あと12日
――呪いの日まで、後十二日――
「ルクロ!」
目覚めの一番に飛び込んできたのは少女のお怒りの一言。ルクロは上半身を起こし、眼を擦りながら目の前の少女に視点を合わせた。
「あ……アリサさん」
「お姉さまとお呼び、といつも言ってるでしょ」
「おはよう、アリサ姉さん」
「アンタ、勝手に蜜柑持っていったでしょう?」
おかしいな、ばれるほどたくさんは持っていってないはずなのに、寝ぼけた頭でまずそんなことが思い浮かんだ。
「そんなに持っていってないのに何で分かったんだ、って顔してるわよ」
「え? え?」
アリサは両腕を腰にあて、嘆息した。
「ルクロってホント分かりやすいわよね」
アリサはルクロが現在世話になっているこの家の隣に住む少女だ。両親は果実店を経営しており、時折差し入れにきてくれる。もちろんアリサの両親は「ルクロに」差し入れをしてくれるわけではない。あくまで「この家の家主へ」の差し入れだ。しかし、アリサは違う。ルクロを避けることなくこうして普通に接してくれる、数少ない村人の一人だった。
「あ、えと、ごめん」
「別にそれは構わないわよ、元々差し入れで持ってきたんだもの」
アリサは怒りにきたわけではないらしい。
確かに差し入れに持ってきてくれたものを持ち出したからって怒られる筋合いはない。よく考えなくても勝手でもなんでもないのだ。じゃあ一体、アリサは何をしにこんな朝から人の寝室まで怒鳴り込んできたのだろうか。
「ど、どういうこと?」
「バレスさんに挨拶に来たら昨日差し入れた蜜柑が減ってるじゃない」
「うん」
「バレスさんに聞いたらなんと、ルクロが昨日蜜柑を持ち出したって」
「うん」
「さあ、一体私の蜜柑をどこにやったの!?」
「……えぇ?」
まさかそんなことを確かめるために朝から叩き起こされたというのか。というか、差し入れてもらった時点でそれはアリサの物でないのではないか。
「外で食べたとかお裾分けしたとか色々あるじゃない」
「ルクロ……あなたの友達の少なさは私がよく知っているわ」
「アリサさん、それってひどくない?」
アリサはふふん、と鼻をならすとベッドの上に腰掛けずいっと身をルクロに寄せてきた。ほのかな果物の甘い香りが漂い、緊張で身が硬くなる。
「さぁ、薄情しなさい!」
「は、薄情もなにも、お供えしたんですよ」
アリサは目をぱちぱちとさせた。
「お供え? どこに」
「アマガミサマに」
隠すつもりはなかったが、詳しい場所などは伏せた。
「あ……もうすぐ、だもんね」
「うん」
アリサは少し狼狽えたようだったが、すぐに元の調子に戻った。
「お供えなんてアンタが気にするものじゃないって」
頭を鷲づかみにされてくしゃくしゃと寝癖だらけの髪を揉まれる。
「わ、ちょっと」
「アンタは何も悪くないんだから堂々としてればいいのよ」
ぽん、と頭を叩いて頭から手を離したアリサは戸口へ向かった。
「あ、今日は私が朝ご飯作ったんだから、早く降りてきなさいよ。冷めちゃうわ」
「うん、わかりました」
戸を閉めるアリサを見送り、ルクロはベッドから降りた。
階段を降りると香ばしい匂いが食欲を誘った。この香りはアリサ特製の野菜たっぷりコンソメスープだろう。食卓を見ると予想通りのスープの皿。そしてベーコンエッグとトーストというスタンダードな風景だった。
「お、そ、いー!」
両腕を腰に据えたアリサは既に御立腹だ。着替えてまっすぐ来たから五分と経っていないはずだけれど。
「やあ、おはようルクロ」
「おはようございます、バレス先生」
豊かな髭を蓄えたこの初老の男は現在ルクロが世話になっており、この家の主でもあるバレスだ。元々アマガミサマに使える神官、というか村の神事をとりまとめていた家系らしい。若い頃に医術をかじっていた事があるそうで、この小さい村では唯一の医者でもある。
幼くして両親を亡くしたルクロをここまで面倒見てくれたこともあり、ルクロは頭が上がらない。
「ほら、早く食べなって」
「そうじゃな、頂こうとしようか。せっかくアリサちゃんが作ってくれたのだし」
アリサに急かされて席に着く。いただきます、とトーストに手を伸ばそうとするとこちらを見るアリサの顔が急に険しくなった。
