情事
気持ち悪い小説かもしれません。
私は情事の後、でこぼことした坂道を歩いていた。脚を引きずるようにして坂を上っていた。その坂がどこからどこへ続いているのか、不意に判らなくなるような気がしたが、私が何とかして家へ帰ろうとしているのだけは確かだった。
坂の上には森があった。深い森であった。辺りは日がまだあるのか、暮れているのか西の山の方がぼんやりとした雲に覆われているので、よく判らない。自動車というものがまだ地方にはほとんど走っていない時代であった。私は結城紬の着物を着ていた。坂の方から見るとその森は、毛むくじゃらの怪物がうずくまっているようにも見えた。森の中へ這入ってしばらくすると、ごおお、ごおおと何かが吠えるような音がした。耳を澄ましてよく聞いてみたが、山鳴りなのか、獣の吠え声なのか判別が出来なかった。
この坂道を上っている内に、ここへ来る前のことを考えた。私は長く付き合っていた女を、情事の後で殺してきたのだった。いい女だった。日本髪の美しい、眼鼻立ちのくっきりとした女だった。何故殺したか、今になって考えてみたが、その理由が思い出せない。首を締めて殺す時、目をきっと剝いた女のその顔が猫に似ていてかわいいと思った。けれどもどうしても殺さねばならなかったのだった。女は男性との性の経験がないと言っていたし、前に付き合っていた男とは、完全に絶縁している。他人との付き合いのあまりない女だったから、なきがらが発見されるまでには、かなり時間的猶予があるだろうと思った。
その道は女との逢瀬の時、いつも通った道だった。一旦分け入ってみると、森の中の道は乾いているのか、湿っているのか判らなかった。砂利ではなく赤土ののっぺりした道だった。女を殺しに行く途中、一面に細い木の枝が落ちていて、それを踏むたびに、ぴし、ぴし、という音がしたのを覚えている。それを聞いていると、私の心の中の感情が一つずつ確実に毀れてゆくのが、自分自身にもわかるような気がした。
その道は暗く、行きも帰りも誰ともすれ違わなかったし、後をつけてくる者もいなかった。帰り道、森はいくら上っても果てる様子がなく、どこまでも続いた。さっきまで鳴っていた山鳴りのような音は、しばらくすると聞こえなくなり、代りに道の上の方から、ぬるぬるとした緑色の藻のようなものがゆっくりと流れてきた。青みどろのようにも見えたが、違うようであった。最初はそんなに驚くような量は流れていなかったけれど、次第にかさを増してゆき、道全体に広がろうとしていた。私は藻をよけて道の端を上った。そうして上ってゆくと、やっと藻のない処へ来た。ほっとした気分でいたけれど、そうしている内に藻のかたまりの坂を流れおちるのが止まったようだった。森の奥の方から、ひっひっひっひっという鳥の声とも、人の忍び笑う声ともつかぬ奇声が聞こえはじめた。
私はぼんやりしていたが、坂の下の方を見ていると、藻のかたまりがまるで意思を持っているかのように、今度は坂を上ってくるのが判った。それも今までのようなゆっくりとした早さではなく、蛇が走るような異様な早さであった。藻の群はにわかに道全体を覆っていった。私は驚いて逃げようとしたけれど、道全体が何かべとべとした物になっていて、足の裏に張り付くようで足が思うように動かせなかった。足を上げるとそのものはねっとりと鳥黐のように糸を引いた。私はそれでも夢中になって走ったが、後を追ってくる藻の方が早く私に追いつくと、そのぬるぬるしたもので私の足首をとらえた。藻は氷のように冷たかった。全身を貫くような痛みが走り、私は思わず藻の中へ倒れ込んだ。ずちゅっ、という大きな音がした。藻は深く、底なしの沼のように感じられた。森全体が大きな沼のようになってゆくようだった。樹上から黒っぽい何かが落ちてきた。雨かと思ったがそうではなく、その雫は着物の隙間から懐へ這入り、私の身体を這いまわった。刺すように冷たいのか、もしくは鉄が焼けるように熱いのか判らなかった。ふとこの山にいる山蛭のことを思った。藻のかたまりは見る間に増えてゆき、そのうち森を呑み込み、視界に見えるのは藻と頭上に広がる緑の樹の枝々だけであった。藻のかたまりは海のように広がっていったようであった。
藻の中から首だけ出している状態で、気がつくと私は泣いていた。何故泣いているのか判らなかったが、その顔を樹上の「雫」は焦がすように流れた。すると藻の一部が山のように盛り上がってきた。何かが藻の中からぬうっと現れた。それは樹よりも高くまで聳えたかと思うと、覆っていた藻が少しずつ落ちてゆき、その正体がはっきりしてきた。その姿を見るなり、私の背筋は凍りつき、叫び声をあげそうになった。
それは死んだはずの女の顔を持った巨大な蛇であった。蛇はうっすらと笑いを浮かべると、はっきりとした声である言葉を言った。それは女の肉声と男性のような低い声が混じって変な響きを醸し出していた。
「何故私を殺したの」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏にあるものがはっきりと甦った。それは、女を最初に抱いた晩、眠っている女の枕元に置かれてあった、彼女の愛読書であった。女は本の間に写真を隠していた。それは私ではない別の男と写っている写真だった。私はその写真を見なかったことにした。けれども女にやさしくされるたび、愛の言葉をささやかれるたびに憎しみは燃え上がっていった。この女を殺さねばならない。そう思った。
私は気がつくと家に帰っていた。自分の部屋にいてぼんやりしていた。あそこからどうやって帰れたのか判らなかった。私の身体は別に濡れてもおらず、さっきまで身体を這いまわっていた黒い「雫」も消え失せていた。あれは夢だったのだろうか。女に対する慕情が今更ながらに身の内に燃えあがった。そう感ずるや否や、堪えていた心の堰のようなものが、にわかにぷっつりと切れたような音が耳に響き、私の目から大粒の涙がぼろぼろと流れおちた。女をもう一度抱きたいと心から思った。それに女を殺したという事実は百年も前のことのように、私には現実味がなかった。そんなことはもう過ぎた事件に過ぎず、今はもう一度女との情事に酔いしれたかった。もとより私には罪の意識というものが最初から存在しなかった。すでに自分の内の何かが確実に欠落していたのかも知れない。
気がつくと、傍らに誰かが立っていた。それは死んだ女だった。女は笑って何かを言った。
その時私は私で無くなったようでもあったが、自分がこれから何をしようとしているのかは判っていた。そして、私は女に笑顔で応えると、ランプの灯油を部屋中に撒いた。それからマッチを擦ると灯油を撒いた畳の上へ抛った。そうしておいて抽斗からおもむろに匕首を取り出し、迷うことなく首にあてがった。