2章 その3 闇夜の門出
まだ日が昇る前に、ジルドは目を覚ました。
ジルドに宛がわれた部屋は、来客用の個室のようで、棚の上には見るからに高価そうな壺や皿、鹿の頭部などが飾られ、灯りもテーブルの上の燭台だけでなく、壁に二つもランプが下げられている。
自宅や宿のものとは異なり、綿の上にいるかのような柔らかなベッドから起き上がったジルドは、横に置いてあった荷物を背負った。バーラを縛り付けた杖を掴むと、なるべく物音を立てないように、ゆっくりと扉を開けた。
廊下は暗く、暗闇に慣れた目でもぼんやりと影が見える程度だ。
寝る前まで控えていた使用人の姿がないのを確認してから、物音をたてないよう、ゆっくりと廊下に出た。そっと扉を閉じたジルドは、不意に肩を掴まれた。
「――っ!」
「静かに」
叫び声をあげかけたジルドは、ジーナの声に僅かだが冷静さを取り戻した。
振り返れば、ジルドと同様に旅の荷物を肩から下げたジーナが、目を瞬いていた。
「こんな時間に、どうかしたの?」
「いやその……もう山へ行こうと思って。領主様には、門の衛兵さんに伝言を頼んでおこうと思ってるんだけど。えーと、そういうジーナさんは?」
「……実は、私も。この街で保存食とか買いたかったんですけど、そんな時間はなさそうですね。隊商が出立するのは朝早くて、どこの店も開いてないですから」
「あ、しまった」
保存食を買っていないことを思い出して、ジルドは項垂れた。このまま街を出てもまた行き倒れるだけだし、隊商は目的地方向へ向かう商人がいるかわからない。
結局、ジルドは店が開くまで待つしかないのだ。そうなると、こんなに早く屋敷を抜け出す必要はない。しかし次に領主から説得されたとき、誘いを断り切れる自信はない。
どこかで時間を潰しがてら、ギイナス周辺の村や集落についての確認だけはしておこうと、ジルドは気分を切り替えた。
人里を経由しながらアルベリーニョ山脈を目指せば、比較的安全だろう。
「……とりあえず、ここから出ましょうか」
「そうね。そうしましょ」
窓から差し込む月明かりだけを頼りに、二人は廊下を進んだ。階段を降りる途中の踊り場でジーナは不意に立ち止まり、ジルドに少し待つように短く告げた。
一人で階段を半分ほど降りると、階下の様子を窺うようにしゃがみ込んだ。少しするとランタンを手に一階の巡回をしている衛兵の影が近づいてきた。
息を殺して衛兵をやり過ごしたジーナは、ランプの灯りが見えなくなってから、一階に降りて周囲を見回した。ジーナがジルドを呼んだのは、衛兵が通り過ぎてから、少なくとも三十秒は経ってからだった。
ジルドが追いつくと、ジーナは自分に着いてくるよう無言で手招きをした。ジーナを先頭に、二人は玄関で屋敷の裏口へと進み始めた。
(なんかジーナさんって、すごい、けど……)
隠れながらの移動に慣れているジーナに、さすがのジルドは違和感を覚え始めた。
それについて考えるよりも前に、二人は目的地である屋敷の裏口へと到着した。この辺りの窓は硝子ではなく、雨戸のみだ。
暗闇に目が慣れてきているとはいえ、ジルドには辛うじてジーナの後ろ姿が判別出来る程度だ。背後を振り返ってみるが、まだ見回りの衛兵は戻って来ていない。
「早く出ましょう。ここは閂だけみたいですし。出てしまったらもう、閂をかけれないけど……それは仕方ないと思って諦めましょ」
言いながら、両手で重そうに閂を持ち上げるジーナを、ジルドは手伝った。
僅かに扉を開けたジーナが、先ず外の様子を窺った。誰も居なかったのか無言のまま外に出たジーナに、ジルドも続いた。
月明かりがある分、暗闇に慣れた目だと辺りがよく見える。庭の周囲では松明を持った二十名ほどの衛兵が、二人一組で警備と巡回に当たっていた。
