プロローグ その1
プロローグ
1 日常の終わり
目の前の現実から目を逸らすように、ジルドは顔を上げた。
種籾の散播が始まる前の麦畑に、今は倉庫から出された麦稈が積まれている。
殺風景な景色だが、これも翌年の収穫を得るために必要なことだ。
この時期になると、農村では近くに住む酪農家たちと、牛糞と麦稈の物々交換を行っている。散播を行う前に土に牛糞を混ぜて作物を育てる土壌を造るのだ。
毎年訪れる代わり映えの無い光景を眺めていたジルドは、重々しい溜息をついた。
普段からみせている、どこか人を安心させる表情は曇り、この地方では一般的なブラウンの頭髪を掻き毟った。
彼の目の前にあるのは、牛糞の詰まった大きな袋だ。大人でも両手に二つ抱えるだけで、やっとの重さがある。それが、八袋。約二ソル(約三〇〇メートル)弱ほど離れた倉庫まで、手運びしなくてはならない。
(まだ半乾きなんだよなぁ。なんで毎年、あそこの村は乾燥させずに持ってくるかな)
ジルドは厭な臭いのする袋を右肩に二袋も担ぎ、左腕でもう一袋を抱え上げた。
「さすがジルドだな。よくもまあ、手伝いもなしにそんなに持てるもんだ」
酪農家との取引を終えた村長が、感心と呆れの混じった顔で、ジルドの肩の上にある袋を見上げた。
「それは……どうも」
何となく、褒められた気がしなかったジルドは、少し困った顔で村長に礼を述べると、倉庫へと歩き始めた。洗い物をしている女たちの横を通れば、すぐに倉庫だ。
倉庫の前まで来たジルドは、その横に建てられた、正面の壁がない小屋の中に袋を置いた。
今は空っぽだが、あと十日もすれば牛糞の詰まった袋で小屋は一杯になる。
小屋から出たジルドが背伸びをすると、牛糞の袋を抱えた男たちが、近づいてくるのが見えた。人数から察するに、もう交換した袋は残っていないようだ。
ジルドが畑へ向けて歩き始めたとき、背後から声をかけられた。
「発つのは明日だろう? 今日は早く休んだほうがいい。長旅になるぞ」
険しい顔をした父親に気が乗らない話題を振られ、ジルドは溜息を吐いた。
「……わかったよ、父さん」
ジルドは素直に頷くと、再び家に戻る道を歩き始めた。
麦畑から離れて村へ戻る道を歩いていると、人影を見ることがほとんどなくなった。大人を始め、ある程度の年齢になった子供までもが麦畑に出向いているため、村の中は、がらん、としている。背の低い柵に囲われた村に入ったジルドは、村に唯一ある酒場の前に二台の荷馬車が停まっているのを見た。
カニス村は王都に近いこともあり、行商人や隊商が月に数回は訪れる。荷馬車は見慣れているし珍しいものではないが、妙な違和感を感じて、ジルドは足を止めた。
荷馬車の姿形は周辺諸国でもよく見かける形状だが、よく見れば幌の張り方がやや角張っている。この形の荷馬車は、少なくともジルドは見たことがない。
しかし普通の隊商であればこの時間、取引に精を出しているはずだが、荷馬車にいるのは御者台にいる荷物番らしい男たちだけだ。
荷馬車の横を通り過ぎたジルドは、酒場から漏れている男たちの笑い声を聞いた。
山の上には、鬼が住む。
山を支配し財宝隠し、金の杯に銀の笛
宴の毎日、戦の毎日、攻め来る敵を追い払う。
杖で敵を払いのけ、石で頭を打ち砕く
どこからともなく現れて、将を討ち取り勝ちどきあげる。
山鬼たちに敵はなく、領主と王は怯える毎日。
ところが突然、山鬼たちは姿を消す。
王は喜び祝宴をあげたが、その夜、鬼が姿を現した。
我らは消える、しかし滅びぬ、夜な夜な様子を見に来るぞ
我らへの恐怖が、消えぬよう――。
吟遊詩人兼店主である中年男性の歌声が、酒場から聞こえてきた。
歌はこの地方に伝わる、山鬼の歌だ。山鬼というのは怪力の持ち主で、投げた石で一ソル先の敵兵を打ち倒す。幼子を寝かしけるための寝物語に出る怪物だが、余所ではともかく、カニス村では何故か人気の歌だ。
この時期に真っ昼間から酒場にいるということは、声の主は商人たちだろうが、まるで商売など、どうでもいいような雰囲気だ。
隊商の目的地は別の街で、カニス村には立ち寄っただけ、ということもよくある。
今回のはそれだと、気にするのを止めて再び歩き始めたジルドは道すがら、ローライナと呼ばれる低木から数枚の葉をむしり取り、腰から下げた布袋の中に入れた。
無人の我が家へと戻ったジルドは、そのまま自室に入った。
開けられた雨戸から、ブナの木が見える。壁には風よけの牛の毛皮が貼られ、ベッドは布のシーツではなく、山羊の革や麦藁で作られた、粗末なものだ。
ベッドの横に、大きめの背嚢が無造作に置かれていた。使い古された古い棚の上には水袋と二日分の保存食、ナイフなどの生活用具、そして少ない蓄えから捻出した、路銀の入った革袋が並べられていた。
旅立ちを翌日に控えているはずだが、ジルドはまだ準備を終えていなかった。
(まったく、こんな古くさい風習なんか、やめてくれないかな)
カニス村では古くから、男子は一八歳になる前に、国境沿いにあるアルベリーニョ山脈を登る習わしがあった。山頂の一つに先祖が残した碑があり、そこに短剣を納めてこなければならない。
往復の旅程にして、約一ヶ月。十年間で一、二名ほど未帰還者が出る。野盗や追い剥ぎに遭ったのか、山で遭難したのかのどちらかだろう。
