あと11日
――呪いの日まで、後十一日――
レヴィアはその日いつもよりも早く目を覚ました。いつもの木陰の下、まだ朝日は顔を出したばかりで空は濃紺色がようやく薄れ始めた頃だった。
昨日ルクロは夢がない、と言った。アマガミサマの呪いがルクロの幸せを奪っていることだけは確かだった。
レヴィアは自分に何かできるだろうか、と考える。
答えは簡単、何もできない、だ。十六年の月日は長く、重く、深い。だから今更自分が村に出て、ルクロと仲良くして欲しい、と村人に言ったところで村人と面識のない自分の話など誰も聞いてくれるはずがない。
では、呪いを止めるのか。
残念ながらそれも出来ない。レヴィアに出来ることは本当になかったのだ。
だが、あの事をルクロに伝えることだけはできる。
直接的な解決には至らない。だが、その告白でルクロの気が紛れるかもしれないと思った。何よりこれは自分に課せられた責務だとも思った。
今日、ルクロがここに来たら全てを話そう、そうレヴィアは決意していた。
レヴィアが「明日もここに来るのか」とルクロに問うたとき、ルクロは意外そうな顔をした。少し間が空き、ルクロは口元を綻ばせながら「僕の勝手なんですよね?」との返事。
しかし、去り際にはいつものように「それではまた」と言ってくれた。だからルクロは今日も来る。
胃の中をまるで何かが這いずり回る感覚が起き、嗚咽が漏れる。
昨日ルクロと分かれてからずっとこんな調子だった。何度も迷った。何度も止めようと思った。もし、このままルクロが現れなかったらあの事を話すことはできないな、そんなことも思った。心のどこかでルクロが来ないことをも望んでしまった。
そんな自分を叱咤する。ルクロが現れるまでの半日が凄く長く感じた。
「こんにちは、レヴィアさん」
来た。
真上から照り付ける太陽が眩しい。
こんなに日差しが強いのになぜか震えが止まらなかった。
「レヴィアさん?」
無反応なレヴィアに違和感を覚えたのかルクロは隣にしゃがみこみ顔色を伺う。
レヴィアは小さく深呼吸をすると、すっと立ち上がった。
「どうしたんですか?」
ルクロは顔中に疑問符を浮かべながらこちらを見据えていた。
「ルクロ」
「うん?」
「お前に言わなければならないことがある」
「なんでしょう」
本当に言う必要があるのか。
今の今になってもそんなことを考えてしまう自分は脆弱な存在だ。一体いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろうか。たかが、三日。ただそれだけの期間しか過ごしていない相手。何をそんなに怯えているのか。
返り見るとルクロは黙ってレヴィアの言葉を待っていた。何を言われるのだろうとそわそわしている。まるで餌を待つ子犬のようだな、と思う。そんな様子に少しだけ気分が落ち着き、穏やかな気持ちにさせられた。この気持ちを持ち続けるためには黙っていてはいけない。だからレヴィアは口を開いた。
「私が、アマガミサマだ」
数秒が何分にも感じられ、時間が止まったのかと思った。
全身がどんどん冷たくなってゆくのが分かった。
ルクロの唇が少しずつ開いていくのを見るごとに胸が締め付けられる。彼の口から放たれるのはどんな罵声か、怨言か、少なくとも嫌悪以外の言葉が聞こえることはないだろう。ルクロの口が完全に開く。その声に全神経を集中し、耳を傾けた。
「そっか」
何を言っているのかわからなかった。何を意味しているのかもわからなかった。だから言い直した。
「私が、アマガミサマなんだ」
「何か普通の人とは違うと思っていたんですよね、レヴィアさん」
そうかそうか、とひとり勝手に納得してしまうルクロ。
「そりゃ、確かに野宿でも大丈夫ですよね。神様なんだから。あ、でもたまにはふかふかのベッドで眠りたいと思わないんですか?」
「ルクロ」
「もしかして眠らないんですか? うわ、それも大変かも」
「ルクロ」
「食事とかってどうしてるんですか?」
「ルクロ!」
止まらないルクロに思わず叫んでしまった。きょとんとしたルクロにレヴィアは言う。
「これは嘘でも冗談でもない。無神経にこんなことは言わない、信じてくれ」
ルクロはその言葉に何か考える。
「ん、とレヴィアさんはアマガミサマなんですよね? うん、信じますよ」
にっこり微笑んだ。
微塵にも想像していなかった事態にレヴィアは当惑した。
「他に言うことはないのか」
「え、だから食事とかってどうしてるんです?」
「そんなことじゃない!」
「後はー……あ、ということはこの前の蜜柑、結局食べてくれたってことですよね?」
「いい加減にしろ、ルクロ」
「れ、レヴィアさん?」
「どういうつもりだ」
急に風が強くなり、巻き上がった砂に一瞬目を瞑る。痛い目を擦りながら瞼を上げると、ルクロは真剣な面持ちになっていた。
「どうもこうもありません。僕はレヴィアさんの言うこと、信じますよ」
「なぜだ」
「レヴィアさんが信じてくれ、って言ったから」
「ふざけるな! 私がアマガミサマなんだぞ? なぜ怒らない、憎まない、怨まない!」
レヴィアの叫びは止まらない。
「いや、わかっている、本当はお前が怒っていることも、憎んでいることも、怨んでいることも。だが、なぜそれを口にしない? なぜ私に謝らせてくれない!?」
はぁ、とルクロが溜息を吐く。来る、と思った。だがルクロはなんだそんなことか、とでも言いたそうな顔をして、
「なんでレヴィアさんが謝らなきゃいけないんですか」
呆れるように言った。
「そんなの――」
レヴィアの言葉はルクロに遮られる。
「謝られる理由がありませんし」
「理由がない、だと? 私がアマガミサマであること以外に理由がいるのか!」
「だって」
ルクロは瞳を据えてレヴィアに向かって言った。
「レヴィアさんは自分がアマガミサマだとは言ったけど、村を呪ったとは言わなかった」
全身が凍りつき、奪われた体温は一箇所に凝縮したかのように瞳が熱くなった。
どうして、どうしてこの男はこんなことが言える?