裏門の前にある小屋の前に、衛兵が一人だけいた。小屋に背中を預けながら立っている彼に事情を告げ、外に出して貰う。罪を犯している訳ではないから、丁寧に説明をすれば問題は無いだろう。
そう。何も、問題は無い。
アニーオに内緒で抜け出すという行為が、衛兵に咎められないかという不安を打ち消すように、何度も自分に言い聞かせながら、ジルドはジーナと共に裏門を目指す。
二人が小屋の横まで来たとき、いきなり扉が開いた。
「随分と遅かったですわね。もう待ちくたびれて、眠ってしまうところでしたわ」
祝宴のときに着ていたドレスではなく、旅着――なのだろうか、隊商と共に移動していたときの服を着たソフィアが、両手に腰を当てて立っていた。
ジルドだけでなく、ジーナすら目を丸くしていた。そんな二人へ微笑んでから、ソフィアは裏門へと向きを変えた。
「それでは、行きますわよ」
「はい?」
ジルドとジーナが、同時に首を傾げた。そんな様子に、ソフィアは呆れたように。
「あなた方、表情と声が揃っていましてよ。まったく、いつの間にやら良いコンビになりましたわね」
皮肉交じりのソフィアの言葉に、ジルドとジーナは顔を見合わせた。お互いに、そんな意識が無いため、何を言われたのか理解できなかった。
そんな二人に、ソフィアは眠そうな表情で溜息をついた。
「差し詰め、ジェオジェオ――いえ、リンリンコンビといったところかしらね」
ジェオは、ジルドとジーナの名前の頭文字で、二十七文字ある言語の七番目だ。ソフィアがコンビ名を変えたのは、ジェイよりも七の方が言いやすかったに過ぎない。
言語自体に疎いジルドはまったく意味がわからずにきょとんとしたが、一瞬ではあるがコンビなど馬鹿馬鹿しいと思った顔を浮かべたジーナが、ソフィアに表情を押し殺した顔を向けた。
「あの、それはそうと、先ほどおっしゃったことの意味を教えて戴けますか?」
「言葉通りですわ。ギイナスの領主、アニーオ・ロレンツォ伯爵があなた方へ与える褒美として、あなた方にこの街での居住を許されました。ですが、あなた方に素直に受け入れる気配はありません。現に、こうしてこっそり出て行こうとしておりますものね」
自分たちの行動を見抜かれていたと知り、ジルドとジーナは改めてこの貴族のご息女に目を見張った。驚くほど頭が回る上に、はた迷惑なほど活動的だ。
「叔父であるアニーオ伯爵からこの件を任されたわたくしは、あなた方を護りながら、この街での定住を説得することに致しました」
「待って下さい。それはアニーオ様の許可を得てのことですか? たった一人で?」
ジーナの問いに、ソフィアは満面の笑みで返した。
「ですから、この件はわたくしが託されましたのよ。わたくしの決定は、すなわちアニーオ伯爵の決定、というわけですわ」
完全に屁理屈だが、ソフィアは自信満々に宣言した。そして上半身を少し傾けて、小屋の壁に凭れた男を手で示した。
「それに、あなた方を護るのはわたくしと、彼です」
「ドメニコだ。傭兵をしている」
白髪混じりの髪をした男のただならぬ雰囲気に、ジルドは知らず緊張していた。
「カニス村のジルドです。ええっと……貴方が僕たちを? 護ってくれるんですか?」
「ああ。仕事だからな。金を貰った分は、護ってやる」
にべも無い返答に、友好的な気分が吹き飛んだジルドは、お礼の言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ、行くぞ。夜のうちに街を出た方がいい。まさか奴等も、日が昇る前に移動をするとは思ってないだろう。二人とも、そこの馬を使っていいぞ」
ドメニコが首をしゃくった方角には、荷物を載せた騎馬が二頭、縄で小屋の外につながれていた。