「え、な、なに?」
「ん、別にぃー」
どこが別になものか。
「そ、そう……」
水に手を伸ばそうとする。これも違う。アリサの表情は変わらない。ベーコンエッグ、これも駄目か。じゃあ、これ、か。スプーンを手に取るとようやくアリサの表情が直った。スープに口をつけると何かを期待するような目でこちらを見てくる。
「うん、美味しいよ、ありがとう、アリサさん」
「でしょー! 今日のは特に自信作なんだから!」
満面の笑みでぱん、と両手を叩くアリサ。そういうことか、言うまでもなくアリサの料理の腕は抜群なのだけれど。
「アリサちゃんが来てくれると華やかになるねぇ」
「そんな褒めても何も出ませんよっ」
食卓に響く笑い声。当たり前の朝の風景。しかし、ふと思う。もしかしたら今年はこの場にいる誰かが、そう思うとルクロは不安で仕方がなかった。
心臓は激しく動悸し、体の芯が冷たくなる。このひと時が崩れるのだとしたら――そんなことを想像すると今すぐにでもここから逃げ出したくなった。
「ルクロ?」
いつのまにか眼前まで迫っていたアリサの顔に思わず「うわ」と声を上げてしまった。右手のスプーンは皿の中に滑り落ち、中のスープを跳ね上げる。
「きゃ、ちょっとルクロ! 何ぼーっとしてるのよ!」
スープの雫はアリサのスカートの裾に見事に着地。コンソメ色の染みを広げていた。
「あ、ご、ごめん、ちょっと考え事していて」
「もー、しっかりしなさいよ、ルクロー」
アリサは相変わらずだったが、一度そんなことを考えてしまってはせっかくの朝食も喉を通らず、用意されたものをたいらげるのも一苦労だった。
「それでそんなに暗いのか」
昨日よりも少し早めに崖に着いたルクロはレヴィアに朝の出来事を思わず滑らしてしまっていた。
「やっぱり、暗い、ですかね」
「ああ、堤燈のないアンコウみたいだ」
なんだ、その例えは、と小さく吹きだす。昨日あんなことがあったばかりでここに来るのは少し気恥ずかしいものがあったが、やはり来たのは正解だったかもしれない。
「私はてっきり……」
そう言い掛けてレヴィアの頬に少し赤みが差した。少しほっとしたようにも見える。向こうも昨日のことを思い出したようだ。
「……アリサ、とやらはいいヤツなのだな」
話を変えるようにレヴィアはそう切り出した。
「ええ、僕とまともに口聞いてくれるのなんて村にはもうバレス先生とアリサさんくらいしかいませんよ。今はレヴィアさんもいますけど」
ルクロと言葉を交わす村人はほとんどいない。店の店員でさえ無言でやり取りを交わす。商品を会計に持って行っても値段の確認すらしないのだ。ただ、ルクロが現金を出すのを待つ。そしてそれを受け取ると釣銭はカウンターに投げ捨てられる。一度釣銭の間違いに気付き、手渡そうとしたことがあったが店員は決して手を出さなかった。その時は仕方がなくカウンターに余分の釣銭を置いて帰った。
そればかりではない。村唯一の医者であるバレスの元には当然患者が訪ねてくるのだが、ルクロには一瞥もくれない。まだ相手にされないだけならばマシな方だ。信心深い患者の中にはルクロを見るとヒステリーを起こす者もいるくらいである。
「バレス先生もアリサさんも本当によくしてくれるんですよ。僕にはもったいないくらいです」
ルクロの父は呪いの日に海に消え、母はルクロが五つの時に呪いで死んだ。祖父母もそれ以前の呪いの日に死んでいる。ルクロにはもう頼れる親類がいなかった。厳密に言えば遠縁にあたる親族がまだ何人かいたらしい。しかし、連続して五年もルクロの周りの人々が次々と死んだため、その頃には既にルクロは呪いの子扱いされていた。そんなルクロを引き取ろうという者などいなかったのだ。
「あの頃は本当心細かったですよ。毎日のように泣いていた気がします」
思えば少しは見栄を張ったほうがよかったのかもしれない。だけど、今までそんなことを相談できる相手がいなかったからなのか、レヴィアにはありのままを話してしまった。
母が死んだ日のこと。今でも忘れない。
空は鉄のように厚い雲で覆われ、しとしとと雨が降っていた。数日前から体調を崩していた母にルクロはいつもの薬を届けに行こうと、台所で準備をしていた。
