『「君なら待っていてくれると思った」と十年ぶりに迎えに来た王子様へ。申し訳ありませんが、私、来月結婚します』
十年前の約束? 申し訳ありませんが、私には私の人生がありますので
焼きたてのライ麦パンが放つ香ばしい湯気と、焦がしバターの甘い匂いが、下町の通りに漂い始める朝。
王都の東地区にある『ベッカライ・エーデル』は、今日も夜明け前から大忙しだった。
「クロワッサン三つと、いつもの硬焼きパンを一本ね」
「はい、毎度ありがとうございます! 硬焼きパンは今朝の焼きたてですよ。まだ熱いので、お気をつけて!」
白いエプロン姿のエミリアは、手際よくパンを紙袋に詰め、常連客に笑顔で手渡した。
二十二歳になった彼女の手は、お世辞にも貴族の令嬢のように美しいとは言えない。
指の節は少し太く、手のひらには硬い豆がある。冬場にはあかぎれができるし、爪の間には洗っても落ちきらない小麦粉が残ることもあった。
けれど、エミリアは自分の手が好きだった。
十年間、パンを焼いてきた手だ。
失敗して、火傷して、泣いて、それでも翌朝にはまた生地を捏ねてきた。
この手で家族を養い、店を守り、ようやく父親から窯を任されるまでになったのだから。
「エミリアちゃん、結婚式は来月だったねえ」
常連の老婦人が、財布をしまいながらにこにこと笑う。
「ええ。小さな式ですけど」
「カイル坊やも立派になったもんだ。昔はあんたの後ろをちょこちょこついて回ってたのに」
「今でも似たようなものですよ」
「おい、聞こえてるぞ」
奥の作業場から、低い声が飛んできた。
老婦人が声を上げて笑う。
エミリアも笑った。
こんな朝が、好きだった。
忙しくて、騒がしくて、パンの匂いがして。
自分たちの手で少しずつ築いてきた、何でもない日常。
その日常を、まさか十年前の迷子がぶち壊しに来るとは、夢にも思っていなかった。
*
カランコロン。
真鍮のドアベルが、澄んだ音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
いつもの調子で顔を上げたエミリアは、思わず瞬きをした。
入ってきたのは、下町のパン屋にはおよそ似つかわしくない二人連れだった。
先頭に立つのは、濃紺のマントをまとった美青年。
金糸の刺繍が施された上着に、磨き抜かれた革靴。絹糸のようなプラチナブロンドを揺らし、青い瞳にはどこか芝居がかった憂いを宿している。
その後ろには、淡い藤色のドレスを着た若い令嬢がいた。
こちらは青年とは対照的に、ひどく疲れた顔をしていた。
「……殿下。本当にこちらで間違いありませんの?」
「間違いない。あの日の面影を、私は一日たりとも忘れたことがない」
「そうですか」
令嬢は扇子を開いた。
その声には、すでに何かを諦めたような響きがあった。
青年はゆっくりとカウンターへ歩み寄り、エミリアを見つめた。
そして、両腕を広げた。
「迎えに来たぞ、エミリア!」
朗々たる美声が店内に響き渡る。
エミリアは一拍置いて、にっこり笑った。
「いらっしゃいませ。ご予約のお引き取りでしょうか?」
「……何?」
「お名前の控え伝票はお持ちですか? 大口のご注文でしたら、奥に確認してまいりますが」
青年の笑顔が固まった。
「エミリア。私だ」
「はい?」
「私だと言っている!」
「……申し訳ありません。以前にご来店いただいたことが?」
青年は胸元に手を当てた。
まるで舞台の上で悲劇の主人公を演じる役者のように、二、三歩よろめく。
「そんな……。まさか、私を忘れたというのか……?」
エミリアは困った。
常連客の顔なら、たいてい覚えている。
週に一度しか来ない人でも、好みのパンや家族構成くらいは把握しているつもりだ。
だが、目の前の美青年にはまったく見覚えがなかった。
少なくとも、パンを買いに来た客ではない。
「恐れ入りますが、どちら様でしょう?」
「ジュリアンだ!」
青年は耐えきれなくなったように叫んだ。
「アレクサンドリア王国第二王子、ジュリアン・フォン・ヴェルディール! 十年前、この裏路地でそなたに救われた、あのジュリアンだ!」
「……十年前?」
エミリアは首を傾げた。
第二王子。
裏路地。
十年前。
記憶の底を探っていると、ふと、ある光景が浮かんだ。
