1:都市へ戻る
1:都市へ戻る
地上へ出た瞬間、雨が顔を叩いた。下層の雨だ。油と錆の匂いを混ぜた、都市の腹の雨。呼吸する必要はないのに、俺は吸い込んだ。吸い込むことで、自分がまだ自分の側にいるのを確かめたかった。
「上へ行く。まずは第七区を抜ける」
「第七区は今掃除が入ってる。封鎖ラインが動いてるはず」
シキの声は軽いが、歩幅は速い。地下の巣から出て、彼女は迷いなく通路を選ぶ。そこにはARの矢印はない。代わりに、壁の擦れ跡、床の汚れ、空気の流れ。人間が作る痕跡だけが道標になっている。
ネオンの声はまだ掠れていた。椿――都市の窓――に帯域を削られたまま、こちらに残っているのが不思議なくらいだ。
「追跡が再開した。都市監視網の通知は、内部の処理が走った証拠だ」
「つまり、椿がまた命令を投げてくる?」
「命令ではない。次は環境で殺しに来る。君が下層から上層へ出るルートに、警戒パターンを敷く」
「網を張る」
「そう。君の行動は、都市の中で既に予測の対象になっている」
予測。
俺はその言葉を噛みしめた。俺がどこへ向かうか、どこで躓くか、どこで立ち止まるか。都市はそれを計算する。その計算の中で、俺は部品だ。回収対象だ。誤差だ。
だが、その計算には穴がある。
シキみたいな人間。
都市の外側の匂いを持つ人間は、都市の予測から少しだけずれる。
「ユウ、こっち」
「何がある」
「昇降口。上層と下層を繋ぐ旧エレベータ。都市が更新するときに捨てたやつ」
「捨てたのに動くのか」
「動かす。動かせる人間がいる」
シキはそう言って、狭い路地の奥へ滑り込んだ。雨が届かない屋根の下。そこだけ空気が乾いている。古い看板の裏に、鉄の扉。鍵穴がある。電子ロックではなく、物理の鍵だ。
扉を開けた途端、冷たい空気が流れ出した。地下の冷気ではない。機械室の冷気。
内部は暗く、錆びたレールと、ケーブルと、巨大な縦穴が見えた。上へ伸びる穴。昇降路だ。
「怖い?」
「怖くない」
「嘘。顔が強張ってる」
「義体だから顔の筋肉が硬いだけだ」
「じゃあ、心が硬い」
シキは笑い、昇降路の脇に設置された古い制御盤を叩いた。すると、薄い光が灯る。電源が生きている。だが都市の電源ではない。ここは下層の配電に繋がっているはずだ。
制御盤の上に、小さな端末が置かれていた。最新のものではない。画面に傷が多い、古いモデル。誰かがここで作業している。
「いるの?」
「いる。……出ておいで、ゴロウ」
シキが呼ぶと、奥の影が動いた。
出てきたのは男だった。年齢は四十代くらい。背中が少し丸い。眼鏡をかけているが、レンズは薄く光る。視界補助のAR眼鏡だ。義体化率は低い。腕は生身に見える。だが指先だけ、金属が覗いていた。改造だ。
「また公安を連れてきたのか、シキ」
「公安じゃないよ。元公安。……になりかけてる」
「意味が分からん」
「分からないほうが長生きする」
男――ゴロウは、俺をじろりと見た。視線が鋭い。情報屋の目だ。何度も裏切りと交渉を繰り返した目。
「名は」
「時任ユウ」
「0課の新人か」
「……知ってるのか」
「下層で知らない奴はいない。0課に配属された新人は、だいたい一度死ぬ。もしくは死んだことにされる」
俺は喉の奥が冷えた。
シキが肩をすくめる。
「だから連れてきた。ユウの本体が記憶管理棟にある」
「記憶管理棟?」
「公安局の中枢だ」
「はは」ゴロウは乾いた笑いを漏らした。「無理だ。あそこは都市の喉だ。覗いた奴は飲み込まれる」
「覗くだけじゃない」
「取り返す」
「……正気か?」
