あと8日
――呪いの日まで、後八日――
ルクロは古い民家の前に佇んでいた。
村を自由に歩けるレヴィアと違って、ルクロは村内での動きが極端に制限される。そのために今日は別行動ということで被害者の一人でもある、母、ローザのことを調べるために十年ぶり我が家へ帰ってきたのだ。
かつての自宅は草木に覆われ、変わり果てた姿となっていた。あの日以来、嫌でも当時を思い出してしまうこの場所に来るのは極力避けていたからだ。
久しぶりに扉を開くと蝶番の錆が擦れる音が鳴る。今まで閉じ込められていた臭気が外に開放された。
埃まみれの屋内は、床板も腐りかけているのか一歩を踏み出すごとに軋む。
十年間、一度も入っていないんだものな。
まずは自分の部屋に行ってみた。
薄く開いたタンス。あまり使われなかったまま時を経たベッド。ルクロはせっかく自分の部屋をもらったのに、夜が怖くて母の元でいつも寝ていたことを思い出した。タンスを開くと、まだ多くの衣類が残っていた。記憶にはあまり残っていないが、お気に入りの数着しか持って行かなかったのだろう。タンスの横の壁には三匹の小さな魚の落書きが残っていた。
タンスを今度はしっかり閉め、母の部屋へと向かった。
扉は開け放たれたままになっていた。中を覗くと、ベッドに小さな膨らみ。ぎょっとしてシーツを捲ると、中からぼろぼろになったクマのぬいぐるみが顔を出した。ルクロのお気に入りだったものだ。母が倒れてから別々に寝るようになったので、ルクロが強がって母の横に寝かせるようにしたのだ。「これでお母さんひとりで寝ていても寂しくないよね」なんてことを言った気がする。
椅子の埃を払い、そこに腰掛けた。もう十年以上も経っているのだ。当時のことなど忘れてしまったかと思ったが、人は意外に忘れないものだと思い知らされた。目を瞑ると今でも母の声が脳裏に浮かぶ。
こんなことをしている場合ではなかったな、と机に手を置き立ち上がる。手が机の上の何かに触れた。母が昔使っていた羽ペンだった。羽はもうボロボロに朽ちていたが、それだと一目で分かった。
「あ」
思わず声が出てしまった。思い出したのだ、母が日記をつけていたことを。慌てて日記帳を探す。目的のものはすぐに見つかった。羽ペンの置いてあった机の引き出しに大切そうにしまわれていた。
革の表紙を捲る。引き出しの中にあったため、日には焼けていなかった。一番古い日付は呪いの日から約半年前。一番新しい日付は――あの日だった。最初のページに戻り読み進めることにする。
今日は、ルクロが私のためにかわいい雪だるまを作ってくれた。ありがとう、ルクロ。
今日は、ルクロが溶けた雪だるまを見て目に涙をいっぱい浮かべていた。来年のためにお空に帰ったんだよ、というと泣き止んでくれた。可愛い子なんだから。
今日は、ルクロが風邪を引いてしまったようだ。早くバレスさんに診てもらわないと。病気なんかに負けないで、ルクロ。
今日は、ルクロがお花を見つけたからと私に摘んできてくれた。お礼の後、お花も生きていることを伝えると、今度はごめんなさいと泣き出してしまった。本当に優しい子。
今日は、ルクロが家の中に入ってきた蝶を逃がしてあげていた。その気持ちを大きくなっても忘れて欲しくないと思う。
今日は、ルクロが自分の名前を書けるようになった。
今日は、ルクロが泥だらけになって帰ってきた。
今日は、ルクロが食器を洗うのを手伝ってくれた。
今日は、ルクロが新しく覚えた歌を歌ってくれた。
今日は、ルクロが――
ぽたりと一粒の雫が日記帳を濡らすのに気づいてルクロは目を拭う。パラパラとページを飛ばし、呪いの日の約一週間前までページを進める。
今日は、ルクロが石を投げられて頬を切った。幸い傷は浅かった。あのことはルクロと何の関係もないというのに。どうしたら村の皆は分かってくれるのだろうか。
今日は、ルクロが初めてマーティンさんに会った。顔が怖いと泣き出してしまったルクロ。あんな困った顔のマーティンさんは初めて見た。でも、すぐに二人は仲良しになった。
今日は、ルクロと一緒に買い物に行った。ちょうどアルベルトさんが来ていたのでいつもの紅茶とお菓子を買ってルクロと一緒に食べた。
今日は、ルクロが倒れた私を見て泣き出してしまった。もう、本当に泣き虫なんだから。私は大丈夫、ちょっと疲れているだけなんだから。
今日は、ルクロが初めて一人で寝た。しかも、あのくまさんなしで。ちょっと泣き虫なところはあるけれど、あの子はちゃんと強くも育っている。