夕暮れの路地。
ひっくり返った木箱。
吠える野良犬。
そして、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにした、金髪の男の子。
「あっ!」
ジュリアンの顔が輝いた。
「思い出したか!」
「犬に吠えられて腰を抜かしてた子!」
「違う!」
即座に否定が飛んだ。
「私はあのとき、卑劣なならず者たちに囲まれながらも、王族としての誇りを失わず――」
「野良犬ですよね?」
「……犬もいた」
「一匹でしたよね?」
「数の問題ではない!」
「しかも、あの犬、隣の八百屋さんが飼ってた老犬ですよ。歯がほとんどない」
「エミリア!」
青年は真っ赤になった。
後ろの令嬢が、扇子の陰で小さく肩を震わせている。
エミリアはようやく納得した。
「ああ、あのときの迷子の坊ちゃんですか。大きくなられましたねえ」
「ぼ、坊ちゃん……」
「無事にお家へ帰れたんですね。よかったです」
ジュリアンはしばらく口を開閉させていたが、やがて気を取り直したように背筋を伸ばした。
「そうだ。私は帰った。そして、約束を果たすために戻ってきたのだ」
「約束?」
「覚えていないのか? あの日、別れ際に私が告げた言葉を!」
彼は胸に手を当て、遠い日の夕暮れを思い描くように目を細めた。
「『必ず迎えに来る。だから待っていてくれ』――そう言ったはずだ!」
店内が静かになった。
奥の窯から、薪のはぜる音が聞こえた。
エミリアは十年前の記憶をたどった。
確かに、そんなことを言われたような気もする。
あの男の子は、衛兵の詰め所へ送り届けたあとも、なかなか自分の手を離さなかった。
帰りたくないと泣いていたのか、また会いたいと言っていたのか。
そこまでは覚えていない。
ただ、ひどくお腹を空かせていたので、店で売れ残ったクリームパンを一つあげた。
それだけだ。
「……ああ。何かおっしゃってましたね」
「そうだろう!」
「でも私、『待ってます』なんて言いましたっけ?」
ジュリアンはぴたりと動きを止めた。
「……何?」
「いえ。私は『もう暗いから、早くお家に帰りなさいね』と言った覚えしかないんですけど」
「そ、それは……!」
「それに、あの日は翌朝の仕込みが残っていたので、急いで帰りたかったんですよね」
ジュリアンは信じられないものを見るようにエミリアを見つめた。
「そんなはずはない……。あのとき、そなたは微笑んでくれた。私の手を握り、優しく名前を呼んでくれたではないか!」
「迷子の子を怖がらせないようにするのは普通でしょう?」
「私にクリームパンをくれた!」
「お腹が空いて泣いてましたから」
「私の頭を撫でてくれた!」
「十二歳の私から見れば、小さな子供でしたし」
「私は同い年だ!」
「えっ」
今度はエミリアが驚いた。
「……あんなに泣いてたのに?」
「泣いていたことから離れてくれ!」
背後で、令嬢の扇子がぱちんと閉じた。
「殿下。そろそろ本題に入られては?」
「あ、ああ。そうだな」
ジュリアンは咳払いをした。
そして、改めてエミリアへ手を差し伸べた。
「エミリア。私はあの日から、十年間、そなたを忘れたことがなかった」
先ほどまでの滑稽な様子とは打って変わり、その声には真剣な響きがあった。
「王宮へ戻ってからも、私はそなたのことを考えていた。厳しい教育を受け、剣術を学び、宮廷の権謀術数に耐え……何度も心が折れそうになった」
青い瞳が、かすかに揺れた。
「だが、そんなとき、いつも思い出したのだ。あの日、私にパンを差し出してくれた少女を」
エミリアは黙って聞いていた。
「誰もが私を王子として扱った。第二王子としての役割を求め、成績を求め、品格を求めた。だが、そなただけは違った。私が何者かも知らず、ただ手を差し伸べてくれた」
ジュリアンは微笑んだ。
「だから私は誓った。いつか立派な男になり、そなたを迎えに行こうと」
その言葉には、少なくとも嘘はないようだった。
十年間、彼が本当にその記憶を大切にしていたことは伝わってくる。
けれど。
「そこでだ!」
ジュリアンは急に声を張り上げた。
「紹介しよう! こちらは私の婚約者、公爵令嬢セシリア・フォン・アルトハイムだ!」
「……はい?」