「馬は二頭しかねぇからな。二人乗りになる。俺とそこの坊主、ソフィアお嬢さんは、そっちのねーちゃんを乗せてやって下せぇ」
てきぱきと指示を出しながら、立てかけてあった鞘に収められた長剣を腰に下げるドメニコに、ジーナが不満げな顔をした。
「待って。なんで私が一緒に? 暗殺も防いだことですし、これで解放されるはずでは」
「そうね。その通りですわ。ですが、勘違いなさらないで戴きたいのですけれど、これは貴女の身を護るための措置でしてよ。それとも何人いるかも判らない暗殺者達を、貴女一人でお相手するつもりなのかしら?」
「……それは」
返す言葉を失ったジーナ、不服そうにしながらもソフィアに従った。ジルドも手を借りながらドメニコの後ろに乗ると、彼らは裏門から表に出た。
「やあ。待ってたよ」
門の外に出たところで、手下を伴ったイルマが一行を待ち構えていた。イルマはソフィアの後ろに乗ったジーナに、にやけながら声をかけた。
「死神の門出を見送りに来たよ」
「死神? 物騒な言い方ですわね」
ジーナよりも早く、ソフィアが警戒心を露わにイルマを睨め付けた。
「なに、本当のことさ。今日も目の前で二人死んだんだって? そこの女は盗賊仲間の間じゃ、死神の二つ名で通っているのさ。一緒に仕事をした者が、何人も死んでいる。あんたたちも気をつけなよ」
イルマの発言に、ジーナ本人がぎょっとし、ジルドは素直に驚いた。屋敷から抜け出す際の動きから、ただの町娘ではないと考えていたが、まさか盗人の仲間とまでは思ってなかったのだ。
「イルマ――てめぇ」
「そうそう! 猫なんざ被ってるより、そっちの方があんたらしい。それに、そんなことに気を使ってる場合じゃないんだろ? 街から二十人ほど逃げ出したが、あいつらはきっと、あんたたちを狙ってくるはずさ。生き残ることに執着しねぇと、今度は周りだけじゃなく、あんたも死ぬことになる」
腕を組んで真顔となったイルマに、ドメニコを除いた三人から表情が消えた。
そんなジルドたちに向け、つまらなさそうにイルマは告げた。
「蛇の道は蛇ってね。あたしの仲間が、あいつらの一人が、そこの兄ちゃんとジーナのことを喋ってたのを聞いたのさ。顔を知ってるあんたたちを、放ってはおけないってことらしい。精々周囲に気を配るんだね。道の安全なんか祈ってやらねぇが、あたしがあんたを殺すまで、死ぬんじゃねぇよ」
励ましているのか、脅しているのか、第三者からすればどちらとも取れないことを言い終えると、イルマは仲間と共に去って行った。
今まで隠していた正体が明るみとなり、立場が拙くなったと判断したのか、ジーナは馬から降りようとしたが、その前にソフィアが手綱を操り、ジルドとドメニコの乗る馬の真横に並んだ。
「それでは、行きますわよ」
「ちょっと――どういうつもり?」
盗人と判って、何も言わないソフィアに、ジーナは露骨に怪訝そうな顔をした。
「貴女が小悪党であることなんて、とっくに判っておりましてよ。ですが暗殺を止めた以上、わたくしが貴女を咎めることは致しませんわ。さて、行くと言ったはよろしいのですけれど、行き先はどうなさいます? ジルドは山脈へ向かう予定と伺っておりますが」
「は、はい――そうですが」
ソフィアに答えたジルドを、ドメニコが肩越しに見た。
「ふぅん? おい坊主、そこへの地図は持ってるか?」
ジルドがドメニコに村から持って来た地図を渡した。しばらく地図を眺めていたドメニコが、顔をあげた。
「山脈の麓に、俺が知っている村がある。登山道からは外れているが、とりあえずは村を目指すことにしよう。奴等の目も欺けそうだ」
ドメニコが地図を手で叩いた。行き先の決まった一行は、二頭並んでギイナスの街を出て行った。