今日は、ルクロが紅茶を入れてくれた。アルベルトさんに横で見てもらいながら一生懸命だった。ありがとう、凄く美味しかったよ。お母さん、すぐ良くなるから。
今日は、ルクロが動けない私のためにイザークさんのところへ買い物に行ってくれた。一人でちゃんとできて偉いぞ、ルクロ。
今日は、ルクロが熱でぼうっとしている私の頭をこっそり撫でてくれた。うつるといけないから近づいてはダメだと言っておいたのに、いけない子。でも、凄く嬉しかった。
今日は、ルクロが私を幸せにすると言ってくれた。ありがとう、ルクロ。でも私は大丈夫。だって私は今、こんなにも幸せなのだから。ルクロのおかげで今までとっても楽しかったよ。だからルクロ、あなたもきっと
そこで日記は終わっていた。
込み上げる思いを抑えながら考える。この日記によれば母が倒れたのは呪いの日の五日前ということになる。他には倒れる前後に会った人物で日記に綴られていた名前が三つ。マーティンは昨年の被害者だ。ここ数年、顔を合わせる事すらなく、ルクロは顔も覚えていない。しかし、この当時は割りと親交があったようだ。アルベルトは聞いたことのない名前だ。文面からするとイザークと同じでどこかの店員だろうか。イザークはルクロも覚えている。雑貨店の店員だった男だ。父が店主なのだが、よく代わりに店番をしていた。チョコレートや杏飴といった菓子も売っていたため、ルクロもよく行ったものだ。だが、彼も六年前の被害者となってしまった。思えばイザークの時からかもしれない。村中がこんな雰囲気になったのは。今まではルクロとごく親しい者ばかりが被害に遭っていたが、この年はよく行く店の店員というだけでイザークが選ばれた。声を掛けてくれる村人が一気に減ってしまったのも無理はない。
日記を鞄にしまう。次はこの三人について調べることに決めた。まだここで見つかるものもあるかもしれないが、今は犠牲者をまんべんなく調べた方がいい気がした。何より、これ以上ここにいることが耐えられなかった。
クマを机の上に座らせるとルクロは部屋を後にする。玄関まで来たルクロは話し声が近づいてくるのに気づき、耳をひそめた。
「本当にやるの?」
「びびってんじゃねぇよ」
「度胸ねぇなぁ」
三人の男の声。最初は物取りかと思ったが、すぐにその可能性をかき消した。ここが「呪いの子」の生家だというのは村中が知っていることなのだ。それに誰が好き好んでこんな廃屋に物取りに入るだろうか。
窓から外をうかがう。ルクロと歳のそう離れていなさそうな男たちが立っていた。どれも顔に見覚えがある。ただ、名前まではどうしても出てこなかった。「呪いの子」扱いされる以前から付き合いがなかったのだろう。
「そういうことじゃなくてさ。一応ここ人の家だよ」
「だからなんなんだよ、もう誰も住んでないだろ」
「鍵がかかっていたらどうするのさ」
「そんなの窓割るなりなんなりできるだろ」
「えぇ、そこまでするの?」
「大丈夫さ、呪いの子の家なんだ。文句なんて言われるわけがない」
「お前、何だかんだで呪いが怖いんだろ?」
「このヘタレ」
「わ、わかったよ……」
三人の話をまとめると……度胸試しといったところか。
何も僕の家を使うこともないのに。ひどいよなぁ。
度胸試しといっても、こんな昼間から、しかも本人の与り知らぬところでだ。男達の程度の低さが知れる。最も、不法侵入の時点で彼らの程度が低いのは分かりきっていることなのだが。
こんな形になっても僕の家だ、帰ってもらおう。
扉を開けようと玄関に戻ると、一足早くドアノブが捻られた。
「お、鍵開いてるじゃん」
一度開いた扉は先ほどのような大きな摩擦音は立たず、ゆっくり開いていった。
「うっし、行く……ぞ」
先頭の男と目が合った。
「っわぁ!」
出た、と叫びながら男が転がり出る。後続の男達の笑い声が聞こえた。ルクロを幽霊か何かと勘違いしたのだろう。
ルクロは家の外へ出る。
「この家に何か御用ですか?」
三人は一瞬固まったが、すぐにルクロに気づいた様子だった。男の一人が不遜な態度で言い放つ。
「テメェに関係ないだろ、近寄るんじゃない」
「ここは僕の家なの、ご存知ですか」
「知るか、しゃべるな」
話の通じる相手じゃないな、と思った。今までなら何も見ず、何も聞こえず、何も気づかなかった「フリ」をしてその場を立ち去っていただろう。だが、今のルクロは違った。
「そうですか、用がないのならいいのです。でも」