エミリアは目を丸くした。
紹介された令嬢は、深々とため息をついた。
「初めまして、エミリアさん。セシリアと申します」
「は、初めまして……」
「そなたを正妃に迎えることは、残念ながら王家の事情で叶わなかった」
ジュリアンは悲しげに首を振った。
「だが、安心するがよい! セシリアにはすでに話をしてある。そなたを側妃として城に迎え、生涯何不自由ない暮らしを保障しよう!」
彼は満面の笑みを浮かべた。
「もう夜明け前に起きる必要も、粉まみれになって働く必要もない! 美しいドレスをまとい、暖かな部屋で私の帰りを待つだけでよいのだ!」
エミリアは黙った。
ジュリアンは、その沈黙を感激のあまり言葉を失っているのだと解釈したらしい。
「さあ、エミリア。十年間、よく待っていてくれた!」
「……あの」
「何だ?」
「一つ、よろしいでしょうか」
「もちろんだ。何でも申せ」
エミリアは静かに尋ねた。
「私が待っていると、誰が決めたんですか?」
*
ジュリアンの笑顔が消えた。
「……は?」
「私は一度も、殿下を待つと約束しておりません」
「な、何を言う! あの日の我々の出会いは――」
「殿下にとって、大切な思い出だったんでしょうね」
エミリアはそこで一度、言葉を切った。
「それはわかりました。私が差し上げたパンを、十年間も覚えていてくださったのは、ありがたいことです」
ジュリアンの表情が少し和らぐ。
だが、続く言葉に、再び凍りついた。
「でも、私の十年間は、殿下のためにあったわけじゃありません」
「……どういう、意味だ?」
「そのままの意味です」
エミリアは自分の手を見下ろした。
指の付け根に、昨日できたばかりの小さな火傷がある。
「殿下を助けた翌年、父が腰を悪くして倒れました」
「……え?」
「しばらくは起き上がることもできなくて。母は店を閉めようかと言ったんです。でも、うちの店でないと困るって言ってくださるお客さんもいましたし、何より父が大事にしてきた窯を、私はなくしたくなかった」
エミリアは懐かしむように、店の奥を見た。
「だから学校を辞めて、パン職人の修行を始めました」
「学校を……?」
「ええ。最初はひどいものでしたよ。生地は膨らまないし、焼けば焦がすし。父には毎日怒鳴られました」
少し笑った。
「冬の朝なんて最悪です。井戸水が冷たくて、手の感覚がなくなるんです。それでも、仕込みを休めば翌朝売るパンがなくなるでしょう?」
ジュリアンは何も言わなかった。
「十五のときには、小麦の値段が倍近くになりました。仕入れ代が払えなくて、母が結婚指輪を売ろうとしたこともあります」
「そんな……」
「十六のときには、隣町の火事がうちの倉庫まで燃え移りました」
エミリアの声が、少しだけ低くなった。
「あのときは、本当に駄目かと思いました」
焼け落ちた倉庫。
黒焦げになった粉袋。
煤だらけの床。
母は泣き、父は何も言わずに焼け跡を見つめていた。
あの夜の焦げ臭さは、今でも忘れられない。
「でも、翌朝にはパンを焼いたんです」
「……倉庫が焼けたのに?」
「はい。残った粉をかき集めて、いつもの半分だけ」
エミリアは微笑んだ。
「だって、お腹を空かせた人は、火事だからって朝ご飯を食べなくていいわけじゃありませんから」
ジュリアンは視線を落とした。
「……知らなかった」
「そうでしょうね」
責める口調ではなかった。
ただ、当たり前の事実を告げる声だった。
「殿下は王宮で頑張ってこられたんでしょう。私もここで頑張ってきたんです」
エミリアはカウンターに置いた手を軽く握った。
「殿下が私を思い出していた間、私は明日のパンを焼くことで精一杯でした」
「だが……私は、そなたのことを……」
「ええ。覚えていてくださった。それは本当なんでしょう」
エミリアは顔を上げた。
「でも、覚えていることと、知っていることは違いますよ」
ジュリアンの唇が、わずかに開いた。
何か言おうとして、言葉が出てこない。
「殿下が覚えている私は、十二歳の女の子です」
エミリアは穏やかに続けた。
「でも私は、もう二十二歳なんです」
*
そのとき、奥の引き戸が開いた。
「エミリア、バゲット焼けたぞ。こっちの棚でいいか?」
大きな木製トレイを抱えて現れたのは、がっしりした体格の青年だった。
