事な時間だった。
商人や時にはその家族と会話、もしくは子供の世話をしなくてはならない。ギイナスの街に着くまでの間は、それら余計な気苦労を覚悟していた。
だが幸運なことに、隊商と出発してから三日目で行き倒れのジルドを見つけた。
間抜けな彼の世話をしていれば、それだけ商人たちと接する機会が減る。疲弊したジルドの会話は、言葉が少なくて済むため気が楽だった。
(それにしても……)
たった六日で行き倒れとは、情けないほどにも程がある。山賊や狼に襲われたのなら理解できるが、ジルドの場合は荷物と様態から察するに、空腹と疲労――文字通りの行き倒れだ。旅慣れていない、というにはあまりにもお粗末だ。
この分だと、ギイナスの街を出たら七日も経たずにあの世行きだ――と、ジーナはジルドの運命を予測したが、特に助言などをするつもりも無い。
盗人である以上、ジーナは他人と深く関わるのを避ける習慣になっていた。
大鼠から助けてもらった恩は感じているが、それはこの道程で世話をすることでチャラだろう。
ジルドのおかげで煩わしい商人たちを遠ざけられ、先の村では襲われかかった大鼠から逃れることができた。
(今回の旅はついてるかも)
思う存分に気分転換をすると、ジーナは居なくなったことにすら気づいていないであろう、商人たちの元へ戻ることにした。
旅はまだ始まったばかり。ジルドはもとより、ジーナも自分の行為が及ぼす未来を、未だ予見出来ないでいた。