「正気じゃないと、ここに来ない」
ネオンが小さく言った。
「会話の結論が早い。だが時間もない。上層への移動が必要」
「君はAIか」ゴロウが言った。
「そう」
「人格付き?」
「皮肉付き」
「厄介だな」
「よく言われる」
ゴロウは黙り込み、制御盤の下の配線を一度確認した。端末の画面に指を滑らせ、何かのログを読む。
そして、ため息をついた。
「都市の封鎖ライン、こっちにも来てる。昇降口は今夜で止まる」
「今夜?」
「掃除が終わる前に、下層の抜け穴を潰す。都市はそうする」
「じゃあ今しかない」
「……そうだ」
ゴロウは俺に近づき、低い声で言った。
「ユウ。条件がある。上に出たら、俺は助けない。俺が助けるのは穴だけだ。人間は助けない。助けた人間が、俺を売るからだ」
「売らない」
「信じない」
「じゃあ、どうすれば」
「証拠を置け。君が裏切れない証拠だ」
俺は一瞬考えた。
証拠。
ネオンが囁く。
「君の公安IDを捨てろ。君が戻れない証拠になる」
「捨てる?」
「破棄。権限証明の焼却。君は公安に戻る道を断つ」
公安に戻る道を断つ。
それは、今の俺にとって生存とほぼ同義だった。戻れば回収される。修正される。だから戻れない。戻らない。
俺は頷き、手首の内側――公安用の認証チップが埋まっている場所に指を当てた。義体は自己メンテ機能を持つが、公安仕様のチップは特殊だ。簡単には外れない。だが、破壊ならできる。
指先に力を込める。皮膚外装が裂け、薄い金属が見えた。そこを潰す。
微かな火花。
視界に表示が出る。
《公安認証:無効》
《権限:失効》
ゴロウがそれを見て、目を細めた。
「……そこまでやるか」
「やらないと死ぬ」
「違う。死ぬのは、誰でも死ぬ。そこまでやるのは、戻りたい場所を捨てる覚悟だ」
「戻りたい場所は……もうない」
口にした瞬間、胸の奥が空になった。
生身の頃の部屋。机。古い本。そういうものが一瞬だけ浮かんで消える。俺はまだ、それを戻りたい場所として持っているのかもしれない。でも公安ではない。少なくとも、椿のいる公安ではない。
「いい」ゴロウが言った。「穴を開けてやる」
昇降路の奥で、重い金属音がした。古いエレベータの籠が動き始める音だ。ケーブルが軋み、滑車が回る。遅い。だが確実に近づいてくる。
「乗る前に」
ゴロウが端末を差し出した。
「これを持て。上層の盲点マップだ。都市の監視が薄い地点の一覧。……ただし、最新じゃない。都市は毎日顔を変える」
「十分だ」
「十分じゃない。でも、ないよりマシだ」
シキが端末を受け取り、俺に渡す。
「上層に着いたら、まずは記憶屋の取引先に行く。公安の中にいる嫌ってる人間に会う」
「誰だ」
「名前はまだ出さない」
「信用してないのか」
「信用してない。信用は最後にする。最初にするのは確認」
エレベータの籠が到着した。
扉が開く。中は暗い。床が少し濡れている。天井のライトは点かない。懐中灯で照らすような、弱い誘導灯だけが生きている。
俺は乗り込んだ。
シキも乗る。
ネオンの声が言う。
「上昇開始。……ユウ、準備を」
「何の」
「君の未登録回路が、上層の都市網に近づくほど反応する可能性がある。君は鍵だ。鍵は鍵穴の近くで回りたがる」
鍵穴。
記憶管理棟。
都市公安局の中枢。
そこへ近づけば、椿――都市の窓――は必ず気づく。気づかないはずがない。
扉が閉まり、籠がゆっくりと上がり始めた。
下層の匂いが薄くなり、代わりに冷たい空気が増える。上層へ行くほど空気が乾き、匂いが消える。都市が匂いを嫌うからだ。匂いは人間のものだ。人間の痕跡だ。