頭には手ぬぐいを巻き、腕は小麦粉まみれ。
日に焼けた顔に、気取らない笑みを浮かべている。
「カイル、ありがとう。そっちの棚にお願い」
「おう」
青年は手慣れた様子でバゲットを並べた。
焼きたてのパンが、ぱちぱちと小さな音を立てている。
「あ、そうだ」
エミリアが思い出したように言った。
「昨日のライ麦パン、発酵を少し長めにしたでしょう? 今朝のお客さんに評判よかったわよ」
「本当か? じゃあ、次もその配合で試すか」
「うん。でも、少し酸味が強かったかも」
「そこは蜂蜜の量を調整するか」
二人は自然に言葉を交わした。
カイルが額の汗を拭おうとして、かえって小麦粉をつけてしまう。
「ああ、もう」
エミリアは笑って、彼の額を指先で払った。
「また粉つけてる」
「どうせ一日中つくんだから、放っとけよ」
「お客さんの前なんだから」
「お前だって鼻の頭についてるぞ」
「えっ、どこ?」
「ここ」
カイルが親指で軽く拭う。
エミリアは少し照れたように笑った。
その様子を、ジュリアンは呆然と見ていた。
「……エミリア」
「はい?」
「その男は、誰だ?」
「え?」
「なぜ……なぜ、そんなに親しげなのだ?」
エミリアは不思議そうに瞬きをした。
「ああ、紹介がまだでしたね」
彼女はカイルの隣に立った。
「こちらはカイル。幼馴染で、今はうちの共同経営者です」
「どうも」
カイルは軽く頭を下げた。
「……共同経営者?」
「はい。それから」
エミリアは、ほんの少しだけ頬を染めた。
「来月、私の夫になる人です」
沈黙。
ジュリアンの口が、ゆっくりと開いた。
「……夫?」
「はい」
「結婚……するのか?」
「ええ」
「そなたが?」
「はい」
「その男と?」
「そうですけど」
ジュリアンはよろめいた。
「そんな……馬鹿な……!」
カイルは目を丸くした。
「……エミリア。何かあったのか?」
「ああ、うん。十年前に裏路地で泣いてた迷子の坊ちゃん、覚えてる?」
「迷子?」
「ほら、クリームパンをあげた」
カイルはしばらく考えた。
やがて、ぽんと手を打った。
「ああ! あの、犬に吠えられてた!」
「そうそう」
「鼻水で顔ぐしゃぐしゃだった子か!」
「そう!」
「その話はもういい!」
ジュリアンの悲鳴が響いた。
カイルはびくりとした。
「お、おお。すみません」
「……第二王子殿下なんだって」
「えっ」
カイルは慌てて姿勢を正した。
「これは失礼しました、殿下。あの節は無事に帰れてよかったですね」
「そ、それは……」
ジュリアンは言葉を詰まらせた。
カイルは気にした様子もなく、エミリアに尋ねた。
「で、殿下はパンを買いに来たのか?」
「違うみたい」
「そうなのか?」
「私を側妃に迎えに来たんですって」
カイルは黙った。
それから、ゆっくりジュリアンを見た。
「……は?」
エミリアは肩をすくめた。
「十年前に迎えに来るって言ったから、私がずっと待ってると思ってたみたい」
カイルは数秒間、何かを考えた。
そして、ぽつりと言った。
「……十年も?」
「そう」
「一度も会わずに?」
「そう」
「手紙は?」
「もらってないわ」
「……それで迎えに来たのか?」
「そうみたい」
カイルは困ったように眉を寄せた。
「そりゃあ……ずいぶん気の長い話ですね」
ジュリアンの顔が引きつった。
「貴様……! 平民の分際で、私の純愛を愚弄するのか!」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「そもそも、そなたのような薄汚れた男が、エミリアにふさわしいはずがない!」
その瞬間、エミリアの表情が変わった。
「薄汚れた?」
声が低くなる。
「……殿下。今、何とおっしゃいました?」
「そ、その男は粉まみれではないか! そなたもだ! 私の城に来れば、そんな苦労など――」
「これは、働いた粉です」
エミリアはきっぱりと言った。
「朝の二時から起きて、パンを捏ねて、窯の火を見て、お客さんに美味しいものを届けるためについた粉です」
彼女はカイルの腕を取った。
「私は、この粉を恥ずかしいと思ったことなんて一度もありません」
ジュリアンが息を呑む。
「それに、カイルは……」
そこでエミリアは、一瞬だけ言葉を止めた。
