第9話 騎士団長の敗北と、最後の注文
雨音だけが、俺の敗北を告げていた。
目の前には、手を重ね合う二人がいる。
この国の影の支配者である宰相アレクセイ閣下と、俺が捨てた元婚約者エレノア。
閣下が彼女の手の甲に口づけをした瞬間、俺の中で何かが砕け散った。
怒りではない。嫉妬ですらない。
ただ、圧倒的な「絶望」だった。
二人の間には、誰も入り込めない空気がある。
信頼と、敬愛と、そして俺が彼女に一度も向けたことのなかった熱情。
俺は、彼女を「都合の良い女」としてしか見ていなかった。
だが、あの男は違う。彼女の才能を、誇りを、魂ごと愛している。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
惨めだ。あまりにも惨めすぎる。
今の生活が辛いからといって、かつて断罪した女にすがりつき、より強い男に追い払われる。
騎士団長? 笑わせるな。ただの負け犬じゃないか。
「……下がれ」
閣下の冷徹な声が鼓膜を打つ。
ああ、そうだ。俺はもう、退場しなければならない。
この美しい舞台に、俺のような泥だらけの役者は相応しくない。
踵を返し、ドアへ向かう。
だが、ドアノブに手を掛けた瞬間、足が止まった。
このまま逃げれば、俺は本当に終わる。
一生、この路地裏の幻影を追いかけて腐っていくだけだ。
俺は震える手を握りしめ、ゆっくりと振り返った。
「……最後に」
声が震える。閣下の鋭い視線が俺を刺す。
だが、俺はエレノアだけを見た。
彼女は、静かに俺を見返していた。
そこにはもう、婚約者としての温かさはない。
けれど、客を見送るバーテンダーとしての、凛とした誠実さがあった。
「最後に、一杯だけ……頼めるか」
「……」
「お任せでいい。これで最後にする。もう二度と、君たちの前には現れない」
懇願だった。
これが俺の、最後の我儘だ。
エレノアは小さく息を吐き、頷いた。
彼女はシェイカーを手に取らなかった。
代わりに、ステア(かき混ぜる)用のミキシンググラスを用意する。
注がれたのは、ドライベルモット、ドライシェリー、そして一滴のオレンジビターズ。
カラン、カラン。
マドラーが氷を回す音が、葬送曲のように響く。
静かで、透明な音。
やがて、琥珀色の液体がグラスに注がれた。
「『アデュー』です」
短く告げられた名前に、胸が詰まる。
アデュー。
長い別れ。あるいは、永遠のさようなら。
俺はグラスを受け取り、口に運んだ。
「……っ」
苦い。
涙が出るほど、ドライで鋭い味だ。
けれど、喉を通り過ぎた後に、微かなシェリーの甘みが残る。
まるで、「楽しかった記憶だけを持って行け」と言われているようで。
涙が一筋、頬を伝った。
ああ、美味い。
あの日、俺たちが祝杯に挙げようとしていたワインよりも、ずっと。
俺はこの味を一生忘れないだろう。
そして、この味を作った彼女が、もう俺のものではないことも。
グラスを空にし、カウンターに置く。
未練は、もうない。
この一杯で、俺の中の甘ったれた子供は死んだ。
俺は背筋を伸ばし、騎士の礼をした。
かつての婚約者にではなく、最高のバーテンダーに対して。
「美味かった。……ありがとう」
そして、隣で氷のように冷ややかな視線を送る閣下にも、深く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。……彼女を、頼みます」
「言われるまでもない」
閣下の返答は短かったが、そこには確かな自信があった。
俺はもう一度エレノアを見た。
彼女は、少しだけ寂しそうな、けれど晴れやかな顔で微笑んでいた。
「幸せになれ、エレノア」
俺はドアを開け、夜の雨の中へと踏み出した。
冷たい雨が、熱った頬を冷やしていく。
明日は、地方遠征の志願書を出そう。
王都を離れ、一から鍛え直すんだ。
背後でカラン、とベルが鳴り、扉が閉まる。
温かな光と、甘い酒の香りが遮断された。
振り返らない。
俺の新しい道は、この冷たい雨の先にある。