必死にあふれ出るものを拭い、叫び続ける。
「だ、だって、アマガミサマの呪いのせいでお前はこんな目にあっているんだぞ?」
「ああ……まぁ、そうなんですけど、よく考えると別にアマガミサマが呪うぞーって言ったわけでもないですからね」
「なッ……」
「所詮、村の噂ですから、アマガミサマが怒ったっていうのも」
「そんなので納得できるのか、お前は!」
「んー……さすがにちょっと無理ですよね」
レヴィアは息を呑む。
「だから、確認します、レヴィアさんは村を呪ったんですか?」
もう、拭うだけじゃ止まらなかった。次から次へと込み上げるものに嗚咽をもらす。
「私は――」
ルクロは静かにレヴィアの声を聞く。
次の言葉がわかっているかのように落ち着いた態度で。
だからレヴィアも言う。
きっと、ルクロが想像しているであろう真実を。
「私は、村を呪ってなどいない!」
「そっか」
その言葉を聞いたレヴィアはもはや拭うことなく咽び泣いた。
涙が涸れるまで泣いたレヴィアの横にずっとルクロは居てくれた。
もはや日は沈みかけ、空は橙から深い青になっていた。
「聞いてくれるか、ルクロ」
言い訳だと取られるかもしれない、だけどルクロには全てを話そう、そう思う。もう恐れるものなど何もないのだ。
「うん、なんでしょう、レヴィアさん」
「呪いの日のことだ」
元々レヴィアは神といっても大した力は持っていなかった。少し人より海に対して敏感なだけで、後は特別な能力は何もない。もっとも、まがりなりにも神である彼女は人間とは比べ物にならない寿命を持つのだが。少なくとも海の神だからといって嵐を呼んだり、津波を起こしたりということはできなかった。
「私にできることはせいぜい、海の天気を読むことと、生き物が多く集まる場所――つまり魚がたくさん取れるところが分かるくらいだ。私は年一回気まぐれに村に降り、その場所を網本とやらに伝えていたんだ。あの頃はまだ私を崇めていた者も多かったし、それくらいするのは当たり前だと思っていた」
あの年ももちろんあの場所が大漁になることはわかっていた。同時にすぐ嵐が起こることになろうことも予想がついていた。
「だから私は黙っていた。魚が集まるのは一箇所というわけでもない。だから次に見つけたところを教えればいいと考えていたのだ」
「だけどその場所を村人は見つけてしまった?」
「そう、私は焦った。だから慌てて村に降り、網本に囁いた」
あの時の出来事が鮮明に脳裏に浮かぶ。今思い出しても悲しくなる。
「……だが、彼は耳を貸してはくれなかった」
何度か通ったレヴィアは必死にあの場所の危険さを説いた。だが、網本はもう少しだけ、と決してレヴィアの言うことを聞き入れようとはしなかった。あまつさえ、彼は言った。「アンタ神様なんだったら嵐なんか止めておいてくれよ」と。
「正直に言おう、確かに私は嫉妬していたかもしれない。だから彼に説くのを諦めた」
奥歯を噛み締める。
「だけど私はあんなこと望んでいなかった!」
涸れたはずの瞳が潤む。
「もし、私があのとき諦めることなく彼に話していたら、あんなことは起きていなかったかもしれない、今でもそう思う」
そして呪いの日は訪れる。
かつての網本がなぜ「アマガミサマ」と呟いたのかは今となってはわからない。散々の忠告を無視したことを謝ろうとしたのか、それとも嵐を止めてくれなかったことを怨んだのか。
ともかく、その一言が噂に尾ひれをつけ、アマガミサマの呪いが生まれた。
自分のせいにされるのは悔しくもなんともなかった。だって、自分が起こしたも同然なのだから。レヴィアはあの日ほど後悔したことはなかった。
「だから、私は村に降りるのを止めたんだ」
ルクロは告白を何も言うことなく聞いてくれていた。だから最後に一言付け加えた。
「確かに呪いは私が直接起こしたものではない。だが、私は止めることもできた。だからやはり私にはお前に謝る理由がある。すまない、ルクロ」
「そんなの、しかたないですよ」
ルクロは笑ってくれた。
「えーっと、僕は気の利いたことは言えませんけど、レヴィアさんはやれることをやったと思います。それで起こってしまったことなんだから……しかたないとしか言えませんよね」
相変わらずの調子だ。本当ならいくらでも罵倒することはあるはずなのに、それをしない。まるで、うっかりお皿を割ってしまった、それは災難だったね、そんなやり取りをしているかのようだ。本当ならもっとずっとずっと重いことだというのに。今になってレヴィアは本当にこれがルクロの本心なのだろうな、と思った。
「お前って……やつは」
思わずルクロの胸に顔をうずめる。
「れ、レヴィアさん!?」
ルクロの顔は見えないが、裏返った声からしてきっと真っ赤になっていることだろう。
「ダメ、か?」
顔を上げずに聞いてみる。
「ううん」
それだけ言うとゆっくりと抱きしめてくれた。
今日、ルクロに全てを話すことが出来てよかったと思う。
もし今日の機会を逃したらこんな気持ちになれることは二度となかっただろう。
だからレヴィアは思う、どうにかしてルクロを幸せにしてやることができないか、と。