三人から視線を外すことなく言い切った。
「今は住んでいないとはいえ、ここは僕の思い出の詰まった大切な場所です。何かしようとするのなら……僕は許しませんから」
一瞬気圧されていた様な三人だったが、ルクロのような線の細い男に強気に出られたのか気に食わなかったらしい。男達は逆上する。
「は? お前、そんなこと言える立場なわけ? クッソ生意気な」
何とでも言えばいい。
「俺達は今、ありもしない因縁をつけられて凄く心が傷つきましたー。謝罪を要求しまーす」
細見の嫌味そうな男がわざとらしく抑揚をつけて言った。
現行犯だというのに、まだシラを切るのか。
「おい、何とか言えよテメェ!」
いつの間にかルクロが悪いことになっている。ルクロは心の中でうんざりしつつも努めて落ち着いた調子で言った。
「僕があなたたちに謝る理由なんてどこにあるんですか」
正しいことを言ったには違いなかったが、それは彼らの怒りを逆撫でするだけだった。男の一人がルクロの胸倉を掴む。
「何なの、お前。謝れば許してやるって言ってるのに聞こえねーわけ?」
そこまで至近距離になってルクロは初めて彼らがガラの悪さで有名な三人だと思い出した。
「謝る理由なんてないって言ったんです。僕があなたたちに何の迷惑を掛けたと言うんですか」
「テメェが居るだけで村が迷惑してるんだよ! 呪いの子の分際で生意気な!」
心がガツンと殴られたように揺れた。
気がついたときには男の拳はルクロの眼前に迫っており――思いっきり左頬に直撃した。
拍子に地面に倒れこむ。
「何人も殺しておいて謝る理由がないだと? フザけんな!」
「お前、母親も呪い殺してるんだろ? おー、怖ぇ」
「冷めちまったぜ、行くぞ、お前ら」
「殴っちゃってよかったの? 呪われるよ」
「知るか。俺を呪いやがったら呪い解くまでぶん殴ってやるよ」
「いいねぇ、それ」
けたけたと気に障る笑い声とともに彼らは立ち去っていった。
彼らに限ったことではない。これが村の認識なのだ。ただ、それを彼らは表に出しただけである。
ルクロは十五人もの人を呪い殺した重罪人。もしかしたら最初の呪いの日ですらルクロのせいだと思い込んでいる人もいるのかもしれない。この一週間は幸せ過ぎたのだ。だから忘れかけていた。自分が呪いの子だということを。
目頭が熱くなる。
呪いと戦うって決めたのに。
泣いている場合なんかじゃないって分かっているのに。
それでも溢れるものは止まらない。自分を見る村の目が辛くて、分かってもらえない事が悲しくて、何もできない自分が悔しくて。
俯いたまま、涙を拭っていると、人影がルクロを覆った。
「青春、してるねぇ」
顔を上げると、中年、と呼ぶにはまだ些か若い男が立っている。
「バートン、さん?」
「よう、ルクロ君、久しぶり」
「どうしたんですか、こんなところで」
「それはこっちのセリフだとも。とりあえずどこか落ち着けるところに行こう、な?」
バートンに連れられ、ルクロは食堂の暖簾をくぐった。殴られた頬も店員の視線も痛かったが、バートンは意にも介さず空いている席に座る。
「おばちゃん! 久しぶり!」
「……バートンかい。一体何の用かね」
食堂の主である老婆がルクロをちらり見て言う。
「あっはっは、冗談キツいよ。ここに来たら飯を食う、それ以外に用があるかい?」
「そういうことではなくてだね……」
「あっ、そういうことか」
バートンはぽん、と手を叩き、
「もしかして俺と一夜を過ごしたいとか」
勇気ある一言を放った。
が、老婆は露骨に嫌そうな顔をした。
「アンタは相変わらずだね。聞いたアタシが馬鹿だったよ。で、何にするんだい?」
「今日のお勧め!」
「ハクラの活きのいいのが入ってるよ。ソテーなんかがいいんじゃないかね」
「んじゃ、それ二つ」
「はいよ」
老婆が厨房に消えるのを見届けてルクロは口を開いた。
「どういうおつもりですか」
「ハクラ嫌いだったかい?」
「分かっていて言っているでしょう?」
「一年ぶりだっていうのにつれないねぇ」
バートンは旅の商人だ。毎年、この時期に敢えてやってくる変り種である。他の商人達は村人が殺気立つこの時期に来るなんて馬鹿なことはしない。なぜこんな時期に来るのかと以前バートンに尋ねた時には「誰もやらないことをするのが商売の基本だ」と言われた。確かに誰もやらないけれど……バートンがどこまで考えているのかは正直分からない。
「ここはどーんとお兄さんが奢ってあげるんだからさ、もう少し感謝の意を見せて欲しいもんだよ。うんうん」