隣の青年を見上げる。
カイルは少し困ったような顔をしていた。
昔から、そうだった。
自分のことを褒められると、どうしていいかわからなくなる人。
「……十六のとき、倉庫が焼けたんです」
エミリアは静かに言った。
「さっき、お話ししましたよね」
ジュリアンは頷いた。
「あの夜、私はもう店を続けられないと思いました」
焼け跡の前で、エミリアは泣いた。
悔しくて、怖くて、どうしようもなかった。
父が大切にしてきた店を、自分の代で潰してしまうのだと思った。
そんな彼女の隣に、カイルはいた。
当時、彼は隣町の製粉所で見習いとして働いていた。
自分の仕事が終わると、毎日のように店を手伝いに来てくれていた。
火事の夜も、真っ先に駆けつけた。
「私、もう駄目だって言ったんです」
エミリアは小さく笑った。
「そしたら、カイルが何て言ったと思います?」
ジュリアンは答えられなかった。
「『窯は無事だろ』って」
カイルが照れくさそうに頬を掻いた。
「……そんなこと言ったっけな」
「言ったわよ」
あの夜。
煤だらけの顔で、カイルは言った。
『窯は無事だろ。だったら、明日のパンは焼ける』
『粉がないじゃない……』
『俺が製粉所に頼んでくる』
『お金だって……』
『俺の給金、まだ少し残ってる』
『そんなの、駄目よ!』
『じゃあ貸しだ。店が儲かったら返せ』
そう言って、カイルは笑った。
翌朝、彼は本当に粉袋を担いで帰ってきた。
そして、エミリアと二人で生地を捏ねた。
たった二十個の丸パン。
いつもの十分の一にも満たない数だった。
それでも、開店前から並んでくれた常連客たちは、一つ残らず買ってくれた。
『また明日も来るからね』
そう言ってくれた。
エミリアはその日、もう一度泣いた。
今度は、嬉しくて。
「……あのとき、カイルがいなかったら、私はここにいません」
エミリアはカイルの手を握った。
大きくて、硬くて、火傷の跡がいくつもある手だった。
「それからも、いろんなことがありました。喧嘩もしましたし、失敗もしました。新しいパンを作ろうとして、二人で丸一週間、焦げたパンばかり食べたこともあります」
「……あれはひどかったな」
カイルが苦笑する。
「最後には親父さんに、窯を壊す気かって怒られた」
「でも、できたでしょう?」
「ああ。うまかった」
二人は顔を見合わせて笑った。
ジュリアンは、その笑顔を見つめていた。
そこに自分の入る余地がないことを、ようやく理解し始めていた。
*
「……私は」
ジュリアンが、かすれた声を出した。
「私は、十年間、そなたを想い続けたのだぞ……」
エミリアは彼に向き直った。
「はい」
「そなたにふさわしい男になるため、努力してきた……」
「はい」
「なのに……なぜ……」
彼の声が震えた。
「なぜ、私ではないのだ……?」
エミリアはすぐには答えなかった。
目の前の青年は、確かに十年前の少年と同じ青い瞳をしていた。
あのときは涙でいっぱいだった瞳。
今もまた、泣きそうになっている。
少しだけ、胸が痛んだ。
けれど。
「殿下」
エミリアは優しく、しかしはっきりと言った。
「殿下が頑張ってこられたことは、立派だと思います」
ジュリアンが顔を上げる。
「でも、その努力を、私が結婚でお返ししなければならない理由にはなりません」
「……っ」
「私を想ってくださったことは、ありがとうございます。でも、それは殿下のお気持ちです」
エミリアはカイルの手を握り直した。
「私の気持ちは、私のものです」
ジュリアンは何も言えなかった。
「それに……」
エミリアは少し困ったように笑った。
「殿下は、私の好きなパンをご存じですか?」
「……何?」
「私は、どんなパンが好きだと思います?」
ジュリアンは戸惑った。
「そ、それは……クリームパンではないのか?」
「違います。私はライ麦パンが好きです」
「……そう、なのか」
「苦手なものは?」
「……」
「朝、何時に起きるかは?」
「……」
「私が嬉しいとき、どんな顔をするか。悲しいとき、どうしてほしいか。怒っているとき、何を言われると余計に腹が立つか」
ジュリアンは俯いた。
何一つ、答えられなかった。
「殿下が覚えていてくださったのは、十年前の私です」