喧嘩などの荒事が苦手なジルドが、この旅を厭がっている理由の一つだ。しかし、未帰還者が出てもこの風習を止めようとは、誰も言わない。
「こんな村で度胸試し染みたことやって、なんの意味があるっていうんだ」
カニス村は、その大半が農業を営んでいる。畜産や酒場、雑貨屋を営む者もいるが、そのどれもが戦争や戦いとは縁遠い生活を送っている。
度胸試しに意味があるのかと、ジルドが疑問に思っても当然の環境だった。
諦めたように荷物を背嚢に詰め始めたジルドは途中、先ほど摘んだローライナの葉を背嚢の中に入れた。こうしておくことで、荷物の中に虫が入り込むのをある程度防いでくれる。
ロープやナイフ、火口箱などをもう一つの袋に詰め、山羊の皮でできたマントなどの防寒具など、一通りの荷物を詰め終えた。
荷造りを終えて椅子に座ったジルドは、長旅の辛さを想像し、盛大な溜息を吐いた。
*
翌朝、旅の装いに身を包んだジルドは隊商の荷馬車の前で、家族を含めた十人程度の村人たちの見送りを受けていた。
習わしにより村長が短剣を差し出すと、ジルドは躊躇いながらも両手で受け取った。
「……気をつけてな。おまえは少し、ぼんやりとしているから心配だが……まあいい。しっかりと見てくるがよい。道中、気をつけてな」
「……わかりました」
微かに頷くと、村長はジルドの腕を数回叩いてから離れた。村長と入れ違いに、一本の杖を両手に携えた父親が前に出た。
「これを持って行け。長旅というには中途半端かもしれぬが、何かと役に立つだろう」
「うん。ありが――と?」
杖の上端にはカニス村でバーラと呼ばれている、革のバンドが取り付けられていた。
バーラは主に狼を追い払うために使われるもので、バンドに乗せた石を投擲するための道具だ。カニス村では昔から、バーラを使って狼を追い払っている。ジルドも子供の頃から慣れ親しみ、今では腕力を生かして村でも一、二を争うほどの使い手になっていた。
それよりもジルドを驚かせたのは、その重さだ。一見、普通の木で作られた杖だが、見た目とは裏腹にかなりの重量がある。
まさか、旅をしながら腕力を鍛えることになると思わなかった――ジルドは怪訝そうに父親を見るが、
「その杖は、ジルドのためのものだ。きっと役に立つ」
真剣な父親の表情を見ると、返すのが憚られた。
仕方なく杖を受け取ったまま、ジルドは見送りの人々にお辞儀をした。
「それでは皆さん、行ってきます」
ジルドは杖を持ったまま、隊商の荷馬車に乗り込んだ。幌の中は薄暗く、奥の方はよく見えなかった。木箱が幾つも積まれているために、人が座るスペースはほとんどない。
積み上げられた木箱に凭れながら座っている二人の男に、ジルドは頭を下げた。
「今回は途中まで送って頂けるとのことで。ありがとうございます」
「気にしないでくれ。ところで、君はどこまで行くんだい?」
「アルベリーニョ山脈……の山頂です」
「そりゃまた、ええっと、なんで君みたいな者が、山登りを?」
ニーメルドと名乗った、商人らしいフェルト帽を被った中年の男に促され、ジルドは彼の近くに座った。背負っていた荷物を抱えたとき、荷馬車がゆっくりと動きだした。
荷台が揺れる度に尻が痛んだが、それを我慢しながらジルドは先ほどの問いに答えた。
「昔からの風習で。うちの村では、男はみんな山頂に登らなきゃならないんですよ」
いかにも嫌々といったジルドの口ぶりに、男は笑みを浮かべた。
「そりゃ大変だ。がんばりなよ、兄ちゃん。ほれ、これをやるから元気を出しな」
「いいんですか? 食べ物とか貴重でしょうに」
「気にしないでくれ。その……なんだ、俺は故郷に息子を残していてな。君を代わりにするわけじゃないが……罪滅ぼしをしている気になるんだ」
「そうですか。それじゃあ、いただきます」
薄い四角形をした黒パンを受け取ったジルドは、端っこを指先で千切って、口に入れた。トウモロコシの粒が混ざったパンは、この地方では見ないものだ。
「こういうの、初めて食べましたよ。どこで作ってるんです?」
「あっと……少し遠くの国さ。なにせ、あちこちの国を渡り歩いてるからね。この国じゃ珍しい食べ物も仕入れてるんだよ」
各地を渡り歩いているということより、ジルドは珍しいパンの方に興味が沸いた。
「おいしいですね。故郷の食べ物だったりするんですか?」
「ええっと……」
ジルドへの返答に困ったのか、男が視線を宙に泳がせたとき、今まで無言だった痩身の男が顔を上げた。やや陰ってはいるが、精悍な顔立ちがジルドと男を睨めた。
「喋りすぎだ」
「申し……いや、すいません。つい……」
痩身の男にお喋りを窘められた中年の男は、荷台の奥の方へ移動した。
何となく漂う気まずい雰囲気に、ジルドが居心地を悪そうにしていると、痩身の男が厚手の布を投げて寄越した。
「下に敷くといい。幾らかは楽になる」
「あ……ありがとうございます」
厳しいのだろうが、悪い人ではないのかもしれない。受け取った布を敷いた上に座り直したジルドは、ほんの僅かだが緊張が解れるのを感じていた。
新人賞落選作品ですが、寸評とか頂けると幸いです。
m(_ _)m宜しくお願いします。