「……お兄さんって年齢じゃないですよね」
「うおっ、そんな心を抉るようなことを平気で言うか!?」
よよよ、とわざとらしい泣き真似をするバートン。
いい歳して何をしてるんだ、この人は。
問い詰めるのも馬鹿らしくなり、テーブルの上の水を一気に飲み干す。先ほど水分をたっぷり出した後なのもあって、喉に染み渡った。
「お、いい飲みっぷりだねぇ。おばちゃん! 水おかわり!」
奥から盆を持った老婆が出てくる。
「バートン、あんたがどうしようと勝手だけど、ウチには迷惑掛けないでおくれ
よ」
かちゃん、と乱暴に皿が置かれた。
「なーに言ってるんだいおばちゃん、しっかり代金は払うって!」
「さっさと食べておくれ」
「つーれーなーいーなー」
くるりとルクロの方を振り向いた。
「まぁいいや、食べるか」
ソテーをつつき始めるバートン。
全く、この人の本意が見えない。
「どうしたんだい? 早く食べないと冷めちゃうよ」
「……いただきます」
焼きたての白身をほぐす。中から湯気が立ち上がった。
「美味しい」
「あったりまえだろぅ。おばちゃんお勧めだぞ! 不味いなんて言ってみろ、お兄さんぶっ飛ばしちゃうぞ!」
「ありがとうございます、バートンおじさん」
「ルクロ君、この一年の間になんか黒くなった?」
「全然本題に入ってくれないからです」
「これが本題だよ。やっぱり笑顔で家に帰らないといけないだろう? 男は女に涙を見せちゃあいけないからね」
「女に?」
「またまたぁ、決まってるじゃないか」
「はぁ」
「で、この一年でどこまで行ったんだい?」
「本当にほくほくで美味しいですね、このハクラ」
「うわあ、ガン無視だ」
「バートンさんも早く食べないと冷めますよ」
「おおっ、そうだそうだ」
この人と話していると調子が狂う。
皿が綺麗になった頃、バートンが口を開いた。
「どうしてあんなところにいたんだい?」
「あんなところ?」
「ああ、あそこはルクロ君には辛い場所だろう?」
生家のことであろうか。
バートンはコップの中身を口に入れ、
「もうすぐ呪いの日が近いのに君があんなところにいるなんて不思議だったんでね。どういう風の吹き回しだい?」
氷を噛み砕きながら言った。
「呪いについて調べようと思って」
「ほう?」
「何ができるか、分かりませんけどね。もう泣き寝入りするのは止めたんです」
きょとんとした顔のバートンはすぐに眉をしかめた。
「俺はこの村の人間じゃないから、突っ込んだことを言う資格はないよ。でも一つだけ言わせてもらう。君が動いたくらいで止まるものなら、十五年も続いたりはしない」
きびしい一言だった。そんなことルクロにだって分かってはいたが、他人から言われるとこうも辛いものなのか。俯くルクロにバートンは言葉を続ける。
「今は君の周りだけで済んでいる。けど、そうして謎を追い求めて今度は君が犠牲になったらどうするんだい」
「僕が、次の犠牲者に?」
考えたこともなかった。呪いの犠牲者は自分の知人、だから自分は死ぬわけがない。無意識にそう思っていたのかもしれない。だが、もし自分が死ねば呪いは終わるのだろうか、同時にそんなことも考えた。
「そうさ、呪いに一番近いのは他ならない君自身なんだからね。だから俺は一番危ないのは君だと思っているよ。俺は師匠に付き添っている頃からこの村に通っているから、二十年近くこうやって毎年来ていることになる。その度に君の無事を見てほっとしてるんだ。君だって、泣かせたくない女の子くらい、いるだろう?」
ふとレヴィアの顔がよぎった。どんなに辛くても、ルクロはもう一人ではないのだ。それがこんなに心強いものなのかと改めて思い知る。
「確かに次は僕が危ないのかもしれません」
「そうだよ、無理はしないほうがいい」
「だけど、もしかして次は僕じゃなくてその女の子が犠牲になるかも、そんな不安はもう抱えたくない。だからこそ、僕は呪いと戦おうと決めたんです」
バートンは諦めたかのように息を吐くと、テーブルにコップを置いた。
「……そうか」
「ありがとうございます、バートンさん。実は今、ちょっと弱気になっていたところなんです。おかげで目が覚めました」
「お、おおう、このお兄さんにまっかせときな! 困ったことがあったらいつでも相談に乗るからさ。いつでも言ってくれよ」
「ありがとうございます」
重ねて礼を言う。
残り一週間。もう、できるとかできないとかを考えている時間はないのだ。