エミリアは言った。
「でも、カイルが知っているのは、今日の私なんです」
隣で、カイルが少しだけ目を見開いた。
エミリアは微笑んだ。
「明日の私がどうなるかは、私にもわかりません。でも、私はカイルと一緒に、明日のパンを焼きたいんです」
ジュリアンは、差し伸べていた手をゆっくり下ろした。
長い沈黙が落ちた。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……私は、そなたを幸せにしたかった」
エミリアは頷いた。
「ありがとうございます」
そして、続けた。
「でも、私はもう幸せです」
その一言が、何よりも深くジュリアンの胸に刺さったようだった。
*
ぱちん。
扇子の閉じる音がした。
「……ようやく、お話が一段落しましたかしら」
それまで黙っていたセシリアが、優雅に一歩前へ出た。
「セ、セシリア……」
「殿下。少々、よろしいでしょうか」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって怖かった。
「わたくし、本日は『長年想い合っていた恋人同士の再会に立ち会う』と伺っておりましたの」
「そ、それは……」
「まさか、片方だけが十年間想い続け、もう片方はその存在すら忘れていたとは存じませんでしたわ」
ジュリアンは青ざめた。
「いや、しかし、セシリア。私たちの婚約については、そなたも理解して――」
「理解?」
セシリアは首を傾げた。
「殿下。わたくしが理解していたのは、王家とアルトハイム公爵家の婚姻に伴う政治的責務です」
扇子の先が、静かにジュリアンを指した。
「殿下の初恋の後始末を引き受けることではございません」
「ぐっ……」
「そもそも、殿下」
セシリアはにっこり笑った。
「わたくしが側妃を迎えることに同意したと、いつ申し上げました?」
「……え?」
「わたくしは『その女性ご本人の意思を確認するべきです』と申し上げたのです」
「そ、それは同意という意味では……」
「ございませんわね」
即答だった。
カイルが小さく咳払いをした。
笑いをこらえているらしい。
セシリアはエミリアへ向き直った。
「エミリアさん。先ほどのお言葉、大変胸に響きましたわ」
「えっ。あ、ありがとうございます」
「特に、『私の気持ちは私のもの』というところ」
セシリアは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「わたくしも、幼い頃から王子妃になるための教育を受けてまいりました。礼儀作法、語学、政治、外交。どれも必要なものだと理解しております」
彼女はジュリアンを一瞥した。
「けれど、そのために努力してきたからといって、わたくしがどのような扱いを受けても黙っていると思われては困ります」
ジュリアンは顔を上げた。
「セシリア……?」
「殿下は、ご自分が誰かを選ぶ立場にあると、ずっとお考えなのでしょうね」
セシリアは静かに言った。
「ですが、選ぶ権利は相手にもあるのですわ」
ジュリアンは唇を噛んだ。
セシリアはそれ以上責めなかった。
代わりに、カウンターに並んだパンへ目を向けた。
「ところで、エミリアさん」
「はい!」
「そちらのライ麦パン、とてもいい香りがしますわね」
エミリアの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! 今朝は発酵時間を少し長めにしてみたんです。外は香ばしく、中はしっとり焼けていると思います」
「まあ。それは楽しみですわ」
セシリアは財布を取り出した。
「では、一本いただけるかしら。それからクロワッサンを二つ」
「かしこまりました!」
エミリアは慣れた手つきでパンを包んだ。
セシリアは差し出された紙袋を受け取り、その温かさに目を細めた。
「……いいものですわね」
「え?」
「こうして、自分で選んだものを買うというのは」
彼女は小さく笑った。
「王宮では、お茶菓子一つにも誰かの意向が入り込みますもの」
エミリアは少し考えてから、棚の端に置かれた小さな丸パンを一つ取り、紙袋に添えた。
「では、こちらはおまけです」
「まあ」
「蜂蜜入りのミルクパンです。今日の新作なので、よろしければお味見を」
「よろしいの?」
「ええ。感想をいただけたら嬉しいです」
セシリアは、今度こそ心から楽しそうに笑った。
「では、遠慮なく。ありがとうございます、エミリアさん」
それから、ゆっくりジュリアンへ振り返った。
「さあ、殿下。帰りましょう」
「……セシリア」
「陛下にご報告しなければなりませんわね。側妃を迎えるお話は白紙。それから、わたくしたちの婚約についても、一度きちんと話し合いたいと思います」
「ま、待ってくれ! 婚約まで考え直す必要は――」
「ございます」
セシリアは微笑んだ。
「殿下。わたくし、結婚相手には最低限、自分の話を聞いていただきたいのです」
ジュリアンは口を閉じた。
セシリアは一礼した。
「エミリアさん、カイルさん。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「お二人の焼くパンを、また買いにまいりますわ」
そう言って、彼女は店の出口へ向かった。
ジュリアンは、その背中を見つめていた。
そして、ふと振り返った。
「……エミリア」
「はい、殿下」
「一つだけ、聞いてもよいか」
「何でしょう?」
彼は少し迷ったあと、尋ねた。
「……あの日、そなたがくれたクリームパンは、焼き損ないだったのか?」
エミリアは目を丸くした。
「ええ。少し形が崩れてしまったので、売り物にならなかったんです」
「……そうか」
ジュリアンは俯いた。
「私は、あれほど美味しいパンを食べたことがなかった」
エミリアは黙って彼を見つめた。
「あの日、私は本当に怖かった。王宮の外に出れば自由になれると思っていたのに、道もわからず、誰も私の言うことを信じてくれず……」
彼は苦笑した。
「そなたがパンをくれたとき、初めて、帰れるかもしれないと思えたのだ」
今度は、エミリアも笑わなかった。
「……そうだったんですね」
「ああ」
ジュリアンは小さく頷いた。
「だから、私は……」
そこで言葉を止めた。
少しの沈黙。
「……いや」
彼は首を振った。
「すまなかった。そなたには、そなたの人生があったのだな」
エミリアは静かに頷いた。
「はい」
ジュリアンは目を閉じた。
そして、もう一度開いた。
「……幸せになってくれ」
「ありがとうございます、殿下」
「その……」
ジュリアンはカイルを見た。
「そなたも、彼女を大切にしてくれ」
カイルは少し驚いたあと、にっと笑った。
「もちろんです」
そして、付け加えた。
「でも、俺が一方的に守るってわけじゃないですよ」
「……何?」
「こいつ、俺よりよっぽど強いですから。俺が失敗したら叱ってくれるし、落ち込んでたら引っ張り上げてくれる」
カイルはエミリアを見た。
「だから、二人でやっていきます」
エミリアも笑った。
「ええ。二人で」
ジュリアンはしばらく二人を見つめていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……そうか」
カランコロン。
真鍮のドアベルが鳴る。
今度こそ、第二王子は店を出ていった。
*
扉が閉まると、店内に静けさが戻った。
窯の薪がはぜる音。
通りを走る荷馬車の音。
そして、焼きたてのパンの香り。
カイルが長く息を吐いた。
「……すごい客だったな」
「本当にね」
エミリアはカウンターを布巾で拭きながら答えた。
「十年前の迷子に、人生を買い取られそうになったわ」
「王子様ってのも大変なんだな」
「どうして?」
「十年も前のことを、ずっと大事にしてたんだろ?」
カイルは少し考えた。
「……俺だったら、そんなに長い間、何もしないで待ってられないな」
エミリアは手を止めた。
「そうね」
「会いたかったら、会いに行くし。何してるか知りたかったら、聞くし」
「うん」
「好きだったら……」
そこでカイルは、急に口ごもった。
「……いや、何でもない」
エミリアはにやりと笑った。
「好きだったら?」
「……聞くなよ」
「何?」
「……一緒にいたいだろ、普通」
エミリアは笑った。
「そうね」
カイルは照れ隠しのようにトレイを持ち上げた。
「ほら、仕事仕事。もうすぐ朝の客が来るぞ」
「ねえ、カイル」
「ん?」
「覚えてる? 倉庫が焼けた翌朝のこと」