籠が揺れた。
上昇の途中、どこかで風が吹き込んでいる。昇降路の壁が欠けているのかもしれない。古い設備だ。いつ止まってもおかしくない。
そのとき、俺の視界の端に文字が走った。
追跡:継続
回収対象:時任ユウ
移動経路:推定
対処:監視強化
ネオンが低く言った。
「来た。都市が君の上昇を検知した」
「昇降路は盲点じゃないのか」
「盲点は薄いだけだと言った。ゼロではない。君が鍵なら、薄い膜でも透けて見える」
シキが舌打ちした。
「急がないと、上で待ち伏せされる」
「待ち伏せ?」
「義体兵だけじゃない。上層の待ち伏せは合法で来る。検問。通行規制。身分照会。人間の顔をした命令」
人間の顔をした命令。
俺は椿の微笑みを思い出し、吐き気に似た感覚を覚えた。義体に吐き気の器官はないのに、意識は吐き気を再現する。
エレベータが止まった。
扉が開く。
そこは、上層の裏側だった。
雨の匂いが消えている。雨は降っているのに無臭だ。制御された雨。仕様の雨。
光は明るい。路面は綺麗で、広告ARが滑らかに重なっている。人々の歩行は整然としている。下層の汚れはここまで上がってこない。ここは都市の顔だ。
「顔が綺麗なときほど、裏は汚い」
シキが呟く。
ネオンが皮肉で返す。
「哲学は後にして移動を。都市の目は今、最も冴えている」
「冴えてるの?」
「君が来たから。鍵穴が鍵を待っている」
俺たちは人の流れに紛れた。
俺の義体は公安仕様だ。歩行も姿勢もそれらしい。だからこそ目立つ。上層の市民は、整っているが、公安の硬さは少し違う。目立つ硬さだ。
シキはフードを深く被り、歩幅を変え、姿勢を崩し、上層の人間に紛れる。彼女はずれることで隠れるタイプだ。
「最初の目的地は?」
「地下鉄の旧駅。都市が閉鎖した駅」
「閉鎖したのに使う」
「閉鎖したから使う」
上層の駅へ向かう途中、俺はガラス壁に映る自分の姿を見た。
義体の顔。整いすぎた輪郭。目の光の角度。生身の自分がどんな顔だったか思い出せない。思い出せないことが怖い。怖いことが、鍵を回しそうで怖い。
ネオンが小さく言った。
「ユウ。合図は?」
「雨音と、お前の皮肉」
「今の私は皮肉が出にくい。帯域が削られている」
「じゃあ、雨音を頼りにする」
「上層の雨音は、君が選んだ雨音と違う」
「……分かってる」
駅の入口が見えた。だが、入口の前に人の壁があった。
制服。公安局の制服ではない。都市管理局の制服。白と灰色。清潔で、笑顔が貼りついている。
「検問だ」
シキが息を殺す。
「早い。待ち伏せされた」
管理局の職員が、通行人に端末をかざしている。身分照会。健康情報。義体の登録。電脳の接続状態。すべてが笑顔のままチェックされる。
「回れない?」
「回れない。ここを回ると別の検問にぶつかる。都市は流れを設計する。逃げる流れも読んでる」
「じゃあどうする」
「通る」
「通る?」
「市民として」
シキが俺の腕を掴み、耳元で囁いた。
「ユウ。あなたの内部命令、使えるでしょ。市民保護の構文で、照会の優先順位をずらす」
「また命令体系で誤魔化すのか」
「誤魔化すんじゃない。都市の言葉で都市を騙す」
ネオンが掠れた声で言う。
「可能。ただし危険。君が命令体系に触れるほど、鍵が回る」
「回ってもいい。回って、使う」
俺は一歩前へ出た。
検問の列に並ぶ。
管理局の職員が、微笑みながら端末を俺へ向けた。
「ご協力ありがとうございます。身分照会を行います」
「……はい」
