あと13日
――呪いの日まで、後十三日――
「それではまた」
あの男はそう言った。また、というのはまた会おう、という意味だろう。レヴィアはそんな当たり前のことをぼんやりと考えていた。
レヴィアがこの丘に滞在するようになってからかなりが経つが、こんなところに訪れる者はここしばらくいなかった。所詮レヴィアは余所者である。閉鎖的なこの村で知人を作ろうという気は更々なかった。だから昨日も適当にあしらって一人の時間を満喫しようと思ったのだ。だが、彼はなかなか帰らなかった。それだけではない。崖から見下ろしていた時はあんなに無感情だった彼が、レヴィアを前にするところころと表情を変えるのだ。笑ったり、困ったり、真っ赤になったり、慌てたり。それがおもしろくてつい相手をしてしまった。
「今日も、来るのだろうか」
思わず呟いてしまった。
相変わらず崖から見えるのは空と海、そして小さな砂浜だけ。おろろん、おろろん、と海鴉の鳴き声が静かな海に不気味に響いていた。当たり前の景色、当たり前の音。それがなぜだか今日は妙に落ち着かない。
空高く昇った太陽がやがて傾き始め、レヴィアはやっぱりな、と思った。
所詮、言葉の綾に過ぎなかったのだろう。こういった偶然の出会いは少ないながら昔にもあった。しかし、それは一期一会。彼らと再び会うことはなかった。だから、今回のあの少年もその中の一人でしかなかった。ただ、それだけの話だ。心のどこかに否定したい気持ちもあったが、レヴィアはもう信じる事に疲れていた。
だから「レヴィアさん」と不意に声をかけられたとき、心臓が胸を突き破るかと思った。
「どうしたんですか?」
そこには疑問の表情を浮かべたルクロが立っていた。
「いきなり声をかけるな」
「いきなりじゃなかったらどう声をかければいいんですかー……レヴィアさん、ずっと海ばかり見ていてこっちには気付かないし」
「まぁいいさ、何の用だ」
「用がなかったら来ちゃいけませんか?」
「物好きめ」
「あれっ、僕の自由なんですよね?」
くすくす笑ってルクロは隣に腰掛けてくる。ふわっと甘い柑橘系の果実の香りがした。
「あっ!」
何かを思い出したかのようにルクロが叫ぶ。しまった、という表情がありありと見てとれる。
「どうした」
「アマガミサマのお供えに蜜柑を持ってきたんですけど……レヴィアさんの分忘れちゃいました」
ルクロの背中が小さくなる。しゅん、としたその姿がなんだか可愛らしい。
「気にするな」
「ほこらに供えた分、ちょっと返してもらってもいいかな……」
「やめておけ」
そこでふとあることに気がついた。
「アマガミサマは村を呪っているのではないのか?」
「ええ、そうですよ」
平然と答えるルクロ。
「なぜそんな神に供え物など」
「何で、でしょうね」
ルクロの表情に影が差した。
「僕が呪いの日に生まれたって話はしましたよね」
「ああ」
「それからのことしか知らない僕の中ではアマガミサマは悪神です。でも、母さんはそうは思っていませんでした」
ルクロは話し始めた。
呪いの日が訪れるまで、この村とアマガミサマとの関係は良好だった。村人はアマガミサマを称え敬い、それに対してアマガミサマは一年に一度、村人に今年大漁になる漁場を教えるのだという。代々、アマガミサマのお告げを聞くのは網本でもある村長の家系だった。お告げを受けた村長が漁を仕切る事でリバトールは小さな村ながらも繁栄してきたのだ。
「母さんが言うには、父さんは村長の右腕だったらしいです。それはもう立派な漁師だったとか。父さんの実力を発揮できたのも、アマガミサマのお告げによる立派な漁場のおかげだとも言っていました」
後ろを振り返るルクロにつられてほこらに視線を送る。ここからでは裏側になるので見えないが、おそらくあの小さな祭壇に蜜柑が供えられているのだろう。
「だから、あんなぼろぼろのほこらを見たとき、なんだか切なくなったんです。母さんが感謝していた神様があんな扱いをされていたから」
「それがお前をそんな扱いにした原因を作った神だとしてもか」
「正直なところ、あまり気にしてないんです。物心ついたときにはもう呪いの子扱いでしたから。もう慣れちゃいましたよ」
そう言ってルクロは微笑んだ。しかし、レヴィアには分かってしまった。ルクロは慣れたのではない、諦めてしまっているのだ、ということを。それに気付いてしまったレヴィアは、何と返していいか思いつかずに狼狽し、
