プロローグ その2
2 出会いと別れ
カニス村を発ってから二日後の昼過ぎに、隊商はサドリエンド村に到着した。
村の規模はカニス村よりも小さく、ジルドの目にも寂れて見えた。とても商売ができる場所ではないと思ったジルドの問いに、荷馬車に乗っていた痩身の男、ダイターノブは無表情に答えた。
「商売だけが目的ではない。宿に泊まって英気を養うのも、村々に立ち寄る目的だ」
「その気持ちは、なんとなくわかります」
ジルドも野宿には慣れていたが、気の良い者が多い隊商との野宿は、宴のような楽しさがあった。
それでも野宿を続けていると、ベッドで寝たいという願望が募る。
荷台で馬車に揺られ、地面の上で寝る生活をたった二日過ごしただけで、ジルドは腰や尻だけでなく、関節にも鈍い痛みを訴え始めていた。
体の不調を表情に出さないよう努めながら、ジルドは隊商の面々へと頭を下げた。
「皆さん、短い間でしたが、お世話になりました」
「いや、こっちこそ。色々手伝ってくれて、助かったよ」
「一人旅は大変だろうが、気をつけてな」
「盗人や追い剥ぎには気をつけてね」
商人たちの言葉に一つ一つ頷き、礼を述べたジルドは、名残惜しそうに踵を返した。
サドリエンド村を横断している道は、西からほぼ真っ直ぐに東に向かっていた。道の両側には木造の平屋の家々が、まばらに存在していた。
村の南側から西側にかけて、畑が広がっている。ほとんど麦畑であるカニス村と異なり、ここでは野菜を多く栽培しているのか、畑の三割ほどはまだ緑が残っていた。
周囲を見回したが、カニス村で主に信仰されている大地神の神殿や一目で宿と解る建物は見当たらなかった。
(仕方ない。少し見て回ってみるかな)
ジルドは荷物を背負い直すと、辺りを見回しながら、のんびりと歩き始めた。
*
村の出入り口に停まっている隊商の荷馬車の背後で、一人の少女が伏し目がちだった顔を上げた。この地域の町娘のような、カートルと呼ばれる足下まである紺色の筒型衣服に、旅着として用いられる濃緑色の長袖の上着を羽織っていた。
緩いウェーブのかかった薄い銀髪に、まだ幼さの残る青い瞳。可憐だがどこか儚げな雰囲気を帯びていた。
少女――ジーナは村の出入り口を塞いだまま、動く気配の無い荷馬車から少し距離をとって立ち止まると、表情にほんの僅か表れる程度に顔を顰めた。
(邪魔くせぇ。さっさと退けよ、このうすのろ)
容姿に似つかわしくない粗暴な悪態を心の中で吐くと、ジーナは気を落ち着かせるように、ゆっくりとした呼吸を始めた。苛つきを鎮めながら、荷馬車の周囲を観察する。
誰かに挨拶でもしているのか、商人たちのほとんどが、荷馬車から降りている。ゆっくり、足音を立てないよう近づいてみると、三台ある荷馬車のうち、一つの幌が開いていることに気づいた。何気ない素振りを装いつつ、しかし人の気配がないことを探りながら、開いている幌に近づいた。
中は木箱ばかりで、扱っている商材の見当はつかなかった。しかし、一つだけ、口の開いた背嚢が置かれていた。念のためもう一度周囲を見回してから、ジーナは背嚢を引き寄せた。
(衣類に水筒、革紐か。まったく、どこも時化てんな……あっと)
奥の方に小さな革袋を見つけると、最小限の音しか立てずに素早く抜き取った。金具の音どころか、衣擦れすらほとんどない。
常人であれば不可能と思える作業も、幼少から盗みを生業にしているジーナにとっては造作も無いことだ。
硬貨らしい感触と重みに、ジーナの顔に笑みが浮かんだ。
素早く荷馬車から離れたジーナは、村の外周を囲う柵沿いに走った。誰もいないことを何度も確かめてから、革袋を自分の荷物の中へ入れた。中身を検めるのは、落ち着いてからでいい。まずはこの場から離れ、人気の無い場所に潜むことが最重要だった。
しばらく様子を覗って、騒ぎが起きていないか耳を澄ませながら、ジーナは周囲を見回し、誰もいないのを何度も確かめてから一息に柵を跳び越えた。
改めて平静を装ったジーナは、荷馬車から離れるように村の中心へと向かった。
ふと視線を移せば、商人たちが馬車から離れていく姿が見えた。
御者だけが、荷馬車に残っている。
(荷物番がいない……?)