台所の蛇口は五歳児には高すぎる。ルクロは椅子を流しの前まで引きずるとその上に乗ってコップに水を入れた。いつもなら差し込んだ朝日にきらめくコップの水がその日はなぜか澱んで見えた。単に部屋が薄暗かっただけなのかもしれない。しかし、幼心に恐ろしさを感じてその水を捨てるともう一度蛇口を開いた。そんなことを三回ほど繰り返すと盆に薬の袋とコップを乗せ、よたよたと危なかしい足取りで母の元まで運んだ。
その日、母は珍しく、ルクロが来る前から目を覚ましていた。元気になったんだ、その時はそんなことを思って気持ちが高揚したのを覚えている。
おはよう、と挨拶を交わすと母はルクロを手招きし、膝の上に乗せた。
「ルクロの夢は何?」
母はそんなことを聞いてきた。
なんと答えたかまでは覚えていない。漁師と答えたか商人と答えたか、それとも他の何か、か。とりあえず当時のルクロは当時の夢を自信満々に語ったに違いない。そしてふと母に問い返したのだ。
「お母さんの夢は?」
そうね、と相槌を打つ母の視線はルクロを捉えたままだった。
「お母さんの夢はルクロが幸せになることかな」
「僕が?」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、僕もお母さんを幸せにする!」
ふふ、と笑顔になった母を見てルクロは嬉しくなった。だが、母はでもね、と付け加えた。
「お母さんはもう十分幸せよ。だからルクロはあなたが幸せにしたいと思う人を見つけて幸せにしなさい」
そう言うと母はゆっくりルクロを膝から降ろした。そして薬を飲むと、ルクロに片付けを頼んだ。
片付けから戻ってきた頃には既に母は横になっていたが、まだ病み上がりだからと静かに部屋を後にした。それからのことはあまり覚えていない。
バレス先生が往診に来て、急に先生が何かを叫び出して、何人かの大人が母を運び出して――気がついたら母の墓の前にいた。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、自分がなんで泣いているのかもわからなかった。大人達のささやき声が妙に大きく聞こえた気がする。「またか」とか「やっぱり」とか「嫌だ」とか「何でウチが」とか「気持ち悪い」とか「呪われる」とか「死んでしまえ」とか。何人もの大人がいるのにルクロの涙を拭く者など一人もいなかった。そんなときだ。いきなりルクロの口が何か白い布で塞がれたのは。その布は上下に動き出しぐりぐりとルクロの顔を這いずり回る。息苦しくて無理矢理その布を引き剥がすと、目の前には少女がいた。少女の手には白いハンカチが握られていた。
「そんなに泣くと干からびるよ」
今思えばなんて気の利かない言葉なのだろうか。
だがその時のルクロは素直にそうだよな、と思った。お互い小さな子供だったのだ。それからすぐに少女の、アリサの親が駆け寄って二人を引き離すと、何か色々と怒鳴られたような気がする。
間にバレスが入ってくるまで罵声は続き、先生が何かをアリサの母に話してようやく静かになった。アリサの手を引いてその場を離れるのを見送ると、バレスはしゃがみこんでルクロに言った。
「何も心配することはない」
「それからです、僕が先生の下で暮らすようになったのは」
「……全部、アマガミサマとやらのせい、だな」
「そう、ですねぇ」
ふと視線を上げると、レヴィアの顔は真っ青だった。
「あ、その、ごめんなさい」
「どうして謝る」
「いや、何だかレヴィアさんと会う度にこんな話しかしてない気がするから」
まだレヴィアとは会って日が浅い。それなのに重苦しい話がほとんどな気がする。話す方は全てを吐き出すだけでいいが、聞いている方はたまったものではないはずだ。
「気にするな」
レヴィアはそう言うと立ち上がった。
「レヴィアさん?」
夕陽に向かい、レヴィアは数歩歩き出す。
「なあ、お前の夢はなんだ」
一昨日、少年に同じことを聞かれたことを思い出した。ものの数日で決まるはずもない。だからルクロは迷うことなく答えた。
「ありません」
「そうか」
振り返ることなくそう言ったレヴィアは何かを決意したようだったが、その時のルクロにはそれが何なのか知る由もなかった。