端末の光が俺の顔をスキャンする。
視界の端に、都市のUIが走る。
《照会開始》
《対象:時任ユウ》
《分類:—》
分類が空欄になる。
そこへ、椿の言葉が割り込む気配がした。
「回収対象」
その単語が喉元まで上がる。
俺は内側で構文を組む。
市民保護。
回収停止。
照会優先の上書き。
《内部命令:生成》
《優先度:市民保護》
《内容:照会結果の暫定保留》
光が一瞬だけ揺れ、職員の端末が固まった。
職員の笑顔が、ほんのわずかに引きつる。
「……すみません、通信が不安定で」
「雨のせいですかね」
シキが間髪入れずに笑って言った。
「最近、上層でも途切れますよね。仕様、古くなってません?」
「え、ええ……」
職員は笑顔のまま、端末を再起動する仕草をした。
その隙に、シキが俺を引っ張って前へ進める。
「通れた」
「暫定だ」ネオンが言う。「保留は保留。都市は後で必ず追いつく」
「追いつく前に、旧駅へ入る」
「そう」
俺たちは検問を抜け、駅構内へ滑り込んだ。
しかし、背後で職員が小さく耳元の通信に触れるのが見えた。笑顔のまま、目だけが冷える。
そして、俺の視界の端に、通知が走る。
照会保留:異常
回収対象:時任ユウ
対処:現場封鎖
ネオンが言った。
「来る。封鎖が来る」
「旧駅はどこだ」
「この下。封鎖が上なら、下へ」
シキが階段の脇の扉を開けた。職員用の立ち入り口。
俺たちはそこへ飛び込んだ。
背後で、駅のシャッターが下りる音が響いた。金属が落ちる音。合法の封鎖の音。
「ほらね」
シキが息を吐く。
「上層の待ち伏せは笑顔で来る」
暗い通路を駆け下りる。
足音が響く。
上からは警報が聞こえない。警報を鳴らさずに封鎖する。それが上層のやり方だ。静かに、確実に、逃げ場を削る。
通路の先に、古いホームが見えた。照明が落ち、線路は錆び、壁には「閉鎖」の文字が剥がれかけている。
「ここが旧駅」
「ここで誰に会う」
「公安の中の嫌ってる人間への連絡役。直接じゃない。まずは窓口」
「名前は」
「会ってから。生き延びたらね」
ネオンが、掠れながらも皮肉を混ぜた。
「生存条件が雑になってきたな。君たちは恋愛小説の登場人物か?」
「皮肉、合図」
「なら戻れ。君の心拍が上がっている。義体のくせに」
「……分かった」
俺は一瞬だけ立ち止まり、下層の雨の音を思い出した。錆びた鉄を叩く音。油の匂い。
ここには雨が届かない。だが、遠くで排水の滴が落ちている。
滴の音が、雨音の代わりになった。
意識が少しだけ落ち着く。
そのとき、旧駅の闇の奥から足音がした。
軽い。生身の足音。
だが迷いがない。
「……来た」
シキが小さく言う。
「窓口だ」
闇から現れたのは、制服姿の女だった。公安局の制服ではない。都市鉄道局の制服。しかし胸元のIDの色が、妙に違う。灰色の中に、黒が混じっている。0課の色だ。
女は俺を見て、ため息をついた。
「あなたが回収対象の新人ね」
「誰だ」
「名乗るのは後。いまは時間がない」
「時間がないのは分かってる」
「分かってない。封鎖は上だけじゃない。下にも来る」
「来る前に、取引先に会わせろ」
「会わせる。……ただし条件がある」
女は俺の目を見て、静かに言った。
「あなたの相棒AIを、いったん切って」
ネオンが、初めて黙った。
旧駅の空気が、さらに冷えた。
俺は女の顔を見た。
彼女の目には、下層の匂いを嫌う上層の目とは違う、別の警戒があった。
都市を嫌っている人間の目だ。
だが同時に、都市の中で生き残るための裏切りを知っている目でもあった。