商人たちの動きに若干の違和感と、強い欲心が沸き起こったが、盗人商売で深追いは禁物だ。
再び歩き出したジーナは、態ともじもじとした仕草をしつつ、首を左右に巡らせた。
ジーナがこの村に来たのは、二度目だ。村の地理、特に身を潜める物陰と宿屋の位置は把握していた。
しかし、周囲にはこの村に始めて来たと思わせたほうが、何かと都合が良い。以前と変わったところがないか確認するついでに、ジーナは物珍しげな素振りで辺りをきょろきょろと見回した。
少しするとジーナの期待通り、頭髪の薄い小太りの男が声をかけてきた。
「娘さん、どうしなさった」
「宿屋がどこにあるかわからなくて……どこにあるか教えて下さいます?」
「ああ、それならこの先を真っ直ぐ行ったところに、《眠る子豚亭》があるよ。食事も注文できるから、ゆっくりしていきなよ」
「ありがとうございます。あと、あの馬車たちはギイナスの街へ向かうのでしょうか?」
「あの荷馬車……ああ、旅の商人らしいけど、この村に来たのは初めてだし、良く知らないなぁ。けど夕方には出るようだし、今日泊まるのなら、相乗りを頼むのは無理じゃないかな」
「……そう、ですか」
村人が知らないということは、この辺りで商売していない者たちだ。この国にいる隊商は、同じ街や村を順番に回っていくのが普通だ。その中で商人が合流したり、故郷の街や村へ戻ったりしている。
先ほどの隊商が危険だと決まったわけでは無い。しかし、不確定要素が大きいものを利用するという考えは、ジーナには無かった。
「前に来たのが昨日だったから……次の隊商は、早くて三日後になると思うよ」
「わかりました。色々教えて戴いて、ありがとうございました、小父様」
とびっきりの笑顔を浮かべて、ジーナは男と別れた。
宿へと向かうジーナは、以前には大木があった場所が伐採され、大きな窪みのみが残されているのを見た。新しい家でも建てるのか、近くには木材が積まれていた。
窪みと道を挟んだ反対側に、目的の宿がある。
さっさと入ってしまおうと体の向きを変えたとき、ジーナは黒い影に気づいた。
小型犬ほどもある、黒い体毛に全身を覆われた大鼠だ。この辺りではチーと呼ばれているが、本来は荒野で生息している気性の荒い種であり、人里に現れることは稀だ。
四肢を広げて身構えた大鼠を眼前に捕らえたジーナは、青ざめた顔に汗が浮かび始めていた。
ジーナは幼少のころ、太ももを鼠に噛まれたことがある。その所為で高熱を出し、生死を彷徨って以来、鼠が苦手になっていた。
思考が麻痺したまま、ジーナは本能的に後ずさる。踵が窪みの縁を越えたときジーナはバランスを崩し、受け身すらできずに尻餅をついた。
起き上がることすらできないジーナに、チーが飛びかかった。
(いや――)
目を閉じたジーナの耳に、何かに当たった石の音と、チーの苦悶に満ちた鳴き声が聞こえた。少し遅れて、水気を含んだ軽いものが倒れる音がした。
(……なに?)
ジーナが恐る恐る目を開けると、頭部から血を流しているチーが横たわっていた。よく見れば、すぐ近くに血の付いた、握り拳より一回り小さな石が落ちていた。
呆然とチーの死骸を眺めていると、横から声をかけられた。
「あの、大丈夫ですか?」
柔らかな声に、ジーナは未だ恐怖に引きつった瞳を声の主に向けた。ぼさぼさのブラウンの髪に、人の良さそうな柔和な顔つきをした青年が、心配そうな顔つきで立っていた。
同い年くらいの青年だが、足腰が弱そうでもないのに、左手には杖が握られていた。
視線をジーナの前方へと向けた青年――ジルドは、「うおっ!?」と、驚いた声をあげた。
チーを見たことがないのか、大鼠に目を丸くしていた。
「犬かと思ったけど、これ、鼠なのか……ええっと、立てますか?」
差し出された手を掴んで立ち上がると、ジーナは先ず気を落ち着かせた。ジルドから手を離すと、ぎこちなく頭を下げた。
「ありがとうございました」
礼を述べてから、ジーナは改めてジルドの姿を見回した。格好からして旅人らしいが、真新しい背嚢や旅着が、彼があまり旅慣れていないことを主張していた。右手には何に使うかはわからないが、中央に向けて幅が広くなる革のベルトを持っていた。
人は良さそうで、とても投石だけでチーを殺せるようには見えない。だが、彼の投石は打ち所によっては、一撃で人を殺せるだけの威力があるのは間違いなかった。
少なくとも、素人の技ではない。
彼は一体何者なのか――と勘ぐったジーナに、ジルドは安堵の表情を浮かべた。
「無事そうで良かった。あ、そうだ。この村の宿を教えてくれませんか? どこにあるのかわからなくて」
「え? 宿は――」
ジーナが道を挟んで反対側にある平屋の建物へ人差し指を向けた。すぐ近くに宿屋があることに気づいたジルドは、恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻いた。
「あ、ど、どうも……ありがとうございます。助かりました。この村は初めてで、何が何処にあるか全然わからなくて」
「ええ。わたしもこの村は初めてなんですよ」
「そうなんですか? あー、なんか旅慣れてないのがばればれで、格好悪いですよね」
「そんなことは、ないと思いますよ?」
少なくとも、見ず知らずの者を鼠から助けてくれる程度には。
間違いなく同じ宿に泊まることになるのだろうが、ジーナは今回のお礼に、彼の荷物は標的にしないことを決めた。
「どちらまで行かれるのですか?」
「ええっと、アルベリーニョ山脈の頂上まで。村の風習で、男は一八歳になる前にそこまで行かなきゃならなくて」
「それは――」
(ご苦労なこった)
表情から、ジルドが嫌々やっていることは明白だ。もうすぐ冬季が訪れるこの時期に山登りなど、同情を禁じ得ない。
「わたしは、ギイナスの街へ向かっています。アルベリーニョ山脈も西の方角ですから、途中まではご一緒ですね。三日後に、西へ向かう隊商が来るようですよ」
ジルドもこの村でゆっくりと体を休めるのだと思ったジーナの予想に反し、彼は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「僕は明日発ちますから。それにギイナスの街には、寄らないつもりなんですよね」
「あら? そうなんですか」
この村から歩いてアルベリーニョ山脈へ向かうとすれば、途中にある大きな街はギイナスの街だけだ。もしかしたらジーナの知らない小さな村や集落、狩人が使う小屋くらいはあるかもしれないが、少なくとも歩いて二、三日の距離には存在しない。
村の風習とはいえ、過酷な旅である。
(あたしは御免だけど)
恩人に少しだけ同情したジーナは、宿に向かうジルドのあとについていった。
ただ、この鼠騒ぎでジーナは先ほどの仕事の収穫のことなど、すっかり忘れ去ってしまった。