「アマガミサマとやらは、最低だな」
そう、口にするのでいっぱいだった。
「アマガミサマのほこらの前でそんなこと言うと呪われちゃいますよ」
ルクロがからかうように言う。しかし、レヴィアの気持ちは晴れなかった。
いつしか海鴉の鳴き声は止み、目の前の海はただ穏やかに波の音を奏でていた。
レヴィアは一つだけ確認しておきたいことがあった。それを確認するのはとても恐ろしく、陰鬱な気分にさせられる。しかし、この気持ちを晴らすため逃げるわけにはいかない、そう思った。
「……呪いの日って――」
「あ、そっか」
最後まで言い切る前にルクロの言葉に遮られた。
「レヴィアさん、呪いの日についてあまり知らないんですよね」
レヴィアが聞きたい事とは違った。しかし、ルクロの話は止まらない。嫌なことを思い出してしまい、何かを話さなければ落ち着かないのかもしれない。レヴィアはそう思い、黙って耳を傾けることにした。
「呪いの日っていうのは、今から十六年前に遡ります」
ルクロの話によると、こうである。十六年前、村人はアマガミサマのお告げを待たずして大漁の漁場を見つけてしまった。村人は喜び、毎日のように船を出し、近年まれに見ない稼ぎを出したのだという。獲っても獲っても魚の減る様子は愚か、日に日に漁獲量は上がっていく。そんな様子に村中の船がそのポイントに向かうようになっていった。そしてほとんどの村の船が集まったその日――呪いの日にそれは起こった。
海の天気は変わりやすい。とはいえ、何人もいたベテランの漁師達は誰一人としてそれに気付かなかった。わずかの間にその一帯を暗雲が覆ったのだ。それからはあっという間だった。吹き荒ぶ風、船体に撃ち注ぐ豪雨、壁のような高波に数十隻の船は瞬く間に藻屑となった。唯一、その場を凌いだ村長の船も、村に辿り着いたときは見る影もなかった。多くの船員を失い、傷だらけになった船はまるで亡霊船のようだったという。
数少ない生き残りのほとんどが満身創痍で、その中にいた先代の村長もまるで村に着くのを待っていたかのように息を引き取った。その時の去り際の一言が「アマガミサマ」だったらしい。その話に尾ひれがつき、いつしかこれはお告げ以外の村の豊潤に嫉妬したアマガミサマの呪いだという噂が立つようになったのだ。
「それで、呪いの日、か。だが、お前には何の関係もないはずだ。ただその日に生まれたというだけなのだろう?」
「うん、そうですよね」
ルクロを励ますつもりで言った言葉のはずなのにルクロの顔は晴れない。無理して笑顔をつくろうとするその姿が痛々しかった。
「確かに十六年前の呪いの日はひどかった。でも、それで終わりじゃなかったんです」
呪いの日から一年、多くの男達を失い、絶望の最中だったリバトールにもちらほら笑顔が見えるようになってきていた。しかし、再び呪いは訪れた。一人の男が原因不明の死を遂げたのだ。その翌年も原因不明の死者が出た。その翌年も、翌々年も……昨年までそれは続いているのだという。
「それ……だって、流行病か何かじゃないのか、お前とは何の関係も……」
ただ、無言でいられなくてつい無責任な言葉が口をついた。
「死んだのが僕のお爺ちゃんでもそう言えますか!」
ルクロが声を張り上げた。
「死んだのが僕の叔父でも、近所の人でも、友達でも……母さんでも! それでも僕と関係がない、そう、言えるんですか……!」
震えるルクロの形相にレヴィアは身がすくんだ。レヴィアは後悔した。知らなかったとはいえ自分はなんてことを聞いて、そして言ってしまったのだろう。呪いの日に原因不明の死を遂げた人のほとんどがルクロの関係者だったのだ。
「……あ、ごめんなさい」
我に返ったルクロがうろたえる。
「いや、こっちこそすまない、無神経だった」
「本当はね」
気まずそうに海の方を向いたルクロの顔は夕陽に照らされオレンジ色に煌いていた。
「慣れた、なんて嘘です。呪いの子だ、と言われることは確かに辛い。慣れることなんてこの先もずっとないと思います。でも、それは些細なこと。僕は毎年、大切な誰かが死ぬことの方がずっと辛いし恐ろしい……」
ルクロは膝に顔をうずめた。泣いているのかもしれない。
レヴィアは立ち上がり、ルクロの前にしゃがみこむと、正面からルクロを包み込むように抱いた。
「レヴィア……さん?」
「本当にすまない」
「あ、いや、僕が勝手に話しただけですから……」
「すまない……」
レヴィアはそう言うことしかできなかった。