「ああ」
「私、あのとき、本当にもう駄目だと思ってたの」
カイルは黙って聞いていた。
「でも、あなたが粉を持って帰ってきてくれて……二人で、たった二十個のパンを焼いたでしょう?」
「ああ」
「私、あのとき思ったの」
エミリアは少しだけ視線を落とした。
「この人となら、また明日も頑張れるって」
カイルは目を見開いた。
「……そんなこと、初めて聞いたぞ」
「言ってなかったもの」
「何だよ、それ」
「今、言ったでしょう?」
エミリアは笑った。
カイルはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、そっと手を伸ばし、エミリアの手を握った。
「……俺もだよ」
「え?」
「お前がいたから、毎朝起きられたんだ」
カイルは少し照れくさそうに笑った。
「製粉所で働いてた頃も、早く仕事を覚えて、お前の店を手伝いたいと思ってた」
「……うん」
「倉庫が焼けたときだって、俺一人じゃ何もできなかった。でも、お前が『パンを焼きたい』って言ったから、粉を探しに行けたんだ」
エミリアの目が、少しだけ潤んだ。
「……そうだったの?」
「ああ」
カイルは彼女の手を、きゅっと握った。
「俺だって、お前に何度も助けられてる」
エミリアは俯いた。
そして、小さく笑った。
「……そっか」
「ああ」
「じゃあ、これからもよろしくね」
「おう」
二人は顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく笑い出した。
「……何か、結婚式みたいな話になっちゃったわね」
「来月だろ」
「そうだけど」
「練習ってことでいいんじゃないか?」
「もう!」
エミリアは笑いながら、カイルの腕を軽く叩いた。
そのときだった。
カランコロン!
「おはよう、エミリアちゃん! 今日はバゲット残ってるかい?」
常連の魚屋が、大きな声で入ってきた。
「あっ、はい! ちょうど焼きたてです!」
エミリアはぱっと仕事の顔に戻った。
「カイル、バゲットをこっちに!」
「おう!」
「あと、ライ麦パンの追加もお願い! さっき一本売れたから!」
「了解!」
「それと、今日のミルクパン、もう少し焼き色をつけたいの!」
「わかった! 窯の温度、少し上げとく!」
二人は慣れた足取りで動き始めた。
エミリアが客の注文を聞き、カイルが奥から焼きたてのパンを運んでくる。
どちらかが手を伸ばせば、もう片方が必要なものを渡す。
言葉にしなくても、わかることがたくさんある。
十年かけて、少しずつ覚えてきたことだ。
「エミリアちゃん、今日は何かいいことでもあったのかい?」
魚屋が尋ねた。
「えっ?」
「いやあ、いつにも増して嬉しそうだからさ」
エミリアはカイルをちらりと見た。
彼もこちらを見ていた。
目が合うと、少しだけ笑う。
エミリアも笑い返した。
「ええ。とってもいい朝なんです」
「そりゃあよかった!」
魚屋は豪快に笑った。
「じゃあ、祝いにクロワッサンも二つもらおうか!」
「毎度ありがとうございます!」
エミリアは紙袋を広げた。
窓から朝の光が差し込み、棚に並んだパンを黄金色に照らしている。
今日も店は忙しい。
明日もきっと忙しい。
来月には結婚式がある。
その先には、まだ知らない毎日が待っている。
きっと失敗もするだろう。
喧嘩もするだろうし、パンを焦がす日もあるだろう。
それでも、隣にはカイルがいる。
一緒に粉を捏ねて、一緒に窯を見て、一緒に明日のことを考えてくれる人がいる。
エミリアは、それで十分だった。
いや。
それが、何よりもよかった。
「カイル! 次のパン、焼けた?」
「おう! 今出す!」
「急いでね! お客さんが待ってる!」
「へいへい!」
奥から聞こえる、いつもの返事。
エミリアは笑顔で次のお客を迎えた。
「いらっしゃいませ! ベッカライ・エーデルへようこそ!」
焼きたてのパンの香りが、朝の下町に広がっていく。
王子様が迎えに来なくても、彼女の人生はとっくに始まっていた。
そして明日も、明後日も。
彼女は自分の足で歩き、自分の手でパンを焼き、大切な人と一緒に生きていく。
――さて、明日はどんなパンを焼こうか。
そんなことを考えながら。
〈